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十一章 大人たち
一
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「ただいま~」
文化祭の準備を済ませ、家についた。昼くらいに帰れるだろうとか考えていたがそんなに甘くはなかった。思った以上に準備に時間がかかってしまい最終的にすべての準備が終わったのは昼の四時。そしてその後、お客さんへの対応や各自の動線を確認するために実際にお菓子や飲み物を用いての練習。ここまではよかったものの、どういうわけか最終的にはクラスの出し物の準備完了祝いと明日に向けての意気込みのためのプチ打ち上げタイムとなってしまい、教室を出たころにはすでに空は夕焼けで染まっていた。どうやら昼の間に少しだけ雨が降っていたようで、湿った地面と水たまりが夕日に照らされきらきらと輝いていた。
琴姉と秦野、結局今日一日全く話すことなかったな……。なんなんだろう? 琴姉の方は本当に勉強のし過ぎかもしれないけど……、秦野が勉強のし過ぎで……いや、ないない。あんな不真面目なやつが勉強の影響でああなるなんてありえない。
学校から私の家までは乗り換えが二回、約九十分の間電車に揺られてやっと到着する。しかし、この日はあっという間だった。家の最寄り駅についたころにはすでに空は闇に染まり、駅の両側に広がる街並みと電車の車庫はほのかな明かりで照らされていた。
「ちょっと! あなた何よこれ⁉ 三十五万ってどういうことよ!」
「これでも安い方なんだぞ! 高いんだよ望遠レンズってのは!」
「はぁ~っ! 知らないわよそんなの! 望遠なんてスマホのカメラでも撮れるでしょ! バカじゃないの⁉」
「あのな~っ、何アホなこと言ってんだ! おまえにはわからないかもしれないけど全然違うんだよ!」
玄関に入るとすぐに父と母の言い争う声が聞こえた。またつまらないことでもめているのだろうか? まあ、この流れで行くとおそらく十中八九母の勝利に終わるのだろうが……。
そんなことを考えながら靴を脱ぎ私はさっさと二階にある住処へと逃げ込んだ。
「百合絵! ごはん!」
母に呼ばれてリビングへ。夕食の時間になった。家族みんなで食卓を囲んでの夕食。よくあることなのだが状況は一向に改善していなかった。
ムシャムシャ……。
目の前に盛られたサラダを口に入れ、レタスとパプリカの触感を味わう。シャキシャキとみずみずしい触感とともに少しだけ甘いような酸っぱいような何とも言えない味が口の中へ広がっていく。サラダの隣に盛られたローストチキンの香りも、私のことも食べてよと言わんばかりの香ばしい香りを漂わせている。
仕方ない。お望みの通り食べて差し上げましょう。
ローストチキンに箸を伸ばそうとしたその時だった。
「で、あなた、この借りはどうするつもりなの?」
「はぁ~っ! 借りってなんだよ? 別に千華子のお金で買ったわけじゃないんだからいいだろ」
「はあ~っ⁉ どの口が言うか! あなたこれ、何枚たまってると思うのよ!」
突然流れた不穏な空気の中で母は父に何やら数枚の紙きれをちらつかせながら見せつけている。これはいったい?
「あなた、いったいいくら前借りしてるかわかってるわけ⁉ 一、二、三、四、五、六、七、八……、もう十六万円も前借りしてるんだからね! きっちり返してもらうわよ!」
「なっ! そんなに⁉ いや嘘だ! 千華子、おまえごまかしてるだろ!」
「ごまかすわけないじゃない! そんなこと言うなら自分で数えてみなさいよ!」
バッ……!
