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アタシ達がエオイルに来てからあっという間に三カ月が経過した。
その三月は劇的という他ないほど目まぐるしい変化と対応が求められた三カ月だった。アタシ達は召喚の際に授かった能力の適性を判断された後、すぐにエオイル国の国軍に配属された。それほどまでに吸血鬼との戦いによってエオリル国は疲弊していたのだ。
とは言っても、二人でいきなり前線に放り込まれる様な事は勿論なかったけど。
まず彩斗は王国軍団長のカトイクさんの指示の元、剣と魔法の修練や軍団としての動き方、対吸血鬼用の戦い方などを細かく指導さている。
彩斗の飲み込みの良さは凄まじく、二週間もしない内にエオイルの名だたる武人、将軍クラスと肩を並べるほどにまでメキメキと成長した。どちらかと言えばインドア派であまり身体を動かすことは苦手な人だと思っていたが、エオイルに来てからは打って変わって逞しくなっている気がする。
アタシはと言えば専らの後方支援。特に癒しの能力を存分に振るえるように傷病兵の運ばれてくる病院や、避難所が割り当てられていた。とは言っても、アタシの方は順調とは言えなかった。
確かに傷や病気を癒す事はできていたが、それにはとてつもない集中力が求められるので一日で治すことのできる人数は極僅かに限られてしまう。血を流し、苦しい声を上げる人たちを治したいという気持ちはあるがどうしても限界はある。別に医療従事者である訳でもない私には傷病で苦しんでいる人たちと同じ空間にいるだけで、気力がどんどん削られてしまうのだ。
しかも困った事にアタシは子供の頃から血を見るのが極端に苦手だった。
小学生の頃に母が料理の包丁の扱いをしくじって、腕から血を噴き出して倒れた事がある。家族がすぐに救急車を呼んでくれたので命に別状はなかったが、当時のアタシにはショックが大きすぎて他人の血を見るとあの時の恐怖や不安感が押し寄せてきてしまう…。
それでも治癒の力を持った聖女と言われ、その期待に応えようと努力はしてみた。治癒魔法はとにかく精神力を削るので、墨の魔法を駆使して一人で多くの怪我人を運び入れたり、薬剤の調達に一役買ったりなどと地道な作業であったのは否めないけど。
むしろ墨の魔法を使った情報整理や伝書、各種の書類作成などの仕事の方が捗っていた。そっちの方は元の世界でやっていた仕事の延長線上みたいなものだし、書道好きが幸いしてか紙と文字と向かい合うのはアタシの性分に合っていたからだ。
ただ。
そうして過ごしているうちに、いつしか城内には二つの名前が囁かれるようになった。
『エオリル国の救世主、剣聖アヤト』
そしてもう一つ。
『期待外れの黒聖女』
黒というのは清純な色からかけ離れた汚れという意味と、墨の魔法を使うからそう呼ばれているのだろうと思う。
流石に面と向かってそんな中傷を浴びせられることはなかったが、奇跡と比喩されるほどのレアな能力がうまく発揮されない事にヤキモキしていた関係者が多いのは事実だ。そんながっかりとした感触は何も言葉だけで伝わるモノじゃない。皆の態度によく表れていたのだ。
…いや、少し違うか。
一人だけ、アタシに面と向かって期待外れの黒聖女と言っている人間もいた。
そう、メイリオ姫その人だ。
初めの頃は例の気品のある佇まいで当たり障りのない挨拶を飛ばす程度の関係性を保てていたのだが、日を追い、アタシの癒しの能力が存分に発揮できない事が露呈し始めると見る見るうちに態度が変わっていった。
というか、期待外れの黒聖女というあだ名はどう考えもメイリオが発端な気がしてならない。
メイリオは狡猾な人だったので表立ってアタシを馬鹿にしてくるという事はしなかったが、どういう訳か一人でいる隙を見つけては一言どころではない文句を言って、
「では御機嫌よう。期待外れの黒聖女様」
と、結んで去っていった。
