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後編
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その瞬間、一気に世界が爆ぜた。
「ぎゃああああああ!!」
「なんじゃこりゃあああああ」
「頭が……頭が割れるううううう!」
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
びびびびびびびびびびびびびびびびびびびび
わんわんわんわんわんわんわんわんわんわん……
群衆が詰めかけていた処刑場は、阿鼻叫喚の地獄と化した。
視界を覆うほどの蝿の大群が、いきなり現れたのだ。
「うわぁっ!?」
今まさにリテラシーの首に斧を振り下ろそうとしていた首切り役は、驚いて追い払おうとし、持っていた斧を放り投げてしまった。弧を描いて飛んできた斧が、サニアの脳天に直撃した。
「ギャアッ!!」
潰れたガマガエルのような悲鳴を上げて倒れるサニア。その傷口から、血液のように蝿たちが外へと噴き出していく。実際に血も出ていたのだろうが、何せ蝿があまりにも多過ぎて確認できない。美しかった側妃の体は、今やおぞましい蝿の巣でしかなかった。
「ぐえええっ!!」
反ファンヴァーグ派のスパロー新宰相が、目から鼻から蛆を垂れ流しながら悶絶する。ぱかっと開いた口からは、わーんと蝿の大群が空へ飛び立っていく。
しかし、すぐ横で愛する妃やお気に入りの部下が凄惨な有り様を見せても、ミゴス王には気にしている余裕すらない。
「な、何だこれは……痒い! 痒いぞ!!」
皮膚の下を何かが蠢く感覚に、たまらず全身バリバリ掻き毟り、滲んだ血から蛆が這い出すのを目にし、思わず吐き気が込み上げる。
(まさか……体内を蛆が!? バカな、いつの間に……うッ)
堪え切れず嘔吐したミゴス王は、自分の口から大量の蛆が滝のように流れ落ちていくのを見て絶叫した。王よりも酷かったのは、新聞社の者や反ファンヴァーグ派、それに乗っかり批判を繰り返していた専門家や芸人崩れだ。蛆を吐き出し、蝿を纏わりつかせる彼らの周囲には、誰も近付こうとしなかった。
もちろん、そんな者たちばかりではない。リテラシーを始め、彼女の処刑を涙を流して見守っていた層には、蛆一匹ついていない。それどころか、処刑場一帯を埋め尽くすほどの蝿たちも、心なしか避けていくように感じる。
「こ、これは一体……?」
「君の父、サンド=ファンヴァーグがいつも見ていた景色だよ」
処刑台で放置されていたリテラシーを助け起こしたのは、辺境で護りに就いているはずの王弟・マーク=ラブラン辺境伯だった。
「ラブラン辺境伯……」
「救助が遅くなってしまい、申し訳ありません。連日、他国からの侵略に追われ、この度ようやく対処の目処がつきました。リテラシー王妃殿下……あなただけでも何としても救いたかった」
凄まじい蝿の音の中、不思議と辺境伯の声はよく通り、リテラシーは夢を見ている感覚に陥った。まるで父といるような錯覚を覚えたからだ。
「ラブラン辺境伯、わたくしは生前の父から危機に陥った時には唱えるよう教えられた『魔法』があるのです。先ほどおっしゃった、父が見ていた光景とは?」
「サンド=ファンヴァーグには、幼い頃から悪意を可視化するスキルが備わっていた。この蝿たちは、謂わば人が生み出した悪意だよ。他人を陥れ、不幸を願う心そのものだ」
(悪意……)
リテラシーは処刑台から改めて周囲を見渡す。彼らの中で、正義と信じてやまなかったそれは、こんなにもおぞましく醜いものだった。けれど思い返せば、蝿という形を取らずとも自分を責め苛んでいたではないか。悪鬼のように顔を歪め、ぶつけてくる言葉は刃のように父やリテラシーの心を斬りつけていたのだ。