父にそう怒鳴りつけた母は手に持っていた紙切れを父に向かって投げつけた。夕食が並んだテーブルにむなしく紙切れが散らばる。
「十六万も、そんなはずはない……!」
ぶつぶつつぶやきながら散らばった紙切れを集め始める父。興味本位で、私は目の前に落ちていたそのうちの一枚をめくると表を確認した。見たところ、それは父が母から毎月のお小遣いのうち足りない分を前借りしたことを示す証明書のようなものだった。おまけに父のサインまで右下にご丁寧に書かれていた。しかもこれまでの話やこの紙切れに書かれたことから考えると、これ一枚で二万円を前借りしたという証明になっているようだ。
こんなもの、いつの間に……。
「百合絵、その一枚隠しちゃえ……」
「あなた! 百合絵に何言ってるのよ⁉」
父のささやきが聞こえたかと思った瞬間、母の怒鳴り声が私と父を突き刺した。すでにどうとでもなれと思っていた私は手に持っていたその借用書をテーブルの上にパラッと置いた。
父はすかさずそれを拾うと、手に持っていた他の紙切れの束の中に入れて、パラパラとめくり数え始めた。
「……七、八……、はぁ~っ……マジかよ~っ」
まるで試験の答案用紙を返されたときの私のような反応をしていた父はすっかり意気消失してしまったようだった。しかし、すぐに先ほどの気迫を取り戻した。
「いやだってほら、この前も百合絵にパソコン作ってやったんだし。それに運悪く何年も使ってきたレンズのAFがちょうど動作不良起こしちゃって、修理費考えたら新しいの買った方が……」
「だからと言って、三十五万のレンズ買うことはないんじゃないの!」
さ、三十五万……! カメラのレンズってそんな値段するの⁉
そいうえばカメラで思い出したけど、カメラって言ったらあの秦野も学校によく持って来てるっけ……。まさか、あれもそんなに高価なものなの⁉
すっかりカメラのレンズの値段の高さに度肝を抜かれ、別の方向へ思考を働かしていた私にさらに父と母の声が突き刺さった。
「これでも安いとこから買ったんだ。なあ頼むよ。あとこれ使うためのアダプタとメンテナンスキット……」
「どの口が言うわけ! 返すならわかるけど、さらに借りたいってどういう神経してるわけ! バカじゃないの! そんなにお金が欲しかったら、今持ってるレンズとかカメラとかなんでもいいから売ったら? そもそも、あなたがもっと高給取りだったらこんなに苦労しないのよ!」
「なっ! なんだと! こっちだって必死に毎日頑張ってるんだぞ! 仕事もしてないで一日中好き勝手してる千華子に言われる筋合いはない!」
「なんですって! こっちだって家事とか光熱費税金の支払いとかやることいろいろあるのよ! 百合絵の進学にもこれからお金がいるんだから、あなたの少ない稼ぎでうまくやりくりできるように頑張ってるのよ!」
「何が少ないだ! さっきから聞いてれば俺の給料のことばかり! 千華子だって散々ブランド物の化粧品とか買ってるくせに! 何がうまくやりくりだ! おまえこそ無駄遣いしてるじゃねえか!」
「バカじゃないの! あれは女にとって出かけるときには必須なの! つまり生活必需品! あんたの三十五万のレンズとはわけが違うのよ!」
「何が生活必需品だ! 俺のレンズだって、写真のクオリティを上げるためには必需品なんだ! 素人の千華子になんかわかるまい!」
「どっちが素人よ! レンズとか写真とか、そんなもん生活するのに必要ないでしょ! それが何か生活にとってプラスになるわけ⁉ 金でも生み出してくれるわけ⁉ えっ⁉」
「うるさい! そんなのわからないだろ! そのうち俺の写真が! もういい! おまえの顔なんか見たくない! 適当に片付けてくれ」
「何が片付けてくれよ! 自分でやりな!」
母の怒鳴り声が響いた瞬間、父は乱暴に立ち上がると目の前のまだチキンやサラダが残っている皿を乱雑に重ね、荒い足取りで台所の方へ向かったかと思うと、ガチャンと荒々しい音を響かせた。そして父は無言のままリビングを後にした。
バタン!
