Sub侯爵の愛しのDom様

東雲

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「…?」

ふっと変わった空気に、机の上を見ていた視線を上げた。
メリアと自席の周りだけをほんのりと照らす明かりは、部屋全体を照らすほどの明るさは無く、辺りはぼんやりと薄暗い。その室内になんとなしに目を向けるも、特に変化がある訳ではなく、首を傾げた。
気のせいだろうか…そう思い、メリアに視線を戻し───息が止まった。


何かが違う。直感でそう感じた。


違和感を感じつつ、だがそれが何か分からず、それと同時に得体の知れない不安がじわりと足元に忍び寄り、身を固くした。
僅かに顔を逸らしたメリアの表情は見えず、黙り込んでしまった彼に、胸がザワザワと騒ぎだす。

「メリア、くん…?」

(……どうして…)

どうして、こんなに緊張しているのだろう?
たった今まで、いつもと変わらず、普通に会話をしていただけなのに、なぜか、どうしてか、何かが先ほどまでと決定的に違っていた。

『この場から逃げ出したい』

訳も分からず体に走った衝動に、なぜそんなことを思うのか分からない脳は混乱する。

(なんで…どうして、こんな気持ちになるんだ…?)

彼が怖い───身が竦むような感覚は、恐怖を目の前にした時の心情に似ていて、はくりと息を吐いた。

「…メ、メリアくん…」

訳の分からない感覚に狼狽えながらも、恐る恐るその名を呼べば、顔を逸らしていた彼の頭がゆっくりと動き、その瞳が真っ直ぐこちらを見据えた。

「ッ…!!」

瞬間、ビクリと体が跳ねた。
金色の瞳に宿った不思議な色の光。ゆらりと揺れるその色に、心臓が止まってしまいそうなほどの衝撃を受け、大きく目を見開いた。

(……うそ、だ…)


Glareグレア───彼の瞳に浮かんだ複雑な色の光。それは、Domだけが有する特別なオーラだった。


(なん……で、なんで、どうして、彼が…だって、なんにも…っ)

あまりにも予想外の事態に、混乱した頭の中では、思考がどんどん崩れていく。

メリアがDomだったという驚愕。
何もしていなかったはずなのにどうしてという動揺。
何故、自分に対してGlareを向けられているのかという恐怖。
───今すぐその足元に跪きたいという、Subとしての本能。

初めて触れるそれは、あまりにも唐突で、強烈で、鮮烈で、心臓が早鐘のように激しく鼓動した。

「……いけません、ベルナール様」
「ひっ…」

黙っていたメリアがようやく口を開く。低く響いたその声は、いつもと変わらぬ穏やかな声音のはずなのに、知らない男のそれのようで、堪らず悲鳴のような吐息が漏れた。

「そのように無防備に、雄を喜ばせるようなことを仰って……襲われでもしたら、どうなさるんです?」

どこまでも優しげな柔らかな声と、ニコリと微笑む愛らしい顔。いつもならばホッとするはずの彼の表情が、今はなぜか無性に恐ろしく、無意識の内にフルフルと首を振っていた。

(なんで…、なんで…っ!? だって、私のことは…!)

自分がSubであることは、限られたほんの一部の人間しか知らないはず。
それなのに、メリアの発言は明らかにその事実を確信したもので、秘め事がバレてしまったような後ろめたさから胸は締め付けられ、上手く呼吸ができなかった。

なぜ、いつから、どうして───馬鹿みたいに狼狽える頭と、座っているのにガクガクと震える足に、まともに考えが纏まらない。
そうこうしている内に、メリアの足が動き、自身へと一歩近づいた。

「やっ…、やだ! ま、まってくれ…!」

生まれて初めて浴びたGlare。
よりにもよって、真正面から至近距離で受けてしまったそれに、ゾクゾクとした悪寒が止まらない。


怖い、怖い、怖い、逃げたい───跪きたい。


知らないことのはずなのに、遺伝子に刻みつけられたダイナミクスが、本能のままに『このDomに従え』と叫ぶ。
脅迫するような音にならない声と、今まで味わったことのない感覚は、まるで自分が自分ではないようで、メリアから向けられるDomのオーラとは異なる恐怖に、体を丸めた。

(嫌だ…っ!! なんで、こんな…!)



