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第一章 不遇の伯爵令嬢編

期待なんかしていない

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「この、大馬鹿者が!!」

 帰って早々、私は父に暴力を振るわれていた。ガッ、と言う衝撃と同時に私は吹っ飛び、床に蹲る。

「婚約前の大事な時期に、他所よその男に足を開くとは、恥を知れ!!」

 父の拳が、言葉が私にぶつけられる。
 私は知っている。父が怒っているのは私が男と通じたからではないと言う事を。

「まったく腹の立つ……お前はあの女にそっくりだ。黙って金蔓になっていればいいものを、ここぞと言う時に反抗しやがって」

 私は知っている。伯爵領が経済的に苦しい時に、父は根本的な解決策は何も取らなかった事を。母は、そんな父の尻拭いを各地で行っていた。

 私はかつて、母に訊ねた事がある。何故あんな酷い男と結婚したのかと。母は笑っていた。そんな事、心底どうでもいいのだと。

『だってあの人自身、とても小さいんですもの。手に入れた力や財が大きければ大きいほど、動かそうとすれば潰れてしまう。
だから私が選ばれた……いいえ逆ね。私「に」選ばれたんだわ』

「ふっ」
「何がおかしい!!」

 思い出し笑いをした私に激昂した父は、拳を振り上げる。視界の隅に、手で顔を覆ったアンヌ様とサラが見えた。

「やめて、お父様!」

 サラが飛び込んできて、父の腕に縋り付く。

「乱暴はやめて。お姉様が死んでしまうわ……ね、お父様。お母様もあんなに怯えているじゃない」

 サラがはらはらと涙を零す。私はそれを見ても何も感じなかったが、父には覿面てきめんに効いたようだ。

「本当に優しい娘だな、サラ……姉がどれだけ汚らしい振る舞いをしたのか、お前は何も知るまい」
「許してあげて。お姉様はずっと、ルーカスの婚約者だったのよ。私も女だから分かる……そうしたい気持ちが」

 この親子は何を言ってるんだ。何だかカーク殿下とチャールズ様の時のような茶番を見せられている気分だった。あの二人は雲の上で、普段はすれ違う事さえそうないけれど、目の前にいるのは血が繋がった家族だ。……地獄かしらここは?

「ふん、妹に感謝するんだな。どうせお前など、貰い手はどこにもない。学校も今年度が終われば、辞めさせて修道院にぶち込んでやるから覚悟しておけ」

 修道院を牢獄か何かのように言い放ち、大股で行ってしまう父。サラは私の方を振り返りながら、アンヌ様と共について行った。


「……クララ」

 誰もいなくなった玄関先で小さな声で呼ぶと、ドタドタとクララが駆け寄って抱き起こされる。

「お嬢様、大丈夫ですかお嬢様! 申し訳ありません。メイド長から、手は出すなと止められてしまって」
「それはそうよ……雇用主の家族の問題だもの。あたた…」

 クララが濡らしたタオルを顔に当てて冷やしてくれた。沁みるけれど心地いい。

(修道院かぁ……今回の婚約もダメになっちゃったし、それもいいかもね。もうこれ以上、男の人との付き合いに煩わされる事もないし)

 どうせなら、滅多に通えないくらい遠くの修道院がいい。ここにいる誰もが足を運ぶ気をなくすくらい、遠い遠い…

 頬に引き攣るような痛みが走り、私は自分が笑っている事に気付いた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

『嘘吐き』

 俯いていた顔を上げると、私と同じくベッドに腰かけていたカランコエがこちらを覗き込んでいた。

「何が?」
『ボクに嘘は吐けないよ。傷付いているんでしょ? 味方してくれる人がいない事が』
「だとしても、私はどうすればいいの」
『いつもみたいに、ここで吐き出しなよ。ボクが全部受け止めてあげる』
「あなたにはすべてお見通しなのね、カランコエ」
半分妖精フェアリーハーフに見通せない事などないのさ。もちろん、それだけじゃない……キミが好きだからだよ』

 冗談めかしつつ、誰も言ってくれない言葉を当たり前のように私にくれる。

「ありがとう、あなたがそう言ってくれるなら、私…他に何もいらない」
『キミはもっと欲張りになるべきだね。
…待って、誰か来る』
「隠れて!」

 直後。

 バタン! と乱暴にドアが開かれる。廊下の向こうで、「お待ち下さい……きゃあ!」とクララの悲鳴が聞こえた。
 部屋に入ってきたのは、ルーカスだった。

「今、この部屋で誰かと話していたのか?」
「誰もいないわ。疑うなら探してみたら?」

 私はベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。好きなだけ探れと態度で示せば、ルーカスは気まずげな表情をしたが、咳払いで誤魔化した。