リビングのドアが荒々しく閉じられ、ドアのすりガラスに映る父の影が小さく薄くなっていった。
「お、お母さん……」
「あ、ごめんね百合絵。みっともない姿見せちゃって」
「う、ううん……。それはいいんだけど」
「さ、早く食べちゃいましょ」
「あ、あのさ、ちょっとこれ見て」
気になっていた私はポケットしまっていたスマートフォンでカメラのレンズについて調べていた。新品に限った話だが、やはりカメラのレンズは父が言っていた望遠タイプのものはどれも何十万もするような高価なものが多かった。しかも中には百万円台のものまである。
「結構するっぽい。少しくらい大目に見てあげたら? 一応借りてるってことになってるんでしょ?」
「ま、まあ、そうだけど……」
別に父が好きとか、この前のミニ琴姉の恩返しがしたいとかそういうわけではなかったが、カメラのレンズの価格事情を知り、父も父なりにやりくり頑張ったんだろうなと同情してしまったのだった。あっ、ミニ琴姉とはこの前父からもらったあのガラスケースのような水色のパソコンのことだ。琴乃みたいに頭脳明晰で優秀だったので私なりに名前を付けてあげたのだ。
「あと、やっぱり……結構するの? 大学の費用?」
「あ、まあね。あーでもそんなこと気にしないで。どっちにしろこの前話したように家からは国公立の費用しか出さないからたいしてかからないし。それに、別にどこの学校行こうが私もお父さんも別に気にしないから」
にっこりと取り繕いながらそう口にする母。先ほどまでは少しばかり申し訳なさそうにしていたのだが、さすが私に似て楽天的な母だった。気づけばすでに目の前の母は先ほどまでのことを忘れたかのように目の前の食事にありついているのだった。
「……」
何か言おうとしたが忘れてしまった。仕方なく私も目の前の食事にありつくことにした。見ると無残にも美味しそうなローストチキンのうえに先ほどの紙切れがのっかってしまっていた。
「あっ……」
「あー、ごめん百合絵。お母さんのと交換してあげようか?」
「ううん、いいよ」
そう言って無様な姿になった紙切れを持ち上げた。すっかり冷めきったローストチキンのソースが糸を引いてべっとりと絡みついていた。汚らしいそれをテーブルの上に置くと私も目の前の母と同じく食事にありついた。
冷めきってはいたが香ばしいおいしさのチキンをほおばりながら、思い出した私は再び口を開いた。
「そうだ、お母さん? そんなケンカするくらいだったら他の人選んだほうがよかったんじゃないの? なんでお父さんと結婚したの?」
「えっ? ふふふっ、なんでそんなこと」
「えーだって、お父さんとお母さん、何かと口ゲンカしてること多いし、趣味とか価値観とかも全然違うかんじだし」
思い出した。たわいもない、しかしある意味突っ込んだ、そして非常に興味深い質問を私は目の前の母に投げかけてみた。
「うーん……まあたまたまというか、成り行きというか……。あっ、でも百合絵が男の子だったら絶対育児放棄してたわ。調子に乗っちゃったのはいいけど、男の子だったらどうしようって一日中夜も寝れないほど悩んだこともあったっけ」
「ふ~ん」
なんか思った以上に面白くなかった。もっとこう「結婚してください!」って雪降る中お父さんが何度も訪ねてきては土下座して頼み込んだとか。実は小学生の時から一緒に遊んでいて同窓会でサプライズプロポーズとか。そういうドラマチックな展開を期待していたのだが。成り行きって……しかも調子に乗っちゃったとか、いったい当時の母は何を考えていたのだろうか?
