張飛の花嫁

白羽鳥(扇つくも)

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第六話

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(帰れる…? 私が、家に…伯父様の所へ? でも…)

「……どうして」

 思ってもみなかった関羽の言葉に、玉華は戸惑う。

「兄者…我が主君にお主の事情を明かし、儂からも嘆願してやる。無論、益徳は反対するだろうが、兄者の言う事ならあやつも従わざるを得まい。そして我らが去るまでここに留まってもらい、後に送り届けさせよう。お主は故郷に帰り、我らとの縁も切れるのだ……何の後腐れもなくな」

 玉華にとって、それは夢のような話。いや、実際何度も何度も夢に見ては、諦めてきた希望だった。

「ほ、本当…に?」
「正確には、半分本当だ。先程も言ったが、お主の心一つで決まる」

 話の見えない言い方に首を傾げると、関羽が先を続ける。

「お主は是が非でも帰りたいと申すだろう……しかしだ。益徳にとっては、今やお主は離れ難き女。儂とて義弟が心決めた者を引き離すような事は好まん。だから知りたい……お主は本当に、欠片程も益徳への慕情はないのか」

(益徳さんが私を!? 私が、益徳さんを……)

 古城で刃を抜かれた時も、関羽から告げられた信じ難き言葉。玉華の胸の内にあるのは、ただ一人。他の誰かの事を思う余裕もないはずだった。確かに長い共同生活の中で、徐々に抵抗は解かれていったかもしれない。だが玉華には、不可侵で許せない事が決定的にある。

「益徳さんは……いつか私を殺します。自ら手にかけるか見殺しかは分からないけれど。そうして生きてきたと、聞いております」

「儂がそれをさせん」

 力強い関羽の言葉には、口から出任せではなく、魂に誓うとでも言った重さがあった。

「お主も聞いただろう、我ら妻子を殺し合った血塗られた誓いを。胸にある信念と大義、そして手を汚した事に後悔はない…だが益徳は、儂の妻を見逃した。そして受け継がれた命は、今息づいておる。
だからこそ気付いたのだ、お主の言う家族の絆もまた捨て難きものだと。益徳の妻になるのならば、益徳への恩として儂もまたその命、救うべしと」

 張飛が残忍な行為の中で僅かに見せた情。それは玉華の胸の内で、どうしても憎む事のできない戸惑いとなって積もっていた。

『殺さない』

 過去の悪夢から引き戻す、張飛の声。今まで縋っていた伯父の「生きろ」という願いに重なるように大きく聞こえてくる。張飛は自分と共にあってどうしたいのか、そして自分は……

「儂が確かめておきたいのは、お主自身が定めた生き様。贖罪でも献身の為でもない……誰の為でもなく己がために有る存在意義だ。それが定まって、初めて『生きている』のではないか?
心が定まったなら、何であれ儂はその道に協力してやる。玄徳様がこちらに到着する前に、自らの心に向き合って見定めておれ」

 ドクン、と嫌な音が鳴った。己に向き合う事、それは玉華が最も怖れている事。じっと自分の手を見つめていると、これがどんなに汚れているのか思い起こされる。従妹の血、渇望と欺瞞、醜い現実に目を逸らす自分……

(怖いこわいコワイ、見たくないみたくないミタクナイ…)

 ぎゅっと目を閉じると、深い溜め息。そして踵を返す足音。

「益徳のことは、一応説得しておく……だが、期待はするな」

 そう言い残して去って行く関羽を見送ると、玉華はふらふらとそのまま部屋に戻った。ベッドに身を投げ出し、ドクドクを鳴り響く己の鼓動を聞く。関羽に投げかけられた言葉、そして目を背けていた自分自身を、これまでにない程、玉華は長い長い間頭の中に巡らせていた。


 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼

 関羽が張飛の部屋に入ると、部屋はさらに汚くなっていた。張飛は酒は呑んでいなかったものの、物思いに耽りながら筆を動かしている。床の上は酒瓶の他、反古がいくつか散らばっていて掃除する者が大変そうだ。

