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プティ・フレールの愛し子
116.誓いと望み(後)
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大地と安寧を司る大天使・シルヴェスト。
明るく朗らかで、快活とした彼だが、その性格は非常に穏やかだ。
繊細で大人しい性格のアドニスでも、あまり緊張せずに話せる相手だろう、とアドニスの初めての話し相手に選んだ。
「なるほど。シルヴェスト様がお相手であれば、アドニス様もそれほど緊張せずにお話しできるかもしれませんね」
彼のおおらかな性格は、皆が知っていることだ。オリヴィアも『納得』という表情で頷いた。
(まぁ、性格だけで彼を選んだのではないですけどね)
勿論、アドニスのことを考え、一番負担にならない相手を選んだが、それ以上に、シルヴェストを選んだのには理由があった。
大天使アドニスの葬斂の儀が行われたあの日、同時に新たな魂として生まれたアドニスのことも、皆の知るところとなった。
あの時、ほとんどの者はアドニスの存在に対して懐疑的であり、バルドル神が広間を去った後、詰め寄るように自分達の元へと集まってきた。
『本当にアドニスは死んでしまったのか?』
『新たな魂に生まれ変わったというが、本当なのか?』
『どうやってそれを知ったのか?』
『アドニスに騙されているんじゃないのか?』
矢継ぎ早に飛んできたそんな質問に、心底げんなりした。
彼らの疑念はもっともだ。例えバルドル神からの言だったとしても、肉体はそのままに、魂だけが入れ替わるように生まれたなど、到底信じられるものではないだろう。
もしも自分が彼らの立場なら、同じように詰め寄っていたかもしれない。
だが、アドニスという美しくも愛らしい存在を知った今、彼らのそんな態度はあの子を否定しているように見えて、顔を顰めずにはいられなかった。
バルドル神の言葉に間違いはなく、すべて事実だと告げると、まだ何か聞きたそうにする者達から逃げるように、三人で広間を出た。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、アドニスの元へ向かうため、足早に回廊を進めば、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
『ちょっと、待ってくれ!』
呼び掛ける声に立ち止まり、振り返れば、そこにはシルヴェストの姿があった。
『……なんです?』
『そんなおっかない顔するなよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだって』
先ほどのやりとりでうんざりしていたせいか、自然と眉間に皺が寄ったが、シルヴェストは苦笑いするだけだった。
そうしてどこか苦しげな表情のまま、彼はおもむろに口を開いた。
『その、アドニス…えーっと……生まれたばかりの、アドニスは…今は、元気なのか?』
それは、思ってもみなかった一言だった。
自分は勿論、ルカーシュカも、そしてエルダも、驚愕から言葉を失い、短い沈黙が流れた。
『……ええ。まだ少し不安定ですが、元気ですよ』
一拍の沈黙の後、正直に答えれば、強張っていたシルヴェストの表情がホッと和らぎ、笑みの形に崩れた。
『そうか……良かった、って俺が言っていいのか分からんが、元気に過ごしてるなら良かったよ。引き止めて悪かったな』
そう言うと、シルヴェストは踵を返し、元来た道を帰っていった。
それだけ、たったそれだけだったが、彼の表情から、声から、アドニスの身を案じる気持ちが伝わってきて、胸が詰まった。
皆が『アドニス』という存在を疑う中で、シルヴェストだけが、純粋にあの子のことを案じてくれた。
衝撃にも似た出来事は、確かな喜びとして、記憶に刻まれた。
(だからこそ、彼なんですよね)
アドニスが他の者達との交流を望んだ時、三人同時に同じ人物を思い浮かべたのは、偶然ではなく必然だった。
今後、第三者の介入は免れない。ならばせめて、あの子にとって最良で最善となる相手を選びたい。言葉にせずとも、望むことは皆同じだ。
思えば、大天使アドニスとアドニスが別人だと分かる前から、シルヴェストの態度は他の者達と少し違っていた。
誰もが『アドニス』に対する憎悪を剥き出しにする中、彼だけは憐憫の情を残し、改心したのでは…という僅かな希望を抱いていた。
(…優しい男だ)
アドニスにとって害にならないという点においては、オリヴィア同様、安全な存在だろう。
