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第二章 岩馬

合鍵

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 朱さんから見ても、僕から見ても完璧なタイミングだった。しかし、円さんには届いてすらいない。まるで六尺棒が円さんの体をすり抜けてしまったかのような錯覚を覚えた。傍から見ていた僕でさえも戸惑いを感じたのだから実際に相手をしている朱さんの衝撃はそれ以上のものだっただろう。現に体勢が少しふらついている。


 その隙を円さんが見逃すはずもなく、一瞬のうちに攻守が入れ替わった。朱さんも中々どうして捌きが上手く、二、三手防御に転じたもののすぐに攻めに戻ろうと距離を取ろうしている。


  だが、円さんがそれを許さない。


 六尺棒を思いきり振り回せない程にべったりとくっついて離れない。両腕は蛇のように朱さんの手と棒とに絡みつき、翻弄されている。とうとう朱さんは六尺棒を諦め、それを投げ捨てると徒手での応戦に切り替えた。


 朱さんの手が伸びたその瞬間。彼女は地面に突っ伏していた。


 六尺棒を離した刹那、円さんの足払いが見事に決まったのを僕は辛うじて理解できた。


 朱さんは胸ぐらを掴まれ、もう片方の手では玄さんの反撃を阻止するかのように両袖を押さえられている。一呼吸のあと、自分の状況をようやく整理できた朱さんは漏らすように言った。


「…まいった」


 その声をきっかけに円さんは立ち上がり、朱さんを助け起こした。


「なるほどね。長物が得意ってのはよくわかる」


 円さんのそんな言葉はまるで届いていない。半ば放心状態であった朱さんは、ただただじっと円さんの事を見ているばかりである。


 僕は呆けている朱さんに変わって、六尺棒を片付け円さんを見据えた。


「次、お願いします」

「ああ」


 懐から一枚の手拭いを取り出し、それを被る。


「その手拭いは・・・」


 俺の被った手拭いが母から譲り受けたものだと、円さんは気が付いた様子だ。母上もかつての錬金術の師が使っていた形見だと言っていた。ともすれば円さんが知っていても何ら不思議はない。


 自分でもびっくりするほどの妖気が出てくる。ただの手拭いじゃない事は分かっていたが、想像以上の代物らしらかった。その高揚感につい抑えきれない笑みがこぼれる。


「本気で行きますから」

「おう。思いきり来い」


 言うが早いか、力任せに飛び掛かり円さんの左こめかみを目掛けて蹴りを入れる。あえなく防がれてしまったが、朱さんと違い、避けるのではなく手で防がせたという点で一先ずの手ごたえを感じた。


 すかさず身を屈め、体躯の差を活かして足元に集中的に攻撃を加える。けれどもそれは、氷の上を滑っているかのような妙なステップで悉く躱され、折角詰めた距離を空けられてしまう。


 急ぎ円さんを追い、オレも足を止めずに拳を繰り出す。だが俺の手に円さんを捕らえた感触が伝わってくる事はない。一撃目の蹴り以降、服の端さえ掴ませてくれない。爪を立て、隠していた先が割れて二本になった尾も使い文字通りの猛攻を仕掛ける。いつの間にか俺の目的は勝つことではなく、円さんに少しでもいいから触れることに切り替わっていた。それほどまでに俺の攻撃の全てを見切られていたのだ。


 それでもついに円さんに触れることは叶わず、なりふり構わずにいた俺の方がガス欠になってしまった。


 こっちは肩で息をしているって言うのに、円さんは涼し気に構えを解いた。


「この辺で終わっとくか」


 まだまだ、と言いかけたところで俺は自分の膝が震えている事に気が付く。手拭いの持っている霊力がデカすぎて、受け皿の俺の体力がいつも以上に擦り減っているようだった。


 自滅した分、見た目の疲労困憊感は朱さんの何倍もあるように見えていた。


 朱さんに水を分けてもらい、揃ってへたり込み円さんの寸評を聞きながら先の稽古の内容を頭の中で反復する。


 それからは合間の休憩を挟みながら、一対一の組み手が小一時間ほど続いた。


 大方の稽古が終わり、一息つく段になったところで俺は一つ提案を出した。


「なあ、円さん。さっきのステンレスの玉を使って錬金術の特訓したいんだ。貸しくてないか」

「なら姉上にも」

「いや、それは駄目だ」


 間髪入れずに円さんはこちらの提案を拒んだ。こっちとしてはまさか断られるとは思っていなかったので、少し面食らってしまう。


「なんで?」


 円さんは俺がそんな軽く聞いてしまったのを後悔するくらい、鋭い顔つきになって返事をしてきた。


「今日の最後に錬金術の修行で一番重要な事を教えておく。さっきも言ったが錬金術師は秘匿性を何よりも重んじる。技術も理論もおいそれと教えたりしないのは当然として、見せることも控えなけりゃならない。こっそりと訓練しようが、どこに目と耳がくっついているのかわからんのが天獄屋というところなんだ。だから今後一切、この部屋以外での錬金術の稽古を禁止する。破れば勿論、破門だ」


 俺も隣にいた朱さんも思わず息を飲んだ。いつの間にか揃って正座に居直って、恭しく答える。


「・・・わかった」

「承知した」

「けど、折角の向上心を損ないたくもない。そこでだ」


 そう言って円さんは一本の金属製の鍵をポケットから取り出した。錆びている訳ではないが、全体的に煤けていてかなり古い物のようだった。


 そして今度は俺の掌の上にその鍵を乗せた。意図が全く分からずあたふたしていると、じっとしていろと喝を入れられた。


「で、朱がその上に掌をくっ付けてみな」


 言われるがまま朱さんは、俺の右手の上に左手を乗せてきた。


 すると途端に手の内が淡く光り出し、一瞬だけ熱くなったかと思うと鍵の感触がなくなってしまった。手を離してみると、やはり鍵だけが綺麗さっぱり消えてなくなっていた。


 朱さんと共に戸惑っていると、円さんはもう一度同じように手を重ね合わせるように言った。言われるがままにそうしてみると、さっきと同じように手の内が光り出し、鍵の感触が戻っていた。


「合い鍵はこれ一本のみ。そして鍵は環と玄が揃わないと取り出せなくなった」


 なるほど。仕組みはよく分からないが、こうしておくことで各々が鍵を持つよりもよっぽど安全で秘匿性が保てるわけだ。


「修行なら揃ってやった方が良い。朱も朝の訓練は今後ここを使え、どうせ環も付き合うつもりだろ?」

「…まあな」


 どうやらこっちの考えはお見通しらしかった。尤も願ったり叶ったりの提案なので首を横には降らなかった。
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