私だけの吸血鬼

東雲

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6.変化

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離れに移り住んで三年。二人だけの生活は、穏やかに続いていた。
料理から始まった家事は、月日が流れるごとにその範囲を広げ、やがて掃除や洗濯などもすべて自分達でこなすようになった。いずれアルバートは平民になる。身の回りのことは自分でこなせるようにと、少しずつ家事全般を教えた。
今では平民的な暮らしにもすっかり慣れ、使用人達が離れを訪れることも無くなった。
この頃になると、毎朝のパンと食材も届けてもらうのではなく、自分達で別邸まで取りに行くようになった。
本来であれば、軟禁状態の者が離れから出ることは許されないはずだが、別邸の家令は基本的にアルバートの行動を制限するつもりはないらしく、食材を取りに行くと伝えた時も「承知しました」の一言で了承してくれた。
毎日の家事をこなし、勉学に励み、鍛錬を積み、魔力の扱い方を学びながら、アルバートは健やかに成長していった。

同じ一日を繰り返すだけの、平坦で平穏な毎日。
それは二人にとって、なによりも得難く、何気なく過ごす時間は、愛しい思い出となって日々積み重なっていった。
きっと明日も、今日と同じ一日──そう意識することすらなくなったとある日、テオドールにとっても、アルバートにとっても、生まれて初めての経験となる出来事が起こった。



湯浴みを済ませ、寝支度を整え、あとは寝るだけとなったとある夜のこと。自室に向かおうと廊下を歩いていると、部屋の前で立ち竦むアルバートの姿が目に映った。

「アルバート様? どうかなさいましたか?」

普段のアルバートならば、とっくに眠っている時間だ。それなのに、明らかに自分が部屋に戻ってくるのを待ち構えていた様子に、慌てて彼の元へと駆け寄った。

「テオドール……」

不安気に自身の名を呼ぶ声と、何かに怯えるような潤んだ瞳に、緊張が走る。
何かあったのは明らかだが、妙に血の気の引いた顔色に、真っ先に体調不良を疑った。
もしや、血を摂取していないことで、体に異変でも起こってしまったのでは……震える指先で服の裾を握り締める姿に、良くない考えが浮かんだ。

(……動揺したらダメだ)

予期せぬ事態が起こった時、最も良くないのは、その場にいる全員が冷静さを失ってしまうことだ。
当事者であるアルバートはともかく、自分は彼を護る者として、冷静であらねば──そう自分自身に言い聞かせると、アルバートに気取られぬよう、こっそりと深呼吸をした。

「いかがなさいましたか?」

不安気なアルバートを落ち着かせるように、努めて穏やかな声で問い掛ける。片膝をつき、目線を同じ高さに近づければ、俯くアルバートの顔がよく見えた。

「あ、あのね……」
「はい」
「か、体が、変なの……」
「……どんな風に、変なんですか?」
「う、と……」

問い掛けに対し、言葉を詰まらせるアルバートにすぐさま言葉を重ねる。

「お体の不調ですから、ご不安や心配も大きいでしょう。言葉にするのも、怖いかもしれません。ですが、だからこそ、私にも教えてください。アルバート様がお一人でご不安を抱えることがないように、少しでもお気持ちが軽くなるように、私にできることは、なんでも致しますから」
「テオドール……」

正直なところ、万が一にも体調不良の原因が吸血鬼固有のものであれば、自分にできることなど血を与える以外皆無だろう。
それでも、もしも他に原因があった場合、多少なりとも力になれることがあるかもしれない。なにより、他に頼れる者がいない今、一人で悩みを抱え込むような孤独にアルバートを追い込みたくなかった。

「よろしければ、私にお話してみませんか?」

強要にならないよう、発声のトーンにも気をつけながら、もう一度問い掛ける。
俯くアルバートを覗き込むように首を傾げれば、整った顔がくしゃりと歪み、ルビーのような瞳がうるりと水気を帯びた。

「き、気持ち悪いって、思われちゃうかも……」
「そんなこと思いません」
「へ、変だって、おかしいって……」
「……アルバート様、どうか、ご自身を責めるようなことを仰らないでくださいませ」
「っ……」
「決して、アルバート様を悲しませるようなことは思いません。……大丈夫ですから」

自分に何ができるかなんて二の次だ。今はただ、アルバートを安心させたくて、「大丈夫」と言葉を紡ぎながら、服の裾を掴む小さな手に自身の手を重ねた。
瞬間、ビクリと跳ねた手に気づかぬフリをしたまま、緋色の瞳を見つめれば、アルバートの頬がみるみる内に赤く染まっていった。

「あ、あのね……」
「はい」
「っ……、ぉ、おちんちんが、おかしいの……!」
「…………はい?」
「ムズムズして、なんか、固くて……、し、白い、おしっこが出て、びっくりして……怖くて……っ」

予想だにしなかった返答に、頭が真っ白になる。だがそれも一瞬のことで、いよいよ泣き出したアルバートに、意識は即座に現実に引き戻された。

「ぼ、僕の体、おかしくなっちゃった……!」
「っ……!」

ポロポロと涙を零しながら震えるアルバートの姿に、動揺も吹き飛ぶ。
ただ目の前で泣く幼な子を安心させたくて、反射的に伸ばした腕でその身を抱き締めると、小さな頭を包み込むように、そっと撫でた。

「……大丈夫です。大丈夫ですよ、アルバート様。その現象は、おかしいことでは、ございませんから」

咄嗟に抱き締めてしまった己の行動に驚くが、今はそれどころではない。

(そっちの変化か……!)

まだまだ幼い子どもだとばかり思っていたアルバートに起きた、体の成長──それを喜ばしいと思う余裕もないまま、『性教育』という単語が居座る脳は、どうやって彼に現状を説明すべきか、フル回転で稼働し始めた。



静かに泣くアルバートをあやし、少し落ち着いたところで、共に彼の寝室へと向かった。話をするにしても、流石に廊下で大っぴらに話すのは憚られる内容だったからだ。

「落ち着きましたか?」
「うん……」

隣り合って腰掛けたベッドの縁。目尻を真っ赤に染め、すんすんと鼻を鳴らすアルバートを労りながら、内心は大変なことになっていた。
アルバートが家族に冷遇され始めたのは九歳。それ以降は勉強はおろか、満足な生活すら送れていない状況だった。
貴族令息としての教養の基礎の基礎はかろうじて学んでいたが、年齢を考えても、性教育にはまだ手を付けていなかったのだろう。当然、精通に関する知識だって無いはずだ。

(どうしよう……)

知識はある。いや、無ければおかしいのだが、それを言葉に変え、正しい知識としてアルバートに教えられるほどの技量が己にあるのかと問われると、自信がない、というのが正直なところだった。
だがだからと言って、投げ出す訳にもいくまい。小さな屋敷には、自分とアルバートの二人しかいないのだ。他に教えられる者などいない。
ここで彼に体の成長と、それによって起こる心身の変化を伝え、それはおかしいことでも悪いことでもないのだときちんと教えなければ、無駄にアルバートが苦しむことになってしまう。

(……やれるだけ、やってみよう)

子どもから大人へ、肉体の変化は誰もが通る道だ。ましてや成長が遅いアルバートにとって、喜ばしい変化であることに違いはない。
腹を括り、気合いを入れると、安心させるようにアルバートの背を撫でた。

「アルバート様、突然のことで驚かれたことでしょうが、その……陰茎の変化は、男性であれば誰しも起こることで……」
「……いんけいって、なに?」
「あ、ペニ、いえ、男性……、えぇと……」
「……おちんちんのこと?」
「さ、左様でございます」

出だしから躓いてしまった。
性器を表す単語をそのまま口にするのはどうしても気恥ずかしくて、やや遠回りな言い方をしてしまったが、これではアルバートに伝わらない。

(……恥ずかしがるな)

これはアルバートにとって必要な知識だ、勉強だ、と自分に言い聞かせると、もう一度気合いを入れ直した。

「お、おちんちんが、ムズムズするのも、固くなるのも、生理現象で……えぇと、体が成長していく上で起こる自然な変化で、怖いことでも、いけないことでもないのですよ」
「……そうなの?」
「はい。ぼっ……おちんちんが固くなって勃つことも、男性として極々自然なことです」
「……テオドールも、なるの?」
「ええ、勿論」
「じゃあ、白いおしっこは……?」
「それは精液というもので、おしっことは異なるものです。身体が子どもから大人へと変化し、成熟した肉体になったという証です。病気でもなければ、悪いことでも、おかしいことでもありませんよ」
「じゃあ、テオドールも、おちんちんから白いおしっこ出る?」
「……ええ、勿論」
「そっか……そうなんだ……へへ、おそろいだね」

果たしてそれは『おそろい』なのか。浮かんだ疑問を飲み込みながら、笑顔を取り戻したアルバートにホッとする。
そこからは、病気ではないと安心したことで、肉体の変化に興味が移ったアルバートから繰り出される質問にひたすらに答えていった。
なぜそうなるのか、という医学的な専門知識については流石に答えられなかったが、子を成すために必要な成長であること、性的興奮で勃起すること等、分かる範囲で教えられることは教えた。
そのたびにアルバートには「テオドールもそうなの?」と聞かれ、己の下半身事情を混ぜながら説明しなければいけない羞恥に身悶えたが、『これは性教育だ』と脳内で反芻し、必死に平静を装った。

「成長して大人になると、男の人も、女の人も、赤ちゃんをつくれる体になるんだ……」
「左様でございます」

何度目かの質疑応答を終え、感心したように、ほぅ、と息を吐くアルバートに、テオドールも大きく息を吐く。

(良かった……)

なんとか最低限の知識だけは教えられた──そう安堵したのも束の間、アルバートがこてりと首を傾げ、こちらを見上げた。

「じゃあ、赤ちゃんはどうやってつくるの?」
「…………」

無邪気で無垢な質問に、ぴきりと固まる。

(忘れてた……!)

『勃起』や『精通』といった肉体の変化の説明に気を取られ、アルバートの興味がそちらに向かうことを完全に失念していた。
なんと答えるべきか、内心冷や汗をかきながら思考を巡らせるも、動揺から焦るばかりの頭はまともに働かない。
「コウノトリが運んでくるんですよ」と答えたいのは山々だが、つい今ほど医学云々ということを交えて精通の説明をしたばかりだ。医学という現実的な話から、いきなりコウノトリに話が変わるのはあまりにも非現実的だろう。
とはいえ、性行為について自分が説明するのは荷が重すぎる。というより、無理だ。

「……それは、もう少し大人になられてから、お勉強しましょうね」

結果、逃げた。
幸いと言っていいのか、異性と接する機会のないアルバートにとって、今すぐ必要な知識ではない。
もう少しアルバートが成長して、年頃になったら、正しい性教育が行える者に任せよう、と問題を先送りにした。

「もう少しって、どのくらい?」
「……そうですね。もっと背が伸びて、声変わりをして、大人と変わらないくらい体つきがしっかりしてきたら、ですかね」
「むぅ……」

言外に「大人になるために、頑張って血を飲めるようになりましょうね」と含んで伝えれば、アルバートは小さく唸って俯いてしまった。
拗ねたように尖らせた薄い唇に苦笑しつつ、慰めるように小さな頭をゆるりと撫でると、部屋の時計に視線を遣った。

「さぁ、お勉強はこれくらいにして、もうお休みになりましょう。たくさん寝ることも、お体の成長には大事なことですよ?」

そう言って、ベッドから立ち上がる──が、くんっと服の裾を引っ張られ、浮かせた腰は再びマットレスの上に落ちた。

「? いかがなさいました?」
「あ、えっと……」

服の裾を押さえ、もじもじと足を擦り寄せるアルバートに首を傾げる。手洗いにでも行きたいのだろうか……という考えが浮かんだ瞬間、はたとあることに気づく。
ほんのりと朱色に染まった頬と、服の裾を引っ張って、隠すように押さえられた股。それらの行動と、もごもごと口籠るアルバートの様子にギクリとする。

「あ、あのね」

だめだ、待ってくれ、その先を言わないで──反射的に浮かんだ言葉を言えるはずもなく、意味もなく開いた口から、音が鳴ることはなかった。

「また、おちんちんが、固くなっちゃったんだけど……これって、どうしたらいいの……?」

恥じらいながら、どこか期待するようにこちらを見つめるアルバートに、今度こそ返す言葉を失った。
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