しかし、すぐに一つの可能性に辿り着いた。そしてその瞬間、私は箸を落としてしまった。
「も、もしかして……、あの……、いわゆるその……できちゃった……」
「あっ……」
場の空気が凍った。その瞬間、母が明らかに動揺を隠せなくなっていくのを感じた。
「ま……だってあの人ったら……、あの時私の家に夜遅いっていうのに突然訪ねてきて……。まあその……若気の至りってやつね」
「え~、何それ~⁉ お母さん最低っ~!」
信じがたい一つの事実。そしてそれが確定してしまったその瞬間、私の中から何かがこみあげてくるのを感じた。それが驚きなのか怒りなのか、はたまた悲しみなのか、私自身にもわからなかった。
「そんな、私……、そんなことで私……」
みるみる視界が滲んでくるのを感じた。やはりこれは悲しみというべきものなのだろうか。どういうわけか、普段の生活のドジっぷりや、試験でもろくに点が取れず落ち込んでいる自分の姿が脳裏に浮かんできた。そしてすぐにすっと一筋の涙が垂れていくのを感じた。
「ええ~ん。やっぱり私……、ほんとはいらない子だったの~?」
嗚咽を鳴らしはなをすすりながら目の前の母に問い詰める。しかし、母は相変わらず普段のようにニコニコと笑うような口調で答えた。
「何バカなこと言ってるのよ、百合絵。念願の女の子に生まれてきてくれたんだから。私の大切な、かわいい宝物よ。まあ……強いて言うなら遅生まれで生まれてきてほしかったところだけど」
ぐすん……。「ごめんね……」
「別にいいわよそんなこと。ほら、そんなに泣かないの」
「う……うん」
母の声を聞きながら、私は頭に懐かしいぬくもりを感じていた。ぽんぽんと頭を撫でられるような優しい感触。
誕生日だけは私にもどうにもならないの……。早生まれでごめんなさい。
自分の誕生日――二月十五日を思い出しながら私は心の中で母に詫び続けた。
そういえば、昔もこんな風に慰めてもらってたっけ。琴姉にも……、お母さんにも……。
「さっ、ごはんごはん……。あっ、てか冷たっ! ちょっと温めなおそうか?」
そう言って母は、食卓に並んだローストチキンが盛られた皿とごはんが盛られた茶碗を台所の方へ持っていくと、ラップをかけて電子レンジに入れて温めなおした。
「……」
レンジの音だけがむなしく響くサラダだけが置かれた食卓で、何か腑に落ちないような気分だった私は一人考え事をしていた。
なぜだかわからないけど、とてつもなく長く感じる時間の中で、私は最近見たネットニュースの記事を思い出した。どうやら最近、一部の子どもたちの間で「親ガチャ」という言葉が使われているみたいだ。私の周りにはそのようなことを言っている人がいないので初耳だったのだが、子どもは自分の親を選べないということをソーシャルゲームのガチャに例えた表現である。はたして、今の私にとって目の前にいるこの人と怒り狂って自分の部屋に逃げ込んでしまったあの人は当たりだったのだろうか? それとも……。
「お母さん、さっき私のことかわいいって言ってくれたよね? 今もかわいい?」
少しだけ試したくなってきた。まずはこの人が当たりなのかどうか。ついさっき、目の前の母はこの私にかわいいと言ってくれた。幼稚園から現在に至るまで、これまで自分以外の人にかわいいと言われたことなど金輪際なかった。そのため、少しだけだが淡い期待を抱いていた。
「えっ、そんなこと言ったっけ? まあ……まあまあね」
え~! それはないでしょーっ!
