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第一章 巳坂
赤髪の姉弟子
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翌朝、部屋の外に気配を感じ目を覚ました。夜中はかえって不気味なほど静かだったので、外の足音がよく聞こえた。
布団をたたみ、部屋の外へ出ようとしたところで気が付いた。猫の姿のままだった。また注意されないよう、部屋から出る前に人へと化けた。尤も人の姿にならなければ戸に手が届かないのだが。
店の方から白んだ光が見える。窓や明かりは無いのにも関わらず不思議なことに、家の中の様子を見るのには困らなかった。
僕の部屋には時計がなかったので時間が分からない。けれども、先ほど部屋で鼻先と髭をくすぐった空気の感触からして夜が明けてすぐ位の時間ではなかろうかと推測した。
そう言えば、天獄屋も此の世と同じ尺度の時間なのだろうか。後で円さんに聞いておこう。
居間の襖から微かに光が漏れている。円さんか玄さんのどちらかが起きているのだろうと、挨拶しながら襖を開けた。
「お早うございま――」
言い終わる前で途切れてしまった。
居間にいたのは僕の予想したうちのどちらでもなかったからだ。
また初めて見る女がいた。
赤みのかかった長い髪の毛を後ろで一本に束ねている。束ねきれなったのであろう余ったこめかみから伸びる髪は胸元まで垂れ、黒の着物に映えていた。いや、よくみると武道着のようだ。そのまま視線を落としていくと道着と同じく黒色の袴を穿いているのが見て取れた。顔は凛としているが、鈴様や玄さんに比べると少々幼いような気がする。しかしながら、纏っている空気は今まで会った誰よりも鋭く張っているようだった。
「ん? ああ、環か。もう起きてきたのか。新入りながら感心な心掛けだ」
赤髪の女は僕を見るなりそう声を掛けてきた。僕の事を知っている風なのが気掛かりで動けずにいた。
「何をしている。早く入ったらどうだ?」
「す、すみません。どちら様でしょうか?」
やはり疑問を解決しないうちには動きようがない。
「ああ、すまない。うっかりしていた。挨拶を済ませたつもりでいた」
女はそう言うと正座したまま、僕の方へ居直った。
「私は朱という。昨日会っていた玄姉さまの妹だ」
「玄さんの妹?」
言われてみれば確かに。面立ちが似ている気がする。
「そうでしたか。初めまして、鍋島環と言います。僕の事は玄さんから聞いたんですか?」
「いや、昨日からずっと姉上の傍で聞いていた」
「昨日から?」
「ふふふ」
朱さんは幽かに笑った。
どういう意味だかさっぱりだ。
「分からなくても無理はない。この姿を取ってはいなかったからな。昨日、姉上が着ていた着物の色を覚えているか?」
「え? 確か…赤い色の着物だったような」
「こんな色の着物だろう?」
朱さんは自分の髪の毛を手に取った。
「ええ。そうです」
「その着物が私だ」
「・・・はい?」
「私たち姉妹は着物の妖怪なのだ。大体は日替わりで人の姿を取り、片方の着物を着て生活している」
「てことは、今お召しになっている黒い着物が玄さん?」
ちらりと道着に目をやると、ぎょっとした。朱さんの道着の袖から、明らかに違う腕がにゅうっと出ていた。そして雪と見紛う白い手は僕に向かって手を振っていた。
手だけで相手を判断できる訳も無いのだが、玄さんなのであろう。
「さて。私は稽古に出てくるが、お主はどうする? 付き合うか?」
稽古と一言だけでは何をするのか不明だが、お茶や踊りの稽古でないことは分かる。どう考えても朱さん風貌には竹刀や木刀の方がよく似合う。
なので丁重に断ることにした。
「円さんと朝食の支度をすることになっていますので、今日は遠慮しておきます」
「そうか。だが彼奴が起き出して来るのには、まだ時間があるぞ」
「でしたら、掃除でもして待っています」
「うむ、分かった。朝のいの一番で掃除をするというのは、やはり感心する。廊下の納戸に掃除に必要なものは入っているはずだ。彼奴が起きるまで留守を頼む」
朱さんはすくっと立ち上がり居間を後にする。口調や態度でついつい大きく見てしまっていたが、立った時の姿は案外小柄であった。
