神様の悪戯

八月 美咲

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 三回目の呼び出し音で、岳は電話口に出た。

『七凪?』

 久しぶりに聞く岳の声に、胸が疼いた。

「岳、彼女なんてできてないよな?」

 しばしの沈黙が流れた。

『どうしたんだよ、急に』

「なぁ、できてないよな?」

『いないよ彼女なんて』

 ほっと胸を撫で下ろすも、息をつく間もなく七凪は次の言葉を早口でまくし立てる。

「この前俺が岳に言ったあれ嘘だから。いずれ俺たちはそれぞれ結婚して家庭を持つとか、あれ本心じゃないから、だから、だから……、岳、彼女なんて作っちゃ嫌だ」

 再び沈黙が流れた。

 こういう時、電話は相手の表情が見えないのでもどかしく、もどかしさは不安を呼び寄せる。

『作らないよ、彼女なんて』

 七凪の頭をそっと撫でるような、温かみのある声だった。

 七凪は見えない岳の手に、頬を擦り寄せ甘えたいような気分になる。

「岳は俺のことまだ好き? 媚薬の効果、まだ切れてない?」

 岳が優しく笑ったのが分かった。

『切れてないよ、好きだよ』

 やっと柔らかいソファーに深く身体を沈めたような安心感で満たされる。

 が、それも束の間だった。

「なぁ岳、これどっちかが先に媚薬の効果が切れたらどうなるんだ? って、多分そうなるよな。二人同時に切れるなんてことないよな。片方が切れてから、もう片方がなかなか切れなかったらどうするんだ?」

 不安が雪だるま式に大きくなっていく。

「片方だけ一生死ぬまで切れなかったらどうするんだ?」

『七凪』

 岳が七凪の言葉を遮った。

『心配するな、七凪より俺の方が先に媚薬の効果が切れるなんてことはないから』

「なんでそんなことが分かるんだよ」

『俺が七凪に飲ませた媚薬の量は数滴だ。それに比べて俺は媚薬をがぶ飲みしてるだろ、だから死ぬまで媚薬の効果が切れないとしたら、それは俺の方だ』

 七凪を安心させようとして言った岳の言葉は、逆に七凪を激しく乱した。

 サッカー部の部室で、ひとりポツンとみんなから離れた岳の後ろ姿が七凪の胸を締めつける。

「ダメだ、そんなの嫌だ。もしそうなったら、俺もまた媚薬を飲む」

 電話の向こうで岳が息を呑む微かな息づかいが聞こえた。

『七凪、今から会いに行ってもいいか?』




 七凪が階段を駆け下りると、ちょうど母が浴室から出てきたところだった。

 バスタオルで髪をまとめ、ボディソープやらヘアケア材やらの甘ったるい香りがここまで漂ってくる。

「七凪、こんな時間にどこに行くの?」

 玄関で靴を履こうとしている七凪に問いかけてくる。

「ちょっと出かけてくる」

 七凪は傘立てから一本傘を引き抜くと、勢いよく家を飛び出した。

 闇に身を溶かした雨が七凪に降り注ぐ。

 七凪は走りながら傘をさし神社へと急いだ。

 

 石段まで来ると、すでに岳が一段跳びで下から駆け上がって来ていた。

 石段を照らす電灯が雨も一緒に浮かび上がらせる。そこだけスポットライトが当たった役者のいない舞台のようだった。

 岳は傘をさしていなかった。

 白いパーカーのフードを頭から被り、リズミカルに石段を上ってくる。

 七凪が石段を下りようとすると、下から岳が叫んだ。

「七凪はそこにいろ」

 あっという間に岳は石段を上って来て、奪うように七凪を抱きしめた。

 傘が七凪の手から離れて、ふわりと雨風に煽られながら石段を落ちていく。

 息ができないくらい強く岳に抱きしめられる。

 岳の弾む鼓動と七凪の鼓動が重なり合う。

「七凪」

 岳は苦しそうに七凪の名前を呼んだ。

「岳」

 七凪の声も涙声だった。

 両想いなのに、二人ともこんなにもお互いが好きなのに、どうしてこれが本物じゃないんだろう。

 それが哀しくて、やるせなくて、七凪は胸が引き裂かれそうだった。

 岳は七凪を抱きしめる腕をゆるめ、首を傾げるようにして七凪の顔をのぞき込んできた。

 暗くてもその目が赤らんでいるが分かった。

 七凪が愛おしくて仕方がないと、泣きそうな目をしていた。その目の奥に岳が望むものが顔をのぞかせているが、ためらいがそれを抑え込んでいた。

 七凪は岳をうながすように目を閉じ、うすく唇を開いた。

 雨が夜を叩く音だけが響いていた。

 七凪の頬で、瞼の上で、ポツポツと雨が弾ける感覚に混じって、それはきた。

 ふわりと熱く柔らかいものが七凪の唇に触れる。数回ついばみ、じっとお互いの吐息を絡め合う。

 いきなり頭の後ろを支えられたかと思うと、激しく口づけられる。

 七凪は身体が一瞬よろめいて、岳にしがみついた。すかさず岳の手が七凪の腰を拾う。

 岳の舌が大胆に侵入してきて七凪の舌を絡め取る。

 想いを爆発させたような、情熱的な口づけだった。

 深く、浅く口づけながら、七凪、七凪、と岳は七凪の名前を呼んだ。

 その声がだんだんと濡れてくる。

 頬にどちらのものとも分からない温かいものが伝い、二人の唇の間にしみ込む。

 海の水と同じ味のそれが七凪の胸を締め上げる。

 我慢していた嗚咽が唇から漏れると、岳は七凪の悲しみを口づけで引き取った。

 世界一優しくて、悲しいキスだった。

 二人は雨に濡れながら、長い間抱き合い、ひたすら唇を重ねた。
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