すっかり不機嫌になってしまった私の思いはすぐに言葉になって噴出した。
「はぁ~っ⁉ 何よまあまあって。やっぱ期待した私がバカだったわ。それじゃやっぱ私なんてかわいくないってことね」
「何言ってるのよ。まあまあっていうのは、まだまだ立派なレディーになれる伸びしろがあるってことよ。だからコスメとか洋服とか、普段からよく貸してあげてるじゃない」
「あ……」
確かに母の言う通り、時々ではあったが、母は私に新しいコスメや洋服を買ってくるたびに私に少しだけなら好きに使っていいわよ、と言って持ってきてくれるのだっだ。まあほとんどが旧シーズンのものとか使い古しのものではあったのだが。
あ~、あれそういうこと……。単純に残飯処理かと思ってたわ。まあでもそのおかげでおしゃれにはそんなにお金かけなくて済むし、ある意味感謝してるんだけどね。
「あっ、もし百合絵が完璧なかわいい女の子だったら、もうコスメとか貸したりあげたりしないけどそれでいい?」
「うっ……。ま、まあまあなままで結構です」
まるですべてお見通しと言わんばかりの母の言葉に、私は渋々と返事をすることしかできなかった。
文化祭の準備を済ませ、家についた。昼くらいに帰れるだろうとか考えていたがそんなに甘くはなかった。思った以上に準備に時間がかかってしまい最終的にすべての準備が終わったのは昼の四時。そしてその後、お客さんへの対応や各自の動線を確認するために実際にお菓子や飲み物を用いての練習。ここまではよかったものの、どういうわけか最終的にはクラスの出し物の準備完了祝いと明日に向けての意気込みのためのプチ打ち上げタイムとなってしまい、教室を出たころにはすでに空は夕焼けで染まっていた。どうやら昼の間に少しだけ雨が降っていたようで、湿った地面と水たまりが夕日に照らされきらきらと輝いていた。
琴姉と秦野、結局今日一日全く話すことなかったな……。なんなんだろう? 琴姉の方は本当に勉強のし過ぎかもしれないけど……、秦野が勉強のし過ぎで……いや、ないない。あんな不真面目なやつが勉強の影響でああなるなんてありえない。
学校から私の家までは乗り換えが二回、約九十分の間電車に揺られてやっと到着する。しかし、この日はあっという間だった。家の最寄り駅についたころにはすでに空は闇に染まり、駅の両側に広がる街並みと電車の車庫はほのかな明かりで照らされていた。
「ちょっと! あなた何よこれ⁉ 三十五万ってどういうことよ!」
「これでも安い方なんだぞ! 高いんだよ望遠レンズってのは!」
「はぁ~っ! 知らないわよそんなの! 望遠なんてスマホのカメラでも撮れるでしょ! バカじゃないの⁉」
「あのな~っ、何アホなこと言ってんだ! おまえにはわからないかもしれないけど全然違うんだよ!」
玄関に入るとすぐに父と母の言い争う声が聞こえた。またつまらないことでもめているのだろうか? まあ、この流れで行くとおそらく十中八九母の勝利に終わるのだろうが……。
そんなことを考えながら靴を脱ぎ私はさっさと二階にある住処へと逃げ込んだ。
「百合絵! ごはん!」
母に呼ばれてリビングへ。夕食の時間になった。家族みんなで食卓を囲んでの夕食。よくあることなのだが状況は一向に改善していなかった。
ムシャムシャ……。
目の前に盛られたサラダを口に入れ、レタスとパプリカの触感を味わう。シャキシャキとみずみずしい触感とともに少しだけ甘いような酸っぱいような何とも言えない味が口の中へ広がっていく。サラダの隣に盛られたローストチキンの香りも、私のことも食べてよと言わんばかりの香ばしい香りを漂わせている。
仕方ない。お望みの通り食べて差し上げましょう。
ローストチキンに箸を伸ばそうとしたその時だった。
「で、あなた、この借りはどうするつもりなの?」
「はぁ~っ! 借りってなんだよ? 別に千華子のお金で買ったわけじゃないんだからいいだろ」
「はあ~っ⁉ どの口が言うか! あなたこれ、何枚たまってると思うのよ!」
突然流れた不穏な空気の中で母は父に何やら数枚の紙きれをちらつかせながら見せつけている。これはいったい?
「あなた、いったいいくら前借りしてるかわかってるわけ⁉ 一、二、三、四、五、六、七、八……、もう十六万円も前借りしてるんだからね! きっちり返してもらうわよ!」
「なっ! そんなに⁉ いや嘘だ! 千華子、おまえごまかしてるだろ!」
「ごまかすわけないじゃない! そんなこと言うなら自分で数えてみなさいよ!」
バッ……!
