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五章 異変

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 ドキドキの発作? が始まってから三日目。この日も胸のドキドキに翻弄されていた。
「はいここ、ここにあるのがチベット高原、そしてそこにいる民族が……」
 軽快な先生の声が地理教室に響いている。
「あっ……、まただ……、またドキドキしてきた……」
 この日の授業は地理教室という名の特別教室での授業だ。そのため私たちの座席も普段とは違っている。いつも私の前にいる琴乃は今はいない。前方にはクラスメイトだけれどもよく知らない女子が座っている。隣の男子も普段とは違う。しかしこちらは知っている人だ。普段琴乃の隣に座っているお調子者の秦野だったからだ。彼の名は秦野宏明。詳しくは知らないけど、なぜか彼のリュックサックや筆箱には駅の名前が書かれたアクセサリーがついている。しかしそんな彼は彼で地図帳にのめりこんでおり、私のことを見向きもしようとしなかった。
 だけど、この席の最大の問題はそんなことではなかった。なんと、やつがいるのである。しかも私の斜め後ろに。
 そう、これまでさんざん私に変な視線を飛ばし、その影響かは知らないけど私の発作を引き起こすきっかけとなっているあの舟渡が!
 今もたまに変な視線を飛ばしてくる。やつが何を思っているかは知らないけど、私も私で無意識のうちにその視線を感じ、振り向いてしまう。そしてドキドキしてしまう。その繰り返しだった。
 やつは私に何を仕掛けようとしているのか? いや、それとも気のせいなのだろうか?
 舟渡がどう思ってるかは知らないが、なんとなくやつ自身もドキドキしているように見えてしまうのだった。そしてとうとう、この授業をきっかけに私の中での予想は確信に変わった。
 私のドキドキの原因は舟渡に違いない!
 そうだ! 原因がわかったから早速琴姉に教えてあげなきゃ!

 授業終了後、ドキドキしながらそう思った私だったが、「これでまた、百合絵の観察記録が増えたわ。ヘヘヘヘッ」そう言いながら例の手帳を開きニヤニヤする琴乃の姿が思い浮かんだ。
 待って……。どうせまたからかわれて、そして記録をつけられ、ネタにされてしまうに違いない……。
 そう思った私は、何とか外見に表れているであろう身体の変化を隠しながら琴乃の方へ向かっていた歩みを止めた。
「どうだー、今日も発作起きたかー?」
 琴乃の声がした。
「あっ、それがね……、! あっ……、今日は起きてないや」
 危ない危ない。いつもの調子で危うく口を滑らせそうになった。
「ふう~ん、そうか……」こちらをまじまじと見ながら琴乃はそう言った。
 やばい……、もしかして……、バレてる⁉
 昔から隠し事をしては琴乃に見破られていた私にとって今この状況は、かなりリスキーだった。
「まあ、いいや、もしなんかまた異変が起きたら教えてくれよな。私も心配だし」
 そう言われたのだけれど、まったくそのようには思えなかった。
 嘘だ……、楽しんでるくせに。
 案の定、琴乃は少しばかりにやけ顔をしていた。

「ねーえー、真妃ー、ちょっと今悩んでてさー」
「あーっ、百合ちゃん、どうしたのー」
 今日は私の楽しみの一つ、家庭科部の活動日。タイミングが良かった。琴乃を失った私は、最後の砦である真妃に自分のドキドキの発作について相談を持ち掛けようとした。それに、こういった緩い話の相手には彼女の方がふさわしいし、何より私の観察記録をつけるなんてことは絶対にしないだろう。そんな思いもあり、正直琴乃よりも真妃の方を当てにしていたのだ。
「実はね……、私、最近、ドキドキしちゃうの」
「えーっ! 何それー! 大丈夫ー?」
「それでね、体も火照ってきちゃうの」
「まあー、そうなのー。ふふふっ。百合ちゃんって面白いねー」
 さすがはど天然。琴乃と違い、面白おかしくからかったりすることはなかった。反面、真妃は私を気遣うこともしてくれなかった。そればかりか、ドキドキしたり火照ったりする私を面白がっているようだった。
「ちょっとー、面白いってー、ひどーいなーっ」
「うふふふっ、ごめんねー。でも、顔赤くしてドキドキしている百合ちゃんを思い出すとどうしても……、ぷぷぷぷっ……」
「ちょっとー、何よそれー」
 真妃は頬を赤らめながら目をつぶり、恥ずかしそうに口を隠しながら笑いをこらえはじめた。真妃その姿を見て、「天然ドジっ子の彼女に期待した自分も、やっぱり天然ドジっ子なのかもしれない……」自分の愚かさからそう思わざるを得なかった。私は困りながらくすくすと笑う真妃を見ていたが、私自身にも真妃に対する面白おかしさが湧いてきてしまった。
「ちょっとー、笑ってなんかいないで、ちゃんと真剣に聴いてよね! ……ふふふふっ」
 そう叫びたい自分とは裏腹に、気づけば私自身も彼女と一緒にクスクス笑っていた。結局、家庭科部にに同席していた部長からのお茶菓子の差し入れもあり、その日、私は真妃に対し悩み相談をするはずだったのが、ただのお茶会になってしまったのであった。

