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三章 最強のパートナー

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 金曜日の放課後、私たちは普段のように二人一緒に廊下を歩いていた。

「あ~、しかしさっきのやつヤバかったね~。まあ実験レポートのネタ的には面白いけど」
「西谷さん。面白がっちゃダメ。フッ化水素は本当に危ないんだからね」
「分かってるって。でもなんでそんな危ないもん実験で使わせるのかね~? 先生私たちがドロドロに溶けちゃってもいいとか思ってるわけ?」
「違うわ。あれはね、性質が特殊で入試とかでも頻出な物質なのよ。酸や塩基に強いガラスを溶かしちゃうものなんてそうそうないしね。あっ、あとは半導体の製造とか、実際に工業的にも結構重要な物質だったりするのよ」
「ふ~ん…。ていうか、何か私より詳しくない? ほんとに文系志望?」
「も~っ! 西谷さんのためにせっかく一生懸命勉強してきたのに~。ひど~い!」

 今日は週に一度の貴重な放課後。六時間目のA組と合同で実施される選択化学の授業の後、先ほどの実験をネタに話を弾ませていた。普段、課題とか提出物に嫌というほど苦しめられているのだが、この授業レポートだけは違った。何せ彼女がいるのだから。萌花の知恵と知識を借りれば、何一つ怖いものなどなかったのだ。

「そういえば、今日も帰っちゃったの?」
「知らな~い。どうせ予備校かなんかじゃないの」
 今日も彼女、いや、あの観察魔の姿が見えない。実は私たちが受けている選択化学の授業は、本格的な理系志望の琴乃も当然受講しているのだが、帰り際になるとそそくさと化学実験室を抜け出しどこかへ消えてしまうのだった。

「じゃあ訊くが、フッ化水素が皮膚に付着してしまった場合の対処として有効な物質とその理由について述べよ」

 その時、聞きなれた低い声が後ろから響いた。
「わっ!」
「あっ! ちょっと何よ急に、びっくりさせないでよ!」
 振り向くとそこには若干ニヤついた表情の琴乃の姿があった。普段私と試験の点数比べをしているときのような少々得意げな、そして少々憎らしいような顔つきだ。
「も~っ。いるんだったら初めから言ってくれてもいいじゃない!」
「まあいい、で、どうなんだ?」

 プンプンに膨れ上がった顔の萌花に琴乃は容赦なく問いかける。こんなこと表には言えないけれど、怒っている姿の萌花の姿もかわいくてかわいくて仕方がなかった。

「知らないわよ? 何なのよ~?」
「ふっ、まあ所詮はその程度……。まっ、でも文系志望で化学は共通テストでしか使わないのならその程度で十分だろう」
「うう~っ! なんかムカつく~っ!」

 あ~あ、琴姉最低。
 萌花のせっかくの努力と気遣いを水の泡にして、しかも上げ足を取るようなことを言ってしまうなんて。たまらず、口を開こうとしたその時だった。

「で、問題は百合絵だ。どうなんだ? 分かるか?」
「えっ……、そ、それは……」
 突然の質問攻めにぐうの音も出ない私。ついさっきまで萌花に教えてもらっていたことなのに、彼女より詳しいわけがなかった。

「グルコン酸カルシウムだ。フッ化水素の水溶液のフッ化水素酸は皮膚に触れると、体内の組織を侵食して、特にカルシウム――要は骨の主成分とよく反応するから、それを防ぐためにグルコン酸カルシウムを皮下注射して体内のフッ化水素酸を先に反応させてしまうのが有効だと言われている。まあ、特に大事なのはカルシウムと反応しやすいから人体に触れたらまずいと言うことかな。……てか百合絵おまえ一応理系志望なんだろ? しかも的場が受けるような難関校の。そんなんで受かると思ってんのかよ?」
「あー! もーっ! うるさい! うるさい! うるさい! いいの! これから萌花と一緒に勉強頑張ってもっと頭よくなるんだから!」

 何なのだまったく……。突然背後から現れては私と萌花の気分をぶち壊しやがって! 本当に最低な琴姉だ!
 勉強関連のこととなるとこれだから嫌なのだった。琴乃のトレードマークともいえるそのツンツンした性格はいつになったら直るのだろうかと心なしか思うのであった。

「まあいいや、それで、今日はどっか行くのか?」
「何よ、別にどこにも行かないわよ。ちょっと図書室寄って帰るだけ。それより、琴姉こそ今日はどうしたのよ?」
「いや、今日はちょっと時間に余裕ができてな。……な~んだ、今日もなんか食いながらデートだと思ってたのにな~」
 両手を頭の後ろに組みながら残念そうな表情を見せる琴乃。彼女はいったい何を期待しているのだろうか。やはり、私たちの日常の観察を楽しんでいるのだろう。彼女の仕方ない癖に私はあきれるばかりだった。

「あっ、もしかして寒川さんも一緒に帰りたいの? いいわよ、遠慮しないいで」
「ちょっと、萌ちゃん」
「いや、遠慮しておく。私はどちらかというと脇役の方が好みなんでな」
「まあっ! ……わかったわ、残念だけど仕方ないわね」
 友達思いの萌花と遠慮のかけらもなくバッサリと断る琴乃。対照的な二人を見て、私はますますけなげで優しい萌花に心惹かれていくばかりだった。
「ちょっと、琴…………いいや」
「ん?」
 萌花のさえない顔を見て途端に口走ってしまいそうだったが、琴乃の今の彼女への態度は私が彼女と二人きりの時間を手に入れるのに都合のよいことなのでは? そう察した私は、すぐに口を紡いだ。

 長い廊下を抜け、昇降路の手前まで来たところで、慌てた萌花が口を開いた。
「あっ……、ごめん、ちょっとトイレ」
 肩をすくめ、もじもじしている萌花。やはり私は少しおかしくなってしまったのだろうか。彼女がどんな振る舞いをしようが何を話そうが、何もかもがかわいく見えてしまうのだった。
「あー、いいよ。あっ、そうだ、私も行こっかな~」
 どうせこの後も萌花との二人だけの時間をゆっくり楽しむのだ。くだらない尿意なんかに邪魔されたくない。ついでに行っておこう。
 そう思った私はカバンを肩から降ろし、窓際に置いてあった古びた机に置いた。
「それじゃ琴姉、荷物の見張りよろしく」
「えっ、西谷さん、それじゃ寒川さんが気の毒じゃないの。あたしはいいわ、自分で持っていくわ」
「いいよいいよ、萌ちゃん気にしないで。こんな冷たい塩対応の琴姉のことなんか。さっ、萌ちゃんも荷物おいて、大変でしょ」
「う、うん……」
 申し訳なさそうに肩からカバンを降ろし、私のかばんの隣へちょこんと置いた。チャームポイントのオレンジ色の巾着袋がかすかに揺れる。
「琴姉、さっきまでさんざん私と萌ちゃんのことからかって天狗になってたんだから、荷物の見張りくらいしてちょうだいよね」
「はぁ~っ、誰がからかって……、チッ、まあいい、早くしろよ」
「はいはい」

 不機嫌そうに頭をさする琴乃を置いて、私と萌花は急いで女子トイレの方向へと駆けていった。


「それじゃ、また」
「またね~」
「はいはい」

 校舎を出て図書室のある建物の前、カバンを背負いすたすたと立ち去る琴乃の後ろ姿を見送って、私は今日も萌花とその入り口へと向かった。
 少しだけ日が傾きつつある。窓に面した壁際に置いてあるテーブルやそこに座る人々の輪郭がかすかに黄昏色に染まっている。その中に互いに手をつないだ二人の長い人影がゆらゆらと揺れ動く。私たちは本棚に囲まれた窓際のお気に入りの場所を見つけると、そこに腰かけ、教科書や参考書を広げる。今日もなかなか手ごたえのある難問をクリアしなくてはならない。
 頬杖をつき目の前の敵と格闘する私。その横で彼女は甘い声でヒントとエールを与えてくれている。

 いくつかの強敵を何とか倒し、疲労困憊の私は、彼女の解説に癒されていた。頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっている疑問の糸が甘い声に包まれてするするとほどけていく。その瞬間に私はこの上ない幸せを味わっていた。

「はい、今週もお疲れ様。よく頑張ったわね。」
「はぁ~、今日のはなかなか難問だったわ~」

「うふふっ……。じゃあ……マスクなんて取っちゃいなさいよ」
「……うん」

 甘い声の誘惑に魅了された私は、目の前のオアシスへと飛び込む。お花畑の真ん中にいるようなこの上なく濃厚な甘い香りともちもちとした崇高な感触に身を包まれた私は、ぎゅっと、腕に力を込めた。
 この何物にも代えられない至福の時。幸福の絶頂。私はこれのためにあんな難しい強敵と戦っていたのだ。クラスでの居場所が少ないつらさ? 辰巳とかクラスメイトにからかわれてばかりの苦しみ? 真妃や綾子とゆっくりおしゃべりできない悲しみ? いや、そんなものは今この瞬間、すべて吹き飛んでしまった。

 これさえあれば……。彼女さえいてくれれば……。もはや私にとって何も恐れるものなど……、ない!

「うふふっ……」
 黄昏色に染まる図書室で、私たち二人の影は一つになっていた。
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