「お父様は、ずっとこの光景を? 大臣なんて職に就いていたら、生活する事すらままならないのでは?」
「それについては色々理由はあるけど……とりあえず、蝿の大群の中で僕らが呑気に会話できているのを不思議には思わないかい?」
「ええ、わたくしたちに近寄っても来ませんわね」
さっきからわんわんと凄まじい音の渦に包まれているのに、マークと話している時だけはしっかりと声が頭に入ってくる。それは二人だけではなく、この場にいる全員がそうだった。蝿を追い払おうと逃げ惑い、のたうち回りつつも民衆の目はこちらを向いている。
「ゲボ……ッ、どういう事、だマーク! やはりリテラシーは火の玉会の、魔女……うげぇッ!!」
「とても喋れる状態じゃないから、黙っていなよ兄上……サンドが君に授けたのは、『自分と同じスキルを他者に付与する』魔法だ。これは自分の死後、最も信頼できる者にしか使用できない。まさに、このタイミング限定だったわけさ」
死後、悪意が蝿に見える魔法を王国中にかける……命を懸けて国に尽くしてきた父を虐げてきた者たちへの、強烈な呪いと言えよう。しかしこれがなければ、リテラシーは魔女として殺されていた。
「ぐ……ッ、国民に害をなす魔法を使うなど、悪魔以外にあり得ん! やはりファンヴァーグは殺されて当然だったのだ!」
「そうだ、魔法を解くためにもリテラシーを殺せ!!」
蛆を吐きながらも何とか糾弾しようとする煽動者たちだが、直後に蛆が蝿へと変わり悲鳴を上げる。
「勘違いしている者も多いようだが、火の玉会自体は魔法を使える集団じゃない。他国で当たり前のように存在する魔法を『学問』として研究するために立ち上げたのが始まりだ。何故かと言えば、魔法により他国がメディア王国に侵略してこないとも限らないからね。
ちなみに国教では魔法を否定はしているが、国民が火の玉会を信仰する事自体は自由だ。魔法の使用も、整備が必要ではあるけど法律上は問題ない。
ただ、長い年月により詐欺も横行するように変質していったのは事実だ。宗教としては取り締まれないが、ファンヴァーグ前宰相による救済措置で被害は激減しただろう? 詐欺というのは金儲けのために行われるものだからね」
淡々と説き伏せるマークだったが、民衆が今知りたいのはそこじゃない。いや、ほんの少し前までは話題の中心だった。それこそが、何を置いても優先すべき事だと信じ切っていた。だが、自分たちにそれを植え付け煽り立ててきた新聞記者たちは、今や蝿袋と化している。
「そんな事はどうでもいい! どうすりゃこの蝿どもを消せるんだよ!? その女を殺せば……」
「無駄だ、リテラシーはただのトリガーに過ぎない。また、魔法自体もサンドの固有スキルをこの国にいる全ての人間に付与する事だけ。つまりメディア王国にいる限り、たとえリテラシーを殺そうが蝿が消える事はない……もっとも、殺意を向けた時点で体内では爆発的に蝿が生み出されるだろうが」
マークの脅しに、民衆たちはヒッと青ざめる。今になってようやく、宰相叩きはやり過ぎではないかと思い始める者がちらほら出てきた。一方的に殴っても殴り返してこない相手を、死してなお踏みつけにした報いが今、その身に返ってきているのだと。
記者たちに余裕があるのならば、宰相たる者が国民に恨みを抱くなどお門違いだなどと騒ぐのだろうが、そもそも宰相がその『恨み』とやらで暗殺された事になっている。どれだけ取り繕おうと、その論調には無理があった。
「わ、我々は許されないのでしょうか……どうすればファンヴァーグ宰相は怒りを鎮めてくださるでしょう?」
「怒りと言うか、サンドが元々持っていた固有のスキルなんだけどね。言っただろう? 悪意の可視化……蝿という形を取るのだと。ならば悪意を捨て、悪意を持つ者から距離を取ればいい。
よく考えて欲しい。諸君らに『悪意の卵』を植え付けたのは誰だ?
