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第一章 巳坂
衝立越しの酒
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◆
飲み仲間が訪ねてくるのは別段珍しいことではないが、今日の相手はかなり久々の珍客だ。俺は、雑多に散らかる本や紙の束を隅に寄せて重ねたのを、一先ず部屋を片付けたと言い張ることにする。
対面するように膳を置くと、その間に衝立障子を立ててそれを遮る。サシで飲むには奇妙な配置だが、景は人間に姿を見られることを良しとしないので仕方がない。
極端に明るいのも苦手なので、部屋の照明は専ら蝋燭頼みだ。
部屋の外にいる景に支度が整ったことを伝えると、目をつぶる様に言われた。言われるがままに目を閉じて合図するとすぐに部屋の戸が開き、何かが入ってきた気配を感じた。
子供の頃にちょっとしたきっかけで一度だけ姿を見たのを最後に、俺は景の顔はおろか服の端さえも見たことがない。聞けばかなりの美女になっているらしいから、見てみたい気持ちは強いのだが目を開けたりはしない。
決して見られたくないのにも関わらず、目をつぶっただけで前を通り、衝立一枚で隔てたくらいで現れてくれるのは、景の信頼の表れだ。それを裏切りたくはない。
「相変わらずの部屋ね」
やがて着座した合図とばかりに憎まれ口を叩く。
いや、普段の物言いと比べれてしまえば憎まれ口にすらなっていない。
目を開くと障子には、奥の蝋燭の明かりに灯されてぼんやりと影だけが浮かぶ景の姿がある。
「これでも片付けた方なんだけどな。なに飲む?」
聞かずとも何を飲むかは見当がついているのだが、一応は尋ねてみる。
「ウイスキーのいいやつ」
「飲み方は?」
「水割り。黒清水ある?」
「あるよ」
「なら『トーメント』だったかしら? それの黒清水割りを頂戴」
案の定の注文だったので、手際よくそれを準備する。『トーメント』は世界一黒いウイスキーと呼ばれている。熟成させる樽の内部を焼き焦がして作るので、完成する頃にはコーヒーのような見た目になる。
そして、ご所望の黒清水は『斜酉』に湧く水で、名前の通り真っ黒な水だ。人間が呑んでもただの水と差異はないが、妖怪にとってはかなり美味らしい。
その二つを合わせるものだから、グラスは黒よりも黒い液体で満たされる。傍目には墨汁を注いでいるように見えてもおかしくない。
衝立の向こう側に、顔を覗かせないように気を付けてグラスを置いた。
俺も素直にトーメントの水割りを造る。
向こう側からは小さく、頂きます、と声が聞こえた。
「で、今日はわざわざどうしたんだ?」
「日頃、何かと世話になってるからね」
「うん?」
いつになく殊勝な声で殊勝なことを言ってくるので、少々戸惑ってしまう。
「一つ陰口を言いに来たわ」
陰口、という言葉に俺は反応した。
巳縞家で御用預役をこなしている景は仕事柄、さまざまな情報を得る。時たまそれを酒の肴にしたりするのだが、『陰口』と改まって言う時は外部に漏らせなかったり、ある者にとってはかなりの不利益を被ることになってしまう話が多いからだ。
「鈴様と深角様がまた良からぬことを考えているわ」
「いつものことじゃねぇか」
「明日、また呼び出しがあるとは思うけど…」
どうも今日の景は思いきりが悪い。
そして、そう思っていたのは俺だけではないらしかった。
「ああもう、どうして歯切れが悪くなるのかしら」
「いいさ、こっちのことは気にすんな」
「…月子が来るわ」
「え?」
ぼんやりとした声音だったがはっきりと聞こえた。
俺が聞き返したのは…聞き返してしまったのは、想定の範囲外で一番意外な奴の名前だったからだ。
呆気にとられる俺を気遣っているのか、そうでないのかはわからないが景はよりきっとした口調で詳細を教えてくれた。
「鍋島月子が明日、巳坂に来ることになってるの。確実な事は言えないけれど深角様のことだから、あなたと鉢合わせにさせて楽しむでしょうね」
「何であいつが巳坂に来る必要があるんだ?」
