3 / 38
#1:Lost.
②
しおりを挟む
ソファで目を覚まし、冷蔵庫からクエン酸入りのレモンドリンクを取り出して、胃に流し込む。
もう木曜日の昼になっていた。
キリリと胃に染みて痛むのは効いている証拠だと都合良く解釈して、瓶の中身を空にした。
『明日は休みなさい』と言われてからの記憶は曖昧だった。
帰りにコンビニで酒を買い、潰れるまで飲んだようで、ご丁寧にレモンドリンクまで買っていた。そんな自分が少しおかしかった。
(明日はどんな顔をして会社に行けば良いのかな…)
二日前に処方された睡眠導入剤が視界に入る。
(見えない所に置こう…)
薬袋を裏返して、見えない様にテーブルの下に追いやった。
金曜日の朝を告げるアラームが鳴る。目を閉じて起きていた体を起こして、活動を開始する。
歯を磨き、電動シェーバーで髭を剃ってから顔を洗い、少し濡れた手で髪をかき上げる。整髪料は何も付けない。意味の無いこだわりだ。
通勤電車の中で、昨日休ませてもらったことに対する謝罪の言葉を組み立てながら、社内でどう振る舞うべきか考えていた。
会社が入るビルを前にした時、ボクの体は完全に停止してしまった。
(…あれ?)
心音が大きくなり、周りの雑音がシャットアウトされる。吐く息は全力疾走した後のように荒くなり、手も足も冷たくなっていることが分かった。本能なのか、体温を上げろと体が震えている。
目に映る景色は、端から墨汁が染み込むように滲んでいった。
…お……ます………せんぱ……?
「先輩っ!」
背中を叩かれ、視界が白く弾けた。
隣には、ボクの顔を覗き込む男の姿があった。
「おはようございます、先輩」
後輩が不思議そうな顔をして、ボクの顔を覗き込んでいた。
「あぁ…おはよう…」
絞り出すように放った口は、カラカラに乾いていた。
「どうしたんすか?遅刻しちゃいますよ?」
頼りになる人、味方、明日は休みなさい、貴方の人柄を知っていて、変わることは無い。
特に意味は無い。
ボクに向けられたその言葉たちが、濁流のように流れてきて、全てを飲み込んでいく。
ハリボテだと思っていた経験は、全て自分に対しての重圧でしかなかった。
期待されることが怖かった。
体は冷えきっているのに、汗は滝のように流れていた。
「……ぁ……こ、こわい……」
消え入りそうな声だったのに、聞き逃されていなかった。
「なに言ってんすか?ほら行きますよっ!」
(嫌だ…行きたくない)
いま行ってしまったら、全てが終わる気がした。
オフィスに入ると、すぐに体が拒絶反応を起こしてしまった。トイレに駆け込み、昨日飲んだレモンドリンクも、一昨日飲んだ酒も全て出し尽くしてしまった。
吐く物が無くなった後は、支社長が運転する車の後部座席で横たわっていた。高速道路の一定間隔で襲ってくる段差の振動は、空っぽの胃袋を執拗に刺激した。
自宅マンションのエントランス前まで送り届けてもらったボクは、この晒してしまった醜態を、どう償えば良いのか分からなかった。
「ボクは…どうすれば良いですか?」
バックミラー越しに聞いたボクに、ハンドルを握って前を向いまま「今はとにかく休みなさい」とだけ言った彼女は、こちらに顔を向けてくれることは無かった。
自宅に着くと、すぐにインナーと下着だけの姿になって布団に潜り込んだ。
一秒でも早く現実から逃げ出したかった。
あれだけ夜は眠れなかったのに、その時だけは不思議と、アルコールや睡眠導入剤に頼らずに眠ることが出来た。
土曜日の昼前まで、一度も起きることなく眠り続けていた。
昨日帰宅した正確な時間は分からないけれど、丸一日以上眠っていたらしい。
昨日までに起こった出来事を、振り返らずに忘却したくて家中を丁寧に掃除することにした。
キッチン周りや換気扇のフィルターの埃取りまで、この数週間で澱んでしまった空気を晴らすかのように、他の思考を自分に与えないよう黙々と体を動かした。
掃除を終えてから熱めのシャワーを浴びて、体を覆う穢れを落とした。シャンプーと石鹸の香りを纏う自分は、新品になった気がして清々しかった。
昨日空っぽにした胃袋は、まだ食べ物を求めていなかったけれど、冷蔵庫の中に何か無いか漁ることにした。
好奇心というものは、時にそれを上回るダメージを返してくることがある。ボクは冷蔵庫を開けてしまったことを、すぐに後悔した。
『食べる物が無かったこと』にではなく『見てはいけない物』を見てしまったことに。
異動の挨拶回り中に、とあるクライアントから戴いた一本の瓶だった。
『蒸溜所貯蔵 焙煎樽仕込梅酒』
選考を辞退した、あの会社の、ボクにメッセージを残してくれた人間から贈られた、ボクが好きだと知っていて贈ってくれた、嬉しいプレゼントだった物が、そこにはあった。
忘却しようとしていた昨日までの記憶が戻って来てしまう。
咄嗟に冷蔵庫から瓶を排除し、冷凍室から氷カップを取り出した。この贈り物を無かったことにしたかった。
味は殆どしなかったけれど、空腹の体に十四度のアルコールをロックで注ぎ込むことは、想像以上に堪えたようで、そのままソファで寝てしまっていた。
また『テレビと部屋の灯りは点いたまま』だった。
目が覚めた時、テレビ画面には競馬番組が流れていて、グランプリレースの勝利ジョッキーに、花束を渡す女優の姿が映し出されていた。
瞬間、猛烈な吐き気が押し寄せてきて、トイレに駆け込んだ。嬉しいプレゼントだったものは、下水道の彼方に流れていった。
リビングに戻ると競馬番組は終わっていて、バラエティ番組が始まっていた。いかにも日曜日の夕方らしい『家族みんなで観れる』ような番組だった。
テレビを消して昨日空にした瓶を手に取り、マンションの室内ゴミ置き場に向かう。管理人の居ない日曜日のゴミ置き場は、ゴミが乱雑に散らばっていて、同じ建物に住んでいる人達の気遣いの無さに嫌気が差した。綺麗に捨てれば良いのに…そう思いながら、あきビン専用のカゴの中に、割れないよう丁寧に贈り物の亡骸を葬った。
眠れない夜を過ごし、朝を告げるアラームが鳴り響く。
手探りでスマートフォンをタップして、不愉快な音を止める。
今日からまた新しい日常が始まる。
そう思っていたし、そう信じていた。
またボクは、体を起こすことが出来なかった。
窓の外からは、今年も産卵期を迎えてこの街に戻ってきた、ウミネコの鳴き声が聞こえていた。
もう木曜日の昼になっていた。
キリリと胃に染みて痛むのは効いている証拠だと都合良く解釈して、瓶の中身を空にした。
『明日は休みなさい』と言われてからの記憶は曖昧だった。
帰りにコンビニで酒を買い、潰れるまで飲んだようで、ご丁寧にレモンドリンクまで買っていた。そんな自分が少しおかしかった。
(明日はどんな顔をして会社に行けば良いのかな…)
二日前に処方された睡眠導入剤が視界に入る。
(見えない所に置こう…)
薬袋を裏返して、見えない様にテーブルの下に追いやった。
金曜日の朝を告げるアラームが鳴る。目を閉じて起きていた体を起こして、活動を開始する。
歯を磨き、電動シェーバーで髭を剃ってから顔を洗い、少し濡れた手で髪をかき上げる。整髪料は何も付けない。意味の無いこだわりだ。
通勤電車の中で、昨日休ませてもらったことに対する謝罪の言葉を組み立てながら、社内でどう振る舞うべきか考えていた。
会社が入るビルを前にした時、ボクの体は完全に停止してしまった。
(…あれ?)
心音が大きくなり、周りの雑音がシャットアウトされる。吐く息は全力疾走した後のように荒くなり、手も足も冷たくなっていることが分かった。本能なのか、体温を上げろと体が震えている。
目に映る景色は、端から墨汁が染み込むように滲んでいった。
…お……ます………せんぱ……?
「先輩っ!」
背中を叩かれ、視界が白く弾けた。
隣には、ボクの顔を覗き込む男の姿があった。
「おはようございます、先輩」
後輩が不思議そうな顔をして、ボクの顔を覗き込んでいた。
「あぁ…おはよう…」
絞り出すように放った口は、カラカラに乾いていた。
「どうしたんすか?遅刻しちゃいますよ?」
頼りになる人、味方、明日は休みなさい、貴方の人柄を知っていて、変わることは無い。
特に意味は無い。
ボクに向けられたその言葉たちが、濁流のように流れてきて、全てを飲み込んでいく。
ハリボテだと思っていた経験は、全て自分に対しての重圧でしかなかった。
期待されることが怖かった。
体は冷えきっているのに、汗は滝のように流れていた。
「……ぁ……こ、こわい……」
消え入りそうな声だったのに、聞き逃されていなかった。
「なに言ってんすか?ほら行きますよっ!」
(嫌だ…行きたくない)
いま行ってしまったら、全てが終わる気がした。
オフィスに入ると、すぐに体が拒絶反応を起こしてしまった。トイレに駆け込み、昨日飲んだレモンドリンクも、一昨日飲んだ酒も全て出し尽くしてしまった。
吐く物が無くなった後は、支社長が運転する車の後部座席で横たわっていた。高速道路の一定間隔で襲ってくる段差の振動は、空っぽの胃袋を執拗に刺激した。
自宅マンションのエントランス前まで送り届けてもらったボクは、この晒してしまった醜態を、どう償えば良いのか分からなかった。
「ボクは…どうすれば良いですか?」
バックミラー越しに聞いたボクに、ハンドルを握って前を向いまま「今はとにかく休みなさい」とだけ言った彼女は、こちらに顔を向けてくれることは無かった。
自宅に着くと、すぐにインナーと下着だけの姿になって布団に潜り込んだ。
一秒でも早く現実から逃げ出したかった。
あれだけ夜は眠れなかったのに、その時だけは不思議と、アルコールや睡眠導入剤に頼らずに眠ることが出来た。
土曜日の昼前まで、一度も起きることなく眠り続けていた。
昨日帰宅した正確な時間は分からないけれど、丸一日以上眠っていたらしい。
昨日までに起こった出来事を、振り返らずに忘却したくて家中を丁寧に掃除することにした。
キッチン周りや換気扇のフィルターの埃取りまで、この数週間で澱んでしまった空気を晴らすかのように、他の思考を自分に与えないよう黙々と体を動かした。
掃除を終えてから熱めのシャワーを浴びて、体を覆う穢れを落とした。シャンプーと石鹸の香りを纏う自分は、新品になった気がして清々しかった。
昨日空っぽにした胃袋は、まだ食べ物を求めていなかったけれど、冷蔵庫の中に何か無いか漁ることにした。
好奇心というものは、時にそれを上回るダメージを返してくることがある。ボクは冷蔵庫を開けてしまったことを、すぐに後悔した。
『食べる物が無かったこと』にではなく『見てはいけない物』を見てしまったことに。
異動の挨拶回り中に、とあるクライアントから戴いた一本の瓶だった。
『蒸溜所貯蔵 焙煎樽仕込梅酒』
選考を辞退した、あの会社の、ボクにメッセージを残してくれた人間から贈られた、ボクが好きだと知っていて贈ってくれた、嬉しいプレゼントだった物が、そこにはあった。
忘却しようとしていた昨日までの記憶が戻って来てしまう。
咄嗟に冷蔵庫から瓶を排除し、冷凍室から氷カップを取り出した。この贈り物を無かったことにしたかった。
味は殆どしなかったけれど、空腹の体に十四度のアルコールをロックで注ぎ込むことは、想像以上に堪えたようで、そのままソファで寝てしまっていた。
また『テレビと部屋の灯りは点いたまま』だった。
目が覚めた時、テレビ画面には競馬番組が流れていて、グランプリレースの勝利ジョッキーに、花束を渡す女優の姿が映し出されていた。
瞬間、猛烈な吐き気が押し寄せてきて、トイレに駆け込んだ。嬉しいプレゼントだったものは、下水道の彼方に流れていった。
リビングに戻ると競馬番組は終わっていて、バラエティ番組が始まっていた。いかにも日曜日の夕方らしい『家族みんなで観れる』ような番組だった。
テレビを消して昨日空にした瓶を手に取り、マンションの室内ゴミ置き場に向かう。管理人の居ない日曜日のゴミ置き場は、ゴミが乱雑に散らばっていて、同じ建物に住んでいる人達の気遣いの無さに嫌気が差した。綺麗に捨てれば良いのに…そう思いながら、あきビン専用のカゴの中に、割れないよう丁寧に贈り物の亡骸を葬った。
眠れない夜を過ごし、朝を告げるアラームが鳴り響く。
手探りでスマートフォンをタップして、不愉快な音を止める。
今日からまた新しい日常が始まる。
そう思っていたし、そう信じていた。
またボクは、体を起こすことが出来なかった。
窓の外からは、今年も産卵期を迎えてこの街に戻ってきた、ウミネコの鳴き声が聞こえていた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる