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達者で暮らせ
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礼拝堂を抜け出したコールたちが中庭に出ると、そこには護衛に守られた皇帝たちが避難してきていた。イライザが配っていたローブには、鼠除けのお香が焚き染められていたので、あれだけ鼠の大群に襲われても無事だったのだ。
カトリシアはホルンから降り、皇帝と対面する。ひょっとすると、これが今生の別れになるかもしれないのだ。
「カトリシアよ、これでよいのだな。ロジエル王子がこちらに通達してきたそなたの事情は……」
「殿下が何を吹き込んだのかは分かりませんが、今の私は心身共にあの御方を拒絶しております。この国に嫁すなど、ましてや跡継ぎなど不可能ですわ」
「余は選択を誤り、亡き妻の忘れ形見に取り返しのつかない仕打ちをした。すまぬ……」
「お父様……」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ドラコニア帝国皇帝は、己の仕打ちに対して悔やんでいた。
一人娘のカトリシアは亡き皇后によく似た愛らしい姫で、年齢の割に幼く好奇心旺盛なところを除けば自慢の娘だった。しかし愛する妻が病で亡くなってからというもの、カトリシアの精神はさらに退行し、侍女とままごと遊びに没頭するようになっていった。窘めたいところだが、皇帝自身この不幸を昇華し切れておらず、また世継ぎのためにも新しい皇后を迎える準備があった。
思えば、あれが親子の間に壁ができるきっかけだった。
娘の異変に気付いた時には、全てが手遅れだった。カトリシアは珍しい玩具欲しさに、それらを披露した豚飼いと通じた。怒りで目の前が真っ赤になる。愛する前皇后に瓜二つの姿で、卑しい男に自ら穢されに行くという許しがたい侮辱に、生涯幽閉を命じようとまで考えた。
が、叱られて項垂れるカトリシアの横で、ふてぶてしい態度を崩さない豚飼いの顔を見て、一連の騒動の絡繰りを察する。みすぼらしい風体だが、顔形までは変えられない……奴はカトリシアを手に入れるために、強硬手段に出たのだと。
皇帝はカトリシアの幽閉を取り止め、豚飼いと共に城から追い出した。彼が王子であれば、娘はピグマリオン王国で保護されるだろう。御者に国境付近まで送り届けさせ、帰ったと見せかけて様子を窺わせる。
結果としては、豚飼いの正体はやはりロジエル王子だった。だが彼はカトリシアを詰り、門の前に置き去りにして一人で国に戻ってしまった。御者は驚いたが、姫が反省したところで城に迎え入れる作戦なのかもしれない。カトリシアに見つからないよう、御者は距離を取りつつ彼女の歌を夜通し聞いていた。
異変が起こったのは、夜が明けてからだ。うとうとしていた御者が飛び起きると、『かわいいオーガスティン』の歌は口笛に変わっていた。まだ門の前にいるのか……とそっと覗き見ると、そこには誰もいない。青くなった御者が周囲を探し回り、分かったのは、カトリシアはとっくに消えていた事、口笛のような歌声は小鳥の仕業だった事だ。
果たして、カトリシアはロジエル王子に引き取られたのか? それとも見捨てられ、森を彷徨っているのか? 処罰を覚悟で城に戻った御者から話を聞いた皇帝は、とりあえず娘は療養している事にして、国中を捜索するよう密命を出したのだった。
その一方で、皇帝は隣国ピグマリオンでカトリシアが匿われていないか間者を送って調べさせた。本人に問い質したところで、求婚を断られた腹いせに豚飼いに化けて姫を貶めたなど、バカ正直に答えるわけがない。間者からの報告によれば、カトリシアらしき人物を保護した形跡はなく、また王子も新たな婚約者探しに奔走しているとの事だった。娘は、完全にロジエル王子に見捨てられていた。
皇帝は、己の浅慮を呪った。そこまでしてカトリシアを愛しているのならば、責任を取って引き取るに違いないと、王子を信じた愚かさに。だがまだ希望はある。国境周辺の森から遺体が見つかったという報告も聞かないのだ。
あとはカトリシアが見つかるまで彼女の不在を誤魔化す事のみ。美しい彼女を妻にと求める声は多い。だが万が一にも豚飼いとの『取引』は隠し通さなければならない。娘の生死にかかわらず、これは最優先事項だった。
