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二十六章 真っ青

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「琴姉、どうだった?」
「ああ。見ればわかるだろ……」

 月曜日、先週末に控えていたあの大仕事を終えた私はいつもの3-Bの教室にいた。二月から続いていた国公立対策講座も先週のはじめにすでに終わっていたこともあり私は久しぶりに琴乃の顔を目にしたのだったが、その変貌ぶりは一目瞭然だった。目の前の彼女の顔はこの上ないほどに青ざめ、何とも言い表せないような虚無感に苛まれたような表情でぽつりと椅子に腰かけていた。

「えっ、もしかして……」
「…………こんなつもりでは……」

 椅子に座り、終始うつむきながらボソッと答える琴乃。その姿がすべてを物語っていた。そしてそのすべてを悟った私ももちろん、驚きを隠すことなどできなくなってしまった。

「えっ⁉ えっ⁉ だ、だって琴姉、あれだけ必死に勉強してて、しかも共通テストの点だって七割とか八割とか……」
「はぁ~っ……。なぜだか知らないが……、二次試験のあった先週の月曜くらいから急に……。なんだか一日中頭がぼうっとしてきて眠気が……」
「えっ⁉ で、でもそんなのちゃんと睡眠とってればなんとか……。というか、大丈夫? 具合でも悪いの?」
「特になんとも……まあ強いて言うなら頭の中が具合悪いのかもしれないが。なんか全然……」
「全然?」
「はぁ~っ……。なんか全然……公式という公式とか解法とか、暗記すべき定数とか、そんなんが全然思い出せなくて……」
「そ……そうなんだ……」

 まさかの事態に動揺せざるを得なかったが、本当は心の中では必死に我慢していた。なんたって今の私は心の底からものすごく喜びを分かち合いたい気分だったからだ。

「ま……まあ何とかなるって。う~ん、まあ……私の方はぼちぼちよかったけどね」
「んっ? 百合絵も国公立の二次受けたのか?」
「あっ、そういえば言ってなかったわ。まあ、一応ね一応。お母さんにも受けろって言われちゃってたし」
「そうか~。どこだかは知らねーがまあいい。あー、ほんとヤベー。落ちたかもしれね~」

 肘を机につき、両手で頭を抱えながら、琴乃は再び顔を青ざめうなだれてしまった。

 まあでも、いくらこの前のとこ受かったとしても、琴姉に受けろって言われた慶應と早稲田は結局落ちちゃったし。この二つとも落ちちゃったってことは、どっちにしろもう四月からは絶交されちゃうんだ。残り一ヶ月くらいしかないけど、少しくらいは琴姉と何か楽しい思い出でも作っておきたいな~。あれだけさんざん私にスパルタしてたんだし忘れてるってことはないと思うけど、とりあえず慶應と早稲田落ちたことは訊かれるまで黙っておくか。

 キーンコーンカーンコーン……。
「あっ、それじゃあまたあとでね~」
「……」

 一時間目の始まりを知らせるチャイムの音で、私は彼女の方を振り向くことなく自分の席へと向かった。

 久しぶりの通常授業。あれだけたくさんの試験にもみくちゃにされてきた私も、すでに残すところ期末考査だけになっていた。とはいうもののすでに進学先の合否には影響しないこんな試験などもはや消化試合といってもいいくらいのものだった。まあ一応留年、そして卒業不可能という最悪の結果もあるけれど、さすがにそんなことは夢物語だと思っていた。
 そしてそんな思いは周りのみんなも同じようだった。つい先日までは誰一人として後ろを向いたり雑談などすることもなかったクラスメイトたちも今となってはあちらこちらでこそこそと話声を漏らしたり、いつの日かの私のように勉強をしているふりをしてマンガ本やスマートフォンを教科書で隠して楽しい時間を過ごしている人たちまでいた。そこそこ真面目に授業を受けていたあの隣の席の矢野ですら何やらスマートフォンの画面に触れて時折にやにやした表情を見せている。
 隣の席の矢野で思い出してしまった。実は今の席は二学期の時の席とは違う。三学期のはじめに一度席替えをしたのだ。にもかかわらず私の隣の男子はまた矢野だ。これは何かの縁だろうか? 下手したら高校三年間で最も隣同士の席になった男子かもしれない。けれどもそんな矢野は特にタイプというわけでも私に親切にしてくれるわけでもなかった。舟渡くんくらいと言ったら言い過ぎだけど、もう少し親切にいろいろ接してくれたらちょっぴりよかったのだけれど。

