3 / 66
第一章 巳坂
里帰り
しおりを挟む
約束の夜。
執拗に窓に爪を立てて家主にリビングの窓を開けてもらった。普段から外に出してもらっていたが、ここまでねだったことはなかったので家主は不思議そうな顔をしつつも僕を外に出してくれた。
庭で振り返ると、いつも通りの家主の顔があった。
僕はここまで出かかった声を何とか飲み込んだ。
この人はきっと、これから何日も何日も僕の帰りを待つのだろう。
向き直った勢いに任せて駆け出す。
振り返りたい衝動を押し殺して走り続けた。雲一つない空に浮かぶ月の灯りが心なしか寂しく思える。
迎えがある今日の夜は、この街で一番古い橋に来るように事前に伝えれていた。
古い橋と聞けばこの街に住んでいる者なら人間から野良猫に至るまで思い当たる橋が一つだけある。このご時世にあって未だに木造であり、コンクリートで補修される話が持ち上がった時、住民総出の署名と募金活動を起こしてまで木造を貫いている『神辺橋』だ。尤もこの街のみなは、傍に植えられた見事な桜の樹の一番の見どころと知っているので、通称の『お花見橋』と呼ぶことの方が多い。
お花見橋の袂までたどりついた。すぐ脇の和菓子屋の出っ放しの腰掛に上がると、使いの者が来るのを待った。
月は出ているが、風のない夜だった。
「お迎えに上がりました」
さほど待ったという実感も湧かないうちに、黒い猫が一匹目の前に現れた。
「真白さん」
「お久しぶりです、環さん」
「こちらこそ」
真白さんは母を除けば、僕に対し一番に親身になってくれている猫又だ。それこそ生まれたばかりの頃からお世話になっている。此の世に来てからも母が都合で顔を見せられないとき、よく手土産を持って会いに来てくれていた。
真白さんと伴って、僕らは橋の下にまで降りて行く。
「あてくし一匹の出迎えで恐れ入りますが」
「僕ごときに大勢で来られる方が大変ですよ」
「とはいいましても、今となっては環さんは立派な跡目候補の一匹ですよ」
「跡目候補になれたから帰るんじゃなくて、単に帰って来いと言われたから帰るまでですよ。もし説得できるようならすぐにでもこっちに戻ってきたいくらいんですから」
そう言った時、初めて真白さんが振り返った。
「そう聞いて安心しました。正直なところ、あてくしも何を今さらと思っていた塩梅でして」
「僕の口からその気はないと伝えれば、ひょっとしたら父上の気も変わるかも知れない。母上にも面倒な気苦労を掛けたくはないしね」
「どの道、一度は戻らなくてはならんのです。ぼちぼち参りましょう」
やがて橋の下へと降り、人目がないことを確認すると真白さんはひょいと二本足で立ち、予め用意していたのであろう提灯を支度し始めた。口からフッと小さな狐火を吐き出し、蝋燭を灯す。
そう言えば、猫が出そうが狸が出そうが狐火というのは何故だろうか。
「月が綺麗な晩で、よござんした」
提灯には猫の肉球を象った紋が入っている。これが猫岳を治める鍋島家の家紋だ。
真白さんは手に持った提灯を使い、空に陣を書くように回しだした。その途端、さっきまで見えていた向こう側の景色が、墨よりも黒い闇を残すばかりとなった。遠い昔、猫岳から此の世にやって来た時の記憶がちらついた。あの時も確か、こんなところを通った覚えがある。
僕ははぐれないよう、真白さんの後ろにピタリとついて歩き始めた。
提灯の灯は僕と真白さんの他を照らしていない。
・・・。
どれほど歩いただろうか。
いつの間にか暗闇しかなかった景色の中に、一筋の道が見えていた。それから間もなく、今度は道を囲むようにねこじゃらしが生い茂っているのに気が付いた。視野は次第に開けていき、ねこじゃらしは一面の野原いっぱいに生え風にそよいで、空にはぽっかりと月が浮かんでいた。
野原と一本道の先には小高い丘があり、その天辺には堂々と建つ大きな屋敷が見えた。あれこそが僕の生家である、猫岳の屋敷だ。
時代劇で見るような門をくぐり屋敷へと上がる。どういう訳か猫の仔一匹見当たらない。怖いくらいに静かだった。
薄暗い廊下をヒタヒタと歩いて行く。玄関はかすかに覚えていたが、屋敷の中の風景は大分記憶が薄れていた。
「こちらへ案内しろとのことなので」
そう言ってごくごく普通の客間に通された。床の間と押し入れの他には机が一脚置かれているだけの簡素な部屋だった。
「ありがとうございます」
「なんの。では、あてくしはこれで」
真白さんは廊下を引き返すように去って行った。
それから五分も経たないうちに、母上が部屋へ入ってきた。
「お帰りなさい」
「はい。今戻りました」
「変わりはないですか?」
「はい。どこも」
「良かったわ」
そう安堵したのも束の間、母上の眼光が鋭くなったかと思うと、矢庭に口を切る。
「ついて早速で悪いのだけれど、すぐにここを経って貰わなければならなくなりました」
「え。いやしかし、挨拶などは」
しなくてもいいんですか、とすべて言い終わる前に僕の言葉は遮られた。
「構いません。後日改めて説明します。最低限の荷は用意しましたから、すぐにここを経ちなさい」
因みに――と、余程急いでいる事は見て取れたが、これだけははっきりとさせておきたい事を聞いた。
「因みにどちらへ」
「私の古くからの知り合いの店に行ってもらいます。すでに話は通してあるので心配はいりません」
「分かりました」
そう言うしかないだろう。というのは心の内にしまっておいた。
「落ち着く間もなく振り回すことになってしまいました、本当にごめんなさい」
「気にしないでください、僕は大丈夫ですよ」
何の気なしに出た言葉であったが、それでも母は涙ぐんで応えてくれた。
「…ありがとう、環」
事態は目まぐるしく動いて行くのに、頭の中はそれと反比例するように落ち着き澄んでいた。けれども予感はしていたが、やはり平穏とは程遠い暮らしになるのは間違いなさそうだ。
むしろ暢気にそんな事を考えていられる余裕がこの時まではあったのだ。
母の宣言通り、あの後すぐに屋敷を出るとまたしてもねこじゃらしの原っぱを歩かされた。やがて、とある三叉路に辿り着いた。真ん中の立札には『右巳坂 左岩馬』と書いてある。
「ごめんなさい。見送りができるのはここまでです」
ここまで来たとき、母がそう言って一通の手紙を差し出してきた。
そして、ここから『巳坂』の方へ歩いていき、景色が変わったところで手紙を開けと言ってきた。
不安も名残も残ったが今更どうにかできる訳も無く、僕は言われた通りに歩き始めた。途中で何度か振り返ったが、母はずっと僕の事を見送っていた。
しばらく行くと、また先ほどと同じように景色が暗闇に変わった。ただ今度の場合は向こうにぼんやりと光が見えた。かすかに見える道もその光の方へと伸びていたので、別段迷うことなくそっちへ歩いて行く。
風景の前に空気が変わったことに気が付いた。
色々な料理や食べ物の香りが漂い出している。
やがて周りの景色はがらりと変わった。
◇
僕はいつの間にか真っ赤な欄干が鮮やかに映える橋の上に立っていた。
執拗に窓に爪を立てて家主にリビングの窓を開けてもらった。普段から外に出してもらっていたが、ここまでねだったことはなかったので家主は不思議そうな顔をしつつも僕を外に出してくれた。
庭で振り返ると、いつも通りの家主の顔があった。
僕はここまで出かかった声を何とか飲み込んだ。
この人はきっと、これから何日も何日も僕の帰りを待つのだろう。
向き直った勢いに任せて駆け出す。
振り返りたい衝動を押し殺して走り続けた。雲一つない空に浮かぶ月の灯りが心なしか寂しく思える。
迎えがある今日の夜は、この街で一番古い橋に来るように事前に伝えれていた。
古い橋と聞けばこの街に住んでいる者なら人間から野良猫に至るまで思い当たる橋が一つだけある。このご時世にあって未だに木造であり、コンクリートで補修される話が持ち上がった時、住民総出の署名と募金活動を起こしてまで木造を貫いている『神辺橋』だ。尤もこの街のみなは、傍に植えられた見事な桜の樹の一番の見どころと知っているので、通称の『お花見橋』と呼ぶことの方が多い。
お花見橋の袂までたどりついた。すぐ脇の和菓子屋の出っ放しの腰掛に上がると、使いの者が来るのを待った。
月は出ているが、風のない夜だった。
「お迎えに上がりました」
さほど待ったという実感も湧かないうちに、黒い猫が一匹目の前に現れた。
「真白さん」
「お久しぶりです、環さん」
「こちらこそ」
真白さんは母を除けば、僕に対し一番に親身になってくれている猫又だ。それこそ生まれたばかりの頃からお世話になっている。此の世に来てからも母が都合で顔を見せられないとき、よく手土産を持って会いに来てくれていた。
真白さんと伴って、僕らは橋の下にまで降りて行く。
「あてくし一匹の出迎えで恐れ入りますが」
「僕ごときに大勢で来られる方が大変ですよ」
「とはいいましても、今となっては環さんは立派な跡目候補の一匹ですよ」
「跡目候補になれたから帰るんじゃなくて、単に帰って来いと言われたから帰るまでですよ。もし説得できるようならすぐにでもこっちに戻ってきたいくらいんですから」
そう言った時、初めて真白さんが振り返った。
「そう聞いて安心しました。正直なところ、あてくしも何を今さらと思っていた塩梅でして」
「僕の口からその気はないと伝えれば、ひょっとしたら父上の気も変わるかも知れない。母上にも面倒な気苦労を掛けたくはないしね」
「どの道、一度は戻らなくてはならんのです。ぼちぼち参りましょう」
