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第一章 巳坂

Zephyr

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 それからしばらくして円さんが戻ってきた。

 棗さんに見送られるまま、僕たちは坂鐘家を後にする。棗さんはかなり親切であったが、やはりここには気軽に近づきたくはないというのが本音だった。

 来るときには閑散としていた通りも、仕込みでもしているのだろう、食欲をかきたてるような香りがうっすらと漂ってきており、ちらほらと往来を歩く姿も見受けられる。

「さてと、環もお茶ばかりで口が渋くなっただろう。甘い物でもつまんでから帰ろう」

「てっきり呑みに行くのかと思いました」

「何言ってんだ、酒も飲むさ」

 やはりぶれないな、この人。

 お酒ってそんなに良い物なのか?

「甘い物が肴になりますか?」

「洋酒は甘い物の方が合うだろ。特にウイスキーは」

 来た道をそのまま戻るのかと思っていたが、どうやら違う様だった。

 しかし角を曲がって見ても高級店のような雰囲気は変わらない、そういう店が集まる区画なのだろう。

 やがて町内の外れまでやってくると、その先は石垣になっており、土手下には川が流れている。

 数は多くないが客や荷物を載せた、時代劇などでよく見るいわゆる猪牙舟が行き来している。

 円さんは停舶してあった舟の船頭に、お代を酒想金物のどれで支払えるかを確認していた。財布から金を出したところをみると「金」での取引になったのだろう。

 円さんに続いて、僕も舟に足を伸ばす。

 何せ初めての経験だったので戸惑いしかなかったが、案ずるより産むが易しとは言ったもので、難なく乗り込むことができた。

 船頭が水棹を器用に使い、舟が進みだす。

 上が木目の天井であることが少し残念ではあったが、舟の上から望む景色はそれはそれで中々の風情があった。しばらく行くと土手沿いにも屋台が点々と現れ、徐々に縁日のような賑わいになってきている。

 やがて目的の場所に付いたのか、川べりに舟が寄った。

 舟を下り土手へ上がると、上の階層に有ったような大衆向けの店が並が並んでいる。

 円さんについて行くと、正しく昨日巳縞家へ向かった時に歩いた道…というか廊下へ出た。

 下の階層から乗った舟は上へ登ったりはしていない。それなのに何故だか上の階層へついている。もう理屈を聞くだけ無駄だろうと思ったので、こういうものなのだと、湧いた疑問を飲み込んだ。

「しかし、本当に飲みか食べるところしかないんですね」

「ここは巳坂だからな、ダニも寄り付かない屋町さ」

「けど生活用の道具とかはどうするんですか?」

「そういうのは行商で買うのが基本だな。巳坂にもそういう店はなくはないが、急ぎで欲しいなら他の階へ行く」

「他の階?」

「十三の階層から出来ているといっただろ? 巳坂が酒と食の階、そういう道具商いや職工が目当てなら『岩馬』と相場が決まっている」

「他の階ってどうやっていくんですか?」

「色々ある。階段を使ったり、橋もしくは今みたいに舟とかだな。ま、おいおい連れていくよ。嫌でもお使いを頼む機会だって増えるだろうし」

 恐らくだが、他の階層も巳坂と同じくらい驚くことが多いのだろう。それが後十二もある、いや猫岳を除けばあと十一か。もっとも猫岳のことだって隅から隅まで知り尽くしている訳ではないのだが。

 少し不安もあるが、期待感の方が大きい。この見知らぬ異世界の不可思議さを堪能できるのは、此の世での生活が長かったおかげだ。

 次は何に驚かされるのだろうか。

 行き交う者が多くなってきた往来を、はぐれないよう円さんに付いて行った。

 ◇

 吹き抜けに面している螺旋廊下を下っていく。

 酒屋と酒屋に挟まれた路地に入ると、突き当りの床に「六」と漢数字が書かれていた。

 そこを左に曲がる。すると暖簾や引き戸の店が立ち並ぶ中に、一軒だけ西洋風のドアがある店があった。

 『Zephyr にしかぜ』

 ガラス細工が施してあるドアには、店名の彫られた看板がぶら下がっている。

 巳坂に来てから、円さんの店以外で初めて横文字を見た気がする。

 ドアを開けると鉤に括られていたチャイムが小気味よく店内に響いた。見れば十代の若い客が目立つ。天獄屋において外見から得られる情報が、どれだけ信頼できるかは定かではないが。