一番初めの頃は瓜二つの別人がいるのかとも思うくらいの変貌っぷりに戸惑うだけで怒りや悲しさは出てこなかったのだが、一月も経ってしまうと話は変わる。まさか王女様の裏の顔がこんなだと誰に相談できるはずもなく、悶々とした日々を過ごすしかなかった。
心の支えになっていた彩斗も才能を開花させた後は、だんだん王宮を離れる機会も増えていった。
もう四日も会えていない。
しかも、まかりなりにも戦争に言っているのだ。いつ訃報が飛んでくるかもしれないと思うと心配に押しつぶされそうになり、自然にため息が多くなる。孤独感を感じ、元の世界に思いを馳せる時間がどうしたって増えてしまう。
当初は元の世界に戻る方法を二人で懸命に探していた。しかし最近になってふと思う事がある。
彩斗は元の世界に帰る事を諦めているのではないだろうかと。
いや、むしろ積極的にエオイル国に残ろうとしているんじゃないだろうか。
そんなバカげた被害妄想を抱く度にアタシは自分の頭を小突いて、彩斗に心の中で謝っている。けど、アタシはそのくらい精神的に参っていたのも事実なのだ。
いつしかアタシは一日の仕事が終わると、自室ではなくて図書室の隅にポツンと併設された倉庫のような部屋を自分の居場所にしていた。宛がわれた部屋はどうにも落ち着かないのだ。この部屋で文献を漁り、何とか元の世界に帰る方法を探すのが一種の精神安定剤になっている。
そしてもう一つ。心の落ち着くものがあった。それはエオリル国に訪れた初日に見た、漢字ばかりが書かれた謎の紙。やっぱり何の規則性も意味も見出すことはできなかったが、外国どころか異世界に迷い込んだアタシに取っては日本と元の世界を思い起こさせる重要なファクターになっていた。
ホームシックのような状態も心が落ち着かない理由なのだと思う。
目に入った漢字を雑紙に万年筆で書き起こす。ホントは筆が良かったが、ないものをねだってもしょうがない。それにこの万年筆も職人が手掛けた意匠の凝った代物。彩斗が初めて功績を上げた時に頂いた報奨金を使ってアタシにプレゼントしてくれたものだった。
貰った時は嬉しかったけれど…やっぱり彩斗と一緒にいられる時間の方が何倍も嬉しい。
そう思った時。
書庫にいるアタシの耳に彩斗の声が届いた。
一瞬、幻聴かとも思った。
しかし耳を傍立ててみると間違いなく彩斗の声だった。コソコソと誰かと会話しながらこちらに向かってきている。けれど事前に聞かされていた予定では帰城は明日だったはずなのに。それに…誰と一緒にいるんだろう?
いつもなら真っ先に私の部屋か仕事先に来てくれるのに…あ、違うか。いつもと違う場所に引きこもっているのはアタシの方だ。この部屋を使っているのは図書館の司書のお爺ちゃんくらいしか知らない。ひょっとしたらどこにもいないアタシを探しに来てくれたのだろうか。この王宮でアタシの行きそうな場所など図書館くらいしかないのだから。
けれど、何でこんな奥まった蔵書保管庫まで来たんだろうか?
アタシは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。しかし外にいる声の主に気が付いた時、ピタリと手が止まった。
彩斗が誰かと一緒に来ている事は気配で気が付いていたけれど。これは。
…メイリオの声?
なんで彩斗とメイリオと一緒にいるの? しかも人目をはばかるように、コソコソと。
アタシは扉の前で思わず聞き耳を立てていた。
「メイリオ様」
「彩斗様。二人きりの時はメイリオでよろしいですのよ」
「…ああ、そうだったね。メイリオ、ただいま」
「ご無事のお戻りで嬉しいです」
「色々と心配をかけてゴメンね。けど召喚の儀の能力とメイリオのサポートがあるから大丈夫だよ。忙しいのに苦労をかける」
「彩斗様の為の事ですもの。苦労とは思いません…それに戦いよりも城に戻ってからの方がお辛いのではありませんか? 休む間もなく架純様のお相手までしなければならないのですから?」
「…まあ、一応は婚約者だからね」
…い、一応ってどういう意味?
