張飛の花嫁

白羽鳥(扇つくも)

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第一話

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 山間にある屋敷の片隅で、緩やかな煙が立ち昇っている。
 それは夕餉を作るためのものであるらしく、少し離れた場所で眺めていた少年の腹が僅かに鳴った。彼は一気に坂を駆け降りると、台所へ飛んで行った。

「玉華! もう晩飯はできたのか?」

 ひょこっと顔を出す少年。と言っても、もう十代は半ばに差し掛かり、容貌に精悍さが滲み出ている。

「誰かさんが材料を調達してくれなきゃ…阿覇、狩りはうまくいったの?」
「その呼び方はやめろ! お前より年上なんだから、兄上って呼べよ」

「ほんの少しだけじゃない」
 にべもなくそう言い、玉華は炊事の手を休めてくるりと振り返る。その面持ちは、何となく少年との血の繋がりを感じさせる。しかし二人は実の兄妹ではなかった。

 どさっと阿覇が放り出した獲物の鳥の羽を、玉華がむしり始める。そこへ年老いた乳母が慌てて飛んできた。

「お嬢様!貴女はそのような事をなさらずともよいのです。食事の支度は我々で用意致しますから…」
「いいの、涼永。お料理も縫い物も、とても楽しいから。 …それに、早く何でもできるようにならなきゃ。伯父様や阿覇たちに甘えてばかりじゃ駄目なのよ」

 阿覇は玉華をじっと見つめた。
 彼女は赤ん坊の頃に、父を亡くしている。彼女の父は、阿覇の父の弟にあたる。だから二人は従兄妹同士なのである。

「甘えるとか、そんな問題じゃないだろ。俺たち、小さい頃からずっと一緒に育てられてきたよな。もう兄妹も同然だと思ってんだぜ。親父だって同じだ…お前は家族の一員なんだ。まさか今更、遠慮なんてしてるんじゃないだろうな?」

「ううん、違うの!」

 玉華は慌てて首を振る。

「遠慮してるだなんて、そんなんじゃないの。本当に、私が好きでやっている事なのよ。伯父様に美味しい料理を作ってあげたり、服を縫ってあげる事が嬉しくてしょうがないのよ」

 そう言って照れたように軽く笑う玉華に、阿覇は溜め息をつく。
 彼女は昔から、父に恋心を抱いているらしい。それは傍から見て、阿覇にも納得できる事だった。阿覇の父は元々の容貌も立派な上に、体付きも鍛え上げられて逞しい。その上性格は明るく、勇気もあって男らしいとくれば、惚れない女はいないだろう。
 しかし……

(それって親父と思ってねーって事じゃん…)

 呆れたように見つめる阿覇に気付いていないのか、玉華は鼻歌を歌いながら鍋をかき回す。中ではスープがぐつぐつと煮え立ち、食欲をそそる匂いが漂っている。

「どうかな、これ…」

 匙で羹をすくい、阿覇に味見させる。
 その時、匙を持つ手が阿覇の目に映った。その手の甲は雪のようで、血管が青く透き通って見える。内側はほのかに桃色の影を落とし、細い指が軽く折られている。
 思わず触れたくなるような、白い手……

「……阿覇?」

 玉華の声に、はっと我に返る。匙はとっくに阿覇の口元を離れている。自分が彼女の手を凝視していた事に気付き、焦って取り繕うように言う。

「……美味いんじゃないか?」

「よかった、今度伯父様にも作ってあげよう!」
「親父は当分、帰ってこないぞ」

 輝くばかりの笑顔を見せていた玉華は、その一言で一気に落胆する。見ている者が気の毒になるくらいの落ち込み様だった。

(まったく、分かりやすい…)

 軽く苛立ちを感じる阿覇。そんな彼の方も見ず、彼女のぼそぼそと呟く声が漏れてくる。

「そうよね…伯父様忙しいし…今度いつ帰られるのかしら…早くお逢いしたいのに……」
「ああ、もう!」

 我慢の限度にきた阿覇は、玉華の頭を軽く小突く。

「別にいつだろうと、ずっとって事ないだろ! 親父は逃げてるわけじゃないんだから、その内帰ってくるって」

「そう? …そうね、焦ることないわよね」
「ったく、まだガキなんだから……」
「あっ、ひどい阿覇! 夕餉を抜きにするわよ」

 膨れっ面をしてみせる玉華だったが、すぐに口元に笑みを浮かべる。歳よりも幾分か大人びた容貌に浮かぶ笑顔は、一面の雪に日が射したように輝き、その眩しさに阿覇は思わず目を閉じる。

(いつの間にこんな……綺麗になった)