「娘には好いた男がいるので、その者と添い遂げさせる」
あやふやな断り文句で求婚者を断りつつ、王子の出方を窺う日々。そんな中、皇帝はある違和感に気付いた。今でも時々訪れる亡き皇后の寝室が、誰かに使われた形跡があるのだ。もしやメイドが無断でベッドに横たわったりしているのかと怒りに燃えるが、それにしてもしょっちゅうではないはず。
念のため、夜は扉の前に見張りを立てたが、謎の侵入者は先に誰かが部屋の中で待機でもしない限り、こちらを嘲笑うかのようにどこかから寝泊まりを繰り返しているようだった。ただし、それ以外で盗難や破損などは起こっていない。
(不思議だな、我が妻よ……余には賊が、カトリシアのような気がしてならぬ)
自分でもバカバカしい推測だと分かっている。ただ、もしも無事であるならば顔を見せて欲しい。現皇后とは最後までぎくしゃくしたままだったが、息子のルクセリオン共々心を痛めているのだ。
事態が動いたのは、隣国から再度カトリシアへの求婚の申し出が届けられた時だった。そこには彼女を保護するに至った『経緯』がぬけぬけと綴られ、腹立たしい事この上なかったが、これは追放時に皇帝が画策していた事でもある。まずは娘が本物かどうか、直々に会って確かめなければ。
「生きていてくれたか……今はそれだけで充分だ」
娘の無事を知った皇帝が前皇后の寝室で呟けたのは、その一言だけだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
カトリシアは複雑な心境でふと思う。仮にロジエルに託す事なく幽閉されていたとして、自分は幸せになれたのだろうか? 確かに輝かしい未来は閉ざされたかもしれない。だからと言ってカトリシアの人生は長く、一つや二つの失敗で全てが終わりだと決め付けられたくはない。
やがてカトリシアは、固く閉ざしていた瞳をゆっくりと開く。
「お父様。恐らくですが……これは誰か一人の責任にすべきではないのです。私もまた、進むべき道を選ばなかった……それでも、今が不幸だと思っておりません。少なくとも、私にとっては。
だからどうか、第一皇女ではなくオーガスティンという一人の娘の新しい門出を、祝ってはもらえないでしょうか」
それは先ほど言っていた、カトリシアとしての『死』――身を割かれるような後悔と別離の悲しみが皇帝を襲ったが、それを表に出す事はなく、ただ父として、娘の幸せのために送り出してやらねばと気持ちを切り替える。
「ねえさま、どこかへ行ってしまうの? もう会えないのですか?」
二人の間に割って入り、ドレスの裾を掴んで止めたのは第一皇子のルクスだった。泣きそうな顔で縋り付く弟と視線を合わせ、カトリシアは言い聞かせながら微笑む。
「姉様はこれからお嫁に行くの。だけどルクスの事はいつも考えているわ。もし寂しくなったのなら、前皇后の部屋にある机の引き出しに、お手紙を入れてちょうだい。きっとおかあさまが届けてくれるから」
娘のこの言葉に皇帝はハッとしたが、その事には触れずに改めてコールに向き直る。
「約束は約束だ。その娘は連れてゆくといい……オーガスティンとやら、達者で暮らせ」
「はい、皇帝陛下も」
父と娘の視線が絡んだ、その一瞬。
「いたぞ!」
「捕えろ!!」
ピグマリオン王国の兵士たちが中庭に入ってきた。
「おっと時間だ、しっかり掴まってろよオーガスティン!」
コールはカトリシアを自分の前に座らせ、ホルンの手綱を引いて駆け出した。
「くそっ、絶対に逃がすな! 花嫁泥棒を捕らえろ!!」
ロジエルの怒鳴り声が後ろから聞こえるが、二人は振り向く事はしない。彼らからすれば、王子こそがカトリシアを奪った泥棒であり、コールはそれを取り返しただけなのだから。
「ところで、どうやって帰るの?」
「あれを見ろ」
指差す先には、庭園に造られた人工池があった。
「イライザさんは城の庭師にも自分の手の者を紛れ込ませていたらしくてな。一度水抜きした池に石を一つ一つ埋め込ませたんだよ。こう……」
空中に指で描かれた円を見て、カトリシアはハッとする。
「魔法陣……!」
「俺たちはここを通ってきたのさ。今から飛び込むから、振り落とされんなよ!」
そう言って池の手前で勢いよくジャンプし、二人と一匹は池へと飛び込んだ。
ようやく追いついたロジエルが見た光景は、その直前――コールの胸にしっかりとしがみついたカトリシアの、幸せそうな笑顔だった。ドブン、と大きな水飛沫の後、慌てて兵士たちを池に潜らせ捜索させたが、濡れ鼠になっても誰も彼女を発見できなかった。
カトリシアはホルンから降り、皇帝と対面する。ひょっとすると、これが今生の別れになるかもしれないのだ。
「カトリシアよ、これでよいのだな。ロジエル王子がこちらに通達してきたそなたの事情は……」
「殿下が何を吹き込んだのかは分かりませんが、今の私は心身共にあの御方を拒絶しております。この国に嫁すなど、ましてや跡継ぎなど不可能ですわ」
「余は選択を誤り、亡き妻の忘れ形見に取り返しのつかない仕打ちをした。すまぬ……」
「お父様……」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ドラコニア帝国皇帝は、己の仕打ちに対して悔やんでいた。
一人娘のカトリシアは亡き皇后によく似た愛らしい姫で、年齢の割に幼く好奇心旺盛なところを除けば自慢の娘だった。しかし愛する妻が病で亡くなってからというもの、カトリシアの精神はさらに退行し、侍女とままごと遊びに没頭するようになっていった。窘めたいところだが、皇帝自身この不幸を昇華し切れておらず、また世継ぎのためにも新しい皇后を迎える準備があった。
思えば、あれが親子の間に壁ができるきっかけだった。
娘の異変に気付いた時には、全てが手遅れだった。カトリシアは珍しい玩具欲しさに、それらを披露した豚飼いと通じた。怒りで目の前が真っ赤になる。愛する前皇后に瓜二つの姿で、卑しい男に自ら穢されに行くという許しがたい侮辱に、生涯幽閉を命じようとまで考えた。
が、叱られて項垂れるカトリシアの横で、ふてぶてしい態度を崩さない豚飼いの顔を見て、一連の騒動の絡繰りを察する。みすぼらしい風体だが、顔形までは変えられない……奴はカトリシアを手に入れるために、強硬手段に出たのだと。
皇帝はカトリシアの幽閉を取り止め、豚飼いと共に城から追い出した。彼が王子であれば、娘はピグマリオン王国で保護されるだろう。御者に国境付近まで送り届けさせ、帰ったと見せかけて様子を窺わせる。
結果としては、豚飼いの正体はやはりロジエル王子だった。だが彼はカトリシアを詰り、門の前に置き去りにして一人で国に戻ってしまった。御者は驚いたが、姫が反省したところで城に迎え入れる作戦なのかもしれない。カトリシアに見つからないよう、御者は距離を取りつつ彼女の歌を夜通し聞いていた。
異変が起こったのは、夜が明けてからだ。うとうとしていた御者が飛び起きると、『かわいいオーガスティン』の歌は口笛に変わっていた。まだ門の前にいるのか……とそっと覗き見ると、そこには誰もいない。青くなった御者が周囲を探し回り、分かったのは、カトリシアはとっくに消えていた事、口笛のような歌声は小鳥の仕業だった事だ。
果たして、カトリシアはロジエル王子に引き取られたのか? それとも見捨てられ、森を彷徨っているのか? 処罰を覚悟で城に戻った御者から話を聞いた皇帝は、とりあえず娘は療養している事にして、国中を捜索するよう密命を出したのだった。
その一方で、皇帝は隣国ピグマリオンでカトリシアが匿われていないか間者を送って調べさせた。本人に問い質したところで、求婚を断られた腹いせに豚飼いに化けて姫を貶めたなど、バカ正直に答えるわけがない。間者からの報告によれば、カトリシアらしき人物を保護した形跡はなく、また王子も新たな婚約者探しに奔走しているとの事だった。娘は、完全にロジエル王子に見捨てられていた。
皇帝は、己の浅慮を呪った。そこまでしてカトリシアを愛しているのならば、責任を取って引き取るに違いないと、王子を信じた愚かさに。だがまだ希望はある。国境周辺の森から遺体が見つかったという報告も聞かないのだ。
あとはカトリシアが見つかるまで彼女の不在を誤魔化す事のみ。美しい彼女を妻にと求める声は多い。だが万が一にも豚飼いとの『取引』は隠し通さなければならない。娘の生死にかかわらず、これは最優先事項だった。
「娘には好いた男がいるので、その者と添い遂げさせる」
あやふやな断り文句で求婚者を断りつつ、王子の出方を窺う日々。そんな中、皇帝はある違和感に気付いた。今でも時々訪れる亡き皇后の寝室が、誰かに使われた形跡があるのだ。もしやメイドが無断でベッドに横たわったりしているのかと怒りに燃えるが、それにしてもしょっちゅうではないはず。