 さて、私は……。あー、何もやる気しないわ。ということで、おやすみなさーい。

 もちろん私自身も今この瞬間まともに勉強する気などさらさらなかった。すぐに私は教科書とノートに覆いかぶさるように机にもたげ、そのまま夢の世界へと行ってしまった。


 昼休み、私は久しぶりの琴乃との昼食タイムを過ごしていた。二月が始まる直前のあの時――あまりの過去問の出来の悪さに彼女に見捨てられてしまったあの時以来、私は二月の特別対策授業の時も一人で昼を過ごしていた。もちろんその時も琴乃は四月から絶交という言い方をしていたのだけれど、なぜだか彼女の席に行きづらくなってしまっていた。そしてそのまま月日が流れ、気づけばもう二月の終わりである。

 ムシャムシャ……。
 ムシャムシャ……。
「……」

 終始何を言われるのかと少しだけ不安になっていたが、目の前の琴乃は何一つ口を開くことはなかった。いや、というよりもそんな状況ではなさそうだった。一月までの時以上の鋭い眼光で膝元の開かれた単語帳に視線を飛ばし、必死にかぶりつく琴乃。その姿にもはや何一つ余裕を感じることはできなかった。

「こ、琴姉……」
「……」
「琴姉……」
「なんだ?」

 相変わらずの視線のまま鋭い声だけをこちらに刺してきた。どうやら彼女は本気みたいだった。

「なんだよ?」

 すっかり話そうとしていたことも忘れ言葉に詰まってしまった。そういえば、琴乃は誕生日に起きたあの事、覚えてくれているのだろうか?

「ねえ、琴姉。二月十八日、琴姉の誕生日の日のことなんだけど、覚えてる?」
「ん、なんだ? 何かあったのか?」

 やはり視線は膝元へ下ろしたまま琴乃は答えた。これはどうやら忘れてしまってるぽいな……。
 そう思った私は、二月十八日に起こってしまったあの事件について少しだけ話してあげることにした。


「わ……私が……、ナイフで……」

 単語帳を持つ手の力が緩みぱたりと閉じてしまった。目の前の琴乃は朝見た時のように再び顔を真っ青にしてしまった。

「うん。で、私が一応受け止めたんだけど……」
 そう言いながら、私は羽織っていたブレザーを脱いで背中の部分を琴乃に見せた。あとこいつにお世話になるのも数週間。そしてある意味私の勲章のようなものでもあるので、本音は少しだけ恥ずかしかったけれど私は今でもその裂け目ができたブレザーをそのままの状態で着ていたのだった。

「なっ……なっ……」

 その裂け目を見てがくがくと震え上がる琴乃。そして次の瞬間だった。椅子から転げ落ちるように床に座り、そしてそのまま頭を下げ始めた。

 ガタタッ!「百合絵! 本当に申し訳ない!」

「ちょっとちょっと……。もういいって。終わったことだし……」
 床に頭を擦り付けるかのように土下座を繰り返す琴乃の肩を軽くたたいて、何とかこちらの方を向いてもらった。しかし、落ち着きを取り戻したかと思った次の瞬間今度はさっと立ち上がり急いで走りだそうとした。

「終わってなどいない! 真妃は! 真妃は無事なのか⁉」
 ガタタッ! キュッ! タッタッタッタッ……。

 そう言い残して、琴乃は慌てた様子で教室を飛び出していった。

「ち、ちょっと! ……も~っ」

 目の前にぽつりと残された琴乃のお弁当を、私は一人呆然と眺めていた。

 まあでも、なんかいつもの琴姉に戻ったって感じ。一時期は絶交され、しまいには気が狂ったように襲いかかってきた琴姉。結局三月の終わりに絶交されちゃうのには変わりないけど、それでもやっぱり私にとって琴乃は必要な存在なのかもしれない。
 あっ、そういえば……。二年生の時、『彼氏の作り方』なんて変な本私にくれた理由……というか持っていた理由。そのわけ、なんとなくわかっちゃった気がする……。

