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本編
01 - 2 綺麗さっぱり何も覚えていない朝
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ニーリル国の中心部に近いコッツミルズは、陽気な人が多く平和な町だ。道端に座るおじさんの楽器を奏でる音や、広場には玉を転がすようなご婦人たちの笑い声。布をかけた絵をたくさん抱えた男と曲がり角でぶつかっても、陽気に謝って歌いながら過ぎ去っていく。
足を進める度、聞こえてくる喧騒は、私の体に馴染む音。
道路の整備をするギルドも多く、石畳で舗装されて歩きやすい。町を警備するギルドに堅く守られ、犯罪も少ない。こうして女一人でものんびり歩くことができる。
アパートまでの道のりに大きなパン屋があり、小麦の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。朝から何も入っていない胃袋で、素通りなどできるはずもなかった。
ハムとチーズに野菜がたっぷり入ったフロマージュサンドと大きな林檎のパイを買った。パイの甘い香りが鼻を刺激すると、早く満たしてくれと胃袋が要求するように鳴いた。
「あれ、サリダ。今日はお休み?」
声のした方へ顔を向けると、路上で絵描きをしている女性、セリーヌがいた。一つ年下で同じアパートの住人だ。
毛先が傷んだオレンジ寄りの茶色い髪を前に垂らした三編み。大きな目の下にクマを作って、キャンバスから私に視線を向けている。風になびく長い前髪が唇に引っ付いて揺れていた。
「ええ、今日は休みなの」
「なあによ、朝帰り? と言っても昼だけど」
「想像にお任せするわ」
コロコロと笑いながら彼女は筆を走らせる。今日は天気が良いから空の絵を描いているのだと言う。
青い色は一色もなく、雲も太陽もない空。彼女は抽象画しか描かない絵描きだ。私にはイマイチわからないが、彼女の絵はよく売れているらしい。
「また知らない誰かと一晩過ごしたんでしょう? 二十六なんだから、いい加減いい人見つけなさいよねー」
また、とは失礼な。誰かと夜を過ごすなんて三ヶ月ぶりだ。
そんな頻繁に誰かを求めているわけではないけれど、どうしても寂しくなる夜がある。そんな時はバーで出会った誰かと飲んでひと時を楽しむ、それだけ。
ただ今回だけは、自己ルールを破ってしまい猛烈に後悔している。ギルドの人間と夜を過ごしてしまったことだ。しかも相手を覚えていない。面倒極まりない事態だった。
「女はやっぱり愛する人と、愛のあるセックスをして幸せにならないとねえ」
セリーヌの言うことはもっともだけど、そんな相手に出会えていたらとっくに幸せをつかんで、こんなことにはなっていない。
彼女は三年以上付き合っている恋人がいて、たまに見かけるけれど、ボサボサ頭で少しだらしない印象の人だ。彼女を見ているといつも幸せそうだから、人は見かけによらないのだろう。
歌を口ずさみながら音楽を指揮するように筆を動かして、彼女は指に付いた絵の具を舐める。天然素材の絵の具だから体に入っても問題ないのだとか。よくその仕草を見かけるから癖になっているんだろう。
昨日の男と相性はどうだったとか顔はどうだとか、セリーヌが根掘り葉掘り聞き始めたから「絵が完成する前に絵の具がなくなるわよ」と水を向けてその場を後にした。
足を進める度、聞こえてくる喧騒は、私の体に馴染む音。
道路の整備をするギルドも多く、石畳で舗装されて歩きやすい。町を警備するギルドに堅く守られ、犯罪も少ない。こうして女一人でものんびり歩くことができる。
アパートまでの道のりに大きなパン屋があり、小麦の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。朝から何も入っていない胃袋で、素通りなどできるはずもなかった。
ハムとチーズに野菜がたっぷり入ったフロマージュサンドと大きな林檎のパイを買った。パイの甘い香りが鼻を刺激すると、早く満たしてくれと胃袋が要求するように鳴いた。
「あれ、サリダ。今日はお休み?」
声のした方へ顔を向けると、路上で絵描きをしている女性、セリーヌがいた。一つ年下で同じアパートの住人だ。
毛先が傷んだオレンジ寄りの茶色い髪を前に垂らした三編み。大きな目の下にクマを作って、キャンバスから私に視線を向けている。風になびく長い前髪が唇に引っ付いて揺れていた。
「ええ、今日は休みなの」
「なあによ、朝帰り? と言っても昼だけど」
「想像にお任せするわ」
コロコロと笑いながら彼女は筆を走らせる。今日は天気が良いから空の絵を描いているのだと言う。
青い色は一色もなく、雲も太陽もない空。彼女は抽象画しか描かない絵描きだ。私にはイマイチわからないが、彼女の絵はよく売れているらしい。
「また知らない誰かと一晩過ごしたんでしょう? 二十六なんだから、いい加減いい人見つけなさいよねー」
また、とは失礼な。誰かと夜を過ごすなんて三ヶ月ぶりだ。
そんな頻繁に誰かを求めているわけではないけれど、どうしても寂しくなる夜がある。そんな時はバーで出会った誰かと飲んでひと時を楽しむ、それだけ。
ただ今回だけは、自己ルールを破ってしまい猛烈に後悔している。ギルドの人間と夜を過ごしてしまったことだ。しかも相手を覚えていない。面倒極まりない事態だった。
「女はやっぱり愛する人と、愛のあるセックスをして幸せにならないとねえ」
セリーヌの言うことはもっともだけど、そんな相手に出会えていたらとっくに幸せをつかんで、こんなことにはなっていない。
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歌を口ずさみながら音楽を指揮するように筆を動かして、彼女は指に付いた絵の具を舐める。天然素材の絵の具だから体に入っても問題ないのだとか。よくその仕草を見かけるから癖になっているんだろう。
昨日の男と相性はどうだったとか顔はどうだとか、セリーヌが根掘り葉掘り聞き始めたから「絵が完成する前に絵の具がなくなるわよ」と水を向けてその場を後にした。
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