やがて橋の下へと降り、人目がないことを確認すると真白さんはひょいと二本足で立ち、予め用意していたのであろう提灯を支度し始めた。口からフッと小さな狐火を吐き出し、蝋燭を灯す。
そう言えば、猫が出そうが狸が出そうが狐火というのは何故だろうか。
「月が綺麗な晩で、よござんした」
提灯には猫の肉球を象った紋が入っている。これが猫岳を治める鍋島家の家紋だ。
真白さんは手に持った提灯を使い、空に陣を書くように回しだした。その途端、さっきまで見えていた向こう側の景色が、墨よりも黒い闇を残すばかりとなった。遠い昔、猫岳から此の世にやって来た時の記憶がちらついた。あの時も確か、こんなところを通った覚えがある。
僕ははぐれないよう、真白さんの後ろにピタリとついて歩き始めた。
提灯の灯は僕と真白さんの他を照らしていない。
・・・。
どれほど歩いただろうか。
いつの間にか暗闇しかなかった景色の中に、一筋の道が見えていた。それから間もなく、今度は道を囲むようにねこじゃらしが生い茂っているのに気が付いた。視野は次第に開けていき、ねこじゃらしは一面の野原いっぱいに生え風にそよいで、空にはぽっかりと月が浮かんでいた。
野原と一本道の先には小高い丘があり、その天辺には堂々と建つ大きな屋敷が見えた。あれこそが僕の生家である、猫岳の屋敷だ。
時代劇で見るような門をくぐり屋敷へと上がる。どういう訳か猫の仔一匹見当たらない。怖いくらいに静かだった。
薄暗い廊下をヒタヒタと歩いて行く。玄関はかすかに覚えていたが、屋敷の中の風景は大分記憶が薄れていた。
「こちらへ案内しろとのことなので」
そう言ってごくごく普通の客間に通された。床の間と押し入れの他には机が一脚置かれているだけの簡素な部屋だった。
「ありがとうございます」
「なんの。では、あてくしはこれで」
真白さんは廊下を引き返すように去って行った。
それから五分も経たないうちに、母上が部屋へ入ってきた。
「お帰りなさい」
「はい。今戻りました」
「変わりはないですか?」
「はい。どこも」
「良かったわ」
そう安堵したのも束の間、母上の眼光が鋭くなったかと思うと、矢庭に口を切る。
「ついて早速で悪いのだけれど、すぐにここを経って貰わなければならなくなりました」
「え。いやしかし、挨拶などは」
しなくてもいいんですか、とすべて言い終わる前に僕の言葉は遮られた。
「構いません。後日改めて説明します。最低限の荷は用意しましたから、すぐにここを経ちなさい」
因みに――と、余程急いでいる事は見て取れたが、これだけははっきりとさせておきたい事を聞いた。
「因みにどちらへ」
「私の古くからの知り合いの店に行ってもらいます。すでに話は通してあるので心配はいりません」
「分かりました」
そう言うしかないだろう。というのは心の内にしまっておいた。
「落ち着く間もなく振り回すことになってしまいました、本当にごめんなさい」
「気にしないでください、僕は大丈夫ですよ」
何の気なしに出た言葉であったが、それでも母は涙ぐんで応えてくれた。
「…ありがとう、環」
事態は目まぐるしく動いて行くのに、頭の中はそれと反比例するように落ち着き澄んでいた。けれども予感はしていたが、やはり平穏とは程遠い暮らしになるのは間違いなさそうだ。
むしろ暢気にそんな事を考えていられる余裕がこの時まではあったのだ。
母の宣言通り、あの後すぐに屋敷を出るとまたしてもねこじゃらしの原っぱを歩かされた。やがて、とある三叉路に辿り着いた。真ん中の立札には『右巳坂 左岩馬』と書いてある。
「ごめんなさい。見送りができるのはここまでです」
ここまで来たとき、母がそう言って一通の手紙を差し出してきた。
そして、ここから『巳坂』の方へ歩いていき、景色が変わったところで手紙を開けと言ってきた。
不安も名残も残ったが今更どうにかできる訳も無く、僕は言われた通りに歩き始めた。途中で何度か振り返ったが、母はずっと僕の事を見送っていた。
しばらく行くと、また先ほどと同じように景色が暗闇に変わった。ただ今度の場合は向こうにぼんやりと光が見えた。かすかに見える道もその光の方へと伸びていたので、別段迷うことなくそっちへ歩いて行く。
風景の前に空気が変わったことに気が付いた。
色々な料理や食べ物の香りが漂い出している。
やがて周りの景色はがらりと変わった。
◇
僕はいつの間にか真っ赤な欄干が鮮やかに映える橋の上に立っていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
18
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる