隔ての空

宮塚恵一

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2nd episode 〔or The Modern Prometheus〕

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 学校近くにある雑木林に足を踏み入れる。杉の木が並々と植わる中を走り、窪みになっているところを慎重に滑り降りた。
 辺りは暗く、小蝿がうるさく顔の周りを飛ぶのを手で払い、僕は辺りをきょろきょろと見回した。

 ここに来る度、心臓の鼓動が高鳴る。
 僕は一度深呼吸をし、息を整えてから彼女の名前を呼んだ。

「阿澄さん、いる?」

 今のところ雑木林に人影は見えない。また出払っているのか。そう思ったところで、背後にどしんと重量感のある音が聞こえ、落ち葉が吹き飛ばされた。

 飛んでくる落ち葉や土埃が目に入ってこないよう腕で顔を守りながら、後ろを振り向く。

 阿澄さんが、そこにいた。

「ああ、いたんですね」
 彼女の無事を確認し、ほっと一息つく。

「木の上で周り、見張ってた」

 阿澄さんはそう言って、かさりからりと落ち葉を踏む音を立てて、僕に近づく。
 いつ見ても、少しどきりとする。

 目の前にいる彼女の顔は僕の見上げる先にある。その目はいつもすっかりと瞳孔が開いていて驚かされてしまうが、それよりも。

 初めて阿澄さんを見た人はまず、彼女の腕と脚に、腰を抜かすだろう。

「今日も色々買ってきましたけど」

 僕はコンビニの袋を掲げる。僕の頭上、数十センチ上の方から、阿澄さんは腕を伸ばした。この時、僕は慣れていても少し体が強張る。
 僕の首が、体が、阿澄さんに一息に千切られる想像が頭の中を過ぎるから。

 僕からコンビニ袋を受け取る阿澄さんの腕の先。

 それは硬い灰色の殻で覆われていた。

 殻はいたるところ刺々しく、人間の手の代わりに、巨大な蟹のハサミのようなものがある。

 阿澄さんは僕の顔と同じくらい大きいそのハサミで器用にコンビニ袋を受け取る。そして袋の中を探った。阿澄さんはツナマヨのおにぎりを見つけ、周りのビニールの包装も取らずに、そのまま口の中に放り込む。
 むしゃむしゃと咀嚼をして、周りのビニールの包装だけを吐き出した。

「また、僕取りましょうか?」
「いいの? じゃあお願い」

 阿澄さんはポトリとコンビニ袋を地面に落とす。そしてゆっくりと

 阿澄さんの下半身も、人間のそれではなく、硬い殻で覆われた四本の蜘蛛のような脚がついている。
 リラックスをして腰をおろす時は、蟹の腹のようになっている脚の連結部を地面に接着させて座っていた。
 僕も阿澄さんの隣に座り、コンビニ袋をあさる。

「今日は脚、痛みませんか?」

 僕はハムサンドの包装を剥がし、阿澄さんのハサミに手渡して訊いた。

「大丈夫」

 阿澄さんはそれだけ言うと、ハムサンドを口に放り込む。そしてすぐ次を要求するかのように、僕の目の前にハサミを出した。
 僕はコンビニ袋から今度は鮭おにぎりを取り出して、阿澄さんに渡した。

 それを何度か繰り返して、コンビニ袋の中にあったおにぎりとサンドイッチをあらかた食べ終わると、阿澄さんはふうと一息ついて、空を見上げた。

「青」

 阿澄さんが何のことを言っていたのか、すぐわかった。
 僕も空を見上げる。空の円が青く輝いていた。青い光を見ていると、くらりと意識が薄れるのを感じ、すぐに視線を地面におろす。

 阿澄さんにも、あの空の円が見える。

 僕が知っている人であの円が見えるのは、ネットの向こう側を除けば阿澄さんだけだ。

 誰かと同じものを見ることができている。

 それだけで、少しだけ安堵感を覚える。僕の見ているものがたとえ幻なのだとしても、同じ空を見ている人がいるのだと思うと、救われる。

「昨日は、公園とか行きました?」
「行った」

 やっぱり。あのブランコをひしゃげたのは、阿澄さんなんだろう。
 阿澄さんは、この雑木林でじっと養生していてもいいだろうに、いつもどこかへ出かける。

 探し物があるのだと言っていた。

 それが何か、阿澄さんにもわかっていない。
 なのに、阿澄さんは探し物をする衝動を抑えられないようだった。

 それどころか、彼女は自分が何者なのかさえ覚えていなかった。

 この雑木林で初めて彼女と話した時にはすでに、彼女は自身の名も、住んでいた場所も、家族のことも、何もかも記憶には残していないようだった。

 あの日、阿澄さんを追ってここに倒れた彼女に触れてから、ずっと僕は彼女に食べ物を運んでいる。

 阿澄さんは、僕が中学の頃通っていた塾のコーチングアシスタントだった。

 卒業からは縁がなかったが、優しく朗らかに笑う彼女に、僕は密かに憧れを抱いていた。
 それこそ、こんなに変わり果ててしまっても、それが彼女だとわかるくらいには。

 雑木林の外へ阿澄さんが出る度、その奇怪な体が誰かに見つかるのではないかと僕は気が気ではないが、彼女自身の目撃情報は聞いたことがない。

 僕は隣に腰掛ける彼女のハサミを握る。ゴツゴツとした岩のようなそれからは人の温かみを感じることはできないが、これが今の阿澄さんの感触だ。

 僕はふと時計を見た。時刻はもういつの間にか夕食の時間を過ぎていて、僕は飛び上がる。

「じゃあまた来ますね」

 阿澄さんはこくりと首を縦に振る。
 僕は阿澄さんに手を振りながら、走って家路に着いた。
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