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番外編:短編
ラモントのあのケーキ〈前〉
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休日の午後。
リビングのソファで本を読んでいたロゼが不意につぶやいた。
「ラモントのあのケーキ食べたいな」
ラモントのあのケーキとは、ロゼがよく食べていた林檎のクランブルケーキのことだ。
ギルド員だった以前は毎日のようにラモントで食事をしていたけれど、講師をしている今はその機会も減った。
ロゼがラモントのケーキを恋しくなる気持ちはよく分かる。美味しくてくどくなく、いくらでも食べられる味だから。
「今食べたいなら買ってこようか?」
ラモントまで往復三十分くらいで戻ってこれる。お昼過ぎのこの時間に売り切れているということはあまりないはずだが、ロゼは首を横に振った。
「いや、わざわざ行かなくていいよ。あ、サリダ。あのケーキ作れる?」
ラモントのレシピは門外不出で料理人以外は教えてもらえない。店の商品だから当然といえば当然なんだけど。レオンが私に教えてくれるのは賄いのレシピくらいだ。
「ごめん、私レシピ知らないの。多分レオンも教えてくれないと思う」
「そっか……」
期待に満ちた眼差しを向けていたロゼは、また読んでいた本に視線を落とした。
がっかりさせてしまった……。ロゼはこういうことであまり我がままを言わないから、作ってあげられたらいいんだけど……。
無理を承知でレオンに尋ねてみようか。何かヒントでも得られれば、それに近いものを作れるかもしれない。
翌朝。いつものようにラモントに出勤して厨房へ向かった。
料理人たちはまだ仕込みをしているところだ。デザートを担当しているのは料理人のエヴァン。これからケーキの生地作りのようで、たくさんの卵を割っている。卵黄と卵白は分けていない。他の材料は何を使っているんだろう。ちらちら盗み見ていたけどよく分からない。
開店して朝の繁忙時間が過ぎた後、厨房の作業がひと段落してきたところを見計らってレオンに声をかけた。
「ねえレオン、ちょっと教えてほしいんだけど――」
「ダメよ」
レオンがぴしゃりと撥ね付けた。
「……まだ何も言ってないじゃない?」
「何かとエヴァンのそばをウロチョロしてるからでしょうが。邪魔だから厨房から出てってちょうだい」
レオンは手のひらで追い払うようにシッシッと手を振った。勘が鋭いにもほどがある。が、レオンとの付き合いももうじき四年になる私は、凄味を利かせた彼の目つきに今更怯んだりなどしない。
「実は休みの日に林檎のクランブルケーキを作りたくなったんだけど、……どうかケーキの作り方教えてください! お願いします!!」
体が二つ折りになるくらいレオンに頭を下げた。
使ってる材料だけでも! せめて何かヒントだけでも!
そっとレオンの顔色を窺えば、片眉を上げて不思議そうに私を見ている。
「あれは別に特別なレシピじゃなく至って普通のケーキよ? 市販のレシピ本見て作ればいいじゃないの。何ならうちで買って帰ってくれていいのよ?」
「あはは、やだー。休みの日にわざわざ職場まで来ないわよー」
ロゼが欲しいと言えば買いに来るけども。
家で作ってほしそうだったからレシピ本は色々読んでみた。
ケーキ店のクランブルケーキも食べたことはあるけれど、ラモントのケーキはやはり他と少し違い個性がある。ロゼが求めているのはその味なのだ。
「材料って小麦粉、卵、バター、砂糖が入ってるでしょう? 他はベーキングパウダー?」
「大抵のケーキには入ってるわね。卵も同じような仕事をしてくれるわよ」
「じゃあレモンは?」
「林檎のケーキにはよく使われてるわね」
「シナモン……は使ってないでしょう?」
「あんたの鼻が馬鹿じゃないなら言わなくても分かるでしょうが」
「うーん……あ、もしかして分量が全部同じだったり?」
「一般的に同じ分量で作るとそれはパウンドケーキというのよ」
林檎のパウンドケーキとして出していないから違うってことなんだろう。
「料理は自分で色々試して作るのが楽しいのよ。アンタも自分なりに作って楽しみなさい」
そう言ってレオンに厨房を追い出された私はホールに戻って仕事を再開する。
本当に、本当にヒントしかくれなかった。結局のところ自分好みに作れってことなのだろう。
こうなったら作ってやろうじゃないの。幸いラモントが仕入れている材料は知っているから同じ物を使えばいい。
仕事が終わって早速、家のキッチンでケーキ作りの準備をする。
一緒に帰ってきたロゼは何を作るのか気になるらしく、ずっと私の作業を眺めている。
「これ晩ご飯じゃないよね。何ができるの?」
「それはねー、できてからのおたのしみ~」
小麦粉や砂糖、林檎が台の上に出ている時点でバレバレだけど、ロゼはそこに触れず、おやつを待つ子供のように見守っている。決して邪魔をせず大人しく待っている様子が伝わってきて、背中に感じる視線が何だかくすぐったい。
今日はレシピ本を見て作るから、ラモントのケーキとは違う出来になる。そこから少しずつ自分でアレンジして近付けていくつもりだ。
焼けたケーキを小型の魔導釜から取り出すと、小麦と林檎の焼けた甘い香りが室内に立ち込める。粗熱を冷まして切ってみると、粉残りや生焼けもなく上手く焼けたようで心が躍る。初めてにしては上出来かもしれない。
「いい匂い。美味しそう」
いつの間にかロゼが覗き込んでいて、スンと匂いを嗅ぐ。
味見用に小さく切って「はい」と口元に近付ければ、ロゼは私の指ごと口に入れた。
「美味しい」
「ふふ、指まで食べないでよ」
手を引こうとするとロゼにしっかりつかまれて、丁寧に指を舐られる。
「もう、くすぐったいってば」
私がくすぐったがるとロゼは悪戯な笑みを浮かべる。何だか猫に舐められているみたいだ。
「ケーキ切って。もっと食べたい」
「一カット食べる? 夕食に響かないかしら」
「大丈夫だよ」
本当にケーキが待ち遠しかったようで、エスプレッソと一緒に出すとロゼはあっという間に平らげた。最後まで美味しそうに食べてくれて、見ているこちらが幸せに感じるほど。作った甲斐があったというものだ。
それから分量を変えて焼いてみては失敗を繰り返し、成功したものはラモントに持って行って従業員の皆にも感想を聞く。レオンとエヴァンも味見をしてくれた。
「どう? ラモントの味に近付いた!?」
「ふんふん、なるほど。アンタの味ね」
「家庭のケーキとしては上出来だと思いますよ」
褒めてくれたようで嬉しくなったけどラモントの味ではないらしい。何が足りないんだろう。
クリエはすごく気に入ってくれたようで、休憩時間に出すと昼食の後でもぱくぱく食べてくれた。ラモントのケーキとどう違うのかクリエに尋ねると、彼女は口に入れたケーキを味わうようにゆっくり咀嚼する。
「んー、ラモントのケーキはちょうどいい甘さで重くないかな。あと、うまく言えないけど味が締まってるっていうか」
味が締まってるって……表現が難しすぎる。
レオンはたくさんのレシピを考案しているし〝至って普通のケーキ〟も彼なりにアレンジしているはず。重くないというのは多分バターの量。私のは油っこいんだろう。材料を見直して分量も変えてみた方がいいかもしれない。
頭を悩ませていると、クリエは意外という顔つきになる。
「まさか、ラモントのケーキ目指してるの? このケーキ十分美味しいと思うけど」
「ロゼが休みの日にラモントのケーキを食べたいって言うから、少しでも近付けたいのよね」
「へえ、サリダってそんな尽くす女だったのー? まあ、あなたたち今ラブラブだもんねえ」
クリエは笑窪を作ってにんまりと笑い、ケーキを口に運んだ。
ロゼと一緒に暮らし始めて送迎も休みなくする彼のことを、クリエには当初色々細かく聞かれたものだ。
あれから、私が事件に巻き込まれたこともロゼのことも彼女には話した。そうしたら、何でそんなに拗らせちゃったのよ馬鹿ねとクリエに涙を浮かべて笑われたのだ。
ギルド員の彼氏と付き合っているクリエは、それなりの覚悟を持って付き合っていることだろう。だけどこうすれば良かったのにと、過ぎたことをとやかく言うでもなく彼女はセリーヌと同じことを言った。『これからは彼の手を離さないようにね』と。その言葉の重みが今なら分かる。私はそれを深く胸に刻んだ。
それにしてもこんなケーキ一つ作ったくらいで尽くす女と言えるんだろうか。
ロゼは私に合わせた生活をしていて、いつも私を最優先に考えるような人だ。彼の方が私の何倍も尽くしてくれているんじゃないかと思う。だから彼が望むケーキくらい作れるようになりたいと思うけど、実際はそう上手くいかない。
「わ! サリダさんのケーキ、今日もある!」
時間をずらして休憩に入ってきた後輩のコーデリアは、テーブルのケーキに目を輝かせる。彼女は甘い物が大好きだ。
「ほんほーに美味ひーれす! これらい好きれす!」
昼食に出た賄いよりもケーキを先に頬張ってしまうコーデリアは、基本何でも美味しいと言う。なので彼女の感想はあまり参考にならないけど、美味しそうに食べてくれるから私も嬉しくなる。
他の皆も美味しいと感想をくれたけど、誰もラモントのケーキに近いとは言ってくれなかった。
休日の午後。
早速、焼き上がったケーキをロゼに試食してもらった。
「どうかな? ラモントのケーキに近付いたと思う?」
「うん、すごく美味しい」
最低限の音しか立てず奇麗な所作でケーキを口に運ぶロゼは、いつも美味しそうに食べてくれる。でもロゼの「うん」はラモントと同じ味という意味ではなく、ただの美味しい、だ。何度も作り直しているけどラモントのケーキには及ばないらしい。
一体何が足りないんだろう。甘さやバターの量も調節してラモントの味に近付いてきたと思ったのに。プロが作ったケーキをそう簡単に再現できて堪るもんですか、とレオンから返ってきそうだけど。
またラモントで皆に感想を聞いてみるしかないか。
キッチンで四角く焼いたケーキを十六等分したうち、十個をワックス紙に包んでいるとロゼが後ろから覗き込んだ。
先ほどまで柔らかい笑みを浮かべていた顔とは打って変わって無表情のロゼ。
「残りはまたラモントに持って行くの?」
「ええ、早めに食べた方がいいし。あ……もう少し家用に残しておく?」
「……いや。それで十分だよ」
淡々と答えたロゼは使っていた食器を洗い始めた。
洗い終えると魔法でさっと乾かして食器棚に仕舞い、ロゼは静かにソファで教材の準備をする。
時々聞こえる紙を引っかくペンの音。
普段ロゼと一緒にいて会話がなくても苦にはならないのに、何故か室内の静けさに微妙な空気を感じた。
もしかして、家のケーキが減るのは嫌だったんだろうか。
もう一度ロゼに尋ねてみたけど、今度は笑顔で大丈夫だよと言われ、それ以上聞くに聞けず何となくラモントへ持って行くケーキの数を減らすことにした。
リビングのソファで本を読んでいたロゼが不意につぶやいた。
「ラモントのあのケーキ食べたいな」
ラモントのあのケーキとは、ロゼがよく食べていた林檎のクランブルケーキのことだ。
ギルド員だった以前は毎日のようにラモントで食事をしていたけれど、講師をしている今はその機会も減った。
ロゼがラモントのケーキを恋しくなる気持ちはよく分かる。美味しくてくどくなく、いくらでも食べられる味だから。
「今食べたいなら買ってこようか?」
ラモントまで往復三十分くらいで戻ってこれる。お昼過ぎのこの時間に売り切れているということはあまりないはずだが、ロゼは首を横に振った。
「いや、わざわざ行かなくていいよ。あ、サリダ。あのケーキ作れる?」
ラモントのレシピは門外不出で料理人以外は教えてもらえない。店の商品だから当然といえば当然なんだけど。レオンが私に教えてくれるのは賄いのレシピくらいだ。
「ごめん、私レシピ知らないの。多分レオンも教えてくれないと思う」
「そっか……」
期待に満ちた眼差しを向けていたロゼは、また読んでいた本に視線を落とした。
がっかりさせてしまった……。ロゼはこういうことであまり我がままを言わないから、作ってあげられたらいいんだけど……。
無理を承知でレオンに尋ねてみようか。何かヒントでも得られれば、それに近いものを作れるかもしれない。
翌朝。いつものようにラモントに出勤して厨房へ向かった。
料理人たちはまだ仕込みをしているところだ。デザートを担当しているのは料理人のエヴァン。これからケーキの生地作りのようで、たくさんの卵を割っている。卵黄と卵白は分けていない。他の材料は何を使っているんだろう。ちらちら盗み見ていたけどよく分からない。
開店して朝の繁忙時間が過ぎた後、厨房の作業がひと段落してきたところを見計らってレオンに声をかけた。
「ねえレオン、ちょっと教えてほしいんだけど――」
「ダメよ」
レオンがぴしゃりと撥ね付けた。
「……まだ何も言ってないじゃない?」
「何かとエヴァンのそばをウロチョロしてるからでしょうが。邪魔だから厨房から出てってちょうだい」
レオンは手のひらで追い払うようにシッシッと手を振った。勘が鋭いにもほどがある。が、レオンとの付き合いももうじき四年になる私は、凄味を利かせた彼の目つきに今更怯んだりなどしない。
「実は休みの日に林檎のクランブルケーキを作りたくなったんだけど、……どうかケーキの作り方教えてください! お願いします!!」
体が二つ折りになるくらいレオンに頭を下げた。
使ってる材料だけでも! せめて何かヒントだけでも!
そっとレオンの顔色を窺えば、片眉を上げて不思議そうに私を見ている。
「あれは別に特別なレシピじゃなく至って普通のケーキよ? 市販のレシピ本見て作ればいいじゃないの。何ならうちで買って帰ってくれていいのよ?」
「あはは、やだー。休みの日にわざわざ職場まで来ないわよー」
ロゼが欲しいと言えば買いに来るけども。
家で作ってほしそうだったからレシピ本は色々読んでみた。
ケーキ店のクランブルケーキも食べたことはあるけれど、ラモントのケーキはやはり他と少し違い個性がある。ロゼが求めているのはその味なのだ。
「材料って小麦粉、卵、バター、砂糖が入ってるでしょう? 他はベーキングパウダー?」
「大抵のケーキには入ってるわね。卵も同じような仕事をしてくれるわよ」
「じゃあレモンは?」
「林檎のケーキにはよく使われてるわね」
「シナモン……は使ってないでしょう?」
「あんたの鼻が馬鹿じゃないなら言わなくても分かるでしょうが」
「うーん……あ、もしかして分量が全部同じだったり?」
「一般的に同じ分量で作るとそれはパウンドケーキというのよ」
林檎のパウンドケーキとして出していないから違うってことなんだろう。
「料理は自分で色々試して作るのが楽しいのよ。アンタも自分なりに作って楽しみなさい」
そう言ってレオンに厨房を追い出された私はホールに戻って仕事を再開する。
本当に、本当にヒントしかくれなかった。結局のところ自分好みに作れってことなのだろう。
こうなったら作ってやろうじゃないの。幸いラモントが仕入れている材料は知っているから同じ物を使えばいい。
仕事が終わって早速、家のキッチンでケーキ作りの準備をする。
一緒に帰ってきたロゼは何を作るのか気になるらしく、ずっと私の作業を眺めている。
「これ晩ご飯じゃないよね。何ができるの?」
「それはねー、できてからのおたのしみ~」
小麦粉や砂糖、林檎が台の上に出ている時点でバレバレだけど、ロゼはそこに触れず、おやつを待つ子供のように見守っている。決して邪魔をせず大人しく待っている様子が伝わってきて、背中に感じる視線が何だかくすぐったい。
今日はレシピ本を見て作るから、ラモントのケーキとは違う出来になる。そこから少しずつ自分でアレンジして近付けていくつもりだ。
焼けたケーキを小型の魔導釜から取り出すと、小麦と林檎の焼けた甘い香りが室内に立ち込める。粗熱を冷まして切ってみると、粉残りや生焼けもなく上手く焼けたようで心が躍る。初めてにしては上出来かもしれない。
「いい匂い。美味しそう」
いつの間にかロゼが覗き込んでいて、スンと匂いを嗅ぐ。
味見用に小さく切って「はい」と口元に近付ければ、ロゼは私の指ごと口に入れた。
「美味しい」
「ふふ、指まで食べないでよ」
手を引こうとするとロゼにしっかりつかまれて、丁寧に指を舐られる。
「もう、くすぐったいってば」
私がくすぐったがるとロゼは悪戯な笑みを浮かべる。何だか猫に舐められているみたいだ。
「ケーキ切って。もっと食べたい」
「一カット食べる? 夕食に響かないかしら」
「大丈夫だよ」
本当にケーキが待ち遠しかったようで、エスプレッソと一緒に出すとロゼはあっという間に平らげた。最後まで美味しそうに食べてくれて、見ているこちらが幸せに感じるほど。作った甲斐があったというものだ。
それから分量を変えて焼いてみては失敗を繰り返し、成功したものはラモントに持って行って従業員の皆にも感想を聞く。レオンとエヴァンも味見をしてくれた。
「どう? ラモントの味に近付いた!?」
「ふんふん、なるほど。アンタの味ね」
「家庭のケーキとしては上出来だと思いますよ」
褒めてくれたようで嬉しくなったけどラモントの味ではないらしい。何が足りないんだろう。
クリエはすごく気に入ってくれたようで、休憩時間に出すと昼食の後でもぱくぱく食べてくれた。ラモントのケーキとどう違うのかクリエに尋ねると、彼女は口に入れたケーキを味わうようにゆっくり咀嚼する。
「んー、ラモントのケーキはちょうどいい甘さで重くないかな。あと、うまく言えないけど味が締まってるっていうか」