情報媒体と言っても書いているのは人間だ。絶対に正しいとは限らない。その事を常に念頭に置いておけば、流されて自らが蝿を……悪意を生み出す事もなくなるさ」
民衆たちは、それぞれ顔を見合わせる。中には今なお顔から蛆が流れ落ちる者たちもいたが、比較的軽症な者たちは、蝿がたかっていない者に恐る恐る問いかける。
「な……なあ、俺は騙されてきたのか? 新聞に書かれていた失言や失策は捏造だったのか?」
「嘘ではないだろうが、正確には発言や視点の一部と見るべきだろう。賛同者も多いし」
「実は意見を出してる専門家がいつも同じなのが気になっていたんだ。御用達なんだろうな」
「どれぐらいの高級料理を食べているのかとか、どうでもいいよな。貴族なんだし要人相手に会食ケチってたらその方がやばいぞ」
「支持率と言うけど、あたし一度も聞かれた事ないわよ?」
「最初は評価している素振りの時もあったが……『だがちょっと待ってほしい』と挟んで結局いつものバッシングに戻るのがお決まりだったな」
「あれが国民の声だって? 新聞の声の間違いだろ!」
ざわざわざわ……
民衆が新聞への疑惑を口にする度に、視界がクリアになっていく。気の狂いそうな痒みと吐き気と騒音は治まり、掻き傷と吐瀉物塗れの体から出てくる蝿の数も劇的に減っていった。
無論、新聞関係者や彼らを妄信する者たちからは今も蝿や蛆が大量にわき出している。ミゴス王もそのうちの一人だった。
「マ、マークきさ……ガハッ」
「自らの過ちを認めるのは勇気の要る事でしょう。しかしトップともあろう者が、国の功労者を労わるどころか尊厳を踏み付けるなどあってはならない。
兄上、まずは蝿が一匹もいなくなるまで王位を退いていただき、御療養に専念してください。この事態は代理として私が収拾いたしますので」
マークが合図を送ると、兵士たちがミゴス王を連れていった。と言っても異常な数の蝿にたかられているので迂闊には近付けず、結局首から下は袋詰めという形を取られた。
「さて……リテラシー王妃殿下」
「……はい? いえ、今は元王妃ですが」
自分に向き直り跪いたマークを、リテラシーは慌てて立ち上がらせようと促す。まだ混乱中のリテラシーに、マークは苦笑いを浮かべた。
「今回の事で、さぞやメディア王国には失望されたでしょう。我々は王国のために命を懸けて尽くしてくれたあなたの御父上を殺したに等しい。本来なら見限られても文句は言えないのです。
しかし辺境では連日他国の侵略が相次ぎ、また世界規模の要人を失った事で情勢も不安定です。メディア王国は偉大なるファンヴァーグ宰相の遺志を継ぐ事を示すためにも、国葬儀は必ず成功させなければならない。
そのためにもリテラシー……ファンヴァーグ公爵令嬢、あなたのお力が必要です。人々の心に蝿などではなくサンドの生きた姿を残していく手助けを、どうかお願いしたい!」
真摯に頭を下げられ、リテラシーはもう一度断頭台から民衆を見下ろす。
つい先ほどまでは、自分の死を願って憎悪に塗れていた者たちは、目が覚めたように困惑と後悔に満ちた顔でおどおどとこちらの様子を窺っている。彼らを恨んで国を捨てたとしてもマークは許してくれるだろう。そのまま誰も知らない国で、ひっそりとメディア王国滅亡の報を知る事も……だけど。
(それでも、わたくしは公人。ファンヴァーグ宰相の娘にしてメディア王国の王妃だから)
背筋を伸ばして、スッと息を吸う。マークほどではないが、国民の心に届くように。
「皆さん。父は最期まで、この国を愛していました。たとえ悪意に晒され傷付けられようと、この国の未来を想い人生を、命を懸けたのです。
何かを変えようとすると、必ず反発が起きます。その結果、道半ばで命を奪われる事もあるでしょう。
それでも、皆さんの穏やかな暮らしと人としての尊厳を守るためにサンド=ファンヴァーグはこの世に生を受けたのだと、生前よく父は語ってくれました。わたくしは……その遺志を継ぎたい。彼の魂までは、死なせない。