「あら、いらっしゃい」

 すぐに女給が出てきた。

 クセのある髪の毛をリボンで一つにまとめている。店の制服かどうかは分からないが、和装にエプロンを付けている様は、さながら大正ロマンあふれる風貌だ。かけている小さめの丸眼鏡が更に雰囲気を助長させている。

 改めて見れば店内も大正時代をモチーフにしているような内装だ。

「まいどどうも」

「こちらこそ。いつもので良いのかしらん?」

 慣れた調子で席に着く。

 しかし、ここではローブ姿は一層増して場違いで不気味に見える。男女連れが多いせいだろう。

 けれども当の本人はお構いなしだ。

「ここは洋酒、洋菓子なんかも積極的に取り入れて出す店で、お得意さんなんだ。いかんせん天獄屋じゃ未だに酒と言えば日本酒、甘い物と言えばぼた餅くらいしか知らないのが多いからな」

 手早く注文をする。

 円さんはウイスキー・ロックとチョコレートケーキを、僕は紅茶とモンブランを頼んだ。説明文に書かれた『くびく栗を使っています』という物騒な文言に惹かれたからだ。多分、あまりの旨さに、それ食べられなくなった人間が悲観して首を括ったというような謂れがあるのだろう。円さんに聞けば正しくその通りだった。

「本当にお酒が多いですね」

 待っている間にメニューを見てみたが、酒の種類の豊富さには圧倒される。

「呑んべえにしてみれば、これほど良い所はない。逆に言えば飲めないと、ここの魅力は分かりにくいだろうけど」

「でも食べ物も美味しいので嬉しいですよ」

 とは言ったものの、それでも飲めた方が数段楽しいだろう。僕も妖怪なのだから、此の世の感覚や常識などは捨ててしまって、お酒に興じてみても良いかも知れないと思った。

「あの・・・煙草はよした方がいいんじゃないですか?」

 煙草に火を付けようとしている円さんに、僕はとうとう本音をぶつけた。 

 曲がりなりにも飲食店であるし、ウイスキー好きを公言するのなら鼻が利かなくなるようなことは避けるべきだ。

「ん? これは煙草じゃない」

 文句の一つでも言われるのは覚悟していたが、返ってきたのは違う返事だった。

「そうなんですか?」

「ああ。煙草の匂いなんてしないだろ」

 そう言って煙を吹きかけてきたが、確か煙草の匂いはしない。それどころか、そもそも何の匂いもしなかった。思えば、初めて会った時から円さんに煙草の香りがしたことなどない。

「じゃあ、それって?」

「お化けけむり」

「何ですか。その駄菓子屋で売ってる玩具みたいなもの」

「手っ取り早く言えば、消臭剤だな。人間が吸えば人の匂いが消える」

 言われてみれば円さんからは人間独特の匂いがしない。ローブのせいかと思っていたが、店や自宅でも人間の匂いを嗅いだ覚えがない。

「中には人間の匂いを嫌う妖怪もいるからな。ピート香、モルティ、エステリーと、ウイスキーは香りが命だろ。だからこうやって定期的に消臭してんのさ」

 その言葉で、僕は円さんへの勘違いを改めた。

 この人は本当にウイスキーが好きなんだと実感する。ウイスキーの美味しさをわかってもらうために色々と気遣いをしているんだ。

 煙草を吹かしてウイスキー好きなんて烏滸がましいと、そう思っていた自分が恥ずかしくなった。

「はい、お待ちどうさま」

「やっぱりウイスキーにはこれだな」

 そう言って実に美味しそうにウイスキーを味わっている。

「円さんのウイスキー好きは錬金術師だからですか?」

「いや。単純に好みの話だ」

「…そうですか」

 てっきりそんな拘りがあるのだと思っていたが、当てが外れた。

「ラムとかジンも好きだからな、とどのつまり洋酒が好きなんだよ」

「そうすると、呑み仲間が少なくて寂しいですね」

「だからこそ、頑張って布教している」

 モンブランはとても美味しかった。確かに首を括りかねない芳醇な甘さと香りの栗だった。

 円さんは店で待っている玄さんと朱さんの為にアップルパイを追加で注文する。そしてそれを待っている間に、更にウイスキーを三杯お代わりしていた。
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