父にそう怒鳴りつけた母は手に持っていた紙切れを父に向かって投げつけた。夕食が並んだテーブルにむなしく紙切れが散らばる。
「十六万も、そんなはずはない……!」
ぶつぶつつぶやきながら散らばった紙切れを集め始める父。興味本位で、私は目の前に落ちていたそのうちの一枚をめくると表を確認した。見たところ、それは父が母から毎月のお小遣いのうち足りない分を前借りしたことを示す証明書のようなものだった。おまけに父のサインまで右下にご丁寧に書かれていた。しかもこれまでの話やこの紙切れに書かれたことから考えると、これ一枚で二万円を前借りしたという証明になっているようだ。
こんなもの、いつの間に……。
「百合絵、その一枚隠しちゃえ……」
「あなた! 百合絵に何言ってるのよ⁉」
父のささやきが聞こえたかと思った瞬間、母の怒鳴り声が私と父を突き刺した。すでにどうとでもなれと思っていた私は手に持っていたその借用書をテーブルの上にパラッと置いた。
父はすかさずそれを拾うと、手に持っていた他の紙切れの束の中に入れて、パラパラとめくり数え始めた。
「……七、八……、はぁ~っ……マジかよ~っ」
まるで試験の答案用紙を返されたときの私のような反応をしていた父はすっかり意気消失してしまったようだった。しかし、すぐに先ほどの気迫を取り戻した。
「いやだってほら、この前も百合絵にパソコン作ってやったんだし。それに運悪く何年も使ってきたレンズのAFがちょうど動作不良起こしちゃって、修理費考えたら新しいの買った方が……」
「だからと言って、三十五万のレンズ買うことはないんじゃないの!」
さ、三十五万……! カメラのレンズってそんな値段するの⁉
そいうえばカメラで思い出したけど、カメラって言ったらあの秦野も学校によく持って来てるっけ……。まさか、あれもそんなに高価なものなの⁉
すっかりカメラのレンズの値段の高さに度肝を抜かれ、別の方向へ思考を働かしていた私にさらに父と母の声が突き刺さった。
「これでも安いとこから買ったんだ。なあ頼むよ。あとこれ使うためのアダプタとメンテナンスキット……」
「どの口が言うわけ! 返すならわかるけど、さらに借りたいってどういう神経してるわけ! バカじゃないの! そんなにお金が欲しかったら、今持ってるレンズとかカメラとかなんでもいいから売ったら? そもそも、あなたがもっと高給取りだったらこんなに苦労しないのよ!」
「なっ! なんだと! こっちだって必死に毎日頑張ってるんだぞ! 仕事もしてないで一日中好き勝手してる千華子に言われる筋合いはない!」
「なんですって! こっちだって家事とか光熱費税金の支払いとかやることいろいろあるのよ! 百合絵の進学にもこれからお金がいるんだから、あなたの少ない稼ぎでうまくやりくりできるように頑張ってるのよ!」
「何が少ないだ! さっきから聞いてれば俺の給料のことばかり! 千華子だって散々ブランド物の化粧品とか買ってるくせに! 何がうまくやりくりだ! おまえこそ無駄遣いしてるじゃねえか!」
「バカじゃないの! あれは女にとって出かけるときには必須なの! つまり生活必需品! あんたの三十五万のレンズとはわけが違うのよ!」
「何が生活必需品だ! 俺のレンズだって、写真のクオリティを上げるためには必需品なんだ! 素人の千華子になんかわかるまい!」
「どっちが素人よ! レンズとか写真とか、そんなもん生活するのに必要ないでしょ! それが何か生活にとってプラスになるわけ⁉ 金でも生み出してくれるわけ⁉ えっ⁉」
「うるさい! そんなのわからないだろ! そのうち俺の写真が! もういい! おまえの顔なんか見たくない! 適当に片付けてくれ」
「何が片付けてくれよ! 自分でやりな!」
母の怒鳴り声が響いた瞬間、父は乱暴に立ち上がると目の前のまだチキンやサラダが残っている皿を乱雑に重ね、荒い足取りで台所の方へ向かったかと思うと、ガチャンと荒々しい音を響かせた。そして父は無言のままリビングを後にした。
バタン!