障子を開けて見送る。朱さんは入り口の脇に立てかけてあった棒を一本持つと、引き戸を開ける音に気を使いながら出かけて行った。
一言で言うなら武士のような立ち振る舞いである。ずっと傍にいたのであれば、この猫背も治ってしまいそうだった。
居間を軽く掃除していると、円さんが起きてきた。昨日最後にあった時の風貌と変わっていない。唯一、頭に巻いてある手拭いが唐草模様になっていた。
「お早うございます」
「おう、お早う。ごそごそ音がすると思ったら掃除してたのか」
「はい、何だが目が覚めてしまったので」
「いや、助かるよ。ありがとな」
円さんはまだ眠いようで、一つ大きな欠伸をした。
「そう言えば朱…赤い髪の女がいなかったか?」
「朱さんでしたら、さっき挨拶を済ませましたよ。留守を頼むと言って外に出て行きました」
「そうか。大方素振りでもしてるんだろうから、ほうっておくか。じゃあ、サクッと朝飯の支度をしちまおう」
「はい」
台所は流しを中心にして左右に出入り口があった。店に通じる方には緑の、奥の廊下へ繋がる方には白の暖簾が掛かっている。
ふと、昨日の夕飯の事を思い出した。またみょうちくりんな食材が出てきたらどうしようか。まともに包丁を持ったことがない上に、扱うのが常識外の食べ物だと、いよいよ料理する自信がなくなる。
しかし、円さんが冷蔵庫から取り出して来た材料はどれもこれも、此の世で見知ったものばかりであった。
「買い出しは帰りにでも行くとして、とりあえずあり合わせで、朝は凌ぐか」
円さんは献立を考える。
「鯵の閉じたを焼いて、みそ汁と偽めだま焼きでも作ろう。確か糠床に漬物が少しは残ってたはずだし」
またしてもよく分からない料理の名前を口ずさみながら流しの下の戸を開ける。すると糠のにおいが漏れてきた。樽を取り出す時に、袋に入った里芋が外へとゴロゴロ転がった。
「あちゃー。食えなくなる一歩手前だな。こいつも使っちまうか……待てよ」
里芋の入った袋もついでに出したところで、円さんは僕の顔を見て何かを思いついたようだった。そして、その更に奥からボウルを二つ重ねたような丸い器具を引っ張り出した。
「あったあった。里芋もあるし丁度いいや」
円さんはテキパキと料理し始めた。
僕は簡単な仕事をもらい、みそ汁に入れる野菜を切る。案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、思ったよりも包丁には苦戦しなかった。
家庭的な料理ではあったが、円さんの手際の良さは十分に伝わった。男やもめになったとしても困ることはなさそうだ。
粗方の支度が済んだあたりで、円さんからさっきの丸い器具を渡された。持った感覚では中に里芋と調味料が入っているようである。
「これを…どうするんですか?」
「そいつをお前の部屋に持って行ってくれ」
「部屋にですか? それで、それから後は?」
「適当に横になるなりして、転がして遊んでこい」
「……え?」
意味が分からない。
確かに毛糸玉や紙くずを見ると遊んでみたくもなるが、それで喜ぶほどの仔猫ではないし、そもそも食べ物で遊ぶというのは気が引ける。そして何よりも意味が分からない。
「あと十分くらいで全部終わるから、その間、転がしてくればいい」
仕方がないので、言われるがまま部屋に戻る。畳の上にそれを置くと、僕は猫の姿に戻った。猫の身からすると少々大きいのが気になったが、転がせない程ではない。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも前足で弾いていた。その内についつい盛り上がって楽しんでしまったのは秘密にしよう。
その内に、朱さんが戻ってきたのが気配で分かった。丁度、頃合いも良かったので玉を持って台所へ戻る。居間を抜けようとしたら、既に卓袱台の上に朝食の用意がされており、朱さんが茶碗にご飯をよそっていた。
「お、ご苦労さん」
円さんはその用途不明の器具の中身を器へと移す。やはり中身は里芋だった。良い具合に餡が絡みついていて食欲をそそる。
「よし、と。じゃあ食べるか」
景さんも玄さんもいない食卓は、やはり昨日よりもずっと静なものだった。朱さんの武士紛いの雰囲気が重なると尚更である。箸の使い方一つでも、何故か気を使ってしまう。
このまま無言のうちに食事が終わってしまうかと思っていたが、その静寂を朱さんが破った。
「この里芋は美味しいな。煮っ転がし…とも違うようだが、何という料理だ?」
僕が器具を手渡しているのを見ていたからか、質問がこちらに飛んできた。
「えと、すみません。円さんに言われるままに、それの中に入れて転がしていただけなので、名前までは…」
そもそも名前なんてあるのだろうか。
と思っていた矢先、円さんが口を挟む。
「そいつは里芋のねっ転がしって言うんだよ」
「「は?」」
つい朱さんと声が被った。
幾らなんでもひどい洒落だと思う。
「つまらん洒落だな」
朱さんも同じ事思っていたようだ。
「お前ら、冗談だと思っているみたいだが、残念ながら正式名称だ」
円さんはそう言って里芋のねっ転がしを頬張った。そして脇に置いてあった例の器具を手に取った。
「こいつは『寝ころん玉ま』って言ってな。昔、かなりの横着者が寝たまま料理できるようにと編み出したんだそうだ。味付け用の出し汁と芋を入れて転がすだけで出来るから、結構重宝すんだぞ」
「横着が過ぎる・・・」
朱さんは言ったが、箸が伸びているところを見ると、味は気に入ったようだ。
「ちなみにそれを作った男は、寝転ん玉まを開発することに半生を捧げたそうだ」
「全然横着してないじゃないですか…」
「本末転倒を絵に描いたような奴だな」
しかし、実際に楽だったし味も嫌いではないので良しとしよう。
「さてと、では気付けに一杯だけ」
そういって酒瓶へ伸ばした手を朱音さんはスリでも捕まえるかの速さと力強さで抑え込んだ。
「朝っぱらから酒を飲むなと言っただろう」
「一杯くらい良いだろう」
「良い訳が無かろう。昨日もあれだけ飲んでおいて、どれだけ飲むつもりだ」
「どれだけ飲むかと聞かれれば、必ず『もっとだ』と答えるのが巳坂の酒飲みだよ」
コストは下がりそうだが、経費はかさみそうな台詞だ。
その後、結局は朱さんの眼光が勝ち、すごすごと一升瓶を下げていた。
やがて食事も終わる。
居間をざっと片づけると、天獄屋についての座学が始まった。
布団をたたみ、部屋の外へ出ようとしたところで気が付いた。猫の姿のままだった。また注意されないよう、部屋から出る前に人へと化けた。尤も人の姿にならなければ戸に手が届かないのだが。
店の方から白んだ光が見える。窓や明かりは無いのにも関わらず不思議なことに、家の中の様子を見るのには困らなかった。
僕の部屋には時計がなかったので時間が分からない。けれども、先ほど部屋で鼻先と髭をくすぐった空気の感触からして夜が明けてすぐ位の時間ではなかろうかと推測した。
そう言えば、天獄屋も此の世と同じ尺度の時間なのだろうか。後で円さんに聞いておこう。
居間の襖から微かに光が漏れている。円さんか玄さんのどちらかが起きているのだろうと、挨拶しながら襖を開けた。
「お早うございま――」
言い終わる前で途切れてしまった。
居間にいたのは僕の予想したうちのどちらでもなかったからだ。
また初めて見る女がいた。
赤みのかかった長い髪の毛を後ろで一本に束ねている。束ねきれなったのであろう余ったこめかみから伸びる髪は胸元まで垂れ、黒の着物に映えていた。いや、よくみると武道着のようだ。そのまま視線を落としていくと道着と同じく黒色の袴を穿いているのが見て取れた。顔は凛としているが、鈴様や玄さんに比べると少々幼いような気がする。しかしながら、纏っている空気は今まで会った誰よりも鋭く張っているようだった。
「ん? ああ、環か。もう起きてきたのか。新入りながら感心な心掛けだ」
赤髪の女は僕を見るなりそう声を掛けてきた。僕の事を知っている風なのが気掛かりで動けずにいた。
「何をしている。早く入ったらどうだ?」
「す、すみません。どちら様でしょうか?」
やはり疑問を解決しないうちには動きようがない。
「ああ、すまない。うっかりしていた。挨拶を済ませたつもりでいた」
女はそう言うと正座したまま、僕の方へ居直った。
「私は朱という。昨日会っていた玄姉さまの妹だ」
「玄さんの妹?」
言われてみれば確かに。面立ちが似ている気がする。
「そうでしたか。初めまして、鍋島環と言います。僕の事は玄さんから聞いたんですか?」
「いや、昨日からずっと姉上の傍で聞いていた」
「昨日から?」
「ふふふ」
朱さんは幽かに笑った。
どういう意味だかさっぱりだ。
「分からなくても無理はない。この姿を取ってはいなかったからな。昨日、姉上が着ていた着物の色を覚えているか?」
「え? 確か…赤い色の着物だったような」
「こんな色の着物だろう?」
朱さんは自分の髪の毛を手に取った。
「ええ。そうです」
「その着物が私だ」
「・・・はい?」
「私たち姉妹は着物の妖怪なのだ。大体は日替わりで人の姿を取り、片方の着物を着て生活している」
「てことは、今お召しになっている黒い着物が玄さん?」
ちらりと道着に目をやると、ぎょっとした。朱さんの道着の袖から、明らかに違う腕がにゅうっと出ていた。そして雪と見紛う白い手は僕に向かって手を振っていた。
手だけで相手を判断できる訳も無いのだが、玄さんなのであろう。
「さて。私は稽古に出てくるが、お主はどうする? 付き合うか?」
稽古と一言だけでは何をするのか不明だが、お茶や踊りの稽古でないことは分かる。どう考えても朱さん風貌には竹刀や木刀の方がよく似合う。
なので丁重に断ることにした。
「円さんと朝食の支度をすることになっていますので、今日は遠慮しておきます」
「そうか。だが彼奴が起き出して来るのには、まだ時間があるぞ」
「でしたら、掃除でもして待っています」
「うむ、分かった。朝のいの一番で掃除をするというのは、やはり感心する。廊下の納戸に掃除に必要なものは入っているはずだ。彼奴が起きるまで留守を頼む」
朱さんはすくっと立ち上がり居間を後にする。口調や態度でついつい大きく見てしまっていたが、立った時の姿は案外小柄であった。
障子を開けて見送る。朱さんは入り口の脇に立てかけてあった棒を一本持つと、引き戸を開ける音に気を使いながら出かけて行った。
一言で言うなら武士のような立ち振る舞いである。ずっと傍にいたのであれば、この猫背も治ってしまいそうだった。
居間を軽く掃除していると、円さんが起きてきた。昨日最後にあった時の風貌と変わっていない。唯一、頭に巻いてある手拭いが唐草模様になっていた。
「お早うございます」
「おう、お早う。ごそごそ音がすると思ったら掃除してたのか」
「はい、何だが目が覚めてしまったので」
「いや、助かるよ。ありがとな」
円さんはまだ眠いようで、一つ大きな欠伸をした。
「そう言えば朱…赤い髪の女がいなかったか?」
「朱さんでしたら、さっき挨拶を済ませましたよ。留守を頼むと言って外に出て行きました」
「そうか。大方素振りでもしてるんだろうから、ほうっておくか。じゃあ、サクッと朝飯の支度をしちまおう」
「はい」
台所は流しを中心にして左右に出入り口があった。店に通じる方には緑の、奥の廊下へ繋がる方には白の暖簾が掛かっている。
ふと、昨日の夕飯の事を思い出した。またみょうちくりんな食材が出てきたらどうしようか。まともに包丁を持ったことがない上に、扱うのが常識外の食べ物だと、いよいよ料理する自信がなくなる。
しかし、円さんが冷蔵庫から取り出して来た材料はどれもこれも、此の世で見知ったものばかりであった。
「買い出しは帰りにでも行くとして、とりあえずあり合わせで、朝は凌ぐか」
円さんは献立を考える。
「鯵の閉じたを焼いて、みそ汁と偽めだま焼きでも作ろう。確か糠床に漬物が少しは残ってたはずだし」
またしてもよく分からない料理の名前を口ずさみながら流しの下の戸を開ける。すると糠のにおいが漏れてきた。樽を取り出す時に、袋に入った里芋が外へとゴロゴロ転がった。
「あちゃー。食えなくなる一歩手前だな。こいつも使っちまうか……待てよ」
里芋の入った袋もついでに出したところで、円さんは僕の顔を見て何かを思いついたようだった。そして、その更に奥からボウルを二つ重ねたような丸い器具を引っ張り出した。
「あったあった。里芋もあるし丁度いいや」
円さんはテキパキと料理し始めた。