 妹のように見てきたから特に意識もせず、年齢から言ってもまだ子供だと思っていた。だが二人の家系は長身が多く、その上早熟である。玉華もまた、同じ年頃の少女よりもすらりとしていて、適齢期の娘と比べても見劣りしない。それどころか……

(俺も玉華と同じ、って事か…)

 普段は聞こえることのない胸の音を抑え、阿覇は息を吐く。
 今の玉華は父に恋煩いしている。が、数年先は分からない。自分もこの先父のような男になれるはずだから。
 そうしたら……

(まだ先の話、だけどな…)

 そう考えると、沸き上がってくるもやもやも静まる。阿覇は静かに目を開けた。それはほんの僅かの間だったのかもしれない。玉華には、阿覇が窓の光を受け目を閉じたようにしか見えなかった。

「阿覇じゃない。兄上、だろ」

 阿覇は、にっと笑ってみせる。

「じゃ、今夜楽しみにしてるからな」
「ええ。でも、次はもっと期待していて」

 そんな他愛もない言葉を交わし、阿覇は再び外へと向かった。
 が、これが二人の最後の会話となった。阿覇が覚えたての心の疼きに決着をつける事も、玉華が伯父はおろか、阿覇に再び夕餉を作る事もなかった。

 この先何十年という長い歳月、彼らは引き離されたのである。


 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼

「薪がもうない?」

 涼永に手伝ってもらっていた玉華が顔を上げる。夕餉はあと少しでできる所だ。

「ええ。申し訳ありません。切れているのに気付かなくて」
「涼永のせいじゃないわ。それじゃ、取ってくるから」

 玉華は外へ出ると、薪が積んであるはずの場所に向かった。が、そこにもない。

「困ったわ……そうだ!」

 ふと、目の前の山道に目を留める。山へ行けば薪は拾える。しかもすぐ行って戻って来られるのだ。今ならまだ明るいし、深入りしなければ迷うこともない。
 玉華は山へと足を踏み出した。



「もう少し拾った方がいいかしら…」

 思ったほど薪を拾えず、玉華が眉根を寄せる。既に視界には屋敷は見えず、鬱蒼とした木々が広がるばかりである。これ以上奥に踏み込めば、帰れなくなるかもしれない。

「これくらいでいいか…」

 薪を持ち直し、引き返そうとしたその時、

  ガサガサガサッ

 突如茂みが音を立て、驚いた玉華が振り返る。

(な……何?)

 振り向いた姿勢のまま、沈黙が続く。ガサガサという音はどうやら茂みを掻き分ける音らしい。しかもこちらに近づいている。

  ドクン、ドクン、ドクン…

 心臓の音が頭にまで鳴り響いている。玉華はここに来て、初めて恐怖を感じ始めていた。逃げ出そうと思っても、足が竦んで動かない。
 やがて、音は目の前の茂みの辺りで止まった。

「だ、誰……?」

 震える声で尋ねるが、返事はない。
 恐る恐る、茂みを覗き込もうと近付いていくと。

  ガサッ!!

 ひときわ大きく音を立て、何かが飛び出してきた。

「きゃあっ!」

 悲鳴と共に、思わず薪を取り落とし、地面に尻餅をつく。
 黒い固まりが目の前に出現した。

(熊…!?)

 そう思ってしまったが、どうやら人間であるらしい。だが、そのいでたちはどう見ても尋常ではなかった。身の丈は八尺もあり、髪も髭もボサボサでそれほど長くはない。薄汚れて黒ずんだ傷だらけの鎧に、同じく大きな傷が残る黒く焼けた肌、ときては、全身黒ずくめだ。その眼はギラギラしていて、気が立っている様子だった。
 とても穏やかそうな人間には見えない。まさに熊そのもの……

「あ……あ…」

 玉華は全身がガタガタ震えていた。既に腰が抜けてしまっている。
 熊男の目がこちらをギョロリと見た。びくり、と跳ね、震えが止まる。その目はまるで品定めをするようで、玉華はその心意が分からず、ただおどおどと見つめ返すのみだった。

 男がこちらに近づいてくる。

(…逃げなきゃ!)

 体中が危険を発している。とにかく動けるだけ動こうと、じりじりと後ずさる。が、そんな行為は無駄に等しかった。大きく太い手が、にゅっと突き出される。

「ひ……」

 全身に鳥肌が立ち、涙が滲んでくる。玉華の頭は、恐怖のあまり完全に混乱していた。

(伯父様! 兄上! 助けて…!!)

 悲痛な心の叫びも虚しく、肩に手がかけられる。体中に戦慄が走った。

「きゃあああああああああっ!!」

 玉華の悲鳴が上がり、木々はそれを掻き消すかのように風を受けてざわめいていた。

 その後、この地で彼女の姿を見た者はいない。

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