リビングのドアが荒々しく閉じられ、ドアのすりガラスに映る父の影が小さく薄くなっていった。
「お、お母さん……」
「あ、ごめんね百合絵。みっともない姿見せちゃって」
「う、ううん……。それはいいんだけど」
「さ、早く食べちゃいましょ」
「あ、あのさ、ちょっとこれ見て」
気になっていた私はポケットしまっていたスマートフォンでカメラのレンズについて調べていた。新品に限った話だが、やはりカメラのレンズは父が言っていた望遠タイプのものはどれも何十万もするような高価なものが多かった。しかも中には百万円台のものまである。
「結構するっぽい。少しくらい大目に見てあげたら? 一応借りてるってことになってるんでしょ?」
「ま、まあ、そうだけど……」
別に父が好きとか、この前のミニ琴姉の恩返しがしたいとかそういうわけではなかったが、カメラのレンズの価格事情を知り、父も父なりにやりくり頑張ったんだろうなと同情してしまったのだった。あっ、ミニ琴姉とはこの前父からもらったあのガラスケースのような水色のパソコンのことだ。琴乃みたいに頭脳明晰で優秀だったので私なりに名前を付けてあげたのだ。
「あと、やっぱり……結構するの? 大学の費用?」
「あ、まあね。あーでもそんなこと気にしないで。どっちにしろこの前話したように家からは国公立の費用しか出さないからたいしてかからないし。それに、別にどこの学校行こうが私もお父さんも別に気にしないから」
にっこりと取り繕いながらそう口にする母。先ほどまでは少しばかり申し訳なさそうにしていたのだが、さすが私に似て楽天的な母だった。気づけばすでに目の前の母は先ほどまでのことを忘れたかのように目の前の食事にありついているのだった。
「……」
何か言おうとしたが忘れてしまった。仕方なく私も目の前の食事にありつくことにした。見ると無残にも美味しそうなローストチキンのうえに先ほどの紙切れがのっかってしまっていた。
「あっ……」
「あー、ごめん百合絵。お母さんのと交換してあげようか?」
「ううん、いいよ」
そう言って無様な姿になった紙切れを持ち上げた。すっかり冷めきったローストチキンのソースが糸を引いてべっとりと絡みついていた。汚らしいそれをテーブルの上に置くと私も目の前の母と同じく食事にありついた。
冷めきってはいたが香ばしいおいしさのチキンをほおばりながら、思い出した私は再び口を開いた。
「そうだ、お母さん? そんなケンカするくらいだったら他の人選んだほうがよかったんじゃないの? なんでお父さんと結婚したの?」
「えっ? ふふふっ、なんでそんなこと」
「えーだって、お父さんとお母さん、何かと口ゲンカしてること多いし、趣味とか価値観とかも全然違うかんじだし」
思い出した。たわいもない、しかしある意味突っ込んだ、そして非常に興味深い質問を私は目の前の母に投げかけてみた。
「うーん……まあたまたまというか、成り行きというか……。あっ、でも百合絵が男の子だったら絶対育児放棄してたわ。調子に乗っちゃったのはいいけど、男の子だったらどうしようって一日中夜も寝れないほど悩んだこともあったっけ」
「ふ~ん」
なんか思った以上に面白くなかった。もっとこう「結婚してください!」って雪降る中お父さんが何度も訪ねてきては土下座して頼み込んだとか。実は小学生の時から一緒に遊んでいて同窓会でサプライズプロポーズとか。そういうドラマチックな展開を期待していたのだが。成り行きって……しかも調子に乗っちゃったとか、いったい当時の母は何を考えていたのだろうか?
