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十章 どうして

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 新しい相棒のおかげで、私のオンライン授業は非常に快適なものとなった。普段ゲームで使っている二十三インチほどの大画面の上にウェブカメラを取り付け、リアルで何度も見ている黒板や先生をゲームでおなじみのそれを通して目にするこの時間は、私にとって非常に新鮮なものとなった。おまけにあれだけ心配していたスマートフォンで小さい文字が読めないという問題についても、学校側もきちんと考えてくれているようで、カメラの映像だけではなく時々パワーポイントのスライドや字幕、そして動画を交えながら何かと懇切丁寧に授業を展開してくれていた。おかげで終始退屈することなく、まるで普段のようにゲームをしているような気分で過ごすことができたその時間はあっという間に過ぎていった。

「百合絵、どう? 授業?」
「メールで課題送らなくちゃいけないのが面倒くさいけど、結構おもしろいよ」
「そう。じゃあ、これで成績UPも夢ではないわね」
「あっ、それはまた別問題……」


 そんな楽しかったオンライン授業もこれでこの日でおしまい。猛暑も少しだけ落ち着き、やっと過ごしやすい気候になってきたこのころ、気づけば九月もすでに終わりが近づいていた。

 ピンポーン、バタンッ……。

「おっ!」
「おはよ~」
「めずらしいな~。どうした今日は? 頭でも打ったか?」
「ふふふっ、久しぶりの学校だし。ちょっと早く家を出ちゃっただけよ」

 久しぶりの朝の電車。そして本当に久しぶりとなる琴乃との電車の中での遭遇。私と琴乃は同じ路線の沿線に住んでいる。そして私が乗る次の駅で琴乃が同じ電車に乗ってくる。もちろん待ち合わせのドアの位置も決めている。一年生の頃はよくこんな感じで待ち合わせをして学校まで二人一緒に登校していたものだったが、学年が上がり、私の遅刻癖がひどくなってきた二年生以降は全くと言っていいほどこんな待ち合わせはすることはなかったのだ。

 ガタンタタン……、ガタンタタン……。

 快走する電車の中で、私は琴乃に話しかけた。

「相変わらず勉強家だね~。どう、最近の調子は?」
「ん~、まあまあ……かな」

 はじめは驚いてくれた琴乃もやっぱりすぐに手に持っていた単語帳の方へ視線をそらしてうつむいてしまった。

 久しぶりなんだからさー、もっとこう……なんか言うことはないんですか?

 少々あきれ気味の私は琴乃が気を引きそうな世間話をぶつけてみた。

「あっ、そうそう。この前ココアのワクチン打ったんだけど、琴姉打った? あれ結構痛くて、次の日フラフラになっちゃったんだけど琴姉」
「打ったよ。ちょっと静かにしてくれないかなー」
「……」

 会話はピシャリと遮られた。やはり勉強中の琴乃とおしゃべりなんて不可能に近いことだった。相変わらず彼女の視線は手元の付箋てんこ盛りの単語帳の方へ向いていた。それにもう目つきが違っていた。まるで野生の肉食動物が遠くにいる獲物を狙っているかのような鋭く細いまなざしで単語帳をにらみつけているのだった。

「もーっ、私も勉強しよっと」
 仕方なく床に置いたカバンの中に手を伸ばし単語帳を取り出す。そして渋々と無言のままのお隣さんの真似をするのであった。


 学校に着いた。朝のゆったりとした時間が流れる。だけど教室のみんなには目に見えない緊張感が走っているのを感じた。カリカリと音を鳴らして問題集やノートを広げて文字を書いている人たち。英語だらけの本を開きところどころペンで線を引いている人たち。高校生必須の赤シートをちらちらさせながら一喜一憂している女子のグループ。もちろん普段の私のように突っ伏して寝ている人もいたけれど、おそらく夜遅くまで勉強していたのだろう。みんな数ヶ月後に迫った本番に向けて必死になっていた。もちろん、おなじみのお隣さんも例外ではなかった。


