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第一章 巳坂
坂鐘家
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坂鐘家の門は、巳縞家のもとと比べても遜色のない程立派な造りである。むしろこちらのほうが時代掛かった趣さえある。聞けばこの門はいつ、如何なる時でも閉じることがないという。
カチコミならいくらでも買って出るという深角さまの意向の下、門を壊す予定だったらしいが、いくらなんでも威厳と歴史がある門だったので、手下たちがどうにか交渉して門を閉じなくする事で落ち着いたらしい。
門をくぐった先は長い石階段があり、その両辺は垣で仕切られている。けれどもその垣よりも更に背の高い竹がいくつも生えているので、その向こう側は竹林なのだと安易に想像がつく。
敷地に入ってまず気が付いたのは、夜になっていた事だ。
いくらなんでもそんなに早く時間が過ぎたとは思えない。恐らくは巳縞家の天井に描かれていた空のように妖術が施された天井なのだろう。
笹のゆれる音が耳に届くが、逆に言ってしまえばそれ以外の音が皆無だった。
巳縞家の庭のように、見て楽しめる庭があるでもなし、石畳の蛇ような仕掛けがある訳でもなく、こちらの緊張は募るばかりだ。
階段に等間隔で置かれている石塔の灯火も、この静けさをもってしては不気味な雰囲気しか感じ取れない。
坂鐘家の屋敷は巳縞家のそれに負けず劣らずの立派な造りであった。
けれども、やはり陰鬱さは所々から滲み出ている。古めかしさはないが、醸し出す気配は化物屋敷そのものだ。
そして目の前の人間は、相変わらず飄々と躊躇いなく玄関に足を踏み入れるのだった。
「邪魔するぜ」
ぶっきらぼうな声を中へ飛ばす。
すぐさま奥から、いかにもヤクザ一家の組員たる風貌の男が出てくる。当然ながら客商売をしている訳でないので、その顔には愛想の欠片もなかった。
「どちらさんで?」
訝しんでいるという感情を隠す気もない態度だった。
確かにこんなローブに身を包んだ曲者がくれば、そうなったとしてもなんら不思議はない。
「深角に会いたいんだ、取り次いでくれ」
「…少なくとも顔を見せてもらいましょうか」
「あ? 断る。いいからさっさっと取り次いでくれ」
さっき行儀良くしていろと言われた手前、円さんの横柄な態度が理解できない。なぜそこまで喧嘩腰なんだ。
向こうもいよいよ痺れを切らしそうになっている。
「深角様を呼び捨てにするわ、名乗りもせず顔も見せねぇわ…どういう料簡だ、コラ。巳坂とは言え、ここは『酔っ払ってます』じゃすまねえトコだぞ?」
「呑んじゃいるがのまれちゃいねえよ。お前、新顔だろ? いいからさっさと磨角を呼んできて酒の一杯でも呑ませろ。何のために高いみかじめ料を払ってると思ってんだ」
「てめえ、いい加減に―――」
「待った待った」
ヤクザ男が拳を振り上げたところで、それを止める者があった。
奥から声の主らしい華奢な優男が出てきた。この場の雰囲気にも、坂鐘家の陰気さにも似合わない爽やかさがある。
「棗の兄貴」
棗と呼ばれた男は慣れた手つきで間に割って入り、仲裁してしまった。目を閉じているのではないかと思えるほど細い目をしている。唇も薄いので、かなり中性的な顔立ちだが、その笑顔は不思議な安心感がある。
「いいんだよ、こちらの方は。和泉屋さんと言って巳坂じゃ有名なんだ。そのままお得意様用の客間にお通しして」
「…へい」
今一つ得心のいっていない表情であったが、すっかり毒気は抜かれている。
「しばらくですね」
「そりゃあな、こんな物騒なところ好き好んでこねえさ」
そういうと細目男は小さく笑う。
「ウチは大して物騒じゃないですけどね。ウチの新顔が失礼しました。ついこの間来たばかりなもんで、張り切ってましてね…おや、そちら様も新顔ですね」
「初めまして、環と申します」
「こちらこそ初めまして。荒井棗と言います。よろしく」
「よろしくお願いします」
棗さんは気風のよい浴衣を着たヤクザ男とは対照的に、現代風のワイシャツとズボンを着こなし黒い前掛けをしている。場所が場所なら洒落たカフェのウェイターと言われても信じ込んでしまうだろう。
「こいつは坂鐘家の番頭だ。一番頭がまともで信頼できるから、もしも独りでここを尋ねるようなことがあったら、真っ先に声をかけるといい」
「ちょっと粗野なのが多いだけで、ウチはみんなまともですよ」
円さんは鼻で笑って返事をする。
「ともかく、棗が一番安全だ」
「わかりました」
「さ、ご案内差し上げて」
青白い陰火が灯る廊下をヒタヒタと進んで行く。思えば天獄屋に来てから最も妖怪の世界らしい場所だ。掃除は行き届いてはいるが、巳縞のように木の香しさはないし、花や絵の一枚すら飾られていない無味乾燥な廊下である。
ところで、前を歩くヤクザ男は上司と思しき棗さんにお得意さんと言われたからかすっかり委縮しており、若干可哀相なくらいだった。
少し長く感じられた廊下を右に折れると、すぐ左手には開けた庭があった。相変わらずの薄気味の悪さはあるが、入ってからずっとまとわりついていた閉塞感はなくなった。
「こちらです」
男はそういって障子をあけると、口から小さな炎を吐き行燈を灯した。
では――と一礼して、そそくさと去ろうとする男を円さんは呼び止める。
「さっきは悪かったな。舐められたらおしまいなのはこっちも同じでね。心付けとウチの店の宣伝がてら取っておいてくれ」
そういってローブの中から未開封のポケットウイスキーを出し、男に手渡した。まさか心付けを貰えるとは思ってなかったのだろう、少々顔が綻んでいるのがわかった。
「こいつは有難う御座いやす」
円さんは障子を閉めると小さなメモ帳とペンを取り出した。
「しかし、いつ来ても陰気なところだな」
そう言ってペンを走らせて何かを書きだした。そのメモを破ると天井に放り投げた。
何をしているのか分からなかったが、数秒後、電灯に似たオレンジ色の光が部屋の中を優しく包んだ。
坂鐘家の中にあって、この暖色系の明かりは嬉しい。
しかし、この人・・・本当に錬金術が使えるんだな。いや、これが錬金術なのかはよく分からないが・・・。
「こっちに適当に座っとこう」
「あの…深角様が見えたら何と言えばいいでしょうか?」
念のため円さんの真横に陣取って座る。身は守らなければならない。
「まずは俺が執成すよ。あとは―――和泉屋ウイスキー店に奉公に入ります、環と申します。未熟者ですがよろしくお願いいたします―――みたいに無難な受け答えをしておけば大丈夫だ」
「わかりました。ところで、何で円さんはあんな喧嘩腰だったんですか?」
「ああ、あれか。あいつが新顔だったからさ。一先ず舐められないようにな」
そんな理由でヤクザ相手に喧嘩腰になる意味が分からない。
円さんは補足する。
「天獄屋は基本的には妖怪の世界だろ? 一度舐められると、とことん舐められる。その上そいつが人間だと知られたら、最悪の場合どうなると思う?」
妖怪が人間相手にすることなどいくつでも思い付くが、最悪なものだと…
「…食われるんですか?」
「まあな」
やっぱりそうなのか・・・。
「けど怒らせていたら、それこそ危ういんじゃないですか?」
「それはピンキリだな。俺だって妖怪全員に喧嘩吹っかけてる訳じゃない、相手を選んでる。それに仮に人間だとばれたとしても、自信満々に喧嘩売ってるような奴から喧嘩買いたいと思うか?」
僕は首を横に振る。
「そうだろう。腕っぷしが強いと思わせておけば、返って回避できるトラブルもある。わざわざ妖怪に喧嘩腰な人間がいたら、それができる裏付けがあると妖怪だって勘繰る。けど妖怪に媚びたり、買収したり、もしくは式として契約して身を守りながら過ごしている人間だって多い。ま、天獄屋に住まう人間の処世術の一つだな。人によって差異があるのは当然だろ」
そう言って煙草に火を付けた。
円さんの言い分は理解したが、この言葉の裏を返せば円さんは並の妖怪では太刀打ちできない強さがあると明言しているようなものだ。虚勢ならば、一度二度は凌げても今頃命はないだろう。そして、昨日のように鈴様や磨角様の前でこの態度を貫き通せるということは、頭領クラスの妖怪が相手であっても通用する実力の持ち主ということだ。
・・・。
あれ? もしかしてこの人ってすごい人なのか?