ただ正直、だからこそアドニスの側に寄せることに対する不安もあるのだが、それを言い出したらキリがない。
僅かに残る不安は、彼の良心を信じる気持ちで打ち消した。
「…シルヴェストなら、恐らく問題ないでしょう。他の、細かい部分の取り決めは、バルドル様との話し合いが終わってからにしましょうか」
「ああ、そうしよう。…オリヴィアも、今日はありがとうな。色々と面倒を掛けるが、これからもよろしく頼む」
「お任せ下さい」
話し合いという名の報告会の終わりが見え、ふっと息を吐く。
少しずつ、だが確実に、アドニスの世界を広げるための準備が整っていく。
腹を括っても尚、気持ちは後ろ向きだが、アドニスの安全のため、己の精神の安寧のため、やれることは全部やろうと考えられるようにはなっていた。
(…アニーのためです)
愛しいあの子の笑顔のため、きっと永遠に消えることのない欲をそっと胸の内に隠すと、気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。
数日後、ルカーシュカ、エルダと共にバルドル神の元へと向かい、アドニスの願いと、これからの動向について報告した。
それと同時に、こちらからの要望である奥の宮への事前の立ち入り許可と、オリヴィアの能力を用いての情報共有を願えば、意外なほどすんなりとお許しがもらえた。
「お前達は本当に心配性だな」
そう言って苦笑するだけのバルドル神に拍子抜けしつつ、その傍らに立つオリヴィアにチラリと視線を流せば、彼が頷くように瞳を伏せた。
(…オリヴィアに感謝ですね)
バルドル神の私的空間である奥の宮に、緊急時のみとはいえ、都度の断りなく立ち入る許可など、そう簡単に頂けるはずがない。
恐らくは、オリヴィアからバルドル神へ、事前にある程度の話しが通っており、それとなく説得してくれたのだろう。
一番の難関であったバルドル神からの許可が下り、ホッと胸を撫で下ろすと、早くもアドニスとの再会を望む父への明確な返答を避け、その場を後にした。
「ひとまず、なんとかなったな」
宮廷の回廊を進みながら、隣を歩くルカーシュカが安堵の息を吐いた。
「そうですね。安心とは言い切れませんが、最大限のことはできたでしょう」
極端にバルドル神からアドニスを遠ざけるのは、かえって危ないという状況の中、アドニスの安全を確保しつつ、バルドル神と最適な距離感で交流してもらうための、最大限の予防線は張れた。
完全に安心できる訳ではないが、アドニスのひとまずの安全は保証されただろう。
「耳飾りの用意は?」
「もうできてる」
ルカーシュカ達と話し合い、アドニスに加護を付与した耳飾りを贈ることは決まっている。
反撃するようなものはアドニスが怖がる危険性があるため、防御一択になったが、腕輪との二重掛けの上、大天使二人分の守護結界だ。万が一、不測の事態が起こったとしても、相手を弾き飛ばすくらいはできるだろう。
「あとは、シルヴェストに話を通すだけですか…」
「それなんだが、アニーのことは伏せて呼び出さないか?」
「…アニーのことを伏せて、ですか?」
ルカーシュカからの不可解な提案に首を傾げる。
「まずは、アニーにシルヴェストの姿を見てもらうことが目的だからな。極論、アイツがアニーを視認する必要もないんだが、流石にそういう訳にもいかないだろう。だからと言って、アニーに会ってもらいたいから来てくれって頼むのも、本来の目的とは違うだろう?」
「…そうですね」
「正直に目的を話して、なんでそうなるって聞かれるのも面倒だしな。ひとまず呼び出して、アニーが一緒にいる空間で説明した方が話が早い」
「なるほど…」
ルカーシュカの言う通り、確かにその場で説明した方が話は早いだろう。ついでに言えば、先にアドニスの存在を伝えることで、妙に身構えられる心配もない。
アドニスにシルヴェストの為人を知ってもらうためにも、彼には自然体でいてもらいたいのだ。
「アイツのことだ。アニーの存在に気づいても、驚くだけで、過剰に反応することはないだろう。アニーが怖がる心配もない」
「…まぁ、シルヴェストならその心配はないでしょうね」
彼の性格なら、アドニスが同じ室内にいると知っても、騒ぐことはないだろう。いきなり近づくような迂闊な真似もしないだろうし、強く意識しすぎて、アドニスを怖がらせることもない。
きっと、アドニスがいることに純粋に驚いて、「大丈夫なのか?」とあの子の心配をするだけ…シルヴェストという大天使は、そういう男だ。
「エルダは、どう思いますか?」
ここまで一言も発せず、黙って歩いていたエルダに声を掛ければ、ハッとしたようにその肩が揺れた。