「えーそれでは、放物線A上を移動する点Pと原点Oと点Qを結んでできる三角形の面積は……」

 いつもの教室で、いつものB組のみんなとの授業。夏休みも進学講座で何度も同じような教室で授業を受けていたのだが、その感覚は本当に久しぶりだった。とりあえず秦野に背後から襲われる心配はなくなったし、新しく隣の席になった矢野もいつものように真剣に前を向いている。そういえば矢野というと、昔も隣の席になったことがあったようなないような。
 そんな調子の私はしばらくの間この空間のなつかしさに浸ってしまい、結局二時間目の古文が始まるまでほとんど上の空になってしまった。

 先生がなんか言っている。正直この教科もほとんど捨ての姿勢だった私はまともにその話を聞くこともせず、左に視線をそらしの窓の外を眺めた。今日もいつもと変わらない青空とその中をふわふわと泳ぐ白い雲たちが見えた。そして少し下の方を見てみるといつもと変わらない家々の屋根が見えた。
 しばらく眺めてはみたものの特に何か面白いわけでもなかった私は窓の外に向けていた視線を教室の中へと移す。すると不意にも意外な光景を目にしてしまった。

「あれっ? 琴姉じゃん……?」

 左斜め前の席の琴乃だ。二学期の学校での授業が始まった時に行われた席替えと各自受験で使用する科目のみの授業を集中的に受けるという体制もあって一学期のときと今の席はかなり異なっていた。一時間目まではあまりの懐かしさのあまり上の空になってしまい、新しい席では斜め前の琴乃を眺めることができるということにこの時初めて気づいたのであった。
 しかし、その瞬間の私はうれしいという感情よりも勝るものがあった。

 えっ? なんか意外……。

 机の上や黒板に視線を飛ばすわけでもなく、少し離れた琴乃はぼんやりと虚ろな目をしながら全く違う方向を向いているように見えた。先ほどまでのがっつり勉強に打ち込む彼女の姿が脳裏に焼き付いていた私にとって、その様子は全くと言っていいほど予想外のことだった。

 大丈夫かな~? 昼まで教室移動ないし、ちょっと観察しちゃおうかな。


 三時間目の英語リーディングや四時間目の数学Cの時間もやはり私の視線は左斜め前に向いていた。二時間目に見たときには「やっぱ琴姉も古文は捨ててるんだろうな」とか安直なことを考えていたものの、そんな単純なことではないようだった。やはり斜め前の琴乃の視線はほとんどと言っていいほど机や黒板以外の方を向き、時折見せる横顔からはやはりどこか虚ろな表情が感じられた。そして、はっきりとはわからなかったがなぜか少しだけ女に近づいている――いや、もともと女子なので少しだけおしゃれしているとでも言っておこう。本当に少しだけだけどかわいい乙女のように見えたのである。


「琴姉。琴姉!」
「あっ……、そうだったな」

 昼休みになった。心配になりながらも夏休み前までの通り琴乃の席へお弁当を持っていきともに昼を過ごそうとしたはずだったのだが、やはり授業中に見たどこか虚ろな姿は健在だった。私の呼びかけに少し遅れて反応する琴乃。そして彼女はゆっくりと机の端にかけてあったカバンに手を伸ばしおなじみのお弁当袋を取り出すのであった。

「ちょっと、琴姉どうしちゃったのよ? 朝まであんなに単語帳とにらめっこしてたのに」
「どうしたって? 別に何ともないが」
「はぁ~っ⁉ もしかして自分で気づいてないの? 琴姉、四時間目までずっとぼうっとしてたわよ」
「えっ、そんなことないだろー? 私はいたって普通だが」
「違う! 全然違ったもん」

 どうやら琴乃は自覚していないようだった。あんな状態で普通とか言ってこられても、全く納得できるものではなかった。やはり何かおかしかった。もしかして朝に打ったとか言ってたワクチンのせい? いや、それとも今はやりのココアちゃんのせいか? そんなことを思ってはみたものの、ワクチンに関してはさすがに打ってからだいぶ日がたっているだろうし、仮にココアちゃんが原因だとしても朝まであんなに勉強熱心だったことの説明がつかない。やっぱり、何か根本的な原因があるに違いなかった。

「ねえ、保健室行こうよ~。ねっ。琴姉ちょっと休んだ方がいいよ」
「その必要はない。というか、そこまで言うってことは本当にさっきまでの私、変だったか?」
「うん」
「は~、そうか……。特に自覚はしていなかったが、百合絵がそこまで言うってことは」

 やっと少しはわかってくれた。自身の事態の深刻さに気付いてくれた琴乃を見て少しだけ一安心した。しかし、いったい何が原因なのだろうか?

「ねえ、やっぱ保健室行って診てもらおうよ。私も気になるからさ」
「いや、その心配はない。というかさっき百合絵に指摘されてある程度原因の目星はついた。安心しろ、さっさと治すから」
「う~ん……。まあいいや、そこまで言うのなら……」
「余計な心配かけてしまって悪いな」

 そう言い残すと琴乃は開けていたお弁当箱にさっさと箸を伸ばし昼食にありつくのだった。その姿を見てなんだかすっきりしないような気分を味わわざるを得なかったが、これ以上追及していも面倒なことになりそうなのでやめておくことにした。

「ん~、今日は珍しく手が込んでる。ほら見て」
「お~、ムニエルにアスパラガスのベーコン巻き、それにコロッケとひじきか。ははっ、よかったな」
「ふふっ、琴姉のは?」
「ああ、相変わらずだ」

 のりが一面に敷かれ、端に唐揚げとミニトマトがちょこんと乗っているだけのお弁当を見ながら私はたわいもないおしゃべりを楽しんでいた。やはり今日も琴乃の弁当は昨日の夕食の残り物のようだ。しかし、別に弁当の中身などどうでもよかったのだ。おかずの話をしながら一緒に食べる昼食。その時間に私は懐かしさと楽しさを感じていた。

 一学期のころはよく中身のあてっこしてたっけ……。今日はもうできないけど、またやりたいな~。

 そんなことを考えていた私だったが自分のお弁当の中身を見てあることを思いついた。何のつもりで母が入れたのかは知らないが、ハートのような形をしたニンジンのスライスが入っていた。
 そして、授業中に感じたもう一つの違和感を思い出しつい口を開いてしまった。

「あっ、わかった。琴姉もしかして、恋でもしちゃったのかな?」

 ブーッ! 「ゲホッ! ゲホッ!」

 とっさに口が滑ってしまった。その瞬間、琴乃は口に含んでいたお茶を水筒のコップに噴出してしまった。

「おまえ⁉ 何を⁉」
「まあ最近勉強漬けだったからさー、欲する気持ちもわかるよ。だって今日の琴姉なんかちょっとかわいくなってるし。もしかして、誰か気になる人いるの?」
「はぁ~っ⁉ バカヤロッー! そんなやついるわけ……ゲホッゲホッ……あー! そんなわけねえだろ、余計な口たたくんじゃねーよ」
「あ、そうなの……、なんか残念」
「残念で結構! だいたいこんな大切な時期に恋愛とかそんなくだらないことしてる暇私にはないんだよ、おまえとは違うんだからな! 適当なこと言うんじゃねーよ」
「はーい、ごめんなさーい」
「ふん! ……ったく」

 すっかり不機嫌になってしまった琴乃はさっさとお弁当の中身を空にすると、さっさとそれらをしまい、朝のように単語帳とにらめっこしてしまった。そんな琴乃を前にしても私はなおお弁当にありついていた。

 さっきはきつく言われちゃったけど、ようやく、いつもの琴姉って感じね。まあ、これでとりあえずは一安心。

「さっさと食えよ。気が散る」
「はーい」
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