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番外編:もう一つの舞台

09 未熟者

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 サリダを運ぼうとして胃から何かが迫り上がり、途端に吐き気に襲われて床に膝を突いた。

「ゲハ……! カハッ、ア……」

 ビチャビチャ音を立てて床に撒き散らしたコーヒー色の液体。気持ち悪さと血の気が失せて冷たくなる感覚。痛みを麻痺させていて、腹部の違和感に気付かなかった。力の入らない手で、首の魔導具に手を伸ばす。

「……ディラン……」

 その一言ですぐに飛んできたディランは、四つん這いになっている俺の腹部に手をかざす。

「胃の中に滞留した血だ。内臓の傷が開いてる。すぐ医療施設へ行かねえと……っ」

 玄関からドカドカと足音が聞こえて、そちらに目をやるとユーディスもやってきた。

「酷い有り様だな。ディラン運べるか?」
「こいつデカイからユーディス頼むわ。俺がサリダを運ぶ」

 立ち上がるディランの足を咄嗟につかんだ。
 サリダは俺が運ぶから傷を治療してくれ……。

「……おれが……」
阿呆あほう。お前は運ばれる側だ。俺がお姫様抱っこしてやるよ」

 ユーディスは本当に俺を横抱きで抱え上げた。

「さ……わんな」
「はははっ、手負いの猫は大人しくしとけ」
「く……っ……」

 何が猫だ。だが、抵抗したくても全く力が入らなくなっていた。
 声を上げて笑いながらユーディスは玄関に向かう。

 このことはサリダに黙っておいてほしいとユーディスに頼んだ。「そんな格好つけたいかねえ」と呆れられたが格好なんてどうでもいい。サリダがショックを受けるようなことは、これ以上何も知らせたくなかった。
 ディランは俺のローブでサリダをぐるぐる巻きにして直接触らないから安心しろと言い、彼女の着替えを探す。クローゼットに鞄があることをユーディスに伝えてもらった。

 気持ち悪い……。ユーディスが動いて振動が伝わる度、視界がグラグラと揺れて目が回る。するとユーディスに何か魔法をかけられて気持ち悪さがなくなると、視界は暗くなっていき意識が遠ざかっていく。

「さ、お前はしばらく寝てな。ご苦労さん――」



 それから俺が目覚めたのは三日後のこと。

 最初に視界に入ったのは、天井にある浄化の魔法装置。医療施設によくある空気を浄化する装置だ。あれから俺はどこかの医療施設に運ばれたようだった。
 体を動かそうとしてみたが、ベッドに縫い付けられたかのように体が重い。特に足が重くて動かせず寝返りもできない……そう思っていたら、俺の足の上に上半身を乗っけて眠っているディランがいた。

「……ディラン」
「ん……」
「ディラン、起きて」
「んんっ……?」

 ガバッとディランが上半身を起こすと、急に軽くなった足はちゃんと動いた。痺れもなく血が止まったりはしてなさそうだ。

「おー、目ぇ覚めたかロゼ。良かった良かった」
「ディラン……ずっとそこに?」

 疲れと寝不足が顔に出ていて、無精髭を生やしたままだ。ずっとここで寝泊まりしてたんだろうか。

「……あー、昨日ちょっと彼女と長話してたら眠くなって、ここで寝ちまったな」

 ディランは髪をクシャクシャにして、ヘヘッと笑う。ギオクラウス国にいる彼女とは遠距離恋愛でもう一年ほど会っていないという。いつも朝弱いのは夜中まで彼女と魔導具で話しているからだ。危険な仕事をしている男を一年も会わず待っていられる彼女は、相当器の大きな人なんだろうな。

 俺の担当らしい医師がやってくると傷や体の状態を確認し、今後の検査やリハビリ、食事の予定など告げて退室した。

「サリダは二日眠りっぱなしで心配したけど、昨日目覚めたらしい。中毒症状もねえから安心しろ」
「そう……良かった」

 サリダが生涯、中毒者として生きていかなくて済んだことに心から安堵した。

「ただ、記憶は……俺らがいたことは覚えてねえ」

 ディランの目を見て、言わんとすることを理解した。俺といたことは忘れて、事件のことは覚えている。あいつに襲われたことは、覚えているんだ……。
 何故、全て忘れなかったんだろう。何故、彼女を苦しめる記憶だけが残ったんだろう。
 窓に目を向けると、窓ガラスに付いた雨粒が外の景色をぼかしている。外は落ちてきそうな重く暗い雲が空一面を覆い、俺の心の中を表したかのように、しとしと降る雨が外の世界を濡らしていた。

「ま、傷の治りは順調みたいだし、しっかり食って寝てりゃすぐ元気になるだろ」

 ディランにも随分迷惑をかけた。あの時、あいつを殺していたらディランの信頼を完全に失っていただろう。見放されてもおかしくないほどの失態を犯したんだ。

「……俺……捜査官、失格だ」
「お前は落ち込むそうなると面倒臭えから考え込むな。お前が失格だったら俺も失格だろうよ。ちゃんと捜査は進展してるからまずは体を治すことだ」

 ディランが捜査官失格なんてあり得ない。いつもゆるくて適当に見えるディランだが、ヘマをしたことなど一度もない。未熟な俺をフォローしてくれるのは、いつもディランだった。

「アスターは頭蓋骨のヒビで済んだ。お前が剣か魔法でも使ってたらあいつは即死だったな。ちゃんと理性が残ってて良かったわ」
「は、……ははっ……」

 本気で殺そうとしたのに。無意識に歯止めをかけていたのか、俺は。

「お前はちゃんと捜査官なんだよ。……俺の相棒なんだから早く復帰しろよ。いねえと寂しいわ」

 ずっと俺に向けるディランの優しい眼差しを見ていられず、窓の外に視線を向けた。相棒。その一言がディランの信頼を失ったかもしれないという不安をかき消した。

 部屋の扉からノック音が響き、ディランが返事をするとユーディスが顔を出した。

「目ぇ覚めたのか。気分はどうだ?」
「最悪だ……」
「ははは、ベソかいてたか」
「……うるさい」

 ユーディスは近くのテーブルに俺が着ていた魔導士ローブを置いた。サリダにかけていた物を持ってきてくれたんだろう。それから彼女の状況や捜査の進捗を聞いた。

「サリダには、怪我したけど治療も終わって任務に就いていると話してある。下手な嘘つくのもどうかと思ってな」
「ああ、助かる……」
「お前に会いたがってたぞ。だから早く治さないとな?」

 それを聞いて、色々管が繋がったままの体を起こそうとしたら、ディランに頭をはたかれた。怪我人をあおるなとディランに叱られたユーディスは、いつものように笑う。

「早く治して会いに行くよ。……二人ともありがとう」

 そう口にすればユーディスは目を丸くする。

「お前が素直だとなんか気色悪いな」

 そんな風に言うユーディスの口元の緩んだ顔の方がよほど気持ち悪かったが、それは口にせず飲み込んだ。
 ユーディスにもディランにも本当に感謝している。ずっと彼らにフォローしてもらっていて情けない。彼らに心配をかけないためにも早く体を治すことに専念した。
 食事できるようになって管がほとんど外されると、空き時間は全て運動に費やした。三日寝ていただけでも随分体が鈍ってしまっていた。

 サリダに会いに行けたのは、事件から一週間経った日のことだった。
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