「玉華に、その心が妙才殿の元にあるのなら、兄者に申して家に帰らせてやると言ってきた」

「な…っ、勝手な事を!!」

 開口一番そう告げる関羽に、激昂し筆を放り出して掴みかかる張飛。しかし関羽は冷静に彼の腕を外すと、孟均を試した時のような意地の悪い笑みを見せる。

「そろそろ認めたらどうだ?玉華の事を」
「認めたら……って、何の事だよ?」

 それには答えず、関羽は反古を拾い、広げて描かれている絵を見る。

「相変わらず、達者なものだな。娘々図か」
「そんなもん、暇潰しに描いた落書きだよ」
「……玉華に似ているな」
「んなっ! 何言ってんだ兄貴!!」

 激しく狼狽する張飛の様子に、声を立てて笑う。

「そうではないか。お主が得意なのは、女媧のような妖艶な女神だろう。この娘々は艶やかではあるが、憂いを秘めて儚げな…」
「ふん」

 関羽から反古を取り返すと、ビリビリと引き裂く。最早紙屑となってしまった娘々を睨み付けながら、張飛は唸る。

「兄貴は、俺に何を言わせたいんだ?」
「決まっている。お前が玉華に惚れているかどうかだ」
「俺は玉華を娶るって言ってんだろ!!」

 黒い顔をますます黒くしての怒号にも、関羽は堪えない。

「それは、何があってもあやつを死なせないと言う責任あっての事か?」

 一転しての真摯な問い掛けに、張飛は言葉を失う。関羽は、ここでどうしてもはっきりさせなくてはいけなかった。そうでなくては、二人の未来には不幸しか待っていない。

「玉華を生涯守ってやるという覚悟が、お前にはあるのか? もしも玉華への想いが路傍の花に過ぎないのであれば、いずれお前は玉華を死なせる。
もう一度言う……このまま中途半端な態度を続けるようであれば、儂はお前が何と言おうとも、玉華を家に帰させる」

                     
 部屋の中を、張り詰めた空気が満たす。突き付けられた問いに責めの意図を感じ、張飛は舌打ちした。

「……兄貴がそんな事言うなんて、意外だな」
「意外、とは?」
「しらばっくれんな。昔、兄者が督郵ぶっ飛ばして俺の元主君の家に転がり込んだ後、姫様と良い仲になっちまった時の事を忘れたか?」
「ああ、覚えているとも」
「あん時お前何て言った?大義も成ってねえのに恋にうつつを抜かすのは危険だっつっただろ」
「そうだったな…だが夫婦の契りと一時の懸想は違うだろう。それに儂は何もお二人の仲を反対していたわけではない。兄者に連れ添う御心があるなら、後から迎えに行けば良いと思った。実際、それは叶ったわけだしな……
それより儂はお前の方に心変わりはあると思うぞ。あの時お前は『経験はないが、恋はいいものだろうな』と言っておったではないか。あれは兄者や元主君への義理立てで庇っていただけではあるまい。儂が見た所、玉華こそが待ち望んでいた者ではないのか?」

 昔のことを掘り返されてばつの悪い思いをしている時に、この突拍子も無い一言には慌てた。

「玉華に? おい、冗談は止してくれ兄貴。俺がそんな遅咲に見えてたのかよ? 確かに容姿はそこそこだが……中身はまだガキなんだぞ」
「そう申すなら、帰しても問題なかろう。我らが大成すれば、良い縁談は放っておいても来る」
「うっ! ……」

 正論を吐かれ、張飛は言葉に詰まる。そもそも、自分は何故玉華に対してここまで躍起になっているのだろう。年齢は相当若いが、適齢期になってはいる。曹操の関係者という意味では、紅昌も同じだ。気に入ったと言うなら、偽悪的に振る舞う意味がないのだ。

(そうは言ってもよ、元々は向こうが心開かねえから…)

 そう思いかけて、玉華の傷付いた瞳が頭にちらついた。今まで女の泣き顔など気にもしなかったのに、どういうわけかこんなにも心を揺さ振られている。

「儂はな、益徳。玉華ならお前と生涯添い遂げられるだろうと信じる。お前は昔から気性が激しく、それが後々災いになると危惧しているのだが、玉華にはその荒々しさを和らげられる力がある。古城でお前と再会した時、そう感じた。
……儂も同じだ。紅昌や孟均と出会えなければ、家族の絆など信じられなかった。だから思うのだ……お前には玉華が必要なのだと」

 それを教えてくれたのはお前だ、と関羽が張飛の肩を掴む。張飛は呆然と関羽の言葉を聞いていた。劉備がかつて張飛の元主君と逢瀬を重ねていた時、大変な状況にいるにも関わらず、その幸福そうな笑みに心惹かれていた。若かったのだ。恋らしい恋などした事がなかったからこそだったかもしれない。

 知らなかった。自分ではないような自分など。
 玉華の一挙一足に引き出される様々な感情の渦。
 好奇、戸惑い、苛立ち、焦り、落胆、安堵、照れ、優越、罪悪……
 玉華の望みなど、彼女を守れるかなど知らない。ただ分かるのは、張飛が今望むのは、玉華がまだ見せていない表情。紡がれない言葉、そして、彼女の心……

「益徳、お前は玉華を……どうしたい?」

 もう手の届かない所へ行ってしまう。二度と会えない。知りたくもなかった感情を引き起こされておいて。玉華は自分の事を忘れてしまう。自分は彼女を……玉華を忘れられるのか?玉華以上に、共にいたいと思える女は現れるのか。

 長い葛藤の末、やがて唸るように見つけた答えが口から転がり落ちる。


「兄貴……俺は、玉華を」

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