カチコミならいくらでも買って出るという深角さまの意向の下、門を壊す予定だったらしいが、いくらなんでも威厳と歴史がある門だったので、手下たちがどうにか交渉して門を閉じなくする事で落ち着いたらしい。
門をくぐった先は長い石階段があり、その両辺は垣で仕切られている。けれどもその垣よりも更に背の高い竹がいくつも生えているので、その向こう側は竹林なのだと安易に想像がつく。
敷地に入ってまず気が付いたのは、夜になっていた事だ。
いくらなんでもそんなに早く時間が過ぎたとは思えない。恐らくは巳縞家の天井に描かれていた空のように妖術が施された天井なのだろう。
笹のゆれる音が耳に届くが、逆に言ってしまえばそれ以外の音が皆無だった。
巳縞家の庭のように、見て楽しめる庭があるでもなし、石畳の蛇ような仕掛けがある訳でもなく、こちらの緊張は募るばかりだ。
階段に等間隔で置かれている石塔の灯火も、この静けさをもってしては不気味な雰囲気しか感じ取れない。
坂鐘家の屋敷は巳縞家のそれに負けず劣らずの立派な造りであった。
けれども、やはり陰鬱さは所々から滲み出ている。古めかしさはないが、醸し出す気配は化物屋敷そのものだ。
そして目の前の人間は、相変わらず飄々と躊躇いなく玄関に足を踏み入れるのだった。
「邪魔するぜ」
ぶっきらぼうな声を中へ飛ばす。
すぐさま奥から、いかにもヤクザ一家の組員たる風貌の男が出てくる。当然ながら客商売をしている訳でないので、その顔には愛想の欠片もなかった。
「どちらさんで?」
訝しんでいるという感情を隠す気もない態度だった。
確かにこんなローブに身を包んだ曲者がくれば、そうなったとしてもなんら不思議はない。
「深角に会いたいんだ、取り次いでくれ」
「…少なくとも顔を見せてもらいましょうか」
「あ? 断る。いいからさっさっと取り次いでくれ」
さっき行儀良くしていろと言われた手前、円さんの横柄な態度が理解できない。なぜそこまで喧嘩腰なんだ。
向こうもいよいよ痺れを切らしそうになっている。
「深角様を呼び捨てにするわ、名乗りもせず顔も見せねぇわ…どういう料簡だ、コラ。巳坂とは言え、ここは『酔っ払ってます』じゃすまねえトコだぞ?」
「呑んじゃいるがのまれちゃいねえよ。お前、新顔だろ? いいからさっさと磨角を呼んできて酒の一杯でも呑ませろ。何のために高いみかじめ料を払ってると思ってんだ」
「てめえ、いい加減に―――」
「待った待った」
ヤクザ男が拳を振り上げたところで、それを止める者があった。
奥から声の主らしい華奢な優男が出てきた。この場の雰囲気にも、坂鐘家の陰気さにも似合わない爽やかさがある。
「棗の兄貴」
棗と呼ばれた男は慣れた手つきで間に割って入り、仲裁してしまった。目を閉じているのではないかと思えるほど細い目をしている。唇も薄いので、かなり中性的な顔立ちだが、その笑顔は不思議な安心感がある。
「いいんだよ、こちらの方は。和泉屋さんと言って巳坂じゃ有名なんだ。そのままお得意様用の客間にお通しして」
「…へい」
今一つ得心のいっていない表情であったが、すっかり毒気は抜かれている。
「しばらくですね」
「そりゃあな、こんな物騒なところ好き好んでこねえさ」
そういうと細目男は小さく笑う。
「ウチは大して物騒じゃないですけどね。ウチの新顔が失礼しました。ついこの間来たばかりなもんで、張り切ってましてね…おや、そちら様も新顔ですね」
「初めまして、環と申します」
「こちらこそ初めまして。荒井棗と言います。よろしく」
「よろしくお願いします」
棗さんは気風のよい浴衣を着たヤクザ男とは対照的に、現代風のワイシャツとズボンを着こなし黒い前掛けをしている。場所が場所なら洒落たカフェのウェイターと言われても信じ込んでしまうだろう。
「こいつは坂鐘家の番頭だ。一番頭がまともで信頼できるから、もしも独りでここを尋ねるようなことがあったら、真っ先に声をかけるといい」
「ちょっと粗野なのが多いだけで、ウチはみんなまともですよ」
