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第一章 巳坂

疑念の影

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「御免ください」

 不思議さが気がかりになり、声だけを先に店に入れる。掛けた手は戸から離れていない。

「いらっしゃいませ」

 暖簾の奥から聞こえたのはとても優しい声だった。不安がそう聞かせたのかもしれない。

 敷居を踏まないように跨いで通る。ただ歩幅が合わないから、フワリと跳ねてしまう。

 中は狭かった。その上、棚や硝子ケースなどが並び更に窮屈に感じる。そこには透き通った茶色の瓶が陳列している。

 ウイスキー瓶だ。ラベルを信じるのなら間違いない。

 棚の色、床の色、そしてウイスキー瓶の色。

 種類も濃さも違えど、目が捉えるのはどこか懐かしい茶色い光景であった。

 ケースの奥は一段高くなっており、そこに女がいた。

 少し濃い朱色の着物が割烹着から覗いている。割烹着の白さが胸の高さまで伸びた髪の色と対極的で一層艶っぽく見える。手に台帳を持っていたので、恐らく棚卸でもしていたのかも知れない。

 すんっ、と鼻から空気を入れる。女が人ではないことはすぐに分かった。

 石の台にあった草履を履くと、足早に近づいてきた。

「いらっしゃいませ」

 再び声を聞く。先ほどの挨拶は、戸の音に反応した条件反射だったようだ。今度ははっきりと相手を定めているので、更に心地よく耳奥が揺れる。

 膝に手を当て、軽く屈折する。それでも幾分女の方が高い。

「あの、こちら和泉屋さんでよろしかったですか?」

 火酒が読めなかったから、わざと逸らして尋ねた。

 女は笑顔で返す。

「はい。和泉屋ウイスキー店です。お使いモノですか? それとも店主にご用でしたら、今は出ていますので、少し待ってもらう事になりますけど」

「円さんですよね? その人に言われて来ました。猫岳の鍋島環といいます」

 巳坂にきて、初めてまともな自己紹介が出来た気がする。

「玄さんという方に言って、中で待っているようにと言われてました」

「そうでしたか」

 女は得心がいったようにポンッと両の手を合わせた。可愛らしさ以上に品の良さが垣間見える仕草だった。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私が玄です。お茶を入れるので、こちらへどうぞ」

 と、奥座敷に上がるように言われた。

 素直に土間から、上へ上がろうとしたところで、別の声に呼び止められた。

「そのまま上がったら、床が汚れちゃうわよ」

 聞き覚えのある声だった。

 声のした方を向けば、その主はすんなり見つかった。いつのまにか景さんが後ろに立っていた。

「あら、景さんもご一緒でしたか」

「玄さん。濡れ雑巾ある?」

「はい。少しお待ちください」

 玄さんは一旦、暖簾の奥に入ると、雑巾を持ってきた。

 僕は玄さんと景さんに礼を言ってごしごしと足を拭いた。

「円に言って、履物買って貰わないとね」

 六段だけの階段を上がり店の奥へ入るとすぐ右手に襖があった。廊下はまだ続いており、薄暗がりの先に右に折れているのが見えた。突き当たりには洋風のドアも見える。

 玄さんの後ろについて座敷へと上がる。中はいかにも茶の間という装いの部屋であった。中央には四角い食卓、向かって左奥には茶箪笥が置いてある。

 茶箪笥と反対の角にテレビがあり、それが唯一近代的な存在感を放っている。

 様相や家具は質素であるが、掃除が行き届いているのがはっきりと分かる。花が生けてあったり、ところどころに色彩が可愛らしい小間物がおいてあったりと上品さが醸し出ていた。

 店側に面している壁の下は障子になっている。こちらの部屋に居ながら店の様子を見る為であろう。

 食卓の周りには座布団が二つ置いてあるので、普段は円さんと玄さんだけしかいないんだろうと勝手に推測する。

 差し出されるまま座布団に座ると、玄さんはお茶を入れてくれた。折角熱いお茶を入れてもらい酒でなくてよかったと安心したが、やはり少し覚まさなければ飲めなかった。

 それぞれが落ち着いたところで玄さんが口を開いた。

「それで景さん。この子はどういったお知り合いですか?」

 茶箪笥の上の小物を見つめ、指でつついていた景さんがそれに答える。

「なんでも今日からこの店で働くらしいわよ」

「?」

 そりゃあ、諸々省きすぎて分からないだろう。僕はきちんと玄さんの方へと向き直し、頭を垂れて自己紹介をした。

「猫岳から奉公に出てきました、鍋島環と言います。鈴さまの口入で本日から、和泉屋さんにご厄介になることになりました。改めましてよろしくお願いします」

「これはこれは、ご丁寧に」

 そう言って玄さんも深々と頭を下げてきた。しかし、どこを見てても品がいい。

「私達も訳あって円さんのお店に厄介になっているんです。ただの食客では申し訳ないので、少しだけお店のお手伝いをして、」

「今、鍋島って言った?」

 突然の声に会話を遮られ、僕と玄さんは揃って景さんを見た。

「は、はい。鍋島家の猫です。とは言っても末席なんですが」

「鍋島月子って知ってる?」

 突然出てきた母の名前に驚いた。

「母を知ってるんですか?」

 その答えを聞いて、今度は景さんが驚いていた。そしてぼそりと、

「冗談でしょう…」

と呟いたのだった。その顔は何故かゾッとした表情だった。
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