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第二章 岩馬

抑えがたき渇き

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 これは何年も続いている、いつものやり取りだ。しかし何も知らない朱は見事に置いてけ堀を喰らっている。


「で? この美人さんはどなた?」

「あ、朱と申します。円殿の家に御厄介になっています」

「あーはいはい。そういや最近賑やかになってるって聞いてたよー。良かったね、男やもめに花が咲いて」

「まあね」

「それよりもウチに来てくれたってことは、ワインが好きなのかい?」

「ええ、まあ。西洋の酒に興味を持ちまして…『わいん』というのは飲んだことはないのですが」

「それはいけない。すぐにでも飲んでもらわないとね!」


 もう渋いマスターというキャラ造りは放棄したシュウジさんが、熱心にワインの布教をし始めようとした。が、ここから先は話が長くなるので制止した。ウイスキーマニアとして、ワインマニアの気持ちはよく分かるが、朱は理屈よりも体験した方が遥かに理解を示してくれる奴だ。

 そう上手いこと説明して、まずはワインを飲んでもらう。


「これは…どうやって持てば?」


 ワイングラスなど見た事もない朱は戸惑いを隠せない。両手があたふたしながらグラスの周りを上下している。


「とりあえず、オレの真似をしてみな。口にちょっと含むだけでいいから」


 いつかどこかで聞きかじった作法を教えても良かったのだが、下手な事をして恥をかきたくなかったから普通に持って飲んだ。ウイスキーのことなら色々と蘊蓄も語れるが、ワインは正直言って門外漢だ。

 それでも一介の酒好きとして、良い白ワインだという事は分かる。


「飲み込んだら一回、鼻で呼吸してこの酒の香りを堪能するんだ」


 朱は素直にオレの言う事を聞いて、それを実行した。

 すぐに「ほぅ」と艶めかしい息遣いが聞こえてきた。店の薄暗い照明もあって、小娘にしては中々色っぽく見えてしまう。普段の戒律的なコイツ知っているからこそのギャップもあったのかも知れない。


「これは、何とも…渋いのに甘く爽やかで不思議な酒だ。それに匂いも強いな」

「気に入ってもらえましたか?」

「うむ。中々にうまい」

「そいつはよかった。それとこちらもどうぞ」


 シュウジさんは肴にと、また別の小皿を用意してくれた。その上に乗っていたのは…。


「これは…沢庵か?」

「ご名答」

「しかし何やら普通とは違うような」

「おや? 『いぶりがっこ』はご存知でない」


 朱は正に初めて聞いたというような顔で頷いた。オレはよく知っているものなのでシュウジさんの説明を待たずに、自分に差し出されたそれをパリパリとワインのアテにし始める。


「がっこは北の方言で沢庵の事。燻した沢庵だからいぶりがっこです。まあまずは一口」


 朱は小さなフォークで胆振ガッコを差すと思い切りよく一口で食べた。ぽりぽりと小気味よい音がオレの耳にも届く。そして促されるままに白ワインを傾ける。

 それは先程よりも豊かな表情になっていた。意外な食べ合わせの美味さについ綻んだと言わんばかりの微笑みだ。余韻を楽しむ前に更にもう一口ワインを飲んだのは、コイツがワインに嵌った証拠だろう。


「ふふふ。いけるだろう?」

「素晴らしいの一言だ。おかしいな、私はこれほど酒は受け付けないと思っていたのに…」


 その言葉にオレは追い打ちをかけるつもりで言った。


「なら次は赤を貰おう」


 シュウジさんはニカッと笑って、すぐに新しいグラスに赤ワインを注ぎ始めた。栓を開けたばかりのボトルは実に美味しそうな音を立てて空気を食んでいる。


「これもワインなのか?」

「ああ。大きく分けて赤ワインと白ワインがあるんだ。こっちはこっちでまた美味い」

「ふむ」


 白ワインのおかげで大分抵抗が取れたのか、特に勧められなくても自分からグラスを持った。けども白ワインの頭で飲むと少し驚くかも…と思っていたら「おぉ」という絵に描いたような感嘆符が飛び出してきた。


「こちらは渋みが凄いな。一瞬、咽るかと思った。だが…」

「だが?」

「舌に残る酒精と香りが後を引く。これはこれでやはり美味い」


 そんなレポートを聞いたオレとシュウジさんは目を丸くして、そしてすぐにクツクツと笑い出した。


「円さん。この子、いいね」

「だろ?」


 オレは半端に残っていた白ワインを飲み干すと、朱と同じワインを貰った。シュウジさんは余程うれしかったのか、「僕も頂いちゃうよ」と言って自分の分まで用意した。

 が、気持ちはよく分かる。オレだって初見の客が店でウイスキーを気に入ってくれたなら三日は上機嫌だ。それほど巳坂、延いては天獄屋では洋酒の知名度が低すぎる。


「あんまり嬉しいからとっておきのを出しちゃおう」


 シュウジさんはそう言ってまた別の肴を取り出した。今度のはオレも何が出されたのかわからなかった。パッと見はチーズみたいだけど…。


「これは?」

「ふふふ。これはね…牛乳を加工して作った酪って食べ物なんですが、普通の酪じゃない。天道牛の乳から作った『極酪』って一級品です。一口齧ってからワインを飲んでみてください」


 そう言われても、得体の知れない食べ物をおいそれと口に運ぶ訳にはいかない。オレと朱は一度顔を見合わせた後、皿を持ってまずは極酪とやらの匂いを嗅いだ。

 その刹那。鼻にアッパーを喰らったようにのけ反った。


「これはまた…強烈だな」


 ウォッシュチーズやブルーチーズのような強烈な、それでいてそれらとはまたタイプの違うチーズ臭が鼻孔にこびりついてきた。オレはそういう食べ物があると知っているし、食べた事もあるから体制という意味では持っていたが、朱に至っては未だに咽かえっていた。オレは咄嗟に背中を擦ったり、軽く叩いてやったりしてやった。


「これは食べられるのか?」

「もちろんですよ」


 シュウジさんはカットされた極酪を一つ抓むと口に放り込み、すぐに赤ワインを追い付かせた。途端に至福と言わんばかりの表情になり、「くぅぅぅ」とくぐもった声を出してくる。

 正直言うと、オレは期待をしていた。

 くさや、鮒寿司、臭豆腐などなど、匂いのきついモノは総じて旨味も強いと相場が決まっている。酪とは言えども要するにこれはチーズという事だ、ワインに合わないはずがない。

 てっきり朱は躊躇うかと思っていた。しかしその思い切りは普段の気風の良さから垣間見える通りで、サイコロ状の極酪を口の中に放り込んでいた。

 オレも続いてそれを頬張る。口中には少し固めのカマンベールチーズを食べた時のような感触があった。その味と香りが広がる前に、オレと朱はワイングラスを傾けていた。何となくすぐにワインを飲むべきだと勘が働いたのだ。

 ゴクリ。

 と揃って喉を鳴らす音が店の中に響いた。ついで、ようやく鼻の中に空気を通し極楽とそれにコーティングしたワインの香りを利いた。

 時間が止まった、もしくは急に耳が聞こえなくなったのかと思った。

 オレも朱もあまりの美味さと香りの芳醇さに言葉を失っていた。まかりなりも巳坂に住まう酒飲みとして良い酒を飲む事とそれに見合った肴を揃えることにはこだわりを持ってやってきた。それでもまだまだ知らない食べ物と食い合わせがあるもんだなと感動すら覚えてしまった。こういう出会いがあるから、やはり酒はやめられないのだ。
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