それにアタシの相手をするなんて言い方、まるで駄々をこねている子供みたいに言って…。
「ふふふ。ですからそれまでのほんの一時、どうぞ全てを忘れてお寛ぎになってくださいまし。エオイルの英傑様をこんな埃の蔓延る場所にお連れするのは忍びありませんが、人目を避けるにはまだこのようなところしかご用意できませんの」
「十分だよ。けど、ありがとう。やっと一息つける」
「どのような方にも休息は必要です…まあ休息ばかりの聖女様もいらっしゃいますが」
「…元々そんな強い子じゃないからね。変な所で自分を曲げないところもあるけれど」
「世間ではそれを我儘と申しますの。ご存知でしたか」
「ははは」
ドアノブに置いていた手は、いつの間にか握りこぶしに変わっていた。わなわなと震えているのが腕から全身に伝わっている。全身に力がこもっているはずなのに、物凄い脱力感がアタシを覆っていた。
召喚なんて理不尽な事をされて、それでも必死にできる事を探していたのに。
それを我儘の一言で片づけられるのはとても腹が立った。けれどそれ以上に、その言葉を否定しないで一緒に笑っている彩斗を思うと悲しくなってしまう。
二人は数分の暇を楽し気に語らっていた。
まるで久しぶりに会った恋人同士のような雰囲気が扉をズカズカと乗り越えてくる。アタシはまるで足が石になったみたいドアの前に立ち尽くしていた。
そして、間もなく。二人が去ろうとした時、とうとう信じられない言葉が聞こえてきた。
「ところで彩斗様。私との婚約の件はご考慮頂けましたでしょうか?」
「ああ、勿論だ。けどやっぱり架純に言い出すタイミングがね…」
「ふふ…一国の王女の求婚を保留にできる殿方が、この世界に何人いらっしゃるのでしょうね?」
…。
…婚約?
待って。どういう意味?
彩斗の婚約者はアタシのはずでしょう?
ダメ。体だけじゃなくて頭にも血が巡っていかない。窓から光が差し込んできているのに、目の前が真っ暗になっていく。
「彩斗様ほどのお方でしたら父も民も皆納得してくれるでしょう。それにメイリオとて架純様に不幸になってほしい訳ではありません。然るべき地位の貴族や騎士を用意するつもりですのよ? それに文字の読み書きだけは得意の様ですからそれを存分に活かせる職も宛がいましょう。いずれにしても彩斗様がメイリオと結ばれて次期国王になればどのようにでも叶います」
「次期国王か…そう言われると実感がわかないなぁ」
二人のくすくすと言う静かな笑い声が馬鹿みたいに届く。
「そう言えばお聞きになりましたか?」
「何を?」
「明日にまた召喚の儀を執り行うようです」
「え? また?」
「ええ。彩斗様の一件で味を占めたのか。それとも期待外れのどなたかの変わりが欲しいのか…おっと失礼しました」
予定していた時間でも来たのだろうか。唐突に二人の会話が終わる。そして二人が離れていく気配だけが外から伝わってきた。耳の痛い静寂だけがアタシの傍に居座り続ける。
それから後にどうやって自分の部屋に戻って、一日を終えたのか。その日の記憶はアタシの中には残っていなかった。
その三月は劇的という他ないほど目まぐるしい変化と対応が求められた三カ月だった。アタシ達は召喚の際に授かった能力の適性を判断された後、すぐにエオイル国の国軍に配属された。それほどまでに吸血鬼との戦いによってエオリル国は疲弊していたのだ。
とは言っても、二人でいきなり前線に放り込まれる様な事は勿論なかったけど。
まず彩斗は王国軍団長のカトイクさんの指示の元、剣と魔法の修練や軍団としての動き方、対吸血鬼用の戦い方などを細かく指導さている。
彩斗の飲み込みの良さは凄まじく、二週間もしない内にエオイルの名だたる武人、将軍クラスと肩を並べるほどにまでメキメキと成長した。どちらかと言えばインドア派であまり身体を動かすことは苦手な人だと思っていたが、エオイルに来てからは打って変わって逞しくなっている気がする。
アタシはと言えば専らの後方支援。特に癒しの能力を存分に振るえるように傷病兵の運ばれてくる病院や、避難所が割り当てられていた。とは言っても、アタシの方は順調とは言えなかった。
確かに傷や病気を癒す事はできていたが、それにはとてつもない集中力が求められるので一日で治すことのできる人数は極僅かに限られてしまう。血を流し、苦しい声を上げる人たちを治したいという気持ちはあるがどうしても限界はある。別に医療従事者である訳でもない私には傷病で苦しんでいる人たちと同じ空間にいるだけで、気力がどんどん削られてしまうのだ。
しかも困った事にアタシは子供の頃から血を見るのが極端に苦手だった。