円さんは鼻で笑って返事をする。
「ともかく、棗が一番安全だ」
「わかりました」
「さ、ご案内差し上げて」
青白い陰火が灯る廊下をヒタヒタと進んで行く。思えば天獄屋に来てから最も妖怪の世界らしい場所だ。掃除は行き届いてはいるが、巳縞のように木の香しさはないし、花や絵の一枚すら飾られていない無味乾燥な廊下である。
ところで、前を歩くヤクザ男は上司と思しき棗さんにお得意さんと言われたからかすっかり委縮しており、若干可哀相なくらいだった。
少し長く感じられた廊下を右に折れると、すぐ左手には開けた庭があった。相変わらずの薄気味の悪さはあるが、入ってからずっとまとわりついていた閉塞感はなくなった。
「こちらです」
男はそういって障子をあけると、口から小さな炎を吐き行燈を灯した。
では――と一礼して、そそくさと去ろうとする男を円さんは呼び止める。
「さっきは悪かったな。舐められたらおしまいなのはこっちも同じでね。心付けとウチの店の宣伝がてら取っておいてくれ」
そういってローブの中から未開封のポケットウイスキーを出し、男に手渡した。まさか心付けを貰えるとは思ってなかったのだろう、少々顔が綻んでいるのがわかった。
「こいつは有難う御座いやす」
円さんは障子を閉めると小さなメモ帳とペンを取り出した。
「しかし、いつ来ても陰気なところだな」
そう言ってペンを走らせて何かを書きだした。そのメモを破ると天井に放り投げた。
何をしているのか分からなかったが、数秒後、電灯に似たオレンジ色の光が部屋の中を優しく包んだ。
坂鐘家の中にあって、この暖色系の明かりは嬉しい。
しかし、この人・・・本当に錬金術が使えるんだな。いや、これが錬金術なのかはよく分からないが・・・。
「こっちに適当に座っとこう」
「あの…深角様が見えたら何と言えばいいでしょうか?」
念のため円さんの真横に陣取って座る。身は守らなければならない。
「まずは俺が執成すよ。あとは―――和泉屋ウイスキー店に奉公に入ります、環と申します。未熟者ですがよろしくお願いいたします―――みたいに無難な受け答えをしておけば大丈夫だ」
「わかりました。ところで、何で円さんはあんな喧嘩腰だったんですか?」
「ああ、あれか。あいつが新顔だったからさ。一先ず舐められないようにな」
そんな理由でヤクザ相手に喧嘩腰になる意味が分からない。
円さんは補足する。
「天獄屋は基本的には妖怪の世界だろ? 一度舐められると、とことん舐められる。その上そいつが人間だと知られたら、最悪の場合どうなると思う?」
妖怪が人間相手にすることなどいくつでも思い付くが、最悪なものだと…
「…食われるんですか?」
「まあな」
やっぱりそうなのか・・・。
「けど怒らせていたら、それこそ危ういんじゃないですか?」
「それはピンキリだな。俺だって妖怪全員に喧嘩吹っかけてる訳じゃない、相手を選んでる。それに仮に人間だとばれたとしても、自信満々に喧嘩売ってるような奴から喧嘩買いたいと思うか?」
僕は首を横に振る。
「そうだろう。腕っぷしが強いと思わせておけば、返って回避できるトラブルもある。わざわざ妖怪に喧嘩腰な人間がいたら、それができる裏付けがあると妖怪だって勘繰る。けど妖怪に媚びたり、買収したり、もしくは式として契約して身を守りながら過ごしている人間だって多い。ま、天獄屋に住まう人間の処世術の一つだな。人によって差異があるのは当然だろ」
そう言って煙草に火を付けた。
円さんの言い分は理解したが、この言葉の裏を返せば円さんは並の妖怪では太刀打ちできない強さがあると明言しているようなものだ。虚勢ならば、一度二度は凌げても今頃命はないだろう。そして、昨日のように鈴様や磨角様の前でこの態度を貫き通せるということは、頭領クラスの妖怪が相手であっても通用する実力の持ち主ということだ。
・・・。
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