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二十三章 一筋の希望

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 二月になった。いよいよあちこちの大学の入学試験が続々とやってくる。そしてこの日から、私の学校では国公立二次対策特別授業という名の授業が始まった。
 とはいうものの内容はこれまでもたびたび経験してきたような本番形式の模擬試験。志望校の文系理系や受験教科数の違いで教室が分けられるという細かい違いはあったものの様々な大学の過去問やそれと似た傾向の問題を制限時間内に解くということには変わりはなかった。文理や受験教科数の違いで教室を分けて授業することも普通の授業でもたびたびあったし、学校の先生たちは受験シーズンが近づくとなんでこうもいろいろと普段と変わらないような授業に『特別』だの『対策』だの名前を付けたがるのだろうか? まあある意味「受験対策やってますよー」とかいう対外的アピールかもしれないが。

「はい、書いたよー」
「う~ん、いいんじゃない。共通テストの紙も貼ったし……じゃあ、あとは郵便局行って送るだけね。もうあまり時間がないから、母さん勝手に送っておくわね」

 母が取り寄せてくれた、急遽私の第一志望校として躍り出た国立大学の志願表を前に、私と母はリビングのテーブルに向かっていた。

「あ、あのお母さん。これはいいんだけど……他の学校は」
「はぁ~っ? あんた、早稲田と慶應受験するのに何万使ったと思ってるのよ。それともどこか、他に行きたいとこでも?」
「あっ……、それは……共通テスト利用でどこかいいとこ……」
「学校名は?」
「……」
「ないわね。じゃあ、これでおしまい。落ちたらまた来年。いいわね?」
「……」

 うすうすと感じていたもののやはりダメみたいだった。琴乃にやや強制的に受験しろと言われた早稲田と慶應なんて今の学力ではとても受かりっこないし……。だからこそ、どこか滑り止めでもと考えていた私だったが、その考えを母はことごとく打ち砕いてしまった。
 少しだけ落ち込み気味になってしまった私は、呆然とリビングのテレビの方を見ていた。やはりこの時間のニュースでも二日後から始まる北京オリンピックの話題と、近頃また話題となってきているニューココアウイルスのO株や感染者数の話ばかりが取り上げられていた。ココアのO株についてはやはり感染力が強い変異種ということもあって、東京や神奈川の感染者数も日々うなぎ上りとなっていた。

 せっかくだったら後一年遅く生まれていればな~。そうすれば今頃は二年生で受験勉強なんてする必要もなくて、夏と冬二回のオリンピックも思う存分楽しめたはず。そしたらココアちゃんのこともそんなに神経質にならなくてもよかったのにな~。あっ、そういえば修学旅行にも行けてたかもしれないし。あ~あ……なんか損した気分。

「何ぼうっとしてるのよ? さっさと小論文対策でもしてなさい」
「あっ、はいはい……」

 仕方なく私は、二階の自分だけの住処へと足を運ぶのであった。


 ついに二月十五日がやってきた。この日は私の誕生日。真妃と綾子から誕生日プレゼント兼一日遅れのバレンタイン友チョコということで小さいハート型のスチール缶に入ったチョコの詰め合わせをもらい気分上々だった私は、ルンルン気分で学校から帰宅して小論文の勉強に打ち込んでいた。もちろんバレンタインということもあって、私の方も市販のチョコを小袋に詰め合わせて用意しておいた友チョコを真妃や綾子に配ったのだが、結局、一つ余ってしまった。三つ用意しておいたチョコの小袋。しかし最後の最後までその一つをあの人に渡すことは叶わなかった。

 まあでも仕方ないか……。

 数時間後、小論文の勉強に打ち込んでいた私を、母はわざわざ部屋まで呼びに来てくれた。そして母に呼ばれるがままリビングのドアを開けた瞬間、おいしそうなチキンの香りとケーキの甘い香りに迎えられたのであった。これまでの誕生日パーティーでは見たこともないような大きさの真っ赤なイチゴがたくさん乗せられた真っ白いケーキ。そしてその周りにはテーブルが埋まってしまうほどのチキンやフライドポテトやハンバーガーが置いてあった。

「百合絵! お誕生日、おめでとー!」
「わ~っ! ありがとう」

 そしてそんな幸せなひと時を過ごしていた私は、つい調子に乗ってチキンやフライドポテトを食べ過ぎてしまった。もうすでに動くのもやっとになるくらいの満腹感。しかしそんな私を生クリームの甘い香りが襲ってくる。

 お腹いっぱいだけど……食べたい。

「あっ、また残りものかよ~。ていうかどんだけずれてるんだよ」
「当然でしょ! 誰の誕生日だと思ってるのよ! 百合絵の合格祈願のためにわざわざ大きいのにしたんだから。あなたなんて一番小さいのでいいのよ!」

 満腹感で呆然としていた私の耳に父と母の声が入ってきた。どうやら今日も母のカットが下手とか、父のケーキが一番小さいとか、そんなことで文句を言っているようだ。

 別に今回は一番小さいのでもよかったのにな~。

 すでにお腹いっぱいの私は椅子の背もたれにぐったりと寄りかかりながら目の前の小皿に盛られたケーキを見た。ありがたいことに私の分は一番大きなものにしてくれたようだった。

「あ~、サンキュー……」
「あら、どうしたの? 食べないの?」
「どうした百合絵? お父さんが代わりに食べて……」
 バシッ!「何やってるのよ!」

 目の前に盛られた大きなケーキにフォークを持つ父の手が伸びたかと思うと、母は目にもとまらぬ速さでそれを撃ち落とした。

「百合絵、お腹いっぱいで食べられなかったら明日食べな。大丈夫よ、この人に食べられちゃわないように冷蔵庫しっかり見張っててあげるから」
「あ……じゃあそうする」

 目の前のケーキが盛られたその皿は意外にもずっしりとしていた。私はそれを慎重に台所の方へ持っていくと冷蔵庫の中にしまった。


「あー、食った食った……」
 自分だけの住処へ入った私は満腹になりすぎてだるくなった体を横にした。ベッドにずっしりと体重がかかる。背伸びをすることすら面倒なほどの満腹感を感じながら机の上の小さなチョコ缶を見つめた。

 あー、そういえばまだ開けてなかったんだっけ……。まあいいや、明日で。今日はもう無理。

 呆然と真っ白い天井と明かりを眺めていた私は、ふと、あることに気が付いた。

「いや、待てよ……? そういえば明日って何か……?」
 突然、何かにとりつかれたかのように急いでスマートフォンを取り出しスケジュールを確認する。なんだかとてつもなく大切なことを忘れてしまっているような気がしてならなかった。

 明日は二月十六日。……そしてそこに記載された文字を見て、私は愕然としてしまった。

 しまった! 早稲田の受験明日じゃん!

 一瞬にして背筋が凍ってしまったような気がした。数日前にボロクソな結果で終わった慶應の受験を乗り越え、しかも先ほどまでバレンタインと誕生日パーティーという甘い誘惑の中にどっぷり漬かってしまっていたということもあり完全に油断してしまっていた。まさか、こんなに大切な日の存在を忘れてしまうなんて……。

 しかし、すぐにその凍り付いた背筋はじわりじわりと解凍していった。

 ま、まあ……どうせ今の学力じゃ無理そうだし……いっそのこと記念受験ってことで……。


 二月十七日。この日も、私は自分の住処の中で小論文の勉強に打ち込んでいた。ついこの前の記念受験のことなど、すでに私の頭の中には片隅も残ってはいなかった。この日もやはり小論文の参考書を片手に机に向かっていた。国語の授業以外で普段から文章などろくに書いてすらいない私も、とりあえずどういう構成でどのくらいの配分で書いたらよいのかなどの基本的なルールについては身に着けることができた。

 でもな~、何訊かれるかわからないしな~。これと言ってそれ以上の対策のしようが……。

 真新しい小論文の参考書を開きながら、私は茫然としてしまった。琴乃に特訓終了を告げられるきっかけともなってしまった慶應の過去問。しかし、そのおかげで私はいまさらながら目指す大学の過去問に早くから取り組んでおくことの大切さに気付いた。ということで、あの日に急いで本屋に買いに行ったりネットで調べたりしたのだが、どうやら受験者数も少なく需要がないからなのかは不明だが、残念ながら過去問を手に入れることはできなかった。
 
 コリコリコリ……。

 机の右端に置いてある、誕生日に真妃と綾子からもらった小さなハートのチョコ缶を開けて、トリュフを一つまみした。ほのかに苦い風味が口の中に広がり、それに遅れて甘ったるいチョコの香りとコリコリとした触感が口の中いっぱいに感じられた。

 結局この前の慶應の試験も、やっぱ意味不明な問題ばかりで全然できなかったしなー。マーク式じゃないから運でどうにかすることもできなかったし……。

 この前の土曜日に琴乃から命じられて受験した慶應の入試と、つい先日にもはや記念という体で受験してきた早稲田の入試のことを思い出してしまった。早稲田の方はもう仕方がなかったが、慶應のそれはあの時に琴乃に初めて解かされた過去問と同じく散々たるものに終わってしまった。

 まあでももういいや。琴姉とは本当に今度の三月が終わればお別れ。なんだかんだ小学校の時から一緒に過ごしてきたけど……あーあれからもう十二年になるのか~。なんかあっという間だったな~。
 でも、いつまでも琴姉と一緒がいいとかそんなことばかり言ってられない。琴乃だって東工大目指して頑張ってるんだから……。それにもうすぐ卒業。別れの春がもうすぐそこまで近づいてきているんだから。私もいい加減、琴姉から卒業しなくちゃ。
 うん……まあ大学に入ったらまた新しい友達ができると思うし何とかなるでしょう。いや、それ以前にそもそも滑り止めすらないんだし、大学生になれるかどうかすら……。

 本当に長い間琴乃にはお世話になった。彼女の場合は楽しかった思い出が云々とか、友達になってくれてありがとうとか、そんな軽々しい言葉よりも『お世話になった』という言葉の方がしっくりくるような気がした。
 そんなことを思いながら、私はチョコを片手に小論文の参考書を眺めていた。
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