「話は聞いた。…君には失望したよ」

 その台詞、何度目かしら。逆に失望していない時があったのなら教えて欲しいくらいだ。そう思いながら、頬に貼られた大きなガーゼに手を当てる。父に何度も殴られた頬は腫れ上がっていて、ルーカスは私から顔を背けた。どっちが冷たい人間だろう。

「サラは僕たちが婚約した事で、君が寂しい思いをしているのを分かってくれって言っていた。妹にこれだけ心配かけて、何とも思わないのか」
「どう伝わっているのか知らないけれど、私は一方的に巻き込まれただけなのよ。どうして私が貴方に責められるのか、本気で理解出来ないわ。だってあの時、誰かがエスコートに付いていてくれたなら、今頃こんな事にはなっていなかったでしょうから」

 私の反撃に、ルーカスの表情が驚愕に彩られる。従兄妹故の気安さで今まで何度も喧嘩してきたけれど、ここまで露骨な皮肉を返した事はなかったから。

「ぼ……僕のせいだって言うのか。婚約者じゃなくなった僕がついて行かなかったのが悪いのか!?」
「いいえ、すべてがそうとは言えない。ただ、責められる謂れもないだけ。
だってもう、婚約者じゃないんでしょう? 私たち」

 目を細めて覗き込む。何となくベアトリス様の凄みを意識してみると、ルーカスの目に怯えの色が浮かんだ。

 恨んでいると思われている。
 恨まれていると、勝手に見出されている。
 そのまま距離を取ってくれると、ありがたいのだけれど。

「き…君の責任でもあるんだろう? 逃げ場のない場所に一人で入って、抵抗もしなかったと聞いた」
「ルーカス、貴方どうして私の部屋に入っているの?」

 唐突に、私がそう口にしたものだから、ルーカスはぽかんとした。

「…え?」
「私は貴方に入室を許可していないわ。だけど貴方は止めようとするクララを突き飛ばして、ノックもせずに強引に部屋に押し入ったわね。突然の事で私、反応する暇もなかったわ。
ねえ、ルーカス。あの時も私、同じ事をされたのよ。抵抗すればよかったなんて、他人が口で言うのは簡単だと思わない?」

 絶句しているルーカスから視線を移すと、机の引き出しから折れた扇子が取り出す。ベアトリス様が、私にくれた物だ。私が初めて、他人に憤りをぶつけた時の。

「私、傷付いたわ」
「……」
「でもそれ以上に、疲れたの。そっとしておいて欲しいのに、舞台に引き摺り出されて悪役を演じさせられる事に」
「……まるで自分は悪くないような物言いだな」

 まだ反論してくるルーカスに、大きく溜め息を吐くが、彼も負けじと睨み返してくる。近頃はキスをするほど親密になっているだけあり、彼の頭の中ではサラは守るべきお姫様で、私は悪役…でなくてはならないのだろう。サラにとっては実に優秀な、お人形だと思う。

「ルーカス……今までサラが私に何をしてきたか、何度も言ったよね? 子供の頃から私の物は何でも欲しがって奪い取ってきたって」
「ああ。だけど、それが何だ? 僕も弟だが、兄弟間でそう言う事はよくある。サラの我儘なんて、可愛いものじゃないか。なのに、君の報復はあまりにも陰湿過ぎる」

 報復?

 何の事だろう。私はずっとサラから奪われ続けるのを我慢してきた。復讐なんて、一度もしていない。

「君は人形の首を、サラの部屋のすぐそばに埋めたそうだね。お姉様が呪いをかけてきたって、彼女泣いていたぞ」

 え……それはひょっとして、サラがバラバラにして捨てた人形のお墓…

「楽しみにしていた本の内容を声に出してバラしたり、子供劇でぶかぶかのドレスを着せて笑い者にしたり……君と仲良くしたいのに、何をやっても君には嫌われて悲しいって、いつも相談されていたんだ」

 ……物は言い様よね?
 どちらかの言い分で印象はまったく変わってくる。そして、ルーカスはサラを選んだ。私を、信じてくれなかった。

「よく考えてよ。呪いなんて効くわけないじゃない、馬鹿馬鹿しい」

 ルーカスも私と同じく学園では普通科を選択。魔法や呪いの類は御伽噺おとぎばなしの域だ。今まで馬鹿にしてきた事が実は存在していて、何なら自分の国の王子たちの命を握っていたりもするのだが、今それを言うのはややこしくなるので黙っておいた。

 するとルーカスは、何かを私に投げ付けてきた。それは、細く編んだ三つ編みをリボンで纏めた金髪だった。

「だったら、これは何だ? 君が呪いをかけるため、サラの髪を切ったんだろう! 君の机の引き出しからこれを見つけた時、彼女は震え上がったそうだ。
それに、時々部屋に誰かを連れ込んで、サラに復讐する算段を立てているんだってな? 君が本気で妹を……」

 だんだんヒートアップして、とんでもない言い掛かりを付けるルーカスに、私はうんざりしてを突き返した。動揺一つ見せない私の様子にルーカスは戸惑い、言葉に詰まってしまったようだ。私は冷静に、彼から視線を逸らさず言った。

「ねぇルーカス、貴方おかしな事言ってるって気付いてる?」
「な、何もおかしい事なんて言ってない! ……もういい、心配しても無駄だったみたいだな。サラは君のそばに居たがっているが、傷付けるつもりなら二度と近付かないでくれ」

 バタン!!