小学生の頃に母が料理の包丁の扱いをしくじって、腕から血を噴き出して倒れた事がある。家族がすぐに救急車を呼んでくれたので命に別状はなかったが、当時のアタシにはショックが大きすぎて他人の血を見るとあの時の恐怖や不安感が押し寄せてきてしまう…。
それでも治癒の力を持った聖女と言われ、その期待に応えようと努力はしてみた。治癒魔法はとにかく精神力を削るので、墨の魔法を駆使して一人で多くの怪我人を運び入れたり、薬剤の調達に一役買ったりなどと地道な作業であったのは否めないけど。
むしろ墨の魔法を使った情報整理や伝書、各種の書類作成などの仕事の方が捗っていた。そっちの方は元の世界でやっていた仕事の延長線上みたいなものだし、書道好きが幸いしてか紙と文字と向かい合うのはアタシの性分に合っていたからだ。
ただ。
そうして過ごしているうちに、いつしか城内には二つの名前が囁かれるようになった。
『エオリル国の救世主、剣聖アヤト』
そしてもう一つ。
『期待外れの黒聖女』
黒というのは清純な色からかけ離れた汚れという意味と、墨の魔法を使うからそう呼ばれているのだろうと思う。
流石に面と向かってそんな中傷を浴びせられることはなかったが、奇跡と比喩されるほどのレアな能力がうまく発揮されない事にヤキモキしていた関係者が多いのは事実だ。そんながっかりとした感触は何も言葉だけで伝わるモノじゃない。皆の態度によく表れていたのだ。
…いや、少し違うか。
一人だけ、アタシに面と向かって期待外れの黒聖女と言っている人間もいた。
そう、メイリオ姫その人だ。
初めの頃は例の気品のある佇まいで当たり障りのない挨拶を飛ばす程度の関係性を保てていたのだが、日を追い、アタシの癒しの能力が存分に発揮できない事が露呈し始めると見る見るうちに態度が変わっていった。
というか、期待外れの黒聖女というあだ名はどう考えもメイリオが発端な気がしてならない。
メイリオは狡猾な人だったので表立ってアタシを馬鹿にしてくるという事はしなかったが、どういう訳か一人でいる隙を見つけては一言どころではない文句を言って、
「では御機嫌よう。期待外れの黒聖女様」
と、結んで去っていった。
一番初めの頃は瓜二つの別人がいるのかとも思うくらいの変貌っぷりに戸惑うだけで怒りや悲しさは出てこなかったのだが、一月も経ってしまうと話は変わる。まさか王女様の裏の顔がこんなだと誰に相談できるはずもなく、悶々とした日々を過ごすしかなかった。
心の支えになっていた彩斗も才能を開花させた後は、だんだん王宮を離れる機会も増えていった。
もう四日も会えていない。
しかも、まかりなりにも戦争に言っているのだ。いつ訃報が飛んでくるかもしれないと思うと心配に押しつぶされそうになり、自然にため息が多くなる。孤独感を感じ、元の世界に思いを馳せる時間がどうしたって増えてしまう。
当初は元の世界に戻る方法を二人で懸命に探していた。しかし最近になってふと思う事がある。
彩斗は元の世界に帰る事を諦めているのではないだろうかと。
いや、むしろ積極的にエオイル国に残ろうとしているんじゃないだろうか。
そんなバカげた被害妄想を抱く度にアタシは自分の頭を小突いて、彩斗に心の中で謝っている。けど、アタシはそのくらい精神的に参っていたのも事実なのだ。
いつしかアタシは一日の仕事が終わると、自室ではなくて図書室の隅にポツンと併設された倉庫のような部屋を自分の居場所にしていた。宛がわれた部屋はどうにも落ち着かないのだ。この部屋で文献を漁り、何とか元の世界に帰る方法を探すのが一種の精神安定剤になっている。
そしてもう一つ。心の落ち着くものがあった。それはエオリル国に訪れた初日に見た、漢字ばかりが書かれた謎の紙。やっぱり何の規則性も意味も見出すことはできなかったが、外国どころか異世界に迷い込んだアタシに取っては日本と元の世界を思い起こさせる重要なファクターになっていた。
ホームシックのような状態も心が落ち着かない理由なのだと思う。
目に入った漢字を雑紙に万年筆で書き起こす。ホントは筆が良かったが、ないものをねだってもしょうがない。それにこの万年筆も職人が手掛けた意匠の凝った代物。彩斗が初めて功績を上げた時に頂いた報奨金を使ってアタシにプレゼントしてくれたものだった。
貰った時は嬉しかったけれど…やっぱり彩斗と一緒にいられる時間の方が何倍も嬉しい。
そう思った時。
書庫にいるアタシの耳に彩斗の声が届いた。
一瞬、幻聴かとも思った。
しかし耳を傍立ててみると間違いなく彩斗の声だった。コソコソと誰かと会話しながらこちらに向かってきている。けれど事前に聞かされていた予定では帰城は明日だったはずなのに。それに…誰と一緒にいるんだろう?
いつもなら真っ先に私の部屋か仕事先に来てくれるのに…あ、違うか。いつもと違う場所に引きこもっているのはアタシの方だ。この部屋を使っているのは図書館の司書のお爺ちゃんくらいしか知らない。ひょっとしたらどこにもいないアタシを探しに来てくれたのだろうか。この王宮でアタシの行きそうな場所など図書館くらいしかないのだから。
けれど、何でこんな奥まった蔵書保管庫まで来たんだろうか?
アタシは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。しかし外にいる声の主に気が付いた時、ピタリと手が止まった。
彩斗が誰かと一緒に来ている事は気配で気が付いていたけれど。これは。
…メイリオの声?
なんで彩斗とメイリオと一緒にいるの? しかも人目をはばかるように、コソコソと。
アタシは扉の前で思わず聞き耳を立てていた。
「メイリオ様」
「彩斗様。二人きりの時はメイリオでよろしいですのよ」
「…ああ、そうだったね。メイリオ、ただいま」
「ご無事のお戻りで嬉しいです」
「色々と心配をかけてゴメンね。けど召喚の儀の能力とメイリオのサポートがあるから大丈夫だよ。忙しいのに苦労をかける」
「彩斗様の為の事ですもの。苦労とは思いません…それに戦いよりも城に戻ってからの方がお辛いのではありませんか? 休む間もなく架純様のお相手までしなければならないのですから?」
「…まあ、一応は婚約者だからね」
…い、一応ってどういう意味?
それにアタシの相手をするなんて言い方、まるで駄々をこねている子供みたいに言って…。
「ふふふ。ですからそれまでのほんの一時、どうぞ全てを忘れてお寛ぎになってくださいまし。エオイルの英傑様をこんな埃の蔓延る場所にお連れするのは忍びありませんが、人目を避けるにはまだこのようなところしかご用意できませんの」
「十分だよ。けど、ありがとう。やっと一息つける」
「どのような方にも休息は必要です…まあ休息ばかりの聖女様もいらっしゃいますが」
「…元々そんな強い子じゃないからね。変な所で自分を曲げないところもあるけれど」
「世間ではそれを我儘と申しますの。ご存知でしたか」
「ははは」
ドアノブに置いていた手は、いつの間にか握りこぶしに変わっていた。わなわなと震えているのが腕から全身に伝わっている。全身に力がこもっているはずなのに、物凄い脱力感がアタシを覆っていた。
召喚なんて理不尽な事をされて、それでも必死にできる事を探していたのに。
それを我儘の一言で片づけられるのはとても腹が立った。けれどそれ以上に、その言葉を否定しないで一緒に笑っている彩斗を思うと悲しくなってしまう。
二人は数分の暇を楽し気に語らっていた。
まるで久しぶりに会った恋人同士のような雰囲気が扉をズカズカと乗り越えてくる。アタシはまるで足が石になったみたいドアの前に立ち尽くしていた。
そして、間もなく。二人が去ろうとした時、とうとう信じられない言葉が聞こえてきた。
「ところで彩斗様。私との婚約の件はご考慮頂けましたでしょうか?」
「ああ、勿論だ。けどやっぱり架純に言い出すタイミングがね…」
「ふふ…一国の王女の求婚を保留にできる殿方が、この世界に何人いらっしゃるのでしょうね?」
…。
…婚約?
待って。どういう意味?
彩斗の婚約者はアタシのはずでしょう?
ダメ。体だけじゃなくて頭にも血が巡っていかない。窓から光が差し込んできているのに、目の前が真っ暗になっていく。
「彩斗様ほどのお方でしたら父も民も皆納得してくれるでしょう。それにメイリオとて架純様に不幸になってほしい訳ではありません。然るべき地位の貴族や騎士を用意するつもりですのよ? それに文字の読み書きだけは得意の様ですからそれを存分に活かせる職も宛がいましょう。いずれにしても彩斗様がメイリオと結ばれて次期国王になればどのようにでも叶います」
「次期国王か…そう言われると実感がわかないなぁ」
二人のくすくすと言う静かな笑い声が馬鹿みたいに届く。
「そう言えばお聞きになりましたか?」
「何を?」
「明日にまた召喚の儀を執り行うようです」
「え? また?」
「ええ。彩斗様の一件で味を占めたのか。それとも期待外れのどなたかの変わりが欲しいのか…おっと失礼しました」
予定していた時間でも来たのだろうか。唐突に二人の会話が終わる。そして二人が離れていく気配だけが外から伝わってきた。耳の痛い静寂だけがアタシの傍に居座り続ける。
それから後にどうやって自分の部屋に戻って、一日を終えたのか。その日の記憶はアタシの中には残っていなかった。
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