国民の皆さん、現在メディア王国では新聞に大きく取り上げられない危機が迫っています。その苦難を乗り越えるためにも、皆さんの力をお貸しください。こんな人たちに負けないくらいの、父が愛したメディア王国を取り戻せるだけの力を!!」
リテラシーの言葉に、広場全体が沸き立った。それこそ、周囲でわんわん鳴っていた蝿の音などかき消されるほどに。聞き届けた者の中には比較的蝿の少ない記者もいて、彼女の宣言をメモに書き付けていた。これからの新聞は今までの腐れ切った体質を捨て、本来の報道としての在り方を見せるべき時が来ていた。
「ぎゃああああああ!!」
「なんじゃこりゃあああああ」
「頭が……頭が割れるううううう!」
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
びびびびびびびびびびびびびびびびびびびび
わんわんわんわんわんわんわんわんわんわん……
群衆が詰めかけていた処刑場は、阿鼻叫喚の地獄と化した。
視界を覆うほどの蝿の大群が、いきなり現れたのだ。
「うわぁっ!?」
今まさにリテラシーの首に斧を振り下ろそうとしていた首切り役は、驚いて追い払おうとし、持っていた斧を放り投げてしまった。弧を描いて飛んできた斧が、サニアの脳天に直撃した。
「ギャアッ!!」
潰れたガマガエルのような悲鳴を上げて倒れるサニア。その傷口から、血液のように蝿たちが外へと噴き出していく。実際に血も出ていたのだろうが、何せ蝿があまりにも多過ぎて確認できない。美しかった側妃の体は、今やおぞましい蝿の巣でしかなかった。
「ぐえええっ!!」
反ファンヴァーグ派のスパロー新宰相が、目から鼻から蛆を垂れ流しながら悶絶する。ぱかっと開いた口からは、わーんと蝿の大群が空へ飛び立っていく。
しかし、すぐ横で愛する妃やお気に入りの部下が凄惨な有り様を見せても、ミゴス王には気にしている余裕すらない。
「な、何だこれは……痒い! 痒いぞ!!」
皮膚の下を何かが蠢く感覚に、たまらず全身バリバリ掻き毟り、滲んだ血から蛆が這い出すのを目にし、思わず吐き気が込み上げる。
(まさか……体内を蛆が!? バカな、いつの間に……うッ)
堪え切れず嘔吐したミゴス王は、自分の口から大量の蛆が滝のように流れ落ちていくのを見て絶叫した。王よりも酷かったのは、新聞社の者や反ファンヴァーグ派、それに乗っかり批判を繰り返していた専門家や芸人崩れだ。蛆を吐き出し、蝿を纏わりつかせる彼らの周囲には、誰も近付こうとしなかった。
もちろん、そんな者たちばかりではない。リテラシーを始め、彼女の処刑を涙を流して見守っていた層には、蛆一匹ついていない。それどころか、処刑場一帯を埋め尽くすほどの蝿たちも、心なしか避けていくように感じる。
「こ、これは一体……?」
「君の父、サンド=ファンヴァーグがいつも見ていた景色だよ」
処刑台で放置されていたリテラシーを助け起こしたのは、辺境で護りに就いているはずの王弟・マーク=ラブラン辺境伯だった。
「ラブラン辺境伯……」
「救助が遅くなってしまい、申し訳ありません。連日、他国からの侵略に追われ、この度ようやく対処の目処がつきました。リテラシー王妃殿下……あなただけでも何としても救いたかった」
凄まじい蝿の音の中、不思議と辺境伯の声はよく通り、リテラシーは夢を見ている感覚に陥った。まるで父といるような錯覚を覚えたからだ。
「ラブラン辺境伯、わたくしは生前の父から危機に陥った時には唱えるよう教えられた『魔法』があるのです。先ほどおっしゃった、父が見ていた光景とは?」
「サンド=ファンヴァーグには、幼い頃から悪意を可視化するスキルが備わっていた。この蝿たちは、謂わば人が生み出した悪意だよ。他人を陥れ、不幸を願う心そのものだ」
(悪意……)
リテラシーは処刑台から改めて周囲を見渡す。彼らの中で、正義と信じてやまなかったそれは、こんなにもおぞましく醜いものだった。けれど思い返せば、蝿という形を取らずとも自分を責め苛んでいたではないか。悪鬼のように顔を歪め、ぶつけてくる言葉は刃のように父やリテラシーの心を斬りつけていたのだ。
