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理想と現実

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「加えて厳しいこと言うけど、大卒で社会人を挟んだっちゅことはもう25歳前後やろ? もう普通の俳優事務所はお呼びでない。そないな歳で俳優として新規に所属できる事務所は弱小か地雷かのどっちかやで」

 絶句という他ない。福松は魔法をかけられたように固まっていた。ゴルフボールのようなものを無理矢理飲み込んでいるような苦しさが胸を通り、胃に落ちていくような感覚があった。

 話を戻そか。荏原はそう切り出しては、続きを話し始めた。

「言った通り、全国配信の映像作品のクレジットに載ろう思うたらその三本柱の一つになるしかない。けど三つのうち二つはもうどうにもならんやろ? なら残されているのは?」
「『他のジャンルで成功する』…」
「せや。その上で今後を見越して芸能界に小指の先でも引っ掛かっていよ思うたら、『お笑い』しかない。そのくらい間口が広いんや。コネもない、金もない、顔もよくない、年齢も足りない、何もも持っていない。いわゆる一般人が芸能界で戦お思うたら、現状はお笑いがベスト。しかも他のジャンルと違って、お笑いはできないや持っていないを逆に強みにできたりもするからな……それに実際にやってみたら分かると思うがお笑いはな、役者の視点で考えると相当いい訓練になる。台本を自分で作って、構成と見せ方を自分で考えて、当然自分が出演する。脚本、演出、役者の三つをせなアカンからな。その上で高々二、三分でお客さんを自分らの世界に引き込まなイカン。そう聞いたらどや? お笑いは役者をやるに当たってメリットしかないと思えてこんか?」

 凄腕のセールスマン、もしくは敏腕詐欺師よろしく荏原は福松にこんこんとアドバイスをする。

 この人の言うことも尤もかもしれない。そんな考えが過ったとき、荏原はまたしても不可解な見解を述べた。

「できれば相方を見つけてコンビを組めると最高やな。しかも相手も役者に興味があったりすればなおいい」
「その上でコントをやって役者の強みを活かすと?」

 いや…違う。

 福松の言葉はとことん打ち消されてしまう日のようだった。

「ピンやったらコントでもいいが、コンビを組めたんなら漫才をすべきや」
「へ? 漫才ですか?」
「せや」
「どういう訳で?」
「コントは芝居で笑いを取ってるように見えるがその実、展開かもしくはキャラで笑いを取るのが主流や。展開はつまりは大喜利の事。『こんなコンビニ店員は嫌だ』の答えを連発していくようなもので、芝居とは別の神経を使う。もちろん、この神経も大事やけど」
「今言ったキャラを作るのは芝居ではないんですか?」
「そのキャラ芸が曲者や。アレは芝居というよりも誇張やデフォルメを多用した新しい人格の形成に近い。しかもそのコントをやるために生まれたもんやから、笑い取ることに特化している。その裏側が空っぽや。悲しみもないし、怒りもない。全てはコントの展開次第の存在でしかない。それが悪いことやないけど、役者の視点からみたら台詞を喋るだけのゾンビと変わらん。意図的にオンオフができればええけど、もしそれに慣れてしもうたら芝居の本質を忘れることにもなりかねん。だから初めの頃は勧めんな」
「けれど漫才は…芝居ではないでしょう?」

 福松がそういうと、荏原は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑ったのだ。

「そう思うやろ? 役者の視点を持っていない芸人もみな同じように思うとるよ。コントは芝居の範疇やけど、漫才は違うてな。けど断言する。漫才は芝居や。しかも世にも珍しい『本人役での芝居』なんや、アレは」
「本人役の芝居…?」
「そう。もちろん、コントに入らずに行うしゃべくり漫才においての話やけどな。漫才を含めてネタちゅうもんには台本がある、それは演劇と一緒や。そしてコントや芝居には登場人物がいる。けど漫才いうのは登場人物が他でもない自分という点のが他と一線を画す。そもそもとして人前に立つという行為を行うとき、人間は無意識的に芝居をするもんやろ。ミスをしたくない、格好よく見られたい、評価されたいとかいう思惑があるからな。そういう思惑を見られるのは基本的には忌避したがるのが普通や。その時に手っ取り早いのはキャラや登場人物になりきってしまうこと。今舞台にいるのは自分やけど自分やない。だから恥を掻いても平気っちゅう論法やな。けどしゃべくり漫才は基本的にその手が使えん。他人を演じるという逃げ道を封じた結果、自然体な演技や素の感情を乗せた芝居の特訓に打ってつけになる。それに加えて漫才でもコントでもお笑い芸人は芝居をする上で高度かつ、最も大切なことの一つを無意識的にやってる。分かるか?」

 そう聞かれた福松は短く首を横に降った。「はい」とか「いいえ」を言う余裕すら無くなってきていたのだ。

「それはな、相手の言動を始めて見たっちゅうリアクションや。完全アドリブでない限り、ネタには台本があってそれを反復練習する。当然、相手がいつ、どこで、何を言うかはお互いに分かっている訳や。けどテレビに映るような芸人でそれを感じさせる人がおるか? おらんやろ? それだけやりとりを自然体もしくはその世界観にあった形で表現できる技法が身に付いてんねん」
「でも、芝居の下手な芸人さんとかもいるじゃないですか」
「もちろん、みんながみんな上手くいくとは限らん。だって芸人は普段役者の目線てなモン持ったらへん。意識的に訓練したわけやないから、芝居の畑に違うと勝手に苦手意識を持ってしまう奴も多い。けどな、さっきも言った通り脚本、演出、演者をやっているが大半やからその時点でそんじょそこらの役者よりも上等や。要するに役者目指して芸人をするんが、一番効率的やっちゅことやね」
「けれど…芸人で売れるのだって簡単なことじゃないでしょう」
「それはそうやな。けど、お笑いを取っ掛かりにするんやったら別に名だたる賞レースで結果を残したりする必要は薄い。ドカンと名前と顔が売れるんは確かやけど、目指すところはそことちゃうやろ? 同じく無名からスタートしたとして芸人と役者とではチャンスや特典が違いすぎる。正味な話、役者は役者しかでけへんけど、芸人はお笑いと役者の両立ができる」
「それはそうかもしれませんけど…」
「あ、アカン。俺も時間や」

 不意に時計を見た荏原は慌てたような声を出す。そしてそそくさと一人で帰り支度をし始めたのだった。もう少し話を聞きたいような、これ以上はいいような気分の中で福松は押し黙ってしまっていた。

 伝票を持ち立ち上がると、初対面の時と同じような軽快でフレンドリーな顔と声に戻っている。

「何はともかく今日は財布拾うてくれてありがとな」
「い、いえ。こちらこそ、ありがとうございます」
「支払いは任せてや。縁があったらまた会お。ほんでもって売れたら『シュライン』の荏原に奢ってもらったことがあるんですとかテレビで言うてな」

 福松も急いで立ち上がって丁寧なお辞儀をした。それを見た荏原は福松の肩をポンっと叩き、最後の最後にもう一言を付け加えてきた。

「今日の話はひょんな事から出会った後輩に向けてのアドバイスや。真に受けてもいいし、聞き流してもかまへん。ただ嘘を言うたつもりはこれっぽっちもない」
「…はい」


「真面目に芝居の勉強している横を、芝居のしの字も知らん連中が通り抜けていくんは中々しんどいで」


 荏原はそうして話を結んだ。どんな金言よりもそれは胸に刺さった。いや印象としては心に粘りついたといった方が適切かもしれない。荏原本人の言う通り、決して嘘偽りのない話であったのだろうけど、その最後の言葉には一番の気持ちが込められていた気がしたのだ。

 そうして荏原が見えなくなるまで見送った福松は、やがてドサリと椅子に座り直した。特に意識をしなくても今の会話の内容がぐるぐると縦横無尽に頭の中を駆け巡っていく。

 夢心地の最中、現実に頬を叩かれたような気分だ。

どれほどの時間、物思いに耽っていたのかは分からない。福松はチューハイのグラスの氷がカランっと音を立てた事でハッと意識を取り戻す。

風呂上がりの酒と荏原の話でもう足取りは覚束なかった。

売店でミネラルウォーターを買い、一気にそれを呷る。しかしそれでも陰鬱な興奮静まることはない。

外に出た福松は自転車を押しながら帰路へと着く。手押しにしているのは酔っているからではない。何となくたっぷりと時間をかけてから家に帰りたい気分だったのだ。
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