張飛の花嫁

白羽鳥(扇つくも)

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第四話

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 関羽は自分と共に曹操に囚われていた劉備の妻たちを連れて来た。
 ふと、張飛は彼女たちに付き添っているもう一人の女性に気付く。

「ああ、儂の妻だ。名は、任紅昌という」

 視線に気付いた関羽が彼女を前に出す。これには、張飛もさっきの関羽と同様目を丸くした。曹操の元にいた間に関羽も妻を迎えていたのだが、張飛が驚いたのはそこではない。
 任夫人は、お世辞にも美しい風貌とは言えなかった。女性特有の匂い立つような色香はなく、どちらかと言えば中性的な顔立ちをしている。無愛想と言う訳でもないのだが、先ほどから一言も発しない。

「兄貴は確か、秦宜禄の妻に惚れてたんじゃなかったか?」

 秦宜禄は呂布の部下であり、その妻の杜夫人は大変な美貌の持ち主だった。関羽はかねてから杜夫人を妻にと申し出ていたが、結局曹操は彼女を自分の物にしてしまった。しかし関羽が降伏してからは、曹操は何としても彼を引き止めようとしたに違いない。張飛としては、関羽が曹操の元で妻を娶るなら杜夫人を与えられるだろうと思っていたのだ。

「曹公からも杜氏を娶るかと言われたのだがな、ちょうど彼女と共にいた紅昌のことを知ったのだ。元は呂布の妾だったのだが、あまり見目良くはなかったために未だ夫を持っていなかったそうだ。
それで哀れに思って、曹公に彼女を引き取りたいと申し出た」
「へえ…物好きだな。兄貴は面食いだと思っていたが」
「そう言うお前こそ、今度は随分若い妻を迎えたじゃないか。
…しかもいけ好かないとか言っていた曹公の親族とは」
「ハハハ、何と言っても、あの名家である夏侯の一族だからな」

 関羽は渋い顔付きをした。玉華は二人のやり取りを影で聞きながら、任夫人の顔をじっと見つめる。彼女は目が合うと人の良さそうな笑みを浮かべて見返してきたが、相変わらず無口だった。


 その夜、古城では再会を祝して、今までとは段違いの賑やかさで宴が催された。明日には劉備と落ち合う場所へと向かうので、手下たちとの別れも兼ねている。

「兄者とてすぐには来られまい。何日かはそこで厄介になるんだろう。どこの家だ?」
「ここからずっと行った境目にある豪邸だ。雲長の兄貴と同じ関氏の者でな。嬉しいことに義侠に理解があって、食客も何人かいるって話だ。行くのはそいつの別荘なんだが、俺たちがそこを使いたいって言ったら喜んで承諾してくれたぜ」
「今まで山賊稼業をしていたと言うのに、よく引き受けてくれたな。しかし、お前は昔から顔が広い。以前の知り合いか何かか?」
「いや、それほど親しくもねえんだが……あながち無関係でもない間柄なんだな。ま、詳しい事は行けば分かるさ」
「お頭~…雲長様は来たばっかなのに、もう行っちまうんですかい? 俺、雲長様の部下にしてもらいたかったのに…」
「おう、悪いな淳。お前にはもう一仕事やってもらいてえんだ。兄貴の下につくのは、その後にしてくれ」

 男たちの声が、寝室にいる玉華の耳まで届いている。彼女はそれを聞きながら、窓の外をじっと見つめていた。いつもなら何があっても食べるようにしていたが、今日に限っては食欲がまったく出ない。かと言って、このままでは寝付けそうにもなかった。
 明日にはここからさらに遠く、遠く離れてしまう。このまま伯父たちとは二度と逢えないのだろうか……

「会いたい………伯父様」

 その時、ギッと床が軋む音がした。振り返ると、扉の前にいつの間にか関羽が立っている。玉華は顔を袖で擦ると、関羽を迎え入れた。


「益徳から聞いたが…お主が妙才殿の姪と言うのは真か」

 開口一番そう尋ねられ、戸惑いながらも玉華は頷いた。関羽は今まで曹操の元にいたのだから、夏侯淵とも言葉を交わしていたのだろう。そんな事を考えていると、複雑な思いが心に渦巻く。この男は曹公に厚遇されながら、結局はその元を去ったのだ。

「我が軍は流浪を常としている。我らに嫁す事は、命の危険にも晒される。覚悟の上か?」
「益徳さんが言った事です。私にはどうしようもありません」

 抑揚のない物言いに、関羽は彼女が任意でここに来たのではないと察した。

「あやつは…お主を攫って来たのだな」

 玉華が頷くのを見て、関羽は溜め息混じりに髯を弄った。昔から何かと無茶をしてきた弟だが、行きずりの幼い少女を攫って妻にするなど破天荒もいい所だ。しかも今や敵方となった曹操の親類でもある。厄介な相手だ。

「…だがいずれの経緯にせよ、お主は益徳について行く事を選んだのだ。ならばこの先、血縁とは言え妙才殿とは敵同士となる。我ら三兄弟に嫁す者として、お主の親族の事は忘れてもらう」

「嫌です」

 張飛の義兄を前に、反射的に玉華は切り返していた。怒らせれば命の保証はないと分かっていながら、伯父たちの事が絡むと途端に頭に血が上ってしまう。

「あの人に嫁がなければ死ぬのであれば、私は従います。だけど伯父様たちを忘れるのだけは…忘れて生きていくのだけはできません!! 
私の心までは、益徳さんに捧げられない。私は伯父様の、敵になりたくない…」

「どうやらお主は、余程幸せな生き方をしてきたようだな。
……気付いておるのか? 本来なら山賊に攫われたという時点で、死んでもおかしくないのだぞ。お主は益徳の気まぐれによって情けをかけられている」

「………曹公のご厚意で生かされていた、貴方のようにですか」

 関羽は思わず玉華を凝視する。自分の命がかかっているこの状況で、挑発的な物言いになっているのは無知故の蛮勇か。しかしその燃えるような眼差しが訴えている。

 『貴方ならば私の気持ちが分かるはずだ』と。

「女のお主とは事情が全く違う……だが、言いたい事は分かる。
お主の言う通り、儂は曹公の元での格別の待遇を受けた。心開かれ、様々な贈り物を賜った事ではない。降伏させるまでに散々手を尽くしたにも関わらず、儂をあっさりと手放した事だ。主君への心からの忠義を汲み取って下された、いずれは敵となるこの儂に。曹公に最も感謝し、また大器と認めざるを得ないのはそこだ」

「…なのに私の事は、帰してくれないのですね」

「そうだ……乱世において、これほど馬鹿げた取引はあるまい。世の中全ての者が曹公ほど大物でも甘くもない。儂や益徳とてそうだ。儂の見た所、益徳としてはお主を手放す気はなかろう」

 関羽は、男である自分がどの主君に仕えるのと、女が嫁す事は別だと言いたいのだろう。確かにそうだとは思う……けれど自分とて彼等の義兄弟の契りと同じく譲れない信念、断ち切れない絆がある以上、黙っていられなかった。

「私は何があっても死なないと、伯父様と約束致しました。劉玄徳様は、私の命を保証していただけるのでしょうか」
「死なない、約束……?」

 関羽の眉がぴくりと動き、玉華は思わず身を竦めるが、最低でもこれを確認しておかなくては張飛に嫁すなどとてもできない。
 しかし関羽は、呆れたように息を吐き冷たく言い放つ。

「約束したからと言って死なずに済むのなら、誰も苦労はせん。そんな自己満足が通用するのは、精々お主の家の周り限定の話だ」

「自己…満足……」

 長年の苦しみをバッサリ斬り捨てられ、衝撃で言葉が上手く紡げない。腹の奥が熱くて吐き気がするのに、上手く吐き出せないような、狂おしいほどの怒り。

「あなたに、何が」
「分かるのだ。儂はまさに、他の二人を置いて死なぬという契りを交わした。それこそが、我等が義兄弟であることの由縁。
無論、そんなものは理想だ。天下の統一まで、誰がいつ死んでもおかしくはない。だからこそ魂に刻み込んだ誓いとして、誰よりも力と運で道を切り開いてきたのだ。

お主は女だ、しかも世間をまるで知らぬ裕福な令嬢だろう。そんな無力な人間が確実に死なずに済むには、一生安全な場所に引きこもるしかない。だが現に、お主は張飛に見つかりここまで連れて来られた……約束と言いながら、お主は本当に守る努力をしてきたのか?」

 ザクリと、玉華は胸を貫かれる錯覚を覚えた。関羽の言葉が図星を突いたようだが、それが何なのか、玉華本人にも分からない。
 言いつけを破って家から出てしまった事か。
 何か特別な行動を起こす事なく、ただ生きていた事か。
 それとも。

(違う…違う……私は…)

「儂にはお主が本気で生きたいようには見えん。この城に着いてからも度々脱走していると聞いているが、一人で逃げたところでお主は野垂れ死ぬだけだ。張飛がお主を気遣って、殺さず安全に連れ帰ると分かっていて、義弟を試したのだな?」

「違う…」

「いや…お主自身、死ぬか助かるかは運任せだったのだろう。本当は自分の命にそれほど重きを置いていない。妙才殿がわざわざ『約束』を取り付けたのは…」

「違う!!」

 玉華は蹲って耳を塞いだ。どくどくと、胸から血のように溢れる悔恨。

『私が死んでいればよかった、あの子の代わりに』
『でも私のために罪を背負ってしまった伯父様がもっと苦しむ』
『私の代わりになった、あの子の死が無駄になる』
『だから生きなきゃ、死んでしまいたくても』
『これは、贖罪』
『これは、約束』
『伯父様のために』
『あの子のために』

 関羽に抉り取られるように暴かれる本心が痛くて痛くて、玉華は涙を零した。どうすれば許されるのか、どう生きればいいのか。誰でもいいから示して欲しかった。

「私は、死んではいけない……私の命は、私を救ってくれた伯父様のもの…」

 玉華の譫言は、関羽が手を剣の柄にかけたことで中断される。スラリ、と鞘から剣が引き抜かれ、ぞくっと身震いが起こった。

「儂が聞きたいのは、過去の懺悔でも約束でもない。お主自身の…偽らざる望みと覚悟だ。死なないと言いながら生きるのを諦め、命すら他人任せ。そうして生きてゆくのがお主の望みであれば止めはせぬが、益徳の妻となって尚、中途半端な覚悟で義弟を引っ掻き回されるくらいなら…
義弟や妙才殿からの恨みを買ってでも、儂がこの場で楽にしてやる」

 首筋にぴたりと刃を当てられ、玉華は恐怖に凍りついた。震えることすら許されない緊迫感。言葉の出ない彼女を見下ろし、関羽が語り出す。

「玄徳様と儂と益徳が義兄弟の契りを交わした後、まずした事は今までの生活を棄てる事…未練の一切を断つ為、我らは互いの妻子を斬った。侠の者に血の絆はいらぬ。大願成るまで家族は足手纏いでしかない……心奪われるものであってはならぬのだ」
 
 淡々と綴られる血塗られた語りを、玉華は身動き一つ取れないまま聞いていた。劉備三兄弟は、「侠」は玉華の人生とは対極にある存在だった。このまま張飛の妻として身を捧げるのは命を捨てるのと同じ。しかし拒むも逃げ出すも死が待っている。いずれにしろ逃げられない。自分は一体、どうすればいいのか。

「義弟はお主に惹かれている」

 思いもかけない言葉に目を見開いて振り仰ぐと、関羽は既に剣を収め、眉間に皺を寄せ目を閉じていた。

「そうでなければ、道端で拾ってきた小娘如きにここまで入れ込む訳がない。拒否や脱走を許すはずもない。己の姿勢を改める事もな。あやつ自身、名門の血筋をありがたがる男だから気付いていないが、恐らく夏侯家の娘である事を知る以前より、お主に関心を抱いていた。ここには来たばかりでそれほど把握してはいないが、儂はそう見ている」

 そんなはずはない、と玉華は心の内で否定した。張飛が態度を急変させたのは素性が知れてからだ。今は側に置いていても、飽きて利用価値がなくなれば殺される。ついさっき、関羽は自分たちが妻を手にかけたと言っていたのだ。

 再び剣を振り上げられ、びくり、と体が硬直した。逃げなくては、と言い聞かすが、足が竦んで動いてくれない。

「初めてなのだ……そこまで義弟が心を許した女は。
だが乱世を生きる覚悟から逃げた者に、他者を言い訳にして生きるも死ぬも捨てた女に、我が義弟を託す訳にはゆかぬ。
益徳には悪いが、災いの芽は摘ませてもらう!」

 刃が振り下ろされる様が、やけにゆっくりと動いているように見える。

(こ…ろ…さ…れ…る)

 その瞬間、玉華の頭を過ぎったのは、張飛に言われた言葉。逃げ出そうとして捕らえられ、引きずり出された時に、死への恐怖に震えている彼女に対し、面食らったように戸惑い、宥めるように。

