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第一章 巳坂
最初の晩餐
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景さんの様子がおかしいと思ったのは玄さんも同じようであったが、相も変わらずゆったりとした声で問いかける。
「鍋島というのは、確か猫岳の頭目をなされているお家でしたか?」
景さんは答えなかった。なので、僕が代りに質問に応じた。
「ええ、そうです。僕の父上が鍋島爪衛門と言って、今の猫岳の頭目を張ってます」
「へえ、お父上様がですか」
父、鍋島爪衛門は、猫岳の十三代目の頭目である。歴代の猫岳頭目の中でも特に才と徳に恵まれた猫又だそうだが、家の中にいる父からは噂に聞こえるような厳格さや威厳な雰囲気を感じたことはなかった。十年も家を離れていたが、思い出の中に現れる父はとても柔和な猫又である。
そんな無難な内容で玄さんとの会話を続ける。
玄さんはまるで微笑ましいと言わんばかりの声で、
「素敵なお父様ですね」
と言った。
父と比べればむしろ母の方が厳しかったと思う。けれども、それについては特に反抗的に感じたことはない。此の世へ行くことを強引に押し決めた母の教育論は未だに掴めいていないが、やはりあの人の元へ行けたことはとてもよい経験だった。
十分にお茶が冷めてきたところで店の戸の開く音が聞こえた。それを追って円さんの声も届いてきた。
「うーす。ただいま」
僕たちが上がってきた方とは逆の方にも上がり口と部屋があったようで、円さんはそちらの方から入ってきた。
襖の空いた隙には流し台が見えた。
「お互い、挨拶は済ましたか?」
「おかえりなさいませ。遅かったですね」
「ちょいと野暮用を済ませた後、買い物をね。夕飯の支度はまだだよな?」
「ええ。ちょうどこれからすぐに支度をします」
立ち上がろうとする玄さんを円さんは制止する。
「いや、いいよ。今日は俺がやる。新入りの歓迎もあるからよ。良いもん買ってきた」
円さんは買い物袋をこれ見よがしに付き出す。ローブの下の顔は笑っていた。
「環の部屋を作ったら、とりあえず一晩は寝れるようにだけ手伝ってくれ」
「分かりました」
玄さんは、ニコリと笑い応じた。
「なら私も手伝うわ」
そう言ったのは景さんだった。しかし、いつ間にやら姿がない。声のした方を見ると、店の様子をみるための小窓の障子に影だけが映っていた。どういう訳か店舗の方に居るようだ。
「ん? なんだ、景もいたのか」
「ええ。早速様子見がてらにね。夕飯楽しみにしてるわ」
「へいへい」
気怠そうに返事をした円さんは荷物をひとまず卓袱台におき、自室で着替えて戻ってきた。
頭には金魚の絵が入った手拭いを巻き、上半身は甚平、下はジーンズという前衛的な陶芸家のような恰好だった。
「さて、部屋だけさっさと作っちまうか」
そう言って円さんは部屋の一角にあった額縁を外した。壁には何やら見取り図のような絵が書いてあった。
円さんはそれに線を書き足して、もう一区画の囲いを作った。そうして一旦そこから離れると、襖を開け大声で
「今から部屋を化かすけど、誰もいないな?」
と、叫んだ。
返事がないことを確認すると、再び見取り図の前に立ちポンッと左手の掌を押し当てる。
「よし終わり。じゃあ、あとはよろしくな」
円さんは、買い物袋を取ると台所へ行ってしまった。
僕は玄さんと、これまたいつの間にかこちらに戻っていた景さんに連れられるまま、茶の間を出る。廊下に出るとさっき上がる時には無かった筈のドアがあった。
中を覗くと六畳一間に押し入れが一つあるだけの、とても質素な部屋があった。
「一先ずは布団よね。押し入れの中は空っぽだけど、どこにあるのかしら」
「予備と客布団でしたら、別の部屋にあったはずです」
「とりあえずそのくらいかしら。環くん、手ぶらだし荷物の整理も不必要ね」
布団を運び、押し入れにしまう。
それが終わったところで僕は景さんに尋ねた。
「この部屋ってさっきまで無かったですよね?」
「ええ。だから、円が部屋を書き加えるの見ていたでしょう?」
「あの見取り図みたいなやつですか?」