「……シルヴェスト様なら、アドニス様のご負担になるようなことはなさらないでしょうし、よろしいかと思います。万が一、予想外のことが起こったとしても、アドニス様は私がお守り致しますので、問題ございません」
「…あなたは、こちらに参加しないのですか?」
「はい。アドニス様のお側にいるのが、私の役目ですので」
「…エルダはエルダですね」
キッパリと言い切ったエルダに、肩を竦めつつも納得する。
今後、一時的とはいえ、エルダはオリヴィアにその大事な役目を奪われてしまう。今まで以上にアドニスの側を離れたくないと思うのは、当然のことなのだろう。
なによりもアドニスを優先するその思考と姿勢は、自分のそれとはまた異なった執着で、いっそ清々しいほどだ。
(…本当に、皆同じなんですよね)
瞬間、昨日から何度も感じた言葉にし難い感情が、胸の内でじわりと熱を帯びた。
愛し方も、愛情の伝え方も、求める愛情も三者三様で、けれどもアドニスを愛する気持ちも、愛しているからこそ抱く不安や焦燥も、ぴたりと重なるように皆同じ。それが、手に取るように分かる。
可愛いあの子に、溢れんばかりの愛情を。
優しいあの子に、抱えきれないほどの慈しみを。
もう二度と、悲しみの底で泣かせることがないように。
もう二度と、孤独の淵で寂しい思いをさせないように。
赤子達が集う暖かな陽だまりの中、真白いレースが揺れる柔らかな陽射しの中、小さな幸せと喜びを愛でるように笑うあの子を守り、愛したい。
その想いが『永遠』であることは、きっと皆一緒だ。
なればこそ、その想いを『誓い』に変えたいと願うのも、きっと自分だけではないはず───目に見えぬ共鳴が、確信へと変わるのは一瞬だった。
「イヴァニエ? どうした?」
真白い支柱が立ち並ぶ宮廷の回廊。
その端、自分達以外、誰もいない回廊の真ん中で足を止めれば、ルカーシュカとエルダも歩みを止め、こちらを振り返った。
自分を見つめる黒と翠の瞳。二人の瞳を見つめ返せば、その後ろ、長く続く回廊の正面に、光り輝くような純白の扉が見えた。
あの扉の向こう側で、アドニスが待っている。
そう思うだけで込み上げる多幸感に胸を膨らませながら、再び二人に焦点を合わせると、すぅっと息を吸った。
「───私は、アドニスを愛しています。この先もずっと、この想いが色褪せることはないでしょう」
突然の告白。にも関わらず、彼らは少しの戸惑いも見せなかった。
まるで、何を言われるのか分かっていたかのような反応に、目を細める。
自分がアドニスを愛し、愛されているように、彼らもまた、アドニスを愛し、愛されている。
そこには、他の者に向けるような鮮烈な嫉妬も、渇望もない。
ただアドニスに愛されているという自信と、彼らとなら、共にアドニスの隣に在れるという、絶対的な信頼だけがあった。
「誓いを。アニーの魂が命の湖に還るその日まで、共に生きようという誓いを、私の魂と共に、あの子に捧げたいです」
いつ頃からか、当たり前のように胸に宿り、熱望していた願い。
命が続く限り、共に生きよう。
命の湖に還るその時は、共に母なる大地に還ろう。
純粋に、ただそれだけを互いに願い、望むだけの、名も無き誓い。
叶うならば、これからアドニスの世界が広がっていくその前に、この想いを伝えたいと、そう強く思ったのだ。
「いつ言い出すかと思ってたが、ようやくか」
数秒の静寂の後、回廊に響いたのは、ひどく穏やかな声だった。
「……その言い方だと、私が言い出すのを待っていたように聞こえるんですが?」
「ああ、待ってたぞ」
実にあっけらかんとした返答と反応に、パチリと目を瞬く。それと同時に、うっすらと漂っていた緊張感が一瞬で霧散した。
「待っていたというより、我慢ができなくなって言い出すのは、イヴァニエだろうなと思ってたよ」
そう言って、どこか楽しげに笑うルカーシュカと、いつもと変わらぬ表情のまま、コクリと頷くエルダ。
その姿があまりにも普段と変わらないことに、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
「安心しな。俺も、エルダも、一緒だよ」
何が、と言われずとも分かる。
自分が言葉にした告白全て、丸ごと全部、『一緒』なのだろう。
それが当然のことであるかのように、凛と張ったルカーシュカの声と、一片の迷いもないエルダの眼差し。その音と色に、心底安堵している自分がいた。
「まぁ、まずはアニーにちゃんと話しをして、俺達の気持ちを知ってもらうところから始めないとだけどな」
「…ええ、勿論