『殺さない』

 玉華は悟った。張飛は最初から彼女を殺したくなかったのだと。本来なら、その気になればいつでも殺す事ができた。自分が今まで何度も逃げ出し、拒絶し、受け入れなかったにも関わらず。
 無意識のまま、玉華は叫んでいた。

「助けて、伯父様――!!」

 ガギッ

 関羽の剣が受け止められていた。
 張飛の矛によって。

「これは、どういうことだ……雲長」

 憤怒の形相をした張飛が地の底から響く声を発し、矛で剣を押しやる。窮地を救われた玉華はヘナヘナと力が抜けた。頭が真っ白になり、心の臓がドクドク跳ねる音が耳を突く。

「返答次第じゃ兄貴と言えど容赦はしねえ」

 関羽は詰め寄られても、肩を揺らしてせせら笑うだけだった。

「哀れだな益徳。せっかく命を救ってやったのにこの小娘、言うに事欠いて妙才殿に助けを求めおった」
「そんな事は知っている!」

 張飛は唸ると、腰を抜かしている玉華を見下ろし舌打ちする。

「こいつの中に誰がいようと、それが何だってんだ。俺はこの女を娶ると決めたんだ。関係ねえだろ!」

 身勝手な物言いにも関わらず、関羽は、ほほう、とにやついた。

「お前にしては、また随分とお優しい事だな」
「おうよ。何だかんだ言っても夏侯家はそれだけの一門てこった」
「儂にはこの娘がどこの出であろうと問題ではないのだがな」

 張飛が無言で関羽を睨み、次はこっちの番だとばかりに今の状況の説明を求めた。

「なに、世間知らずの姫殿に、世の中の厳しさを説いてやったまでよ。玉華殿は自分にとっての幸不幸を他者に委ね、生きるのを放棄していた。だから本心から生きたいのか否か、試したのだ。結果は見ての通り……安心しろ、こやつには真に生への執念がある。お主が放っておいても生き延びてくれるだろう」

 玉華が弾かれたように関羽を見る。一方、微妙に話の繋がらない張飛は訝しげに二人の顔を見比べる。

「何を言いたいのか知らんが…兄貴、玉華は死を異常に怖がる女だ。そう簡単に命を捨てたがる奴じゃない事ぐらい知ってるぜ」
「そうか、ならば良い」

 関羽は初めて剣を鞘に収めると、それまでとは一変して穏やかな表情を玉華に向けた。

「お主が生きたいと願う以上、儂は益徳の妻として全力でそなたを生かす。例えこやつがお主を手にかけようとする時が来てもだ。
だが義弟から逃れたいと思うなら、天運に賭けて好きにするがいい。ほぼ確実に獣共の餌食にされるだろうが、それもお主の自由だ。

…失礼をした。行くぞ、益徳」

 二人が立ち去った部屋の中、玉華はベッドの上で四肢を丸めた。どっと疲れたが、頭は妙に冷えていて、関羽との会話が蘇る。

 自分は今まで、伯父の為、殺してしまった従妹の為に生きてきた。生きなければと思っていた。同時に、死ねばよかったとも。
 だが剣が振り下ろされるあの瞬間、死にたくないと思ったのだ。それこそ誰のためでもなく、自分自身の心の底から。
 あの時……飢餓で苦しむ者たちと共に赤ん坊の亡骸を貪り合った時も、そうしてでも自分は生き延びたいと思っていた。自分の中に潜む浅ましい欲望、醜い生への執着から逃れる為、伯父との約束、従妹を殺した罪悪感に依存し、甘え縋ってきたのだ。そうしなければ、まだ幼い玉華は生きていけなかった。

(生きたい……ごめんなさい、私は生きていたいの)

 心の内ではっきりとそう宣言した時、初めて気付いた。伯父が「生きてくれ」と約束させたのは、玉華に罪を背負わせる為でも娘の代わりにする為でもない。玉華自身が目を逸らしていた…罪悪感で死を望む中にも、生きたいという本心があったからだ。

「伯父…様…」

 伯父たちに会いたい。かつての日々が狂おしいほど恋しい。あの瞬間、ここにいるはずのない伯父に助けを求めた。どんな絶望の中にあろうと、諦めることも絆を断ち切れるはずもない。罪悪感や父娘の情に関わりなく、己の中の夏侯淵は消せない存在だった。そう、気付いてしまったから。

(どうなるんだろう、これから……)

 初めて見る己の心の深淵が、未来への不安と重なり揺らぐ。それを振り払うように目を閉じると、そのまま眠りに落ちていった。

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