 その日の帰り、私と真妃は、夕暮れ時の住宅街を歩いていた。
「ねー、今日のお菓子、おいしかったよねー。また持ってきてくれないかなー」
「そうだねー。あっ、でも食べすぎちゃうと太っちゃうよっ」
「えー、いやだー」
「ふふふっ、それじゃ、今度の洋菓子パーティーは作るだけ作って、食べるのは我慢するのね」
 もはや私も例の発作のことを話す気はさらさらなく、私の相談事などとっくに忘れているようだった。私たちは、今日のお菓子パーティー、いや、部活動の話に花を咲かせていた。
 そうこうしているうちに学校の最寄り駅に到着した。私と真妃は気が合うのだけど住んでいるところは全く違っていた。真妃の家は千代田線の湯島という駅の近くにあるらしく、なんとあの山手線の内側に住んでいるみたいだった。神奈川の田舎住まいの私や琴乃とは大違いだ。電車に乗ってからも相変わらずお菓子の話ばかりしていた私たちだったのだが、真妃は、ふと尋ねた。
「あっ、そういえば百合ちゃんって、どんなときにドキドキしちゃうの?」意外過ぎるその質問に私は一瞬あっけにとられた。
「えっ! ドキドキって……、あっ、真妃、私の悩み覚えていてくれたんだー」
「えっ? あっ、それー悩みごとなんだ~。てっきり百合ちゃんの癖なんだと思ってた~」
「はあっ?」
 真妃は私がドキドキすることは覚えてくれていたようだったが、何か誤解をしているようだった。
 ドキドキするのが癖って……。私はそこまで変人ではないっつーの。
 ともあれ、真妃が再度この話題を振ってきてくれたので、私はこれまでのドキドキの発作が起こるまでの経緯を真妃に話すことにした。私の話に真妃はにっこりしながら聞いていた。
「……と、いうことなんだけど……」
「……」
「……えっ、ちょっと……」
「……」
 真妃はにっこりしながら前を向き、何かを考えているようだった。
「おいっ、真妃っ!」
「あっ……、ふふふっ、ごめんねー」真妃はやっと我に返ったようだった。
「あ~、また食べたいな~」そして幸せそうにつぶやいた。
 ……これはダメだ。絶対別のことを考えている。
 そう確信した私は「もう、いい加減にしてくれない、私だってこんな恥ずかしい話本当はしたくないわよ!」きっぱりと言った。
「えっ?」真妃はきょとんとしていた。
「うち、ちゃんと聞いてたよ~」
 真妃はにこにこしながらそう言った。
「本当? お菓子のこと考えてたんじゃないのー?」
 疑っていた私はそう言い返した。真妃の聴く気があるのかないのかわからないようなふるまいに、私はややイラついていた。しかし、そんな私の苛立ちは真妃の一言で一瞬にして焦りへと変わった。

「ふふふっ。百合ちゃんはね、舟渡くんっていう子に恋しちゃったのよー」

 その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
 そんな……、そんなはずがなかった。私はこれまで何のとりえもない地味な女子として過ごしてきた。もちろん恋愛などとも無縁であり、他の誰かのことが好きになることなどなかった。
「えっ……、真妃……、嘘……」
「ううん。百合ちゃんはその男の子のことが好きになっちゃったんだよ~。だからね、その子のこと見るとドキドキしちゃうのよ~」
 動揺する私を傍らに、真妃は相変わらずにこにこしながらそう言った。他の人の話し声と電車の走る音だけがひたすら虚しく流れていた。
「嘘よっ! 舟渡とかいう男子となんかこれまで一度もかかわったことなんかないし! それに、入学式の日に同じクラスになって初めて会った時から、二学期が始まる前までは何ともなかったのよ! 嘘嘘っ! あんなやつのことなんか好きじゃないって!」
「ふふふふっ。百合ちゃん、それは一目ぼれよ。でも百合ちゃんのは一目ぼれじゃないよ。百合ちゃんはねー、バタークッキーの甘い香りがお口の中で広がるように、じわりじわりと好きになっちゃったのよ~」
 慌てて否定する私に真妃はいつも通りのゆるい口調で言い聞かせた。
「わぁーっ、百合ちゃん、顔赤いよー」
「はっ!」私は慌てて頬に手を当てた。
 ヤバい、またドキドキしてきた。これでは本当に舟渡のことが好きみたいじゃない。
 電車のドアが開いたようだった。しかし今の私にとっては、周囲の状況を理解するのも危うくなっていた。
「あっ、着いた~。降りるよ~」
「あっ……」
 真妃に手を引っ張られ、ぼうっとしたまま私は電車を降りた。
「百合ちゃん。それじゃ、またね~」
 真妃はにこにこしてホームへ向かう階段の方へ歩いていった。
「あっ……、はっ! 乗り換えしなきゃ!」
 私は真妃の姿が遠ざかるのを見てやっと周囲の状況を理解することができた。

「私が……、恋……、舟渡に……⁉」
「嘘……、そんなの嘘よ!」
「えー、百合ちゃん、恋しちゃったんだよー」
「だから違うって!」
 電車に揺られながら、私は動揺する心を抑えようと自問自答を繰り返していた。
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