 どうでもよい過去のことに思いを巡らせていた私だったが、ふと気づいてしまった。

「やばっ! そういえば真妃ちゃん、琴姉に長い間ひどい目に遭わされちゃってたから、突然琴姉が会いに行ったらまた怖がっちゃう!」

 ガタッ!
 衝動のまま立ち上がってB組の教室を飛び出すと、琴乃の後を追ってD組の教室の方へと勢いよく駆け出した。


 ダッ!「真妃っ!」
 開かれた3-Dの教室のドアから私は身を乗り出すや否や声をかけた。

 真妃ちゃんと綾子……、そして琴姉……。

 不安に駆られた私だったが、目の前の光景を目にした瞬間すぐにそれは消し去られた。

「えっ……」

 案外近くにいた。机の間の通路に土下座をして頭を床に何度もこすりつけている琴乃。そしてその近くには、クッキーを片手ににっこりとした表情のキャラメル色のショートヘアーの女子――真妃がいた。何やら少しだけ困惑気味になりながらも口の周りにはクッキーの食べかすをつけている。

「ああ、百合絵。きれいさっぱり……」
 真妃の隣の席に座っていた綾子は両手を軽く広げ、困った表情をしながら言った。

「おまけに、この前の金曜の二次試験もうまくいったみたいで。もーすっかり元気になっちゃって」
「そ……そうなんだ……」
「ねえねえ百合ちゃん。おねーさん、なんかうちに何度もごめんごめん言ってくるんだけど、何かあったのかな~?」
「あ……あー、それは」

「……百合絵、別に言わなくていいんじゃない? 変に怖がらせちゃってもまずいし」
「そ……そうだね……」

 真妃のあまりの豹変ぶりに困惑していた私は返す言葉が見つからず呆然と立ち尽くしていたが、綾子のささやきでうまい具合に取り繕うことにした。

「あー、別に大したことないと思うよ。琴姉勉強のし過ぎでおかしくなっちゃっただけ」
「そうなの……。ふ~ん。あっ、おねーさんもクッキー食べる~? おいしいよ」

 その瞬間、頭を上げ真妃の方へ視線を飛ばした琴乃を見て、私はささやきかけた。

「琴姉、真妃ちゃんには内緒ね。怖がらせちゃまずいから」
「……」

「真妃ちゃん、琴姉の心配なんていいから私にもちょうだいよ~」
「あっ、いいよ。百合ちゃんもどうぞ」
「わーい、ありがとーっ」

 ポリポリポリポリ……。

「あ~、結構渋いね~。何これ、カカオでも入ってるの?」
「そうかも。ふふふっ、ほんとはもっと甘いのがよかったんだけどな~。あっ、おね~さんもこっち見てる~」
「ぷっ! 琴姉ったら」
「はい。おひとつどうぞ」
「……」

 茶色いチョコチップクッキーを手に持ち、それを膝まづく琴乃に中腰で差し出す真妃。ある意味二度とないようなその貴重なシーンを写真に収めたい衝動にひどく駆られていたけれど、我慢して心の中だけにとどめておくことにした。

 ポリポリ……。

「どう?」
「……」

「うん? ちょっと苦かった?」
「ああ、真妃ちゃん大丈夫。琴姉シャイだから。おいしいときは何も言わないのよ」
「そっか~、うふふふっ」

 クッキーを口の中に含み両手の握りこぶしを床につきながら、琴乃は再び視線を落としてしまった。床が何やら点々と輝いているように見えたけど気にしないことにした。

 あ~あ、でもちょっと残念。この感じだと、私が真妃ちゃんのこと身を張って守ってあげたことも忘れちゃってるのか……。琴姉は少しだけ思い出してくれたかもしれないけど、できれば真妃ちゃんもな~。友達同士の内乱を身を挺して防いだ私。高校生活最後の武勇伝になると思ってたのにな……。

 少しだけ残念に思いながらも、目の前の三人を見た。真妃も綾子も、そして琴乃も、みんな少しは受験勉強から解放され、一年生の頃に感じたような懐かしい雰囲気をどことなく醸し出していた。

 まあいいや、小論文のネタとして思う存分利用させてもらったし。あー、それにしてもあの小論、我ながら本当にうまく書けたわー。答案コピーして持って帰りたいくらいだわ。
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