上 下
15 / 66
第一章 巳坂

妖怪のこと。そして天獄屋のこと

しおりを挟む
 勉強が始まる前に、朱さんと雑談を交わす。聞けば玄さんと朱さんも外様、つまりは最近になって天獄屋にやってきた新参者だそうだ。

 ここに来るまではやはり此の世にいたらしく、円さんの知り合いの紹介でここに転がり込んだらしい。

「じゃあ始めるか。聞いたことはある話もするが、念のため天獄屋の基本的なことを浚っておく。自分で重要だと思ったことは書き取っておけよ」

 そういってグラスを三つ卓袱台に置いた。僕たちに差し出されたグラスの中身は水だったが、円さんのグラスの中身は酒だった。匂いで簡単にばれたのだが、朱さんは気が付いてないようだったので、告げ口することは控えた。

「筆も硯も見当たらないが」

 朱さんの発言に僕と円さんは絶句した。

「な、なんだ?」

「いや、何でもない。紙の脇に細い筒があるだろう。ボールペンって言って、今の人間は筆の代わりにそいつを使って書くんだよ」

「ほう?」

 隣にいた僕がキャップを外し、使い方を教えた。

「矢立もここまで利便な物になっていたか」

 紙に線を書き、嬉々としてそう言った。

 それにしても矢立って。。。

 本当に最近まで此の世にいたのだろうか。見れば袖から玄さんも手を出していて、ボールペンで渦巻きを作っていた。

「そう言えば、こうなっている時の玄さんって喋れるんですか?」

 聞くと手を横に振られた。駄目と言う事だろう。更に朱さんも付け加えた。

「こうなっている時は喋ることはできん。口がないからな」

「まあ、そりゃそうですね」

「そういうお主はどうなのだ? 猫の時には口が利けるのか?」

「ええ。僕は喋れますよ。うっかり寝ぼけて喋りそうになって冷や冷やしたことがあります」

「私たちも着物である間に、うっかり燃やされそうになった事がある。あの時ばかりは――」

 その続きは聞けなかった。円さんが遮ったからだ。

「おいお前ら。何度言えば人間の前で正体を隠す気になるんだ?」

 朱さんと共にギクリと少し身が跳ねた。玄さんはそそくさと袖の中に隠れてしまった。ずるい。

 円さんはため息を吐きながら、指でペンを回している。

「そこだけは嫌でも慣れてくれよ。他の奴らの正体を曝そうものなら、とんでもねえ事になるんだからさ。自分で自分の正体を明かすならいざ知らず…いや、それもいい加減やめておいた方がいい。」

「…はい。すみません」

「…あい、わかった」

 かつて書道教室で、ふざけて遊んでいた子供たちが怒られているのを思い出した。

「ま、俺にばれちまってるから、ここでは気を張る必要はないと思うがな。例えば人間でいえば、無理矢理に着ているものを脱がそうとしているようなもんだ。てことはお前らは、他人の着物を剥いだ上に自分で服を脱ぎだそうとしてる変態ってことになる」

 嫌な例えだが、的確で分かりやすい。

「じゃあ本題に入る。天獄屋の基本的な話をするが…お前らはどのくらい知ってるんだ?」

「私たちはここに来てから日が浅い。此の世にいた頃も天獄屋は噂でしか知らずにいた。人間の世の理とは外れた場所にある、と言う事くらいしか分からぬ」

 円さんはちらりと僕に目を向けてきた。

「僕も似たようなものです。ここで生まれたのはその通りですが、言ってみればそれだけです」

「それなら、本当に初歩の初歩から入ろう」

 円さんはタブレット端末をこちらに差し出してきた。こういうところに親近感を覚えて安心するのだが、朱さんは違うようだった。

「ここの名前は天獄屋という。大昔の更に昔に妖怪たちが集まって出来上がったところだそうだが、詳細は俺にもよく分からん。ただ、長すぎるくらいの年月の間に十三の階層に分かれて、現在に至る」

 画面の中に、順々に文字が足されていく。


 麻鼠、丑三、虎川渡、卯ノ花、火竜、巳坂、岩馬、未湯、狂猿、斜酉、犬日下部、亥袋、猫岳


「これが天獄屋を作っている十三の階層名だ。それぞれが天獄屋の中で、色々な役割や特色を出して独立している。天獄屋という世界に国が十三個あると考えれば分かり易い。」

 流石に名前くらいは知っている。此の世にいた時間の方が長いとはいえ、天獄屋にいたことには変わりない。反面、朱さんはせっせと紙に書き写していた。

「どこがどういう仕事をしてるのかってのは追々教えるが、まずは自分たちが身を置いているこの階層の事から話そう」

 画面が切り替わり、タイトルが『巳坂の特徴』という資料に変わった。

「知っての通り、ここは巳坂という。多少なり過ごしてみて分かっているとは思うが、この階の特色ってのは他でもない――『酒』だ」

 だとは思っていた。逆に違うと言われたらどうしようかとも思った。

「酒と言っても天獄屋では基本的に日本酒のことを言う。焼酎やウチみたいに洋酒を扱う店もあるが、極少数だ」

「そうなんですか?」

「ああ。日本酒以外の酒を置いているのは、両の手で数えられるくらいしかない」

「人気がないんですか?」

「一番の理由はそうなるな。まあイメージが壊れないから人間の俺からしてみれば嬉しいが」

「イメージ、ですか?」

「例えばウォッカとかテキーラをショットで飲んでる日本妖怪って、なんか嫌だろう」

 うーん……確かに分かるような気がする。

 朱さんはどう感じただろうと、目を隣へやった。すると少し困った顔をしながら、

「あまり、異国の言葉を使わないでくれ」

と小さな声で言った。

「それはさて置きだ。天獄屋での酒ってのは、此の世の酒とは扱いが変わってる」

「どういう事だ? 一度飲んではみたが、特に此の世にある酒と変わらぬように思うが」

 僕は飲んでいないので判別が付かないが、昨日巳縞のお屋敷で見た限りでは、確かに特に変わったところは見受けられなかった。

「酒そのものは此の世に出回っているものと違いはないさ。きちんと麹と醪を使って杜氏までいる。むしろ機械化していない分、それこそ此の世にいたんじゃ飲めないような純粋な作り方の酒が多い。肝心なのは、酒の持っている意味合いの方だ」

 分からなかった。円さんは、こちらの顔から察したのかそのまま続ける。

「手っ取り早く言うと、天獄屋の酒は此の世にとっての金と同じ意味がある」

「それは酒で売り買いができるってことですか?」

「そういう事だな」

 円さんは頷いた。

「それは物々交換っていうのでは?」

「まあ、やっている事はそうなんだがな。実際にそんな意識はほとんどない。金と思って扱った方が今後は楽だろうさ」

「けど、飲めば当然無くなりますよね。いつまでも取っておけるものでもないでしょうし…」

「それに貨幣と違って、その気になれば密造も容易いのではないか?」

「良いところに気が付くな。教えがいがある」

 円さんは微笑んだ。

「それこそが、巳坂のもう一つの特徴である、頭首筋に当たるお家が二つあることの理由にもなっている」

「頭首筋のお家が二つ?」

 朱さん初耳だったようだ。

 僕は昨日の出来事が頭の中に蘇り、少々汗が滲んだ。これから会いに行くことを思い出すと途端に気が滅入る。

「各階層にはそこを仕切っている親分やら頭領やらがいるんだが、基本的は一つの家しかない。けど、巳坂は少々勝手が違う。今言ったように、酒なんだから飲めばなくなるし、密造しようと思えば誰にだって作れる。そんなのを一つの組織で取り締まるのは難しい。だから酒の『製造』と『販売』をそれぞれ巳縞と坂鐘の二つに分担させて取り締まってるって訳だ」

「それでも限度はあるでしょう。天獄屋も決して狭くはないですし」

 僕は、昨日の隠し部屋や自室を作ってもらった時のことを思い出した。

「それに僕の借りている部屋みたいに、術で隠し場所はいくらでも作れるのではないですか?」

 朱さんも黙って頷く。

「まあ、密造に限って話をすれば、その通りだな。いくらでも作れるし、実際に密造している奴も多少知ってる。というか俺もしてる」

 あっけらかんと言ってはいるが、それはマズいのではないだろうか。

「けど、どうってことはないのさ」

「何故だ? 此の世でいうところの金となれば、相応の咎めもあるだろう」

「密造された酒は到底取引には使えない。はっきりいって美味しくないからな」

 僕と朱さんは同じ顔をしていた。開いた口が塞がらなかった。

「美味しいか、美味しくないか…なんですか?」

「ああ」

「それだけの理由で…」

「それだけとはなんだ。味は死活問題だろうが」

「しかし、それは好みの話ではないのか。そもそも、誰でも作れるのなら中には味の良い酒を造る輩もあるだろう」

「少なくとも天獄屋には巳縞以上に質と量を兼ね揃えて酒造ができる連中はいない。密造に関して巳縞が行っている取り締まりってのは、その実、酒造の技術に関して抜きん出て居続けるという事だ。仮に巳縞以上の質と量の酒を用意できるような奴等が現れたら、今度はそいつらにお役がまわるってだけの話さ」

 なんとも戦国時代のような話だと思った。たかだか酒のことなのに、ここまで仰々しい話になっているのがすごい。

「お前ら、たかだか酒のことでって顔をしてるなぁ」

 ずばりと円さんに心の内を言い当てられて、少々ぎくりとした。

「まあ、此の世での感覚が強いだろうから仕方ないのかもしれないが、若干話は逸れるがついでだし、教えておく。これも天獄屋で暮らすなら覚えておかにゃならんことだ。天獄屋で何かをやり取りする時は『シュソウキンモツ』って原則がある」

「シュソウキンモツ?」

 円さんは、再びタブレットを手に取りペンで画面に書き出してくれた。

「酒想金物。上から順に天獄屋の中で、重んじられている対価の種類と言えば分かり易いか? 人間社会の場合、基本的には金でしか対価は支払えないが天獄屋の場合、その他に酒と想と物って手段が取れる」

 僕もそれは分からなかったので、朱さん共々メモを取った。書き終えると、僕も聞こうと思っていたことを、先に朱さんが口にした。

「酒と金は今までの話で分かるが、想と物とはどういう事だ?」

「物ってのは簡単さ。要するに物々交換の事だ。何かをしてもらった代わりに、物を渡す」

「ふむ。字面からそうだとは思ったが、やはりか。では想というのは?」

「これも字面の通りだ。心と言い換えても良いかも知れないな。例えば、感謝の気持ちとか、敬う気持ちとか、そういうので対価を支払う」

「何だかブラック企業みたいですね」

 円さんは苦笑しつつ答えた。

「ま、言葉だけ聞けばな。ただ、言っても天獄屋は人間以外の連中の方がはるかに数が多い。文字通り、そういう『気持ち』だけで生きていける奴が本当にいるんだよ」

 確かに感覚としては分かる。僕自身も此の世にいる間にできた知り合いの中には、そういった類の妖怪も多くいた。

「ちなみに天獄屋にある全部の店がその酒想金物で商いをしている訳じゃない」

「違うんですか?」

「ああ。例えばウチは『想』での取引はしていない。『物』に関しても要相談で全部応じてはいない。商品には値段が書いてあるから『金』での商売は何とかなると思うが、それ以外の取引での相場は追々教えていくよ」

 円さんはちらりと壁に掛かった時計を見た。

「じゃあ、ここまでで何か聞きたいことはあるか?」

「えと、今までの話とは変わるんですが、一つだけいいですか?」

「おう、何が分からない?」

「巳坂…というか天獄屋に来てからずっと気になっていたんですが」

 と前振りを加えてから僕は喋り出した。

 僕が気になっていた事、それはこの天獄屋にいる数多の妖怪たちの事である。

 妖怪の世界だから。

 と一言で片づけてしまえばそれまでなのだが、此の世ではとても希薄になってしまった僕たちが何故ここまで快活に存在することが出来ているのだろうか。

 此の世にも確か妖怪はいたのではあるが、向こうで十年も生活していて、直接他の妖怪変化とやり取りをしたりができたのは僅かしか記憶にない。

 妖怪は人の世界において、それ程までにおぼろげなものになっていた。

 にも拘らず、この天獄屋ではおぼろげなどとはともて言えない。存在感はそれこそ人間よりもすさまじいと思う。

 ともすれば、此の世とは決定的に違う何かがあるのだろうと思うのだ。

 そんな事を尋ねてみると、円さんは顎に手を当てて、考え込んだ。

 隣にいた朱さんも、

「確かに私たちも、ここに来てからと言うもの、より妖力が充実している感覚は強いな。此の世ではどちらかが力を蓄えておかねば、この姿に顕現することすら難儀したのだが」

と相槌を打ってくれた。

 すると円さんは徐に語りだした。

「これは俺の持論、というか仮説なんだが…俺も此の世での生活はしていたから、環と同じような事を考えたことがある。あれこれ調べてみたりもしたが、決定的なものは今のところよく分からない。ただ、一つ気が付いたのが、」

 と、言葉の合間に一口グラスを傾ける。そして酒精が混じった声で続けた。

「電化製品の数だな」

 突拍子もない意見だったので、一瞬思考が固まった。円さんは、こちらの心情など露知らず話を続ける。

「例えば東洋の妖怪は多かれ少なかれ、陰陽道や道教の影響を受けてるだろう? ここの妖怪は自分たちを木火土金水の五行に当てはめて、人間でいう星座占いとか血液型診断みたいなことをやってるし」

 天獄屋の妖怪って意外に俗っぽいんだな。

「西洋の生まれの連中もやっぱり四代元素のくくりでモノを考える節があるし、そこら辺は古今東西変わらないんだと思う。で、気が付いたのは、五行にも四代元素にも『電気』ってカテゴリがないんだよ。雷はあるけどな。んでもって現代社会では至る所に電気に関わる機器が蔓延して、そういう昔ながらのバランスを崩壊させてしまってる。けれど、天獄屋には電気は殆どない。だから妖怪連中も昔と同じよう環境の中で存在していられる。電気と蛍光灯が陰の世界を壊してしまった…って考えるのが俺は一番納得してる」

 すとん。と胃の腑に落ちるような言葉だった。

 朱さんも何か思う事があったようで、腕を組み物思いに耽っていた。

「さて、何だかんだで良い時間だ。午後一で坂鐘に行くとなるとそろそろ昼飯の支度をするか」

「む? そんな時間か。今日の当番は私だったな」

「いや、今日の当番は俺が変わる」

「しかし、この前もそうだったではないか。ここにきてからまだ一度しか台所に立たせてもらっておらんぞ」

「いいんだ。朱と環にはやって貰いたいことがあるからな」

「何ですか?」

 突然の申し出だったので僕も朱さんも若干不安になった。

「その前に確認だが、環。モルトとグレーンって何のことか分かるか?」

「ウイスキーのですか?」

「そう。ウイスキーの事だ。簡単に説明して見てくれ」

「簡単に言うと、モルトは大麦が原料でグレーンはそれ以外の穀物を使っているってことになりますかね。国によっても若干違いますが」

 そういうと円さんはニヤリと笑った。

「それが言えるんなら、店にあるウイスキーの大体は分かるだろう。香りで判別できるくらいの知識はあるんだし。朱と玄に教えながら、ついでウイスキーとは何ぞやというところも軽く説明しててくれ」

「それなら円さんがいてくれた方が…」

 正直、ある程度分かると言っても初心者に毛の生えたくらいの事しか言えない気がする。

「そしたら台所に立つ奴がいないだろう。軽くで良いんだ」
しおりを挟む

処理中です...