味が締まってるって……表現が難しすぎる。
レオンはたくさんのレシピを考案しているし〝至って普通のケーキ〟も彼なりにアレンジしているはず。重くないというのは多分バターの量。私のは油っこいんだろう。材料を見直して分量も変えてみた方がいいかもしれない。
頭を悩ませていると、クリエは意外という顔つきになる。
「まさか、ラモントのケーキ目指してるの? このケーキ十分美味しいと思うけど」
「ロゼが休みの日にラモントのケーキを食べたいって言うから、少しでも近付けたいのよね」
「へえ、サリダってそんな尽くす女だったのー? まあ、あなたたち今ラブラブだもんねえ」
クリエは笑窪を作ってにんまりと笑い、ケーキを口に運んだ。
ロゼと一緒に暮らし始めて送迎も休みなくする彼のことを、クリエには当初色々細かく聞かれたものだ。
あれから、私が事件に巻き込まれたこともロゼのことも彼女には話した。そうしたら、何でそんなに拗らせちゃったのよ馬鹿ねとクリエに涙を浮かべて笑われたのだ。
ギルド員の彼氏と付き合っているクリエは、それなりの覚悟を持って付き合っていることだろう。だけどこうすれば良かったのにと、過ぎたことをとやかく言うでもなく彼女はセリーヌと同じことを言った。『これからは彼の手を離さないようにね』と。その言葉の重みが今なら分かる。私はそれを深く胸に刻んだ。
それにしてもこんなケーキ一つ作ったくらいで尽くす女と言えるんだろうか。
ロゼは私に合わせた生活をしていて、いつも私を最優先に考えるような人だ。彼の方が私の何倍も尽くしてくれているんじゃないかと思う。だから彼が望むケーキくらい作れるようになりたいと思うけど、実際はそう上手くいかない。
「わ! サリダさんのケーキ、今日もある!」
時間をずらして休憩に入ってきた後輩のコーデリアは、テーブルのケーキに目を輝かせる。彼女は甘い物が大好きだ。
「ほんほーに美味ひーれす! これらい好きれす!」
昼食に出た賄いよりもケーキを先に頬張ってしまうコーデリアは、基本何でも美味しいと言う。なので彼女の感想はあまり参考にならないけど、美味しそうに食べてくれるから私も嬉しくなる。
他の皆も美味しいと感想をくれたけど、誰もラモントのケーキに近いとは言ってくれなかった。
休日の午後。
早速、焼き上がったケーキをロゼに試食してもらった。
「どうかな? ラモントのケーキに近付いたと思う?」
「うん、すごく美味しい」
最低限の音しか立てず奇麗な所作でケーキを口に運ぶロゼは、いつも美味しそうに食べてくれる。でもロゼの「うん」はラモントと同じ味という意味ではなく、ただの美味しい、だ。何度も作り直しているけどラモントのケーキには及ばないらしい。
一体何が足りないんだろう。甘さやバターの量も調節してラモントの味に近付いてきたと思ったのに。プロが作ったケーキをそう簡単に再現できて堪るもんですか、とレオンから返ってきそうだけど。
またラモントで皆に感想を聞いてみるしかないか。
キッチンで四角く焼いたケーキを十六等分したうち、十個をワックス紙に包んでいるとロゼが後ろから覗き込んだ。
先ほどまで柔らかい笑みを浮かべていた顔とは打って変わって無表情のロゼ。
「残りはまたラモントに持って行くの?」
「ええ、早めに食べた方がいいし。あ……もう少し家用に残しておく?」
「……いや。それで十分だよ」
淡々と答えたロゼは使っていた食器を洗い始めた。
洗い終えると魔法でさっと乾かして食器棚に仕舞い、ロゼは静かにソファで教材の準備をする。
時々聞こえる紙を引っかくペンの音。
普段ロゼと一緒にいて会話がなくても苦にはならないのに、何故か室内の静けさに微妙な空気を感じた。
もしかして、家のケーキが減るのは嫌だったんだろうか。
もう一度ロゼに尋ねてみたけど、今度は笑顔で大丈夫だよと言われ、それ以上聞くに聞けず何となくラモントへ持って行くケーキの数を減らすことにした。
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