しかし、すぐに一つの可能性に辿り着いた。そしてその瞬間、私は箸を落としてしまった。
「も、もしかして……、あの……、いわゆるその……できちゃった……」
「あっ……」
場の空気が凍った。その瞬間、母が明らかに動揺を隠せなくなっていくのを感じた。
「ま……だってあの人ったら……、あの時私の家に夜遅いっていうのに突然訪ねてきて……。まあその……若気の至りってやつね」
「え~、何それ~⁉ お母さん最低っ~!」
信じがたい一つの事実。そしてそれが確定してしまったその瞬間、私の中から何かがこみあげてくるのを感じた。それが驚きなのか怒りなのか、はたまた悲しみなのか、私自身にもわからなかった。
「そんな、私……、そんなことで私……」
みるみる視界が滲んでくるのを感じた。やはりこれは悲しみというべきものなのだろうか。どういうわけか、普段の生活のドジっぷりや、試験でもろくに点が取れず落ち込んでいる自分の姿が脳裏に浮かんできた。そしてすぐにすっと一筋の涙が垂れていくのを感じた。
「ええ~ん。やっぱり私……、ほんとはいらない子だったの~?」
嗚咽を鳴らしはなをすすりながら目の前の母に問い詰める。しかし、母は相変わらず普段のようにニコニコと笑うような口調で答えた。
「何バカなこと言ってるのよ、百合絵。念願の女の子に生まれてきてくれたんだから。私の大切な、かわいい宝物よ。まあ……強いて言うなら遅生まれで生まれてきてほしかったところだけど」
ぐすん……。「ごめんね……」
「別にいいわよそんなこと。ほら、そんなに泣かないの」
「う……うん」
母の声を聞きながら、私は頭に懐かしいぬくもりを感じていた。ぽんぽんと頭を撫でられるような優しい感触。
誕生日だけは私にもどうにもならないの……。早生まれでごめんなさい。
自分の誕生日――二月十五日を思い出しながら私は心の中で母に詫び続けた。
そういえば、昔もこんな風に慰めてもらってたっけ。琴姉にも……、お母さんにも……。
「さっ、ごはんごはん……。あっ、てか冷たっ! ちょっと温めなおそうか?」
そう言って母は、食卓に並んだローストチキンが盛られた皿とごはんが盛られた茶碗を台所の方へ持っていくと、ラップをかけて電子レンジに入れて温めなおした。
「……」
レンジの音だけがむなしく響くサラダだけが置かれた食卓で、何か腑に落ちないような気分だった私は一人考え事をしていた。
なぜだかわからないけど、とてつもなく長く感じる時間の中で、私は最近見たネットニュースの記事を思い出した。どうやら最近、一部の子どもたちの間で「親ガチャ」という言葉が使われているみたいだ。私の周りにはそのようなことを言っている人がいないので初耳だったのだが、子どもは自分の親を選べないということをソーシャルゲームのガチャに例えた表現である。はたして、今の私にとって目の前にいるこの人と怒り狂って自分の部屋に逃げ込んでしまったあの人は当たりだったのだろうか? それとも……。
「お母さん、さっき私のことかわいいって言ってくれたよね? 今もかわいい?」
少しだけ試したくなってきた。まずはこの人が当たりなのかどうか。ついさっき、目の前の母はこの私にかわいいと言ってくれた。幼稚園から現在に至るまで、これまで自分以外の人にかわいいと言われたことなど金輪際なかった。そのため、少しだけだが淡い期待を抱いていた。
「えっ、そんなこと言ったっけ? まあ……まあまあね」
え~! それはないでしょーっ!
すっかり不機嫌になってしまった私の思いはすぐに言葉になって噴出した。
「はぁ~っ⁉ 何よまあまあって。やっぱ期待した私がバカだったわ。それじゃやっぱ私なんてかわいくないってことね」
「何言ってるのよ。まあまあっていうのは、まだまだ立派なレディーになれる伸びしろがあるってことよ。だからコスメとか洋服とか、普段からよく貸してあげてるじゃない」
「あ……」
確かに母の言う通り、時々ではあったが、母は私に新しいコスメや洋服を買ってくるたびに私に少しだけなら好きに使っていいわよ、と言って持ってきてくれるのだっだ。まあほとんどが旧シーズンのものとか使い古しのものではあったのだが。
あ~、あれそういうこと……。単純に残飯処理かと思ってたわ。まあでもそのおかげでおしゃれにはそんなにお金かけなくて済むし、ある意味感謝してるんだけどね。
「あっ、もし百合絵が完璧なかわいい女の子だったら、もうコスメとか貸したりあげたりしないけどそれでいい?」
「うっ……。ま、まあまあなままで結構です」
まるですべてお見通しと言わんばかりの母の言葉に、私は渋々と返事をすることしかできなかった。
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学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
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