「そうそう。天獄屋はね、空間が半分しか作用してないのよ」
「?」
よく分からなかった。
「よく分からないでしょうけどね。私も言うほど理解してないし。まあ、妖怪が住みつくために出来上がった世界だから、妖術の一種とでも思っていればいいわ。ようするに、術で部屋を一つ作ったってことよ」
先ほどから僕にとっては不可思議な事の連続だったので、理解はせずとも納得することは難しくなかった。
◇
とりあえず、部屋の支度が終わったので玄さんは店の仕事すると言った。僕はただ待つのが忍びないと言う理由で、景さんは手持無沙汰で暇だからと言う理由で玄さんの手伝いを申し出た。
最初の予想通り棚卸しをしていたそうだ。店名にそぐわず、ここの店の商品のほとんどがウイスキーだったので、渡されたリストのチェックは大して苦にならなかった。
意外な所でウイスキーの知識が役に立った。それでも見たこともないラベルがいくつもあった。
あの人がこの店に来たら喜ぶだろうな。と、ふとそんなことを考えてしまう。
既に大方のチェックは終わっていたようで、案外早めに終わってしまった。
夕飯の支度をしてくれている円さんを後目に、申し訳ないと思いもしたがお茶を飲みつつの休憩する運びとなった。
茶の間に戻るのが手間だったのか、今度は店の方で寛ぐ。
「環くんはこういう飲み物なら平気ですか?」
玄さんは、テーブルカウンターの上にジュースをいくつか並べてくれた。
「さっき、お茶があまり進んでなかったようなので」
「玄さん。巳坂の者ならお酒を勧めてなんぼよ?」
「ああ、そうでした。やはりまだお茶の代わりにお酒を振る舞うというのが慣れませんね。環くんはウイスキーでもよろしくて?」
「いえ、僕はお酒は飲めないです。お茶が進まなかったのも、単に猫舌なだけですから」
僕は慌てて、グラスを用意する玄さんを止める。
「そうですか。私と一緒ですね。お酒は嗜む程度しか駄目ですし、身を置かせてもらっているのに失礼ですが、このういすきーは酒精が強すぎて苦手なんです」
玄さんは困ったような顔で息を漏らす。そして、
「わいん、というのは好きなんですけど」
と続けた。
「いいんじゃない? 日本のお酒だって好き嫌いが分かれてるんだし。私なんて西洋のお酒は全部嫌いよ」
ふむ。巳坂にいるからといって皆が皆、無条件な酒好きというわけではなさそうである。僕は少しだけ安心感を覚えた。
せっかく用意してもらったので、カウンターの上のジンジャエールを貰う。行儀が多少悪かろうが、グラスに注がず瓶に口を付けて飲む方が、僕は美味しいと思う。
鼻を抜ける生姜の香りと、喉に貼りつく辛味を楽しんでいると、となりの椅子に座っていた景さんに声をかけられた。
「猫なのにジンジャエール飲めるんだ?」
「ええ、まあ。猫又は猫の妖怪であって、猫そのものじゃないですから」
「そういうものなの?」
「動物系の妖怪は基本的にそうだと思いますけど…」
「ふうん」
丁度、飲み終わったタイミングで円さんが声だけで僕らを呼んだ。
玄さんは暖簾をくぐり、台所へ入って行くと、お膳を一つ持ってこっちに戻ってきた。
「こちらが景さんのだそうです」
そう言って何故かお膳を一つ、覗き障子の下に置いた。
疑問に思いつつも素直に茶の間に戻る。既に卓袱台の上にはいくつも料理が並んでいた。出ている品は此の世のものと大した違いは感じなかった。
「お待たせさん。じゃあ食うか」
円さんの一声で夕飯となった。
しかし、当然ながらそこに景さんの姿はなく、またしても障子に影だけが映っていた。
「頂きます」
それぞれ、思い思いに箸が進む。
「悔しいけど美味しいわね」
「そりゃそうだ。旨い肴に美味い酒、この時のために働いてんだから」
円さんはそう言うと、玄さんの方を見た。
「そんな訳でさ、今日は環の歓迎もあるんだ。めでたい席で飲まないのはかえって失礼だろう?」
「この頃は毎日ですよ? もう少しお身体を労わられた方が…」
「あんたは人間なんだから、身体のことも考えて飲みなさいよ」
左右から飛んでくる苦言に、円さんはふっと鼻で笑った。
「いつか誰かが俺に禁酒をさせるだろう。だが、それは今日ではないし、お前らにでもない」
「それが最後の言葉にならなければいいのですけれど」