僕は簡単な仕事をもらい、みそ汁に入れる野菜を切る。案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、思ったよりも包丁には苦戦しなかった。
家庭的な料理ではあったが、円さんの手際の良さは十分に伝わった。男やもめになったとしても困ることはなさそうだ。
粗方の支度が済んだあたりで、円さんからさっきの丸い器具を渡された。持った感覚では中に里芋と調味料が入っているようである。
「これを…どうするんですか?」
「そいつをお前の部屋に持って行ってくれ」
「部屋にですか? それで、それから後は?」
「適当に横になるなりして、転がして遊んでこい」
「……え?」
意味が分からない。
確かに毛糸玉や紙くずを見ると遊んでみたくもなるが、それで喜ぶほどの仔猫ではないし、そもそも食べ物で遊ぶというのは気が引ける。そして何よりも意味が分からない。
「あと十分くらいで全部終わるから、その間、転がしてくればいい」
仕方がないので、言われるがまま部屋に戻る。畳の上にそれを置くと、僕は猫の姿に戻った。猫の身からすると少々大きいのが気になったが、転がせない程ではない。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも前足で弾いていた。その内についつい盛り上がって楽しんでしまったのは秘密にしよう。
その内に、朱さんが戻ってきたのが気配で分かった。丁度、頃合いも良かったので玉を持って台所へ戻る。居間を抜けようとしたら、既に卓袱台の上に朝食の用意がされており、朱さんが茶碗にご飯をよそっていた。
「お、ご苦労さん」
円さんはその用途不明の器具の中身を器へと移す。やはり中身は里芋だった。良い具合に餡が絡みついていて食欲をそそる。
「よし、と。じゃあ食べるか」
景さんも玄さんもいない食卓は、やはり昨日よりもずっと静なものだった。朱さんの武士紛いの雰囲気が重なると尚更である。箸の使い方一つでも、何故か気を使ってしまう。
このまま無言のうちに食事が終わってしまうかと思っていたが、その静寂を朱さんが破った。
「この里芋は美味しいな。煮っ転がし…とも違うようだが、何という料理だ?」
僕が器具を手渡しているのを見ていたからか、質問がこちらに飛んできた。
「えと、すみません。円さんに言われるままに、それの中に入れて転がしていただけなので、名前までは…」
そもそも名前なんてあるのだろうか。
と思っていた矢先、円さんが口を挟む。
「そいつは里芋のねっ転がしって言うんだよ」
「「は?」」
つい朱さんと声が被った。
幾らなんでもひどい洒落だと思う。
「つまらん洒落だな」
朱さんも同じ事思っていたようだ。
「お前ら、冗談だと思っているみたいだが、残念ながら正式名称だ」
円さんはそう言って里芋のねっ転がしを頬張った。そして脇に置いてあった例の器具を手に取った。
「こいつは『寝ころん玉ま』って言ってな。昔、かなりの横着者が寝たまま料理できるようにと編み出したんだそうだ。味付け用の出し汁と芋を入れて転がすだけで出来るから、結構重宝すんだぞ」
「横着が過ぎる・・・」
朱さんは言ったが、箸が伸びているところを見ると、味は気に入ったようだ。
「ちなみにそれを作った男は、寝転ん玉まを開発することに半生を捧げたそうだ」
「全然横着してないじゃないですか…」
「本末転倒を絵に描いたような奴だな」
しかし、実際に楽だったし味も嫌いではないので良しとしよう。
「さてと、では気付けに一杯だけ」
そういって酒瓶へ伸ばした手を朱音さんはスリでも捕まえるかの速さと力強さで抑え込んだ。
「朝っぱらから酒を飲むなと言っただろう」
「一杯くらい良いだろう」
「良い訳が無かろう。昨日もあれだけ飲んでおいて、どれだけ飲むつもりだ」
「どれだけ飲むかと聞かれれば、必ず『もっとだ』と答えるのが巳坂の酒飲みだよ」
コストは下がりそうだが、経費はかさみそうな台詞だ。
その後、結局は朱さんの眼光が勝ち、すごすごと一升瓶を下げていた。
やがて食事も終わる。
居間をざっと片づけると、天獄屋についての座学が始まった。
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