念のため、夜は扉の前に見張りを立てたが、謎の侵入者は先に誰かが部屋の中で待機でもしない限り、こちらを嘲笑うかのようにどこかから寝泊まりを繰り返しているようだった。ただし、それ以外で盗難や破損などは起こっていない。
(不思議だな、我が妻よ……余には賊が、カトリシアのような気がしてならぬ)
自分でもバカバカしい推測だと分かっている。ただ、もしも無事であるならば顔を見せて欲しい。現皇后とは最後までぎくしゃくしたままだったが、息子のルクセリオン共々心を痛めているのだ。
事態が動いたのは、隣国から再度カトリシアへの求婚の申し出が届けられた時だった。そこには彼女を保護するに至った『経緯』がぬけぬけと綴られ、腹立たしい事この上なかったが、これは追放時に皇帝が画策していた事でもある。まずは娘が本物かどうか、直々に会って確かめなければ。
「生きていてくれたか……今はそれだけで充分だ」
娘の無事を知った皇帝が前皇后の寝室で呟けたのは、その一言だけだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
カトリシアは複雑な心境でふと思う。仮にロジエルに託す事なく幽閉されていたとして、自分は幸せになれたのだろうか? 確かに輝かしい未来は閉ざされたかもしれない。だからと言ってカトリシアの人生は長く、一つや二つの失敗で全てが終わりだと決め付けられたくはない。
やがてカトリシアは、固く閉ざしていた瞳をゆっくりと開く。
「お父様。恐らくですが……これは誰か一人の責任にすべきではないのです。私もまた、進むべき道を選ばなかった……それでも、今が不幸だと思っておりません。少なくとも、私にとっては。
だからどうか、第一皇女ではなくオーガスティンという一人の娘の新しい門出を、祝ってはもらえないでしょうか」
それは先ほど言っていた、カトリシアとしての『死』――身を割かれるような後悔と別離の悲しみが皇帝を襲ったが、それを表に出す事はなく、ただ父として、娘の幸せのために送り出してやらねばと気持ちを切り替える。
「ねえさま、どこかへ行ってしまうの? もう会えないのですか?」
二人の間に割って入り、ドレスの裾を掴んで止めたのは第一皇子のルクスだった。泣きそうな顔で縋り付く弟と視線を合わせ、カトリシアは言い聞かせながら微笑む。
「姉様はこれからお嫁に行くの。だけどルクスの事はいつも考えているわ。もし寂しくなったのなら、前皇后の部屋にある机の引き出しに、お手紙を入れてちょうだい。きっとおかあさまが届けてくれるから」
娘のこの言葉に皇帝はハッとしたが、その事には触れずに改めてコールに向き直る。
「約束は約束だ。その娘は連れてゆくといい……オーガスティンとやら、達者で暮らせ」
「はい、皇帝陛下も」
父と娘の視線が絡んだ、その一瞬。
「いたぞ!」
「捕えろ!!」
ピグマリオン王国の兵士たちが中庭に入ってきた。
「おっと時間だ、しっかり掴まってろよオーガスティン!」
コールはカトリシアを自分の前に座らせ、ホルンの手綱を引いて駆け出した。
「くそっ、絶対に逃がすな! 花嫁泥棒を捕らえろ!!」
ロジエルの怒鳴り声が後ろから聞こえるが、二人は振り向く事はしない。彼らからすれば、王子こそがカトリシアを奪った泥棒であり、コールはそれを取り返しただけなのだから。
「ところで、どうやって帰るの?」
「あれを見ろ」
指差す先には、庭園に造られた人工池があった。
「イライザさんは城の庭師にも自分の手の者を紛れ込ませていたらしくてな。一度水抜きした池に石を一つ一つ埋め込ませたんだよ。こう……」
空中に指で描かれた円を見て、カトリシアはハッとする。
「魔法陣……!」
「俺たちはここを通ってきたのさ。今から飛び込むから、振り落とされんなよ!」
そう言って池の手前で勢いよくジャンプし、二人と一匹は池へと飛び込んだ。
ようやく追いついたロジエルが見た光景は、その直前――コールの胸にしっかりとしがみついたカトリシアの、幸せそうな笑顔だった。ドブン、と大きな水飛沫の後、慌てて兵士たちを池に潜らせ捜索させたが、濡れ鼠になっても誰も彼女を発見できなかった。
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