ため息をつく玄さんを余所に、円さんは喜々としてコップに酒を注いだ。その内の一つを僕に差し出すと、
「景に持ってってくれ」
と言った。
それは吝かではないのだが、一つ疑問をぶつける。
「あの。何で景さんは店の方に居るんですか? こちらで一緒に食べればいいのでは?」
「だとさ。偶にはこっちで食べるか?」
「嫌よ。人に姿を見せるなんて、そんなはしたない事する訳ないでしょう」
「そういう訳だ」
「はあ」
僕は円さんからコップを受け取り、店の方へ出向く。景さんは障子のすぐ下の棚の上に座っていた。
「あら、このお酒『だくだく』じゃない」
景さんは香りと色合いだけで見当がついたようだ。やはり巳縞家に仕えているだけあって、酒好きではあるのだろう。
「なんだか大変ですね」
「別に。これが私という妖怪の性質なんだから、不便と思ったことはないわ」
「そういうもんですか」
「ええ。だから私の事は気にしなくて平気よ。勝手にやって」
独りで寂しくないのかな、と感じもしたが、本当に何とも思っていないようにケロリとしていたので、僕は茶の間へと戻った。
「それにしても、イ貝とアン貝のお付けと、もってのほかのおひたし。梅干しの一夜干しに負け鰹のタタキって。まともなのお酒だけじゃない」
「文句があるなら、巳縞に帰って食え」
「冗談よ」
「…イ貝とアン貝ってなんですか?」
耳慣れない食べ物だったので、素直尋ねた。
「お付けに入ってる貝の名前ですよ」
と、玄さんがにっこりと笑いながら答えてくれた。
「おかしい名前ですよね」
「見た感じどっちも同じ貝に見えますけど、どっちがどっちなんです?」
「ええと、食べてみて意外と美味しいのがイ貝で、案外イケるのがアン貝でしたか?」
「ああ、合ってるよ」
円さんは早くも二杯目を注いでいた。まるで水を飲んでいるような早さで酒を飲んでいる。確かに心配されるのも無理はない。
「じゃあ、このもってのほかのおひたしっていうのは」
「食べてみろ。もってのほか美味いから」
「ああ、やっぱりそういう事なんですね…」
毒である訳でもないので、改めて味わってみる。
食材の名前は甚だ腑に落ちないところもあったが、確かにどれもこれも見た目の割に意外といけるし、案外美味しいし、もってのほか旨かった。
「鍋島というのは、確か猫岳の頭目をなされているお家でしたか?」
景さんは答えなかった。なので、僕が代りに質問に応じた。
「ええ、そうです。僕の父上が鍋島爪衛門と言って、今の猫岳の頭目を張ってます」
「へえ、お父上様がですか」
父、鍋島爪衛門は、猫岳の十三代目の頭目である。歴代の猫岳頭目の中でも特に才と徳に恵まれた猫又だそうだが、家の中にいる父からは噂に聞こえるような厳格さや威厳な雰囲気を感じたことはなかった。十年も家を離れていたが、思い出の中に現れる父はとても柔和な猫又である。
そんな無難な内容で玄さんとの会話を続ける。
玄さんはまるで微笑ましいと言わんばかりの声で、
「素敵なお父様ですね」
と言った。
父と比べればむしろ母の方が厳しかったと思う。けれども、それについては特に反抗的に感じたことはない。此の世へ行くことを強引に押し決めた母の教育論は未だに掴めいていないが、やはりあの人の元へ行けたことはとてもよい経験だった。
十分にお茶が冷めてきたところで店の戸の開く音が聞こえた。それを追って円さんの声も届いてきた。
「うーす。ただいま」
僕たちが上がってきた方とは逆の方にも上がり口と部屋があったようで、円さんはそちらの方から入ってきた。
襖の空いた隙には流し台が見えた。
「お互い、挨拶は済ましたか?」
「おかえりなさいませ。遅かったですね」
「ちょいと野暮用を済ませた後、買い物をね。夕飯の支度はまだだよな?」
「ええ。ちょうどこれからすぐに支度をします」
立ち上がろうとする玄さんを円さんは制止する。
「いや、いいよ。今日は俺がやる。新入りの歓迎もあるからよ。良いもん買ってきた」
円さんは買い物袋をこれ見よがしに付き出す。ローブの下の顔は笑っていた。
「環の部屋を作ったら、とりあえず一晩は寝れるようにだけ手伝ってくれ」
「分かりました」
玄さんは、ニコリと笑い応じた。
「なら私も手伝うわ」
