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八章 夢と現実

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 金メダルラッシュの東京オリンピックも無事に終わり、ニュースで選手のインタビューや過去の実績などが取りあげられるようになってきたそのころ、今日も私は相変わらずの夏期進学講座ということで学校の机に向かっていた。数週間前あれだけ写真の腕が何とか言っていた父は、結局当日の天候が恵まれなかっただけでなく方角を誤ったとか言ってブルーインパルスの雄姿をまともに写真に収めることができず「パラリンピックでリベンジだ! 待ってろ百合絵!」とか「これでもよく撮れた方だ! ほらここの雲の入り方、感動的だろ⁉」とか暇さえあれば写真を見せながらいろいろ言ってくるのだが、まあ想像の通り、やはりテレビで見た中継映像には勝ることなどなかった。
 しかし到底納得できない父は今日になっても「俺の写真の方が感動的だろ? そうだろ百合絵?」とか言ってしつこく付きまとってくるので、私は父を追い払い急いで学校へ逃げてきたのだった。とはいうものの学校は学校で勉強漬けという別の意味での厄介者に付き合わなくてはならなかったのだが。

「えー、vを変数として運動方程式を立てると、v=二分の一m'g……」

 またvの方程式かよ……こんなのわかるっつーの。

 この日は物理の時間。自分の中ではバリバリ完璧である力学の問題に向かっていた。おもりが二つにばねが一つ、こんな問題私にとっては何てことなかった。自慢するわけでもないけど、物理と化学の問題だけはまあまあまともに解くことができる。まあそれでも頭の構造が違う琴乃レベルにできるわけではないのだが。だがしかし、そんな私から見てもこの問題は簡単すぎる。こんな朝飯前の問題やってる暇があったら、本当にちんぷんかんぷんで困っている熱力学の方を勉強したいところだった。

 物理だけもっと上のクラスで勉強したいな~、と思うところではあったけどそういうわけにもいかなかった。今私が受けている夏季進学講座はこの前の六月下旬に受けた模擬試験の成績をもとに文系理系それぞれ難易度ごとに分けられる四クラスに振り分けられる。つまり、物理化学だけよくできたとしても、他の教科がズタボロで総合評価が最低辺だったら嫌でも最低辺クラス直行となってしまうのだ。

 ここをこうして……こうして……。ふん、答えは6.5mv二乗でしょ。

 先生の丁寧すぎる解説を待つこともなくさっさと解き終えてしまった。演出問題もたった今解いた問題で最後だ。手持ち無沙汰になってしまいながら私はあたりを見渡した。
 理系の最底辺が集まっているクラスということで見慣れた顔ぶれは見つけられなかった。幼馴染の琴乃も理系選択だがこんなバカクラスにはいるはずがないし、家庭科部の友達、真妃や綾子の他、かつて勉強を教えてもらっていた的場はそもそも文系選択だった。そしてそれ以外のクラスメイトとはほとんど交友関係などなく、席が隣になったことがある生田以外は本当に赤の他人のような認識で過ごしており名前と顔もまともに一致していないレベルだった。
 名前と顔が一致していない、ということでふいに約三人の顔を思い出してしまった。女子のあいつらに関しては嫌というほど苦しめられているため嫌でも名前と顔が一致してしまっている。そして残り一人はというと……、まあこちらもキモさの面でインパクト抜群なため名前と顔が一致していた。

 こんなの楽勝なんだけど……、早くしてくれないかな~。

 数少ない優越感に浸れる貴重な時間、物理の時間で私はまた優越感に浸っていた。しかし、このクラスはバカクラス。正真正銘、勉強ができない人達を一斉に集めたクラスだ。つまり、今私の周りにいる彼ら彼女らは私と同じ底辺の成績に位置する人たちということだ。私にとって以前の分析表の学年順位の欄で得られた唯一の安心材料――数字的にビリではないことが判明し唯一の救いとなった「いわゆる私よりも勉強ができない順位が下の人」もこの中にいるということになる。

 もう一度あたりを見回す。誰か知っている人がいれば少しは楽しめるものの、やはり知っている顔は見つけられなかった。

 いや、それともあの時あいつらに言われたように本当にB組の最底辺? いやいや、いくらなんでもそんなわけ……。

「……、ということで、答えは、6.5mv二乗になります」
 ふん、ご名答じゃん。さすが私。B組最底辺なんてそんなわけ、ないない。


「それでは、これにて終了とします。ここまでの力学の範囲は各自完璧にしておいてください。次回からは三章の電磁気学を扱いますので、一節までは予習しておいてください」
「「ありがとうございました~」」

 ガタッ、ガタッ……、ギギーッ。

 机や椅子を引きずる音とともにざわめきを感じる。いつの間にか授業は終了していた。ある意味退屈だった物理が終わり、今日の残すところは国語の現代文だけとなった。

 はぁ~っ、つまんないな~。琴姉じゃなくて真妃や綾子でもいてくれれば……。まっ、無理だよな~文系だし~。いやそれ以前に私のようにクソみたいな成績なんてとってるわけないか……。

 本格的に勉強をするための進学講座だからなのかは知らないけど、真妃や綾子にLINEでメッセージを送ってもまともに返事か来ないことが多かった。もちろん琴乃に関しては一切返信を送ってこないどころかこちらのメッセージを読むことすらしてくれなかった。こんな退屈でつまらない夏休みが残り一ヶ月弱も続くということを考えていると、嫌でもげんなりとしていつものように机に突っ伏したくなってきてしまうのだった。

「ニヒッ、そんなにつまらないのか?」
 ビクッ!「ぎゃぁぁっ!」
 ガタタッ!