「お父様は、ずっとこの光景を? 大臣なんて職に就いていたら、生活する事すらままならないのでは?」
「それについては色々理由はあるけど……とりあえず、蝿の大群の中で僕らが呑気に会話できているのを不思議には思わないかい?」
「ええ、わたくしたちに近寄っても来ませんわね」
さっきからわんわんと凄まじい音の渦に包まれているのに、マークと話している時だけはしっかりと声が頭に入ってくる。それは二人だけではなく、この場にいる全員がそうだった。蝿を追い払おうと逃げ惑い、のたうち回りつつも民衆の目はこちらを向いている。
「ゲボ……ッ、どういう事、だマーク! やはりリテラシーは火の玉会の、魔女……うげぇッ!!」
「とても喋れる状態じゃないから、黙っていなよ兄上……サンドが君に授けたのは、『自分と同じスキルを他者に付与する』魔法だ。これは自分の死後、最も信頼できる者にしか使用できない。まさに、このタイミング限定だったわけさ」
死後、悪意が蝿に見える魔法を王国中にかける……命を懸けて国に尽くしてきた父を虐げてきた者たちへの、強烈な呪いと言えよう。しかしこれがなければ、リテラシーは魔女として殺されていた。
「ぐ……ッ、国民に害をなす魔法を使うなど、悪魔以外にあり得ん! やはりファンヴァーグは殺されて当然だったのだ!」
「そうだ、魔法を解くためにもリテラシーを殺せ!!」
蛆を吐きながらも何とか糾弾しようとする煽動者たちだが、直後に蛆が蝿へと変わり悲鳴を上げる。
「勘違いしている者も多いようだが、火の玉会自体は魔法を使える集団じゃない。他国で当たり前のように存在する魔法を『学問』として研究するために立ち上げたのが始まりだ。何故かと言えば、魔法により他国がメディア王国に侵略してこないとも限らないからね。
ちなみに国教では魔法を否定はしているが、国民が火の玉会を信仰する事自体は自由だ。魔法の使用も、整備が必要ではあるけど法律上は問題ない。
ただ、長い年月により詐欺も横行するように変質していったのは事実だ。宗教としては取り締まれないが、ファンヴァーグ前宰相による救済措置で被害は激減しただろう? 詐欺というのは金儲けのために行われるものだからね」
淡々と説き伏せるマークだったが、民衆が今知りたいのはそこじゃない。いや、ほんの少し前までは話題の中心だった。それこそが、何を置いても優先すべき事だと信じ切っていた。だが、自分たちにそれを植え付け煽り立ててきた新聞記者たちは、今や蝿袋と化している。
「そんな事はどうでもいい! どうすりゃこの蝿どもを消せるんだよ!? その女を殺せば……」
「無駄だ、リテラシーはただのトリガーに過ぎない。また、魔法自体もサンドの固有スキルをこの国にいる全ての人間に付与する事だけ。つまりメディア王国にいる限り、たとえリテラシーを殺そうが蝿が消える事はない……もっとも、殺意を向けた時点で体内では爆発的に蝿が生み出されるだろうが」
マークの脅しに、民衆たちはヒッと青ざめる。今になってようやく、宰相叩きはやり過ぎではないかと思い始める者がちらほら出てきた。一方的に殴っても殴り返してこない相手を、死してなお踏みつけにした報いが今、その身に返ってきているのだと。
記者たちに余裕があるのならば、宰相たる者が国民に恨みを抱くなどお門違いだなどと騒ぐのだろうが、そもそも宰相がその『恨み』とやらで暗殺された事になっている。どれだけ取り繕おうと、その論調には無理があった。
「わ、我々は許されないのでしょうか……どうすればファンヴァーグ宰相は怒りを鎮めてくださるでしょう?」
「怒りと言うか、サンドが元々持っていた固有のスキルなんだけどね。言っただろう? 悪意の可視化……蝿という形を取るのだと。ならば悪意を捨て、悪意を持つ者から距離を取ればいい。
よく考えて欲しい。諸君らに『悪意の卵』を植え付けたのは誰だ?
情報媒体と言っても書いているのは人間だ。絶対に正しいとは限らない。その事を常に念頭に置いておけば、流されて自らが蝿を……悪意を生み出す事もなくなるさ」
民衆たちは、それぞれ顔を見合わせる。中には今なお顔から蛆が流れ落ちる者たちもいたが、比較的軽症な者たちは、蝿がたかっていない者に恐る恐る問いかける。
「な……なあ、俺は騙されてきたのか? 新聞に書かれていた失言や失策は捏造だったのか?」
「嘘ではないだろうが、正確には発言や視点の一部と見るべきだろう。賛同者も多いし」
「実は意見を出してる専門家がいつも同じなのが気になっていたんだ。御用達なんだろうな」
「どれぐらいの高級料理を食べているのかとか、どうでもいいよな。貴族なんだし要人相手に会食ケチってたらその方がやばいぞ」
「支持率と言うけど、あたし一度も聞かれた事ないわよ?」
「最初は評価している素振りの時もあったが……『だがちょっと待ってほしい』と挟んで結局いつものバッシングに戻るのがお決まりだったな」
「あれが国民の声だって? 新聞の声の間違いだろ!」
ざわざわざわ……
民衆が新聞への疑惑を口にする度に、視界がクリアになっていく。気の狂いそうな痒みと吐き気と騒音は治まり、掻き傷と吐瀉物塗れの体から出てくる蝿の数も劇的に減っていった。
無論、新聞関係者や彼らを妄信する者たちからは今も蝿や蛆が大量にわき出している。ミゴス王もそのうちの一人だった。
「マ、マークきさ……ガハッ」
「自らの過ちを認めるのは勇気の要る事でしょう。しかしトップともあろう者が、国の功労者を労わるどころか尊厳を踏み付けるなどあってはならない。
兄上、まずは蝿が一匹もいなくなるまで王位を退いていただき、御療養に専念してください。この事態は代理として私が収拾いたしますので」
マークが合図を送ると、兵士たちがミゴス王を連れていった。と言っても異常な数の蝿にたかられているので迂闊には近付けず、結局首から下は袋詰めという形を取られた。
「さて……リテラシー王妃殿下」
「……はい? いえ、今は元王妃ですが」
自分に向き直り跪いたマークを、リテラシーは慌てて立ち上がらせようと促す。まだ混乱中のリテラシーに、マークは苦笑いを浮かべた。
「今回の事で、さぞやメディア王国には失望されたでしょう。我々は王国のために命を懸けて尽くしてくれたあなたの御父上を殺したに等しい。本来なら見限られても文句は言えないのです。
しかし辺境では連日他国の侵略が相次ぎ、また世界規模の要人を失った事で情勢も不安定です。メディア王国は偉大なるファンヴァーグ宰相の遺志を継ぐ事を示すためにも、国葬儀は必ず成功させなければならない。
そのためにもリテラシー……ファンヴァーグ公爵令嬢、あなたのお力が必要です。人々の心に蝿などではなくサンドの生きた姿を残していく手助けを、どうかお願いしたい!」
真摯に頭を下げられ、リテラシーはもう一度断頭台から民衆を見下ろす。
つい先ほどまでは、自分の死を願って憎悪に塗れていた者たちは、目が覚めたように困惑と後悔に満ちた顔でおどおどとこちらの様子を窺っている。彼らを恨んで国を捨てたとしてもマークは許してくれるだろう。そのまま誰も知らない国で、ひっそりとメディア王国滅亡の報を知る事も……だけど。
(それでも、わたくしは公人。ファンヴァーグ宰相の娘にしてメディア王国の王妃だから)
背筋を伸ばして、スッと息を吸う。マークほどではないが、国民の心に届くように。
「皆さん。父は最期まで、この国を愛していました。たとえ悪意に晒され傷付けられようと、この国の未来を想い人生を、命を懸けたのです。
何かを変えようとすると、必ず反発が起きます。その結果、道半ばで命を奪われる事もあるでしょう。
それでも、皆さんの穏やかな暮らしと人としての尊厳を守るためにサンド=ファンヴァーグはこの世に生を受けたのだと、生前よく父は語ってくれました。わたくしは……その遺志を継ぎたい。彼の魂までは、死なせない。
国民の皆さん、現在メディア王国では新聞に大きく取り上げられない危機が迫っています。その苦難を乗り越えるためにも、皆さんの力をお貸しください。こんな人たちに負けないくらいの、父が愛したメディア王国を取り戻せるだけの力を!!」
リテラシーの言葉に、広場全体が沸き立った。それこそ、周囲でわんわん鳴っていた蝿の音などかき消されるほどに。聞き届けた者の中には比較的蝿の少ない記者もいて、彼女の宣言をメモに書き付けていた。これからの新聞は今までの腐れ切った体質を捨て、本来の報道としての在り方を見せるべき時が来ていた。
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