 揚げ足を取られたくないためか、早口で捲し立てると、ルーカスは逃げるように退室し、向こう側でバタバタ足音が聞こえる中、部屋は静寂が訪れた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

『まったく……騒がしいやつだな、昔っから』

 鏡台の影から、カランコエが顔を覗かせる。話している間にもきょろきょろと視線を泳がせていたルーカスだったが、カランコエには気付かなかったようだ。

「危ないところだったわね」
『なーに、あの色ボケにボクは絶対見つけられないよ』

 キシシ、と悪戯っぽく笑うと、カランコエが顔を寄せてきた。

『でも、ごめんね? キミが疑われたのって、ボクのせいかもしれない』
「あなたは悪くないわ。まさかサラに見られていたなんて」

 そう言えば昔、勝手に日記を読まれて馬鹿にされた事があった。戦慄した私はすぐに部屋に鍵をかけたのだが。

「部屋に入れないって妹が泣き喚いて、結局鍵は付けなくなったのよね」

 おかげで侵入され放題だが、日記に関しては別の対策を取って事なきを得た。具体的にはダミーを用意し、本物は事典や歴史書と言った分厚くて難しい書籍と同じ革表紙にしたのだ。妹はそう言った表紙を見るだけで頭痛がすると言って避けてしまうので有効だった。

「もう……ルーカスに関しては、本当救いようがないわ。あれじゃ百年の恋も冷めるわね」

 従兄だからちょっと違うのかもしれないけど、と冗談めかすと、カランコエが意地悪そうに笑う。

『本当、嘘吐きだねアイシャは。好きだったくせに』
「サラみたいな事言わないでよ。お兄様みたいなものよ」
『ボクに隠し事は、無意味だよ』

 思わず、カランコエを見返す。
 その目には、涙が光っていた。笑いながら、泣いていた。

「どうして、あなたが泣くの?」
『キミが、泣けないから。傷付いてないふりをするから。好きじゃないなんて、嘘を吐くから。
だから、ボクが泣くんだ。キミの代わりに』

 ベアトリス様の言葉が思い起こされる。

わたくしの代わりに泣いてくれる方がいるから、わたくしは平気……』

 気付けば、私も涙を流していた。後から後から頬を伝って、カランコエと一緒に、静かに泣いた。

 従兄として育てられた。喧嘩もしたし笑い合って、時々泣かされもした。兄妹みたいな関係で、婚約者になってもピンと来なかったけれど。嬉しくもあって、彼でよかったと思った。
 だけどサラに奪われた時、私はとっくに諦めていたから。

 恋にもなっていない、と思い込もうとした。

 ずっと一緒にいたかった。
 好きになって、私を選んで欲しかった。
 味方になってもらいたかった。
 信じて、欲しかった。

「ルーカス……ッ」

 最後に見た、冷たく蔑むような眼差しが、胸を刺す。痛みを押さえ込む事なく、私は激情を涙にしてすべて流した。カランコエはそんな私に、ずっと寄り添ってくれた。


『ねぇアイシャ、こっちを向いて』

 ようやく涙が止まった頃、そう囁かれて顔を上げると、視界いっぱいになったカランコエの瞼がゆっくりと閉じられる。

 触れ合った唇は、ひんやりしていた。

「カランコエ…」
『へへへ…初めてじゃないのが悔しいけど。元気出た?』

 照明も付けていない部屋の中、カランコエが照れ臭そうに笑う。お互い泣き過ぎて酷い顔だったけれど、きっとルーカスよりもチャールズ様よりも、カランコエはかっこいい。

「ありがとう……ねぇ、あなたはサラの物にはならないよね?」
『ずっと、キミだけの物だよ』
「そばにいてくれる?」
『キミが望む限り。約束するよ』

 カランコエは窓を開けると、夜空には星が瞬いていた。そのまま足をかけて出て行こうとするので、慌てて外の様子を確かめる。

「見つからないでね。さっきもルーカスに怪しまれたんだから!」
『誰に言ってるのさ? それじゃおやすみ、アイシャ』

 部屋から、カランコエの気配が消える。私はランプに火を灯した。本棚から革表紙の本を一冊取り出す。母の形見の日記帳だ。
 嫌な気分は、カランコエのおかげで吹き飛んでいた。

「おやすみなさい、カランコエ」

 どれだけ辛くても、愛してくれる人がいなくても構わない。
 カランコエだけは、サラにだって奪えないんだから。

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