Sub侯爵の愛しのDom様

東雲

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寝込んでいる間に、母は領地へと旅立った。
母がいなくなっても、特に何かが変わることはなく、むしろ屋敷全体のピリピリとした雰囲気が和らいだようにすら感じた。
これまで母のことで皆に多くの負担を掛けていたことを痛感するも、落ち込んだ姿を見せれば父や弟、家の者達をまた心配させる…そう思い、できる限り、今まで通り振る舞うよう心がけた。
顔の傷や痣は幸いにも残らず、長期休暇が明ける前には完治した。

「傷が残らなくて良かったね」
「ふふ、まるでご令嬢に言うみたいな言葉だな」

ホッとしたような弟の声に茶化して答えれば、マルクは「ムッ」と唇を尖らせた。

「顔に傷のある男はご令嬢に怖がられるんだよ?」
「分かってるよ。…心配してくれてありがとう、マルク」

母がいなくなってから、マルクは母の話題を一切出さなくなった。
顔の傷が母の暴行でできたものであっても、その経緯自体には触れず、母を悪し様に言うこともしない。
傷口にそっと蓋をするように、何も言わずにいてくれる弟の優しさに、自身も口を噤み、その恩情に甘えた。

(…父上とマルクに、これ以上迷惑をかけないように、生きよう)

誰に告げるでもない決意に、胸は僅かに締め付けられたが、それに気づかぬフリをして、笑った。



それからの学園生活は、勉強と鍛錬にほとんどの時間を費やした。
母である侯爵夫人が王都から去ったことで、色々と質問されることもあったが、「療養の為」と言葉を濁せば、大体の者はそれ以上踏み入って聞いてくることはなかった。
ただ、母が婚約者候補として声を掛けていた家や、釣書を送ってきた家の令嬢からは、それとないアプローチが続き、愛人希望の子息からも声を掛けられる始末だった。

同性婚が可能なこの国では、同性に好意を向けられることも珍しくはない。
だがその声を掛けてくる第一の理由が『Domだと思われているから』というのが笑えなかった。
自分にDomとしての立場を求められても困る…積り積もった困惑に、自分がSubであることを告げようかと思ったことも何度もあった。
だがそうして言葉にしようとするたび、冷たい視線を向ける母の姿が脳裏に浮かび、恐怖心から何も言えなくなった。

もし、もしもSubだと告げて「今まで騙していたのか!」と罵られ、冷たい視線を向けられたら───…

分かっている。分かっているのだ。
仮にそんな風に言ってくる者がいても、気にする必要はないと分かっている。
母も自分も、性を偽ったことはない。自分に至ってはDomではないとずっと否定してきた。

だが皆の中で勝手に膨らんだ『ベルナール・アルマンディン』という偶像が、見えない鎧のように全身に纏わりつき、身動きが取れなくなっていたのだ。


勝手に期待され、相手の理想と異なれば、勝手に失望される。


自分に非がある訳じゃないと分かっていても、母から「恥ずかしい」と言われた九歳のあの日の自分が、恐ろしいと泣くのだ。

(……Subだから、いけない訳じゃない)

分かっている。頭で分かっていても、感情まではどうにもならないと、分かっていた。


そうやってSubであることを隠して過ごしている内に、だんだんと人と付き合うのが怖くなった。

もし、もしもいつか、自分が誰かに好意を抱いて、その相手がDomだったなら、自分はどうなってしまうんだろう───?

未だ言葉でしか知らないDomとSubの関係。
想像すらできない未知の世界は恐ろしく、同時に、 自分のようなSubを好いてくれるDomなどいないのでは…そう思うと、無性に悲しくなった。

Domに好意を寄せ、Subに染まる自分を恐ろしいと思う反面、Domに愛されないSubである自分を惨めに思う。
矛盾した考えは、思春期の純粋な心を酷く乱し、濁らせた。

愛することも、愛されないことも怖い。
この考えすら、Subの本能によって引き起こされているものなのではと思うと、嫌で嫌で堪らなかった。

だからと言って、Subという性を否定するつもりはなかった。
、この性に不適合だっただけ…そう考えれば、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなった。

(……母上も、Subだったから、あのようになってしまったんだ…)

ならばもういっそのこと、このまま性を隠し、誰を愛することも、求めることも無く、静かに生きていけたなら───不意に浮かんだ考えは、コトンと小さな音を立て、胸の内に収まった。

性を隠すだけ。
偽るつもりはない。
その為に、誰も好きにならない。

そう決めてからは、なるべく他者との関わりを控え、だが決して孤立はしないように、笑顔で同級生達と言葉を交わしながら、込み入った仲にはならないように気をつけた。
そんな付き合い方をしていれば、当然、友人と呼べる者などできるはずもなく、気づけば随分と寂しい学生生活を送ることになっていた。

(…いいんだ)

こうすることでしか、自分を守れない───そう、言い聞かせた。



そうして過ごしている内に、縁談の話は徐々に減っていき、自然と声を掛けられることも少なくなった。
やがて学園を卒業し、十八歳で成人すると、王国騎士団に入隊した。
本来であれば父と同じく、文官として王城に出仕する予定だったが、父もまだ若く、当主として元気に過ごしている内に、色んな経験を積んで見分を広めたいのだと伝えれば、父も弟も反対はしなかったが、渋い顔はされた。
というのも、入団した騎士団は近衛兵などの花形とは異なり、王都から遠く離れた砦を拠点に、野党や反乱分子などの討伐を主とした、危険がつきまとう職だったからだ。
周辺諸国との争いもなく、比較的平和な国だが、どこにでも日陰の存在というのはいる。そういった者達から、民や王を守る為に設施されたのが、王国第四騎士団だった。

新人として入団してからは、一団員としてがむしゃらに働いた。
侯爵家の長男、尚且つ跡継ぎということもあり、家を継ぐことができず、やむを得ず入団した者達からはやっかみを受け、爵位が低い家の者達からは遠巻きにされた。
正直、居心地の良い場所ではなかったが、他人と深く関わらないで済むだけ気楽だった。
家には年に数回帰るだけ…そんな生活を五年続け、気づけば副隊長補佐として、討伐以外の執務にも関わるようになった頃だった。



別離から八年、母が亡くなったという訃報が届いた。
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