そう言ったのは景さんだった。しかし、いつ間にやら姿がない。声のした方を見ると、店の様子をみるための小窓の障子に影だけが映っていた。どういう訳か店舗の方に居るようだ。
「ん? なんだ、景もいたのか」
「ええ。早速様子見がてらにね。夕飯楽しみにしてるわ」
「へいへい」
気怠そうに返事をした円さんは荷物をひとまず卓袱台におき、自室で着替えて戻ってきた。
頭には金魚の絵が入った手拭いを巻き、上半身は甚平、下はジーンズという前衛的な陶芸家のような恰好だった。
「さて、部屋だけさっさと作っちまうか」
そう言って円さんは部屋の一角にあった額縁を外した。壁には何やら見取り図のような絵が書いてあった。
円さんはそれに線を書き足して、もう一区画の囲いを作った。そうして一旦そこから離れると、襖を開け大声で
「今から部屋を化かすけど、誰もいないな?」
と、叫んだ。
返事がないことを確認すると、再び見取り図の前に立ちポンッと左手の掌を押し当てる。
「よし終わり。じゃあ、あとはよろしくな」
円さんは、買い物袋を取ると台所へ行ってしまった。
僕は玄さんと、これまたいつの間にかこちらに戻っていた景さんに連れられるまま、茶の間を出る。廊下に出るとさっき上がる時には無かった筈のドアがあった。
中を覗くと六畳一間に押し入れが一つあるだけの、とても質素な部屋があった。
「一先ずは布団よね。押し入れの中は空っぽだけど、どこにあるのかしら」
「予備と客布団でしたら、別の部屋にあったはずです」
「とりあえずそのくらいかしら。環くん、手ぶらだし荷物の整理も不必要ね」
布団を運び、押し入れにしまう。
それが終わったところで僕は景さんに尋ねた。
「この部屋ってさっきまで無かったですよね?」
「ええ。だから、円が部屋を書き加えるの見ていたでしょう?」
「あの見取り図みたいなやつですか?」
「そうそう。天獄屋はね、空間が半分しか作用してないのよ」
「?」
よく分からなかった。
「よく分からないでしょうけどね。私も言うほど理解してないし。まあ、妖怪が住みつくために出来上がった世界だから、妖術の一種とでも思っていればいいわ。ようするに、術で部屋を一つ作ったってことよ」
先ほどから僕にとっては不可思議な事の連続だったので、理解はせずとも納得することは難しくなかった。
◇
とりあえず、部屋の支度が終わったので玄さんは店の仕事すると言った。僕はただ待つのが忍びないと言う理由で、景さんは手持無沙汰で暇だからと言う理由で玄さんの手伝いを申し出た。
最初の予想通り棚卸しをしていたそうだ。店名にそぐわず、ここの店の商品のほとんどがウイスキーだったので、渡されたリストのチェックは大して苦にならなかった。
意外な所でウイスキーの知識が役に立った。それでも見たこともないラベルがいくつもあった。
あの人がこの店に来たら喜ぶだろうな。と、ふとそんなことを考えてしまう。
既に大方のチェックは終わっていたようで、案外早めに終わってしまった。
夕飯の支度をしてくれている円さんを後目に、申し訳ないと思いもしたがお茶を飲みつつの休憩する運びとなった。
茶の間に戻るのが手間だったのか、今度は店の方で寛ぐ。
「環くんはこういう飲み物なら平気ですか?」
玄さんは、テーブルカウンターの上にジュースをいくつか並べてくれた。
「さっき、お茶があまり進んでなかったようなので」
「玄さん。巳坂の者ならお酒を勧めてなんぼよ?」
「ああ、そうでした。やはりまだお茶の代わりにお酒を振る舞うというのが慣れませんね。環くんはウイスキーでもよろしくて?」
「いえ、僕はお酒は飲めないです。お茶が進まなかったのも、単に猫舌なだけですから」
僕は慌てて、グラスを用意する玄さんを止める。
「そうですか。私と一緒ですね。お酒は嗜む程度しか駄目ですし、身を置かせてもらっているのに失礼ですが、このういすきーは酒精が強すぎて苦手なんです」
玄さんは困ったような顔で息を漏らす。そして、
「わいん、というのは好きなんですけど」
と続けた。
「いいんじゃない? 日本のお酒だって好き嫌いが分かれてるんだし。私なんて西洋のお酒は全部嫌いよ」
ふむ。巳坂にいるからといって皆が皆、無条件な酒好きというわけではなさそうである。僕は少しだけ安心感を覚えた。
せっかく用意してもらったので、カウンターの上のジンジャエールを貰う。行儀が多少悪かろうが、グラスに注がず瓶に口を付けて飲む方が、僕は美味しいと思う。
鼻を抜ける生姜の香りと、喉に貼りつく辛味を楽しんでいると、となりの椅子に座っていた景さんに声をかけられた。
「猫なのにジンジャエール飲めるんだ?」
「ええ、まあ。猫又は猫の妖怪であって、猫そのものじゃないですから」
「そういうものなの?」
「動物系の妖怪は基本的にそうだと思いますけど…」
「ふうん」
丁度、飲み終わったタイミングで円さんが声だけで僕らを呼んだ。
玄さんは暖簾をくぐり、台所へ入って行くと、お膳を一つ持ってこっちに戻ってきた。
「こちらが景さんのだそうです」
そう言って何故かお膳を一つ、覗き障子の下に置いた。
疑問に思いつつも素直に茶の間に戻る。既に卓袱台の上にはいくつも料理が並んでいた。出ている品は此の世のものと大した違いは感じなかった。
「お待たせさん。じゃあ食うか」
円さんの一声で夕飯となった。
しかし、当然ながらそこに景さんの姿はなく、またしても障子に影だけが映っていた。
「頂きます」
それぞれ、思い思いに箸が進む。
「悔しいけど美味しいわね」
「そりゃそうだ。旨い肴に美味い酒、この時のために働いてんだから」
円さんはそう言うと、玄さんの方を見た。
「そんな訳でさ、今日は環の歓迎もあるんだ。めでたい席で飲まないのはかえって失礼だろう?」
「この頃は毎日ですよ? もう少しお身体を労わられた方が…」
「あんたは人間なんだから、身体のことも考えて飲みなさいよ」
左右から飛んでくる苦言に、円さんはふっと鼻で笑った。
「いつか誰かが俺に禁酒をさせるだろう。だが、それは今日ではないし、お前らにでもない」
「それが最後の言葉にならなければいいのですけれど」
ため息をつく玄さんを余所に、円さんは喜々としてコップに酒を注いだ。その内の一つを僕に差し出すと、
「景に持ってってくれ」
と言った。
それは吝かではないのだが、一つ疑問をぶつける。
「あの。何で景さんは店の方に居るんですか? こちらで一緒に食べればいいのでは?」
「だとさ。偶にはこっちで食べるか?」
「嫌よ。人に姿を見せるなんて、そんなはしたない事する訳ないでしょう」
「そういう訳だ」
「はあ」
僕は円さんからコップを受け取り、店の方へ出向く。景さんは障子のすぐ下の棚の上に座っていた。
「あら、このお酒『だくだく』じゃない」
景さんは香りと色合いだけで見当がついたようだ。やはり巳縞家に仕えているだけあって、酒好きではあるのだろう。
「なんだか大変ですね」
「別に。これが私という妖怪の性質なんだから、不便と思ったことはないわ」
「そういうもんですか」
「ええ。だから私の事は気にしなくて平気よ。勝手にやって」
独りで寂しくないのかな、と感じもしたが、本当に何とも思っていないようにケロリとしていたので、僕は茶の間へと戻った。
「それにしても、イ貝とアン貝のお付けと、もってのほかのおひたし。梅干しの一夜干しに負け鰹のタタキって。まともなのお酒だけじゃない」
「文句があるなら、巳縞に帰って食え」
「冗談よ」
「…イ貝とアン貝ってなんですか?」
耳慣れない食べ物だったので、素直尋ねた。
「お付けに入ってる貝の名前ですよ」
と、玄さんがにっこりと笑いながら答えてくれた。
「おかしい名前ですよね」
「見た感じどっちも同じ貝に見えますけど、どっちがどっちなんです?」
「ええと、食べてみて意外と美味しいのがイ貝で、案外イケるのがアン貝でしたか?」
「ああ、合ってるよ」
円さんは早くも二杯目を注いでいた。まるで水を飲んでいるような早さで酒を飲んでいる。確かに心配されるのも無理はない。
「じゃあ、このもってのほかのおひたしっていうのは」
「食べてみろ。もってのほか美味いから」
「ああ、やっぱりそういう事なんですね…」
毒である訳でもないので、改めて味わってみる。
食材の名前は甚だ腑に落ちないところもあったが、確かにどれもこれも見た目の割に意外といけるし、案外美味しいし、もってのほか旨かった。
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