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二十二章 結ばれた

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「おはよう」
「あっ……おはよー」
 数週間経った。この日は珍しく琴乃が乗る電車を遅らせているみたいだった。私と琴乃は朝の電車の中で落ち合った。
「琴姉珍しいね~。いつももっと早い電車に乗ってるんでしょ。今日はどうしたの?」
「別になんでもねーよ。少し遅く起きただけ……。つーか外では琴姉って言うな」
「あーごめんごめん、すっかり……」
 珍しい。やっぱり琴乃でも寝坊することくらいはあるみたいだった。
 それにしても琴乃はいいよな~。普段からツンツンしてるから多少寝癖があっても目立たない……。
 琴乃の髪を見ながらそんなことを呆然と思っていた。
「ったく。それにしても百合絵もすっかり元気になったな。もういいのか、お守りと直通運転のこと?」
「うん! むしろそのおかげて舟渡くんとこうして結ばれたんだし。……うふふっ」
「ふーん……、そっか」
 すっかり私の心は晴れ渡っていた。私は今日も、あの赤とピンクのお守りをカバンの内ポケットに大切にしまい、埼京線と結ばれているこの相鉄線に乗っている。
 作り物、偽物なんかじゃない。私の心の底から啓介のことが好きなの! その気持ちに偽りなんてないもの!
「あっ! あの緑の電車……」ふと窓の外を見ると、向かい側のホームに緑色のストライプの電車が止まっていた。
「ああ、埼京線と川越線のE233系電車じゃん」
「えっ! 琴姉詳しいね~。いつから鉄ヲタになったの?」
「ちげーよ。おまえらんこといろいろ調べてるうちに覚えちまったんだよ! ったく」
「ふふふっ」
「こらっ! 笑うな!」

 今日も埼京線の電車は相鉄線を走っている。そして相鉄線の電車も埼京線を走っているのだろう。

「西谷、おはよう」
「あっ、舟渡くん! おはよーっ!」
「あっ、舟渡か。じゃあごゆっくり……」
「えーっ! 琴姉~行っちゃうの~?」
「まあ、いいじゃないか。寒川も授業前はいろいろ忙しいんだろう」
「んー……そっか、そだね。まあいいや。ねえねえ舟渡くん、実はね今日の六時間目の数Aの小テストの範囲でわかんないとこあって……。お願いっ!」
「えー今更……まあいっか、じゃあまた朝と昼休みに」
「うん!」
 恋愛に疎い啓介は私のことが大好きだと言ってくれた。そして同じく恋愛に疎い私も啓介のことが大好きだ。初めは異色の目で見られていたかもしれなかった互いの関係も、今ではもう日常の一つとなりつつあった。私は今日も啓介とつながっている。互いを行き来する直通運転の電車のように。
「おい、最近の相鉄はどうだ?」
「黙れカス!」
「ちぇっ! 冷てえやっちゃな~」
 琴乃と秦野がまたケンカしている。今日も琴乃はキレッキレだ。そして秦野も相変わらず懲りないようだ。今日も時刻表をパラパラさせながら、琴乃に何かと話しかけては文句ばかり言われている。
「あっ、今日も何か読んでる……」
席に座り、緋色に金の刺しゅうの入ったブックカバーをあしらえた本をめくりながら、反対の手ではシャーペンを持ち、ふわふわした茶色い髪の先をクルクルと巻き付けている。あれ以来、本当におとなしくなった。私に怒鳴りつけたり嫌がらせするどころか、話しかけることすらしなくなった。かといってガン無視されているわけでもなく、私が話しかけると普通におしゃべりしてくれる。的場は今日も本の世界にどっぷり浸かっているようだ。
「萌花~、おっすー!」
「あっ、亜海ちゃん。おはよー」
「今日は何?」
「あっ、これはねー、今はやりのミステリー小説なんだけどー……」
 甲高い声が響いた。なんと意外にも、あのうるさい声のホームルーム委員、宮原と的場は友達になっていた。いつの間になったのだろうか。声の大きさも見た目も性格も、全然似ていないはずなのに……。
「西谷、何ぼっとしてんだ? ほら、数学やるんだろ、早く用意して」
「あっ、ごめんごめん……」慌ててカバンをあさり教科書とノートを取り出す。
「あっ! あーあ……」
「ん? あー……それ数Ⅰのやつじゃん。はぁ~……。わかったよ、昼まで貸してやるから……」
「ごめん! ほんとありがとっ!」

 三学期になった今も、相変わらず私のドジっ子ぶりは健在だった。今日もまた一つやらかしてしまった。これもまた、いつもの日常の一風景なのかもしれない。


「ではこの(7)から(11)までの問題を……、えーと、じゃあ西谷っ……。おい! 西谷!」
「おい、呼ばれてるぞ……」
「わっ! ……はっ!」突然のことに飛び起きた。辺りからひそひそ声と笑い話が聞こえる。
「あ……、あー」
「はー……、じゃあ西谷は一番難しい(10)だ。解き終わったら前に来て書いてくれ」
「はーい……」
 あーあ、当てられちゃった……。しかも、一番難しい問題なんて……。頬杖を突きながら教科書とノートに向かった。
「あーあ……というか何これ、暗号? 全然わかんないんだけど……」


「さーて、お弁当~。お弁当~」
「百合絵、おまえほんと昼飯の時間は楽しそうだよな~」
「うん! だってお腹すいちゃったんだもん。……あっ! のりたまにチーズハンバーグ! そして山盛りポテトサラダにプチトマトが三つ。やったー! 琴姉は?」
「ほおお……そう来たか。それじゃ私は……、うっ……! サバの佃煮に鰹節、ほうれんそうのお浸しにだし巻き卵、そして梅干しご飯……、あーあ……」
「わ~っ、今日も地味ねー」
「はぁ~っ……、つぅーかこれ、全部昨日の残り物じゃねーか。あのババア……、くそっ!」
「琴姉……、どんまい」


 ガクブルガクブル……。
「な、何これ……」
 私は恐怖のあまり震えていた。その原因は目の前のものにあった。
「はい、点数の横に『再』と書いてある人は、明後日の昼休み、再テストを行いますので……」
「嘘だっ!」どこかのアニメのヒロインみたいにそう叫びたかった。だけどそれは現実だった。目の前に握られた紙きれ。その右上には絶望的な数字と『再』の文字が赤く刻まれていた。
「あああ……そんなぁ~」そのまま私は、午前中のように机に突っ伏し、寝込んでしまった。
 今日もまた、学校での私の日常はやっと終わりを迎えた。
「あーあ……やっちゃったなー。まっ、せいぜいがんばれよー」
「あー! うるさいうるさい! 言われなくてもわかってるわよ!」
 酷い琴乃だ。そう言ってはさっさとどこかへ行ってしまった。

「ああ~っ! 舟渡く~ん!」
「はははっ。まあ、そんなときもあるよ。逆に言うとそれだけ伸びしろがあるってことじゃない。いいチャンスじゃないか」
「さすが舟渡くん! やっぱり違うね~。今の言葉、誰かさんにそのままそっくり送り付けてやろうかな~」
「まあまあまあ……。でも西谷もしっかり勉強しなくちゃダメだぞ」
「はーい……」
「よし、じゃあ今日はどうする?」
「映画見たい?」
「ははは、わかったわかった。だけど……その前に明後日の再テストの対策してからだな」
「え~っ……ぷく~っ……」
「あーあ、西谷のために言ってやってんのになー……。じゃあ自力で」
「えっ……いやいやいやっ!」
「ははははっ、言うと思った。じゃあまた図書室な。あっ、ちゃんと映画には間に合うように終わらせるから。頑張ってくれたら……ポップコーンでもおごってあげようかな~?」
「わ~っ! やるやるっ! やりま~す!」

 餌につられた私は、放課後、啓介とのレクチャータイムを過ごした。だけどその後は、もっと楽しいスウィートタイムを過ごしたのだった。こんな時間がいつまでも続けばいいのに……。
 だけど、そんなのは平気だった。啓介との時間も、今の私にとっては日常の一つとなっていたからだ。
 大丈夫。今日はもうお別れかもしれないけど、また明日があるわっ! あ~、楽しみ~!


 この日もまた、夢のような時間はあっという間に過ぎていってしまった。だけど、そんな時間は次々と訪れた。私と啓介は学校終わりだけではなく、学校がない休日にも一緒に過ごしていた。特に土曜日の学校休みの日は最高だった。次の日の授業の心配をする必要もなく、そして、私の苦手な朝以外の昼から夜まで、彼と一日中一緒に過ごすことができたからだ。彼もまた、予備校通いで忙しかったけれど、それでもできるだけ私のために時間を空けてくれた。そして私たちは思う存分遊んだ。ショッピングに食べ歩き、カラオケに映画館、まあたまには啓介の希望で本屋さんや文房具屋さんにも行ったけど……。ニュースでは新型ウイルスが騒がれているこのころだったけれども、私と啓介は、二人だけの楽しい時間を気の向くままに過ごしていた。
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