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34 その少女、見送る 前編

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とても、とても静かな朝。
透き通る水色の空に、千切れた真白い雲がまばらに浮かんでいる。
寝癖のついた髪を少々強引に手櫛でほどきながら窓を開け、外の空気を吸い込む。
ぼんやりとした頭が少しずつすっきりとして、変わらない風景がより鮮明に視界に残る。
ふいに、コンコンと扉がノックされ、振り返ると使用人のマリアンヌがいつもの姿勢でお辞儀をするところだった。
「おはようございます、エレナ様」
「おはよう、マリアンヌ」
私が目覚める時間にぴったり合わせて部屋を訪問してくれる彼女。そそくさとコルセットやドレスを用意する。
「さて、本日のお召し物は…」
「昨日も言ったけれど、もう私、コルセットくらい一人で身に付けれられるようになったのよ」
「ええ、ええ。ご不在の間、習得されたのでしたね。ですが、まだまだシルエットが美しくはございませんよ。どうぞ、私の仕事をさせていただけますか」
そう言ってマリアンヌは、手を止めることなく私の身支度を進めてくれた。
ずっと当たり前のことだと思っていたけれど、家を離れた期間で私の感覚は変わってしまったようだ。それでも、マリアンヌの着付けや所作はまだまだ見習うことがあるし、せっかくならその手際を真似できるようになりたいと思い、鏡に映るその手の動きを注視する。
そんな視線はまったく気にならないのか、マリアンヌの作業は滞りなく進み…つまり、私の見た目はすいすいと整えられていった。
一通り着替えが終わってから、マリアンヌが言う。
「さあ、今日は、出発の日でございますね」
「…ええ」
そう。今日が、その日。

朝食を済ませに食堂に向かう。ふと、廊下の窓ガラスに映る自分の顔は、ごく見慣れた、どこか冷めたような目つきをしている。一連の出来事を経て、自分のことながら、ずいぶんと感情表現が豊かになったと思うのだけど。
私とリッドがサザントリアに到着した…つまりデイビットが現れたあの日から5日が経った。
こうして朝を迎えるたび、考えていることがある。
この騒ぎは、どこからが始まりだったのだろう。
デイビットが破談を計画した時から?
私が良縁を求めた時から?
お父様に連れられて、あの日のパーティーに出席した時から?
お父様とお母様が結ばれた時から?
誰かを飲み込むほどの感情の渦は、いつ、どこで生まれたのだろう?
答えの出ない疑問は、あれから毎日脳裏を踊り…これからも思い浮かべることになるのだろうか。
正直言って、私は当事者でありながら事態をいちばん把握できていなかったのだけれど。
ミリアが戦ってくれたこと、アーサーが守ってくれたこと、リッドが追いかけてくれたこと…その行動の一つ一つに、感謝してもしきれない。
そして、ロバート殿下が駆けつけてくれただなんて、本当に驚いたわ。
私とリッド、ミリア、アーサーが庭に着くころには、デイビットはあっけなく拘束されていて、そのまま私兵とともに大公領に連れ戻されることになった。
「我が弟が途轍もない迷惑をお掛けしたこと、誠に申し訳ない」
ロバート殿下が跪き、私たちに向かって深々と頭を下げられたあの時。私たちはお礼を言うことしかできなかったけれど、ロバート殿下は小さく首をふり、言葉を続けた。
「この件に関しての正式なお詫びは、改めてこちらより提示させていただく。少々期間をいただくことになるとは思うが、まずは弟の心の内を、しっかりと聞かねばならない」
そして殿下は、リッドの方を見る。
「リカルド。怪我は大丈夫か」
「ああ、心配ないって」
「…そうか。落ち着いたなら、戻ってくるといい。父には話をつけておく。また、セナーで会おう」
「…」
リッドは答えない。でも、返事のないその様子に何故か殿下は薄く微笑んだ後、移動の号令をかけたのだった。

「おはよう、お姉様!」
「おはようミリア」
食堂に入ると、すでにミリアが席についていた。
私が家を出る前から変わらない、朗らかな笑顔とキラキラとした瞳。
ああ、ミリアはミリアのままであったのに、どうして私はあの時、この子の前から走り去ってしまったのか。
「ごめんなさい、ミリア、あの時…」
「ちょ、ちょっと待ってエレナ、またその話? 大丈夫、もう大丈夫なの!」
慌てる妹の姿を見て、自然と顔がほころぶ。
「そんな楽しそうな顔しないでよ…わざと言ってるの?」
「ふふ、ごめんなさい」
こうして席について一緒にパンを食べられるのは、やっぱり特別なことなのね。
二人きりの食事、ほかに姿はない。お父様は今日も部屋で過ごすのだろう。後であいさつに行かなくてはね。
「お姉様、以前よりもよく笑うようになったわね」
「…そうかしら?」
「ええ、自然な笑顔、って言えばいいのかな、そんな気がする。お姉様の雰囲気が変わって、お父様も喜んでいたわ」
「あら、そうなの」
あの日、使用人やマリアンヌから話を聞き、病をおして立ち上がってくれたお父様。テベリ伯父様とどんな話をしたのか、詳細について私たちは聞いていない。でも、伯父の本当の思いとして心に潜むもの、そしてその行動について、父が何かしらの拒絶を示したのは事実だ。それはもちろん、私も。
伯父は私たちの方を振り返ることなく、黙って馬車に乗り込み領地へ帰っていった。
私はあの部屋の伯父の様子をあまり覚えていないけれど、甲高い笑い声と楽しいお話で周りの気分をいつも明るく盛り上げてくれた伯父は、もういないのかもしれない。
でも親族として、同じランバート家の一員として、またいつか向かい合い、お話をできる日が来ると信じている。
「ほら、お姉様。早く食べ終わらないと。リッドが出発してしまうんじゃない?」
ミリアの言葉に、はっと我に帰る。そうだ、早く行かなくては。
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