「今、店にいる環の名前でピンと来なかった?」
「…いや」
「あの子の家名は鍋島……月子の子よ」
「っ」
間があった。
十秒もない程の間だったが、思考の糸のうねりは瞬く間に収束してある結論を導き出す。
深角の考えであることは安易に想像がつく。人の傷口に塩を塗り、こちらの反感をわざと買うのはあいつの常套手段だ。それこそが深角の妖怪たる所以であり性質なのだ。が、分かっていても付き合わされる方はそれはそれで癪に障る。
「…なるほどね。妙に話をトントン進めると思っていたら、そういうことか」
「そういうことよ」
「ふうん」
思えば鈴も乗り気だった。どういう思案があるのかまでは考えつかない。深角と違い、鈴は単純に遊んでいるだけかも知れないが。
「全く・・・円もあの性悪たちに偶には言ってやったらどう?」
「おいおい。仮にも巳坂の当主さまたちだぜ?」
俺はごくりと喉を鳴らしてウイスキーを飲んだ。
「今日は、とことん付き合うわよ?」
自覚はなかったが、大分落ち込んでしまっていたようだ。
景は普段からは想像もできないほど優しく接してくれている。いや、元々表に出さないだけで、俺に対しては十分配慮してくれている奴なのだが。
「マジで? そっち見てもいい?」
「それは嫌」
「ですよねー」
勢いで行けるかと思ったが、見事に一蹴された。
俺は一息、深呼吸をした。
その息と一緒に、色々なモノが身体から抜け出た様になり、景には悪いがサシ飲みの気分はすっかり失せてしまっていた。
その雰囲気は衝立を簡単に乗り越えて伝わってしまったようだった。
「もういいの?」
「有難いけど、何でかな…気分にならないんだ」
「そう」
「景はどうする? 店で飲み直すか?」
「いいえ、円が仕事に戻るなら私も戻るわ」
「分かった。取りあえずありがとな。知らないより知ってる方がいくらか気が軽い」
「…なら良かったわ」
話にケリがつくと、俺は景を部屋に残して店へ戻っていった。
強がりだということはばれているだろうか。
歩けば歩くほど鬱屈した気で充満しそうだ。景との飲みは断ったが、さっきにも増して酒を飲みたい気分だった。
飲み仲間が訪ねてくるのは別段珍しいことではないが、今日の相手はかなり久々の珍客だ。俺は、雑多に散らかる本や紙の束を隅に寄せて重ねたのを、一先ず部屋を片付けたと言い張ることにする。
対面するように膳を置くと、その間に衝立障子を立ててそれを遮る。サシで飲むには奇妙な配置だが、景は人間に姿を見られることを良しとしないので仕方がない。
極端に明るいのも苦手なので、部屋の照明は専ら蝋燭頼みだ。
部屋の外にいる景に支度が整ったことを伝えると、目をつぶる様に言われた。言われるがままに目を閉じて合図するとすぐに部屋の戸が開き、何かが入ってきた気配を感じた。
子供の頃にちょっとしたきっかけで一度だけ姿を見たのを最後に、俺は景の顔はおろか服の端さえも見たことがない。聞けばかなりの美女になっているらしいから、見てみたい気持ちは強いのだが目を開けたりはしない。
決して見られたくないのにも関わらず、目をつぶっただけで前を通り、衝立一枚で隔てたくらいで現れてくれるのは、景の信頼の表れだ。それを裏切りたくはない。
「相変わらずの部屋ね」
やがて着座した合図とばかりに憎まれ口を叩く。
いや、普段の物言いと比べれてしまえば憎まれ口にすらなっていない。
目を開くと障子には、奥の蝋燭の明かりに灯されてぼんやりと影だけが浮かぶ景の姿がある。
「これでも片付けた方なんだけどな。なに飲む?」
聞かずとも何を飲むかは見当がついているのだが、一応は尋ねてみる。
「ウイスキーのいいやつ」
「飲み方は?」
「水割り。黒清水ある?」
「あるよ」
「なら『トーメント』だったかしら? それの黒清水割りを頂戴」
案の定の注文だったので、手際よくそれを準備する。『トーメント』は世界一黒いウイスキーと呼ばれている。熟成させる樽の内部を焼き焦がして作るので、完成する頃にはコーヒーのような見た目になる。
そして、ご所望の黒清水は『斜酉』に湧く水で、名前の通り真っ黒な水だ。人間が呑んでもただの水と差異はないが、妖怪にとってはかなり美味らしい。
その二つを合わせるものだから、グラスは黒よりも黒い液体で満たされる。傍目には墨汁を注いでいるように見えてもおかしくない。
衝立の向こう側に、顔を覗かせないように気を付けてグラスを置いた。
俺も素直にトーメントの水割りを造る。
向こう側からは小さく、頂きます、と声が聞こえた。
「で、今日はわざわざどうしたんだ?」
「日頃、何かと世話になってるからね」
「うん?」
いつになく殊勝な声で殊勝なことを言ってくるので、少々戸惑ってしまう。
「一つ陰口を言いに来たわ」
陰口、という言葉に俺は反応した。
巳縞家で御用預役をこなしている景は仕事柄、さまざまな情報を得る。時たまそれを酒の肴にしたりするのだが、『陰口』と改まって言う時は外部に漏らせなかったり、ある者にとってはかなりの不利益を被ることになってしまう話が多いからだ。
「鈴様と深角様がまた良からぬことを考えているわ」
「いつものことじゃねぇか」
「明日、また呼び出しがあるとは思うけど…」
どうも今日の景は思いきりが悪い。
そして、そう思っていたのは俺だけではないらしかった。
「ああもう、どうして歯切れが悪くなるのかしら」
「いいさ、こっちのことは気にすんな」
「…月子が来るわ」
「え?」
ぼんやりとした声音だったがはっきりと聞こえた。
俺が聞き返したのは…聞き返してしまったのは、想定の範囲外で一番意外な奴の名前だったからだ。
呆気にとられる俺を気遣っているのか、そうでないのかはわからないが景はよりきっとした口調で詳細を教えてくれた。
「鍋島月子が明日、巳坂に来ることになってるの。確実な事は言えないけれど深角様のことだから、あなたと鉢合わせにさせて楽しむでしょうね」
「何であいつが巳坂に来る必要があるんだ?」
「今、店にいる環の名前でピンと来なかった?」
「…いや」
「あの子の家名は鍋島……月子の子よ」
「っ」
間があった。
十秒もない程の間だったが、思考の糸のうねりは瞬く間に収束してある結論を導き出す。
深角の考えであることは安易に想像がつく。人の傷口に塩を塗り、こちらの反感をわざと買うのはあいつの常套手段だ。それこそが深角の妖怪たる所以であり性質なのだ。が、分かっていても付き合わされる方はそれはそれで癪に障る。
「…なるほどね。妙に話をトントン進めると思っていたら、そういうことか」
「そういうことよ」
「ふうん」
思えば鈴も乗り気だった。どういう思案があるのかまでは考えつかない。深角と違い、鈴は単純に遊んでいるだけかも知れないが。
「全く・・・円もあの性悪たちに偶には言ってやったらどう?」
「おいおい。仮にも巳坂の当主さまたちだぜ?」
俺はごくりと喉を鳴らしてウイスキーを飲んだ。
「今日は、とことん付き合うわよ?」
自覚はなかったが、大分落ち込んでしまっていたようだ。
景は普段からは想像もできないほど優しく接してくれている。いや、元々表に出さないだけで、俺に対しては十分配慮してくれている奴なのだが。
「マジで? そっち見てもいい?」
「それは嫌」
「ですよねー」
勢いで行けるかと思ったが、見事に一蹴された。
俺は一息、深呼吸をした。
その息と一緒に、色々なモノが身体から抜け出た様になり、景には悪いがサシ飲みの気分はすっかり失せてしまっていた。
その雰囲気は衝立を簡単に乗り越えて伝わってしまったようだった。
「もういいの?」
「有難いけど、何でかな…気分にならないんだ」
「そう」
「景はどうする? 店で飲み直すか?」
「いいえ、円が仕事に戻るなら私も戻るわ」
「分かった。取りあえずありがとな。知らないより知ってる方がいくらか気が軽い」
「…なら良かったわ」
話にケリがつくと、俺は景を部屋に残して店へ戻っていった。
強がりだということはばれているだろうか。
歩けば歩くほど鬱屈した気で充満しそうだ。景との飲みは断ったが、さっきにも増して酒を飲みたい気分だった。
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