 とっさのことに椅子から転げ落ちそうになってしまった。慌てて声がした右側を見ると、そこにはあの気持ち悪いにやけ顔をしたあいつがいた。

「はっ⁉ なっ⁉ な、なっ、なんでおま……、秦野くんがこんなとこにいるのよ⁉」
「ニヒヒヒヒッ、当然じゃないか。俺様はここの住人なんだからな」
「そ、そうなんだ……」

 まさかこいつがいるとは思わなかった。不覚だった。だけど一応は貴重な名前と顔が一致しているクラスメイトのうちの一人だ。あまり嫌ってばかりいても福はないだろう。
 まあ仕方ない。少しだけ話をしてやることにするか。

「ところで、西谷……この俺様とこんなとこで出会ってしまったということは……、もしかして、理系の物理化学選択でE評価の……」
「あー、うるさいうるさい! そうよ! 悪い⁉」
「いやー、別にーっ。ニヒヒヒヒーッ」
「ったく……」

 にやけ顔がさらにニヤニヤし始める。ものすごくうれしそうだ。そしてそれを見るや否や私の中のドン引き度はさらに増していくのだった。しかも、私とこいつは文理選択どころか成績最底辺の住人という点でもかぶってしまった。まさかこんなやつとかぶってしまうなんて、本当に不覚だった。

 でも今がチャンス。今の私にとって物理化学はイケイケ状態。少なくともぶっ壊れてる国語と英語を立て直せば最底辺ランクとはおさらばできるはず。こんなやつと一緒だなんてごめんよ!

 そう自分に言い聞かせた時だった。ふと疑問に思ったことを訊ねてみた。
「ところで、秦野くんはどこの席なの? 全然気づかなかったんだけど」
「まあそれもそのはずだ。だって西谷、前と横しか見てないもんな~」

 にやけ顔がそう答えた瞬間、私は一瞬頭が真っ白になるのを感じた。全身から冷や汗をかくのを感じた。

「えっ……」
「ニヒヒッ。西谷の背中見放題の席だから、俺的には結構面白いんだけどなー」

 全身から冷や汗をかくのを感じた。恐る恐る後ろを振り向いた。

「うぎゃぁぁぁぁっ!」
 ドサッ! ガタタッ!
「痛っ……」

 気づくと椅子は無残にも倒れ、私は床にしりもちをついて倒れこんでいた。後ろの席に秦野の筆箱と彼の愛読書たち――鉄道雑誌が乱雑に置いてあるのを目撃してしまい、気づいた時にはこんな有様だった。周りの人がどうしたどうしたと言って遠巻きにこちらを心配そうに見ている。慌てて、なんでもないなんでもない、とぺこぺこして言いながらも動揺を隠せなかった私は倒れた椅子を起こし少し後ずさりした。

「ちょっと! なんで後ろにいるのよ⁉ 後ろって確か空席のはずじゃ?」
 慌てながら秦野に問い詰める。それもそのはず。朝の授業前とか昼休みの時とかにたまに後ろの席に視線を飛ばすが、そこはいつも空席だったはず。それなのになぜ彼が後ろのいるのか到底理解できなかった。

「ニヒッ、それはなー、俺様がなーっ、いつもぎりぎりに来たり、遅刻したり、サボったりしてるからだぜー」
「はぁ~っ⁉ 自慢することかっつーの!」

 ドヤ顔で答える秦野に思わず突っ込んでしまった。変な風に思われてしまうかもしれないし、こんなとこであまり彼と話しこみたくはなかったが不覚だった。腰に手を当て机に寄りかかり少しだけ平常心を取り戻そうとしたが、すでに意識のうちの大半が秦野の方へ向いてしまっていた。あきれているというかなんというか、まあ確実に言えることは好意ではないということだったが。

「もおーっ! 秦野くんが真後ろにいるなんて、気になってちっとも勉強に集中できないじゃないの!」
 またもや本音が出てしまった。イラつきを隠せないままの口調で叫んでしまったがそれがあだとなった。

「おおっ! ということはもしかして……、俺様に気があるということか?」
「違う違う違う違う! そんなわけないでしょ!」
「ニヒッ、本当か? 西谷顔が赤いぞー。照れてるんじゃないか~?」
「だから違うっつーの! あーもういいっ! とにかく、授業中、変ないたずらとか絶対しないでよね、わかった?」
「ニヒッ、りょーかい」
「くーっ!」

 なぜだか悔しさがこみあげてきた。ぷいっと彼に背中を向けると、ムキになりながら目の前の教科書とノートを開き、シャーペン片手にぺらぺらとめくり始めた。


 あっ! やりあがったな~っ!
 数日後、背中に消しゴムのようなものが当たる感触を感じ、私は憤りを感じていた。


 くすぐったい! うう~っ! 秦野め~っ!
 別の日もまた、私は背中の異変に苦しめられていた。

 ――あの日を境に、残念ながら私の夏の進学講座はさらなる苦行になってしまったのだった。
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