知らない、知らない、分からない───怖い。



泣き出したくなるような感情の揺れに、生理的な涙が滲む。
知らないからこそ怖いのに、勝手にDomを求めようとする自分が恐ろしくて、ずっと目を背けてきた自身のSub性が苦しくて、気づけば叫ぶように声を上げていた。

「やだ…っ、嫌だ!! メリアくん…!!」

ああ、なんてみっともないんだろう…滲む涙に、耳の奥、ずっとずっと昔に投げつけられた母の「恥ずかしい」と叫ぶ声が聞こえた。

「ッ…!」

瞬間的に込み上げた罪悪感と嫌悪感に、胃液が迫り上がる。
こんな自分、知りたくなかった。膨れ上がるどうしようもない感情に、胸も心も苦しくて、涙がポタリと零れた。

瞬間、ハッと息を呑む声と共に、泣き顔を隠そうと上げた手を細い指に掴まれ、ビクンと肩が跳ねた。

「やっ…!」
「……ごめんなさい。怖かったですね」
「…!?」

みっともないほど震える手をメリアの細い指先に強く握られ、突然の接触に目を見開いている内に、足元にメリアが膝をつき、顔を伏せた。

「…ベルナール様、目を閉じて下さい。目を閉じて、大きく深呼吸をしましょう」
「…っ、……?」
「大丈夫です。お手を握る以上のことはしません。…触れていない方が不安だと思いますので、手はこのままで失礼しますね」
「…メリア、く…」
「ベルナール様、大丈夫です。…怖いかも知れませんが、今だけは、僕を信じて下さい」
「……ん」

伏せていて顔は見えないが、その声は柔らかく、先ほどのような恐怖心は湧かない。
真っ白なスラリとした指の感触に、こんな時だというのにソワソワしつつ、キツく目を瞑ると、深く息を吸い込み、大きく吐き出した。

「ふぅぅ……」
「お上手ですよ。そのまま深呼吸をして……ゆっくり、十数えましょう。一……二……」

メリアのあやすような声に従うまま、深呼吸を繰り返せば、少しずつ気持ちが凪いでいくのが分かった。
そうして彼が数を数える声に合わせ、最後にゆっくりと息を吐き出せば、握られていた指先をやんわりと両手で包まれ、ピクリと体が反応した。

「……まだ、怖いですか?」
「う…」

弱々しく呟かれたその声に、ゆるりと首を振る。気づけば、手の震えは止まっていた。

「…ベルナール様、よろしければ、ゆっくり目を開けて下さい」
「…っ」

戸惑いと躊躇いを残しつつ、優しい声に誘われるままゆっくりと目を開く。そうして俯いていた視界の中に飛び込んできたのは、こちらを見上げるメリアの顔で───ホッと安堵したように柔らかく微笑む表情に、ドキリと胸が鳴った。

「…大丈夫ですか? ご気分は悪くないですか?」「あ……ぅ…だ、大丈夫、だ…」

気遣ってくれるのは嬉しいが、今はあまりにも気まずい。
濡れた頬が落ち着かなくて、みっともなく泣き叫んでしまった自分が恥ずかしくて、顔を合わせることができず、ドキドキと鳴る心臓を無視するように視線を逸らせば、包まれた両手にギュウッと力が籠った。

「っ…!」
「……ごめんなさい。急にあんな……嬉しくなるようなことを言われて、気持ちが昂ってしまいました。怖い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。…襲ったりしませんから、ご安心下さい」
「え……ぅ…」

メリアの可愛らしい見た目と『襲う』という単語が結び付かず、まして相手が自分では想像すらできず、なんと答えるべきか答えあぐねいていると、握られた指先をメリアの指先がそっと撫でた。

「っ…」
「……ベルナール様、私が怖いですか?」
「…!?」

慎重に、何かを諦めるように問い掛けられたメリアの声に、自分でも驚くほど勢いよく首を横に振っていた。
本能を無理やり引きずり出されるような感覚も、剥き出しになったそこに触れられる感覚も、知らない感情を強制的に与えられるのも、確かに怖い。
でもだからと言って、怖い訳ではないのだ。

「怖く、ないよ…」
「……本当に? ご無理をしてないですか?」
「…本当だよ。本当に……無理なんて、してない」

不安げにこちらを見上げる金色には、Glareのオーラは残っていなかった。
いつもと変わらぬその瞳に、気恥ずかしさを押し殺して視線を合わせれば、悲しげに下がっていた眉がふっと和らぎ、それからゆっくりと安堵の笑みが広がった。

「ああ、良かった…っ! 貴方に嫌われてしまったら、僕はもう生きていけませんでした」
「………え…?」

緊張の系が緩んだように、大きく息を吐くメリア。
同時に呟かれた言葉に、呆けた声が漏れるも、直後に真剣な表情に変わった彼の初めて見る顔に、反射的に背筋が伸びた。

こちらを真っ直ぐ見上げる金色の瞳。満月のように煌めく輝きは、目を逸らすことができないほど美しかった。



「ベルナール様。ずっとずっと、貴方のことをお慕いしておりました」



一瞬の静寂の後、二人きりの部屋の中に響いた告白に、心臓が信じられないほど大きく跳ねた。
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