140 / 140
プティ・フレールの愛し子
116.誓いと望み(後)
しおりを挟む
大地と安寧を司る大天使・シルヴェスト。
明るく朗らかで、快活とした彼だが、その性格は非常に穏やかだ。
繊細で大人しい性格のアドニスでも、あまり緊張せずに話せる相手だろう、とアドニスの初めての話し相手に選んだ。
「なるほど。シルヴェスト様がお相手であれば、アドニス様もそれほど緊張せずにお話しできるかもしれませんね」
彼のおおらかな性格は、皆が知っていることだ。オリヴィアも『納得』という表情で頷いた。
(まぁ、性格だけで彼を選んだのではないですけどね)
勿論、アドニスのことを考え、一番負担にならない相手を選んだが、それ以上に、シルヴェストを選んだのには理由があった。
大天使アドニスの葬斂の儀が行われたあの日、同時に新たな魂として生まれたアドニスのことも、皆の知るところとなった。
あの時、ほとんどの者はアドニスの存在に対して懐疑的であり、バルドル神が広間を去った後、詰め寄るように自分達の元へと集まってきた。
『本当にアドニスは死んでしまったのか?』
『新たな魂に生まれ変わったというが、本当なのか?』
『どうやってそれを知ったのか?』
『アドニスに騙されているんじゃないのか?』
矢継ぎ早に飛んできたそんな質問に、心底げんなりした。
彼らの疑念はもっともだ。例えバルドル神からの言だったとしても、肉体はそのままに、魂だけが入れ替わるように生まれたなど、到底信じられるものではないだろう。
もしも自分が彼らの立場なら、同じように詰め寄っていたかもしれない。
だが、アドニスという美しくも愛らしい存在を知った今、彼らのそんな態度はあの子を否定しているように見えて、顔を顰めずにはいられなかった。
バルドル神の言葉に間違いはなく、すべて事実だと告げると、まだ何か聞きたそうにする者達から逃げるように、三人で広間を出た。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、アドニスの元へ向かうため、足早に回廊を進めば、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
『ちょっと、待ってくれ!』
呼び掛ける声に立ち止まり、振り返れば、そこにはシルヴェストの姿があった。
『……なんです?』
『そんなおっかない顔するなよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだって』
先ほどのやりとりでうんざりしていたせいか、自然と眉間に皺が寄ったが、シルヴェストは苦笑いするだけだった。
そうしてどこか苦しげな表情のまま、彼はおもむろに口を開いた。
『その、アドニス…えーっと……生まれたばかりの、アドニスは…今は、元気なのか?』
それは、思ってもみなかった一言だった。
自分は勿論、ルカーシュカも、そしてエルダも、驚愕から言葉を失い、短い沈黙が流れた。
『……ええ。まだ少し不安定ですが、元気ですよ』
一拍の沈黙の後、正直に答えれば、強張っていたシルヴェストの表情がホッと和らぎ、笑みの形に崩れた。
『そうか……良かった、って俺が言っていいのか分からんが、元気に過ごしてるなら良かったよ。引き止めて悪かったな』
そう言うと、シルヴェストは踵を返し、元来た道を帰っていった。
それだけ、たったそれだけだったが、彼の表情から、声から、アドニスの身を案じる気持ちが伝わってきて、胸が詰まった。
皆が『アドニス』という存在を疑う中で、シルヴェストだけが、純粋にあの子のことを案じてくれた。
衝撃にも似た出来事は、確かな喜びとして、記憶に刻まれた。
(だからこそ、彼なんですよね)
アドニスが他の者達との交流を望んだ時、三人同時に同じ人物を思い浮かべたのは、偶然ではなく必然だった。
今後、第三者の介入は免れない。ならばせめて、あの子にとって最良で最善となる相手を選びたい。言葉にせずとも、望むことは皆同じだ。
思えば、大天使アドニスとアドニスが別人だと分かる前から、シルヴェストの態度は他の者達と少し違っていた。
誰もが『アドニス』に対する憎悪を剥き出しにする中、彼だけは憐憫の情を残し、改心したのでは…という僅かな希望を抱いていた。
(…優しい男だ)
アドニスにとって害にならないという点においては、オリヴィア同様、安全な存在だろう。
ただ正直、だからこそアドニスの側に寄せることに対する不安もあるのだが、それを言い出したらキリがない。
僅かに残る不安は、彼の良心を信じる気持ちで打ち消した。
「…シルヴェストなら、恐らく問題ないでしょう。他の、細かい部分の取り決めは、バルドル様との話し合いが終わってからにしましょうか」
「ああ、そうしよう。…オリヴィアも、今日はありがとうな。色々と面倒を掛けるが、これからもよろしく頼む」
「お任せ下さい」
話し合いという名の報告会の終わりが見え、ふっと息を吐く。
少しずつ、だが確実に、アドニスの世界を広げるための準備が整っていく。
腹を括っても尚、気持ちは後ろ向きだが、アドニスの安全のため、己の精神の安寧のため、やれることは全部やろうと考えられるようにはなっていた。
(…アニーのためです)
愛しいあの子の笑顔のため、きっと永遠に消えることのない欲をそっと胸の内に隠すと、気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。
数日後、ルカーシュカ、エルダと共にバルドル神の元へと向かい、アドニスの願いと、これからの動向について報告した。
それと同時に、こちらからの要望である奥の宮への事前の立ち入り許可と、オリヴィアの能力を用いての情報共有を願えば、意外なほどすんなりとお許しがもらえた。
「お前達は本当に心配性だな」
そう言って苦笑するだけのバルドル神に拍子抜けしつつ、その傍らに立つオリヴィアにチラリと視線を流せば、彼が頷くように瞳を伏せた。
(…オリヴィアに感謝ですね)
バルドル神の私的空間である奥の宮に、緊急時のみとはいえ、都度の断りなく立ち入る許可など、そう簡単に頂けるはずがない。
恐らくは、オリヴィアからバルドル神へ、事前にある程度の話しが通っており、それとなく説得してくれたのだろう。
一番の難関であったバルドル神からの許可が下り、ホッと胸を撫で下ろすと、早くもアドニスとの再会を望む父への明確な返答を避け、その場を後にした。
「ひとまず、なんとかなったな」
宮廷の回廊を進みながら、隣を歩くルカーシュカが安堵の息を吐いた。
「そうですね。安心とは言い切れませんが、最大限のことはできたでしょう」
極端にバルドル神からアドニスを遠ざけるのは、かえって危ないという状況の中、アドニスの安全を確保しつつ、バルドル神と最適な距離感で交流してもらうための、最大限の予防線は張れた。
完全に安心できる訳ではないが、アドニスのひとまずの安全は保証されただろう。
「耳飾りの用意は?」
「もうできてる」
ルカーシュカ達と話し合い、アドニスに加護を付与した耳飾りを贈ることは決まっている。
反撃するようなものはアドニスが怖がる危険性があるため、防御一択になったが、腕輪との二重掛けの上、大天使二人分の守護結界だ。万が一、不測の事態が起こったとしても、相手を弾き飛ばすくらいはできるだろう。
「あとは、シルヴェストに話を通すだけですか…」
「それなんだが、アニーのことは伏せて呼び出さないか?」
「…アニーのことを伏せて、ですか?」
ルカーシュカからの不可解な提案に首を傾げる。
「まずは、アニーにシルヴェストの姿を見てもらうことが目的だからな。極論、アイツがアニーを視認する必要もないんだが、流石にそういう訳にもいかないだろう。だからと言って、アニーに会ってもらいたいから来てくれって頼むのも、本来の目的とは違うだろう?」
「…そうですね」
「正直に目的を話して、なんでそうなるって聞かれるのも面倒だしな。ひとまず呼び出して、アニーが一緒にいる空間で説明した方が話が早い」
「なるほど…」
ルカーシュカの言う通り、確かにその場で説明した方が話は早いだろう。ついでに言えば、先にアドニスの存在を伝えることで、妙に身構えられる心配もない。
アドニスにシルヴェストの為人を知ってもらうためにも、彼には自然体でいてもらいたいのだ。
「アイツのことだ。アニーの存在に気づいても、驚くだけで、過剰に反応することはないだろう。アニーが怖がる心配もない」
「…まぁ、シルヴェストならその心配はないでしょうね」
彼の性格なら、アドニスが同じ室内にいると知っても、騒ぐことはないだろう。いきなり近づくような迂闊な真似もしないだろうし、強く意識しすぎて、アドニスを怖がらせることもない。
きっと、アドニスがいることに純粋に驚いて、「大丈夫なのか?」とあの子の心配をするだけ…シルヴェストという大天使は、そういう男だ。
「エルダは、どう思いますか?」
ここまで一言も発せず、黙って歩いていたエルダに声を掛ければ、ハッとしたようにその肩が揺れた。
「……シルヴェスト様なら、アドニス様のご負担になるようなことはなさらないでしょうし、よろしいかと思います。万が一、予想外のことが起こったとしても、アドニス様は私がお守り致しますので、問題ございません」
「…あなたは、こちらに参加しないのですか?」
「はい。アドニス様のお側にいるのが、私の役目ですので」
「…エルダはエルダですね」
キッパリと言い切ったエルダに、肩を竦めつつも納得する。
今後、一時的とはいえ、エルダはオリヴィアにその大事な役目を奪われてしまう。今まで以上にアドニスの側を離れたくないと思うのは、当然のことなのだろう。
なによりもアドニスを優先するその思考と姿勢は、自分のそれとはまた異なった執着で、いっそ清々しいほどだ。
(…本当に、皆同じなんですよね)
瞬間、昨日から何度も感じた言葉にし難い感情が、胸の内でじわりと熱を帯びた。
愛し方も、愛情の伝え方も、求める愛情も三者三様で、けれどもアドニスを愛する気持ちも、愛しているからこそ抱く不安や焦燥も、ぴたりと重なるように皆同じ。それが、手に取るように分かる。
可愛いあの子に、溢れんばかりの愛情を。
優しいあの子に、抱えきれないほどの慈しみを。
もう二度と、悲しみの底で泣かせることがないように。
もう二度と、孤独の淵で寂しい思いをさせないように。
赤子達が集う暖かな陽だまりの中、真白いレースが揺れる柔らかな陽射しの中、小さな幸せと喜びを愛でるように笑うあの子を守り、愛したい。
その想いが『永遠』であることは、きっと皆一緒だ。
なればこそ、その想いを『誓い』に変えたいと願うのも、きっと自分だけではないはず───目に見えぬ共鳴が、確信へと変わるのは一瞬だった。
「イヴァニエ? どうした?」
真白い支柱が立ち並ぶ宮廷の回廊。
その端、自分達以外、誰もいない回廊の真ん中で足を止めれば、ルカーシュカとエルダも歩みを止め、こちらを振り返った。
自分を見つめる黒と翠の瞳。二人の瞳を見つめ返せば、その後ろ、長く続く回廊の正面に、光り輝くような純白の扉が見えた。
あの扉の向こう側で、アドニスが待っている。
そう思うだけで込み上げる多幸感に胸を膨らませながら、再び二人に焦点を合わせると、すぅっと息を吸った。
「───私は、アドニスを愛しています。この先もずっと、この想いが色褪せることはないでしょう」
突然の告白。にも関わらず、彼らは少しの戸惑いも見せなかった。
まるで、何を言われるのか分かっていたかのような反応に、目を細める。
自分がアドニスを愛し、愛されているように、彼らもまた、アドニスを愛し、愛されている。
そこには、他の者に向けるような鮮烈な嫉妬も、渇望もない。
ただアドニスに愛されているという自信と、彼らとなら、共にアドニスの隣に在れるという、絶対的な信頼だけがあった。
「誓いを。アニーの魂が命の湖に還るその日まで、共に生きようという誓いを、私の魂と共に、あの子に捧げたいです」
いつ頃からか、当たり前のように胸に宿り、熱望していた願い。
命が続く限り、共に生きよう。
命の湖に還るその時は、共に母なる大地に還ろう。
純粋に、ただそれだけを互いに願い、望むだけの、名も無き誓い。
叶うならば、これからアドニスの世界が広がっていくその前に、この想いを伝えたいと、そう強く思ったのだ。
「いつ言い出すかと思ってたが、ようやくか」
数秒の静寂の後、回廊に響いたのは、ひどく穏やかな声だった。
「……その言い方だと、私が言い出すのを待っていたように聞こえるんですが?」
「ああ、待ってたぞ」
実にあっけらかんとした返答と反応に、パチリと目を瞬く。それと同時に、うっすらと漂っていた緊張感が一瞬で霧散した。
「待っていたというより、我慢ができなくなって言い出すのは、イヴァニエだろうなと思ってたよ」
そう言って、どこか楽しげに笑うルカーシュカと、いつもと変わらぬ表情のまま、コクリと頷くエルダ。
その姿があまりにも普段と変わらないことに、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
「安心しな。俺も、エルダも、一緒だよ」
何が、と言われずとも分かる。
自分が言葉にした告白全て、丸ごと全部、『一緒』なのだろう。
それが当然のことであるかのように、凛と張ったルカーシュカの声と、一片の迷いもないエルダの眼差し。その音と色に、心底安堵している自分がいた。
「まぁ、まずはアニーにちゃんと話しをして、俺達の気持ちを知ってもらうところから始めないとだけどな」
「…ええ、勿論です」
向きを変え、再び歩き出したルカーシュカとエルダの後を、半歩遅れるようについていく。
向かう先、アドニスの部屋の扉を見つめながら、じわじわと頬が緩むのを抑えられず、柔く唇を喰んだ。
(…不思議なものですね)
愛した唯一からの愛情を、独占することはできない。でも今は、不思議とそれが嫌ではない。
自分だけがアドニスの唯一になることはできないけれど、三人でなら、アドニスの唯一になれる。
そんな安心感にも似た一体感が、今はとても心地良く、どうしてか無性に嬉しかった。
いつか訪れる最期の日。その日までずっと、彼らと共に、アドニスの隣にいるのだろう───思い描いた未来は今日と変わらず、驚くほど鮮明で、温かな光景だった。
明るく朗らかで、快活とした彼だが、その性格は非常に穏やかだ。
繊細で大人しい性格のアドニスでも、あまり緊張せずに話せる相手だろう、とアドニスの初めての話し相手に選んだ。
「なるほど。シルヴェスト様がお相手であれば、アドニス様もそれほど緊張せずにお話しできるかもしれませんね」
彼のおおらかな性格は、皆が知っていることだ。オリヴィアも『納得』という表情で頷いた。
(まぁ、性格だけで彼を選んだのではないですけどね)
勿論、アドニスのことを考え、一番負担にならない相手を選んだが、それ以上に、シルヴェストを選んだのには理由があった。
大天使アドニスの葬斂の儀が行われたあの日、同時に新たな魂として生まれたアドニスのことも、皆の知るところとなった。
あの時、ほとんどの者はアドニスの存在に対して懐疑的であり、バルドル神が広間を去った後、詰め寄るように自分達の元へと集まってきた。
『本当にアドニスは死んでしまったのか?』
『新たな魂に生まれ変わったというが、本当なのか?』
『どうやってそれを知ったのか?』
『アドニスに騙されているんじゃないのか?』
矢継ぎ早に飛んできたそんな質問に、心底げんなりした。
彼らの疑念はもっともだ。例えバルドル神からの言だったとしても、肉体はそのままに、魂だけが入れ替わるように生まれたなど、到底信じられるものではないだろう。
もしも自分が彼らの立場なら、同じように詰め寄っていたかもしれない。
だが、アドニスという美しくも愛らしい存在を知った今、彼らのそんな態度はあの子を否定しているように見えて、顔を顰めずにはいられなかった。
バルドル神の言葉に間違いはなく、すべて事実だと告げると、まだ何か聞きたそうにする者達から逃げるように、三人で広間を出た。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、アドニスの元へ向かうため、足早に回廊を進めば、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
『ちょっと、待ってくれ!』
呼び掛ける声に立ち止まり、振り返れば、そこにはシルヴェストの姿があった。
『……なんです?』
『そんなおっかない顔するなよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだって』
先ほどのやりとりでうんざりしていたせいか、自然と眉間に皺が寄ったが、シルヴェストは苦笑いするだけだった。
そうしてどこか苦しげな表情のまま、彼はおもむろに口を開いた。
『その、アドニス…えーっと……生まれたばかりの、アドニスは…今は、元気なのか?』
それは、思ってもみなかった一言だった。
自分は勿論、ルカーシュカも、そしてエルダも、驚愕から言葉を失い、短い沈黙が流れた。
『……ええ。まだ少し不安定ですが、元気ですよ』
一拍の沈黙の後、正直に答えれば、強張っていたシルヴェストの表情がホッと和らぎ、笑みの形に崩れた。
『そうか……良かった、って俺が言っていいのか分からんが、元気に過ごしてるなら良かったよ。引き止めて悪かったな』
そう言うと、シルヴェストは踵を返し、元来た道を帰っていった。
それだけ、たったそれだけだったが、彼の表情から、声から、アドニスの身を案じる気持ちが伝わってきて、胸が詰まった。
皆が『アドニス』という存在を疑う中で、シルヴェストだけが、純粋にあの子のことを案じてくれた。
衝撃にも似た出来事は、確かな喜びとして、記憶に刻まれた。
(だからこそ、彼なんですよね)
アドニスが他の者達との交流を望んだ時、三人同時に同じ人物を思い浮かべたのは、偶然ではなく必然だった。
今後、第三者の介入は免れない。ならばせめて、あの子にとって最良で最善となる相手を選びたい。言葉にせずとも、望むことは皆同じだ。
思えば、大天使アドニスとアドニスが別人だと分かる前から、シルヴェストの態度は他の者達と少し違っていた。
誰もが『アドニス』に対する憎悪を剥き出しにする中、彼だけは憐憫の情を残し、改心したのでは…という僅かな希望を抱いていた。
(…優しい男だ)
アドニスにとって害にならないという点においては、オリヴィア同様、安全な存在だろう。
ただ正直、だからこそアドニスの側に寄せることに対する不安もあるのだが、それを言い出したらキリがない。
僅かに残る不安は、彼の良心を信じる気持ちで打ち消した。
「…シルヴェストなら、恐らく問題ないでしょう。他の、細かい部分の取り決めは、バルドル様との話し合いが終わってからにしましょうか」
「ああ、そうしよう。…オリヴィアも、今日はありがとうな。色々と面倒を掛けるが、これからもよろしく頼む」
「お任せ下さい」
話し合いという名の報告会の終わりが見え、ふっと息を吐く。
少しずつ、だが確実に、アドニスの世界を広げるための準備が整っていく。
腹を括っても尚、気持ちは後ろ向きだが、アドニスの安全のため、己の精神の安寧のため、やれることは全部やろうと考えられるようにはなっていた。
(…アニーのためです)
愛しいあの子の笑顔のため、きっと永遠に消えることのない欲をそっと胸の内に隠すと、気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。
数日後、ルカーシュカ、エルダと共にバルドル神の元へと向かい、アドニスの願いと、これからの動向について報告した。
それと同時に、こちらからの要望である奥の宮への事前の立ち入り許可と、オリヴィアの能力を用いての情報共有を願えば、意外なほどすんなりとお許しがもらえた。
「お前達は本当に心配性だな」
そう言って苦笑するだけのバルドル神に拍子抜けしつつ、その傍らに立つオリヴィアにチラリと視線を流せば、彼が頷くように瞳を伏せた。
(…オリヴィアに感謝ですね)
バルドル神の私的空間である奥の宮に、緊急時のみとはいえ、都度の断りなく立ち入る許可など、そう簡単に頂けるはずがない。
恐らくは、オリヴィアからバルドル神へ、事前にある程度の話しが通っており、それとなく説得してくれたのだろう。
一番の難関であったバルドル神からの許可が下り、ホッと胸を撫で下ろすと、早くもアドニスとの再会を望む父への明確な返答を避け、その場を後にした。
「ひとまず、なんとかなったな」
宮廷の回廊を進みながら、隣を歩くルカーシュカが安堵の息を吐いた。
「そうですね。安心とは言い切れませんが、最大限のことはできたでしょう」
極端にバルドル神からアドニスを遠ざけるのは、かえって危ないという状況の中、アドニスの安全を確保しつつ、バルドル神と最適な距離感で交流してもらうための、最大限の予防線は張れた。
完全に安心できる訳ではないが、アドニスのひとまずの安全は保証されただろう。
「耳飾りの用意は?」
「もうできてる」
ルカーシュカ達と話し合い、アドニスに加護を付与した耳飾りを贈ることは決まっている。
反撃するようなものはアドニスが怖がる危険性があるため、防御一択になったが、腕輪との二重掛けの上、大天使二人分の守護結界だ。万が一、不測の事態が起こったとしても、相手を弾き飛ばすくらいはできるだろう。
「あとは、シルヴェストに話を通すだけですか…」
「それなんだが、アニーのことは伏せて呼び出さないか?」
「…アニーのことを伏せて、ですか?」
ルカーシュカからの不可解な提案に首を傾げる。
「まずは、アニーにシルヴェストの姿を見てもらうことが目的だからな。極論、アイツがアニーを視認する必要もないんだが、流石にそういう訳にもいかないだろう。だからと言って、アニーに会ってもらいたいから来てくれって頼むのも、本来の目的とは違うだろう?」
「…そうですね」
「正直に目的を話して、なんでそうなるって聞かれるのも面倒だしな。ひとまず呼び出して、アニーが一緒にいる空間で説明した方が話が早い」
「なるほど…」
ルカーシュカの言う通り、確かにその場で説明した方が話は早いだろう。ついでに言えば、先にアドニスの存在を伝えることで、妙に身構えられる心配もない。
アドニスにシルヴェストの為人を知ってもらうためにも、彼には自然体でいてもらいたいのだ。
「アイツのことだ。アニーの存在に気づいても、驚くだけで、過剰に反応することはないだろう。アニーが怖がる心配もない」
「…まぁ、シルヴェストならその心配はないでしょうね」
彼の性格なら、アドニスが同じ室内にいると知っても、騒ぐことはないだろう。いきなり近づくような迂闊な真似もしないだろうし、強く意識しすぎて、アドニスを怖がらせることもない。
きっと、アドニスがいることに純粋に驚いて、「大丈夫なのか?」とあの子の心配をするだけ…シルヴェストという大天使は、そういう男だ。
「エルダは、どう思いますか?」
ここまで一言も発せず、黙って歩いていたエルダに声を掛ければ、ハッとしたようにその肩が揺れた。
「……シルヴェスト様なら、アドニス様のご負担になるようなことはなさらないでしょうし、よろしいかと思います。万が一、予想外のことが起こったとしても、アドニス様は私がお守り致しますので、問題ございません」
「…あなたは、こちらに参加しないのですか?」
「はい。アドニス様のお側にいるのが、私の役目ですので」
「…エルダはエルダですね」
キッパリと言い切ったエルダに、肩を竦めつつも納得する。
今後、一時的とはいえ、エルダはオリヴィアにその大事な役目を奪われてしまう。今まで以上にアドニスの側を離れたくないと思うのは、当然のことなのだろう。
なによりもアドニスを優先するその思考と姿勢は、自分のそれとはまた異なった執着で、いっそ清々しいほどだ。
(…本当に、皆同じなんですよね)
瞬間、昨日から何度も感じた言葉にし難い感情が、胸の内でじわりと熱を帯びた。
愛し方も、愛情の伝え方も、求める愛情も三者三様で、けれどもアドニスを愛する気持ちも、愛しているからこそ抱く不安や焦燥も、ぴたりと重なるように皆同じ。それが、手に取るように分かる。
可愛いあの子に、溢れんばかりの愛情を。
優しいあの子に、抱えきれないほどの慈しみを。
もう二度と、悲しみの底で泣かせることがないように。
もう二度と、孤独の淵で寂しい思いをさせないように。
赤子達が集う暖かな陽だまりの中、真白いレースが揺れる柔らかな陽射しの中、小さな幸せと喜びを愛でるように笑うあの子を守り、愛したい。
その想いが『永遠』であることは、きっと皆一緒だ。
なればこそ、その想いを『誓い』に変えたいと願うのも、きっと自分だけではないはず───目に見えぬ共鳴が、確信へと変わるのは一瞬だった。
「イヴァニエ? どうした?」
真白い支柱が立ち並ぶ宮廷の回廊。
その端、自分達以外、誰もいない回廊の真ん中で足を止めれば、ルカーシュカとエルダも歩みを止め、こちらを振り返った。
自分を見つめる黒と翠の瞳。二人の瞳を見つめ返せば、その後ろ、長く続く回廊の正面に、光り輝くような純白の扉が見えた。
あの扉の向こう側で、アドニスが待っている。
そう思うだけで込み上げる多幸感に胸を膨らませながら、再び二人に焦点を合わせると、すぅっと息を吸った。
「───私は、アドニスを愛しています。この先もずっと、この想いが色褪せることはないでしょう」
突然の告白。にも関わらず、彼らは少しの戸惑いも見せなかった。
まるで、何を言われるのか分かっていたかのような反応に、目を細める。
自分がアドニスを愛し、愛されているように、彼らもまた、アドニスを愛し、愛されている。
そこには、他の者に向けるような鮮烈な嫉妬も、渇望もない。
ただアドニスに愛されているという自信と、彼らとなら、共にアドニスの隣に在れるという、絶対的な信頼だけがあった。
「誓いを。アニーの魂が命の湖に還るその日まで、共に生きようという誓いを、私の魂と共に、あの子に捧げたいです」
いつ頃からか、当たり前のように胸に宿り、熱望していた願い。
命が続く限り、共に生きよう。
命の湖に還るその時は、共に母なる大地に還ろう。
純粋に、ただそれだけを互いに願い、望むだけの、名も無き誓い。
叶うならば、これからアドニスの世界が広がっていくその前に、この想いを伝えたいと、そう強く思ったのだ。
「いつ言い出すかと思ってたが、ようやくか」
数秒の静寂の後、回廊に響いたのは、ひどく穏やかな声だった。
「……その言い方だと、私が言い出すのを待っていたように聞こえるんですが?」
「ああ、待ってたぞ」
実にあっけらかんとした返答と反応に、パチリと目を瞬く。それと同時に、うっすらと漂っていた緊張感が一瞬で霧散した。
「待っていたというより、我慢ができなくなって言い出すのは、イヴァニエだろうなと思ってたよ」
そう言って、どこか楽しげに笑うルカーシュカと、いつもと変わらぬ表情のまま、コクリと頷くエルダ。
その姿があまりにも普段と変わらないことに、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
「安心しな。俺も、エルダも、一緒だよ」
何が、と言われずとも分かる。
自分が言葉にした告白全て、丸ごと全部、『一緒』なのだろう。
それが当然のことであるかのように、凛と張ったルカーシュカの声と、一片の迷いもないエルダの眼差し。その音と色に、心底安堵している自分がいた。
「まぁ、まずはアニーにちゃんと話しをして、俺達の気持ちを知ってもらうところから始めないとだけどな」
「…ええ、勿論です」
向きを変え、再び歩き出したルカーシュカとエルダの後を、半歩遅れるようについていく。
向かう先、アドニスの部屋の扉を見つめながら、じわじわと頬が緩むのを抑えられず、柔く唇を喰んだ。
(…不思議なものですね)
愛した唯一からの愛情を、独占することはできない。でも今は、不思議とそれが嫌ではない。
自分だけがアドニスの唯一になることはできないけれど、三人でなら、アドニスの唯一になれる。
そんな安心感にも似た一体感が、今はとても心地良く、どうしてか無性に嬉しかった。
いつか訪れる最期の日。その日までずっと、彼らと共に、アドニスの隣にいるのだろう───思い描いた未来は今日と変わらず、驚くほど鮮明で、温かな光景だった。
409
お気に入りに追加
6,244
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(503件)
あなたにおすすめの小説

言い逃げしたら5年後捕まった件について。
なるせ
BL
「ずっと、好きだよ。」
…長年ずっと一緒にいた幼馴染に告白をした。
もちろん、アイツがオレをそういう目で見てないのは百も承知だし、返事なんて求めてない。
ただ、これからはもう一緒にいないから…想いを伝えるぐらい、許してくれ。
そう思って告白したのが高校三年生の最後の登校日。……あれから5年経ったんだけど…
なんでアイツに馬乗りにされてるわけ!?
ーーーーー
美形×平凡っていいですよね、、、、
何も知らない人間兄は、竜弟の執愛に気付かない
てんつぶ
BL
連峰の最も高い山の上、竜人ばかりの住む村。
その村の長である家で長男として育てられたノアだったが、肌の色や顔立ちも、体つきまで周囲とはまるで違い、華奢で儚げだ。自分はひょっとして拾われた子なのではないかと悩んでいたが、それを口に出すことすら躊躇っていた。
弟のコネハはノアを村の長にするべく奮闘しているが、ノアは竜体にもなれないし、人を癒す力しかもっていない。ひ弱な自分はその器ではないというのに、日々プレッシャーだけが重くのしかかる。
むしろ身体も大きく力も強く、雄々しく美しい弟ならば何の問題もなく長になれる。長男である自分さえいなければ……そんな感情が膨らみながらも、村から出たことのないノアは今日も一人山の麓を眺めていた。
だがある日、両親の会話を聞き、ノアは竜人ですらなく人間だった事を知ってしまう。人間の自分が長になれる訳もなく、またなって良いはずもない。周囲の竜人に人間だとバレてしまっては、家族の立場が悪くなる――そう自分に言い訳をして、ノアは村をこっそり飛び出して、人間の国へと旅立った。探さないでください、そう書置きをした、はずなのに。
人間嫌いの弟が、まさか自分を追って人間の国へ来てしまい――

側近候補を外されて覚醒したら旦那ができた話をしよう。
とうや
BL
【6/10最終話です】
「お前を側近候補から外す。良くない噂がたっているし、正直鬱陶しいんだ」
王太子殿下のために10年捧げてきた生活だった。側近候補から外され、公爵家を除籍された。死のうと思った時に思い出したのは、ふわっとした前世の記憶。
あれ?俺ってあいつに尽くして尽くして、自分のための努力ってした事あったっけ?!
自分のために努力して、自分のために生きていく。そう決めたら友達がいっぱいできた。親友もできた。すぐ旦那になったけど。
***********************
ATTENTION
***********************
※オリジンシリーズ、魔王シリーズとは世界線が違います。単発の短い話です。『新居に旦那の幼馴染〜』と多分同じ世界線です。
※朝6時くらいに更新です。

期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
ぽんちゃん
BL
病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。
剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。
加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。

愛などもう求めない
白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
もっとはやくこの素敵な作品に出会いたかった!!!😭
作者さんの描くアドニスくんが可愛すぎて次のページをめくるのに10分もかかりました笑
絵も上手くて文章も上手くて隙がなさすぎてびっくりしました。
作者さんにもプライベートがあり忙しいと思いますが、更新待ってます☺️☺️
コメントありがとうございます!(*´◒`*)お返事が遅くなってしまい、申し訳ございません💦
『もっと早く出会いたかった』という嬉しいお言葉をありがとうございます‼️
アドニスくんが大好きで、隙あらば絵を描いてしまうのですが、じっくり愛でて頂き嬉しい限りです🥰
諸々の事情で長く更新が止まってしまっていますが、続きも楽しんで頂けるよう、更新再開に向けて頑張っていきたいと思います!💪
四葩さん、お久しぶりです!コメントありがとうございます(*´◒`*)
カロンくんは危険視はされてませんが、最初の出会いが良くなかったですね笑
アドニスくんですから!いきなり大人数と対面なんてしたら気絶しちゃいますから!恋人同伴は絶対事項です!🤗
アドニスくんも彼氏達も、お互いが納得して、良い感じのところに丸く収まりました(о´∀`о)
当方へのお心遣いもありがとうございます🥰
体調管理に気をつけながら、続きも楽しんで頂けるように執筆していきたいと思います!
お久しぶりです(*´ `*)
東雲さんはお元気ですか?
体調が悪くても、更新が遅れても、感想を書いた方には、必ずコメントを返してくれる東雲さん…
その返信コメントがない事に、かなり心配してます:( ;˙꒳˙;):
大丈夫ですか?
また、楽しく執筆できる時まで、気長に♪̊̈♪̆̈
待っています。
お身体、ご自愛ください。
La+さん、お久しぶりです!コメントありがとうございます!(*´◒`*)お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ございません💦
更新も何もかも止まってしまっている中、当方のご心配をしてくださり、本当に本当にありがとうございます…!!
ご心配して頂けることのなんと有り難いことだろうと、嬉しくて涙が出そうです🥲
お恥ずかしいことに色々とガタがきてしまい、お返事を書くことすらできなくなっておりましたが、少しずつ回復して参りまして、こうして浮上できるようになりました!
本調子とは言い難い状態ですが、ゆっくりペースでも執筆をしていけるように、頑張っていきたいと思います!💪✨
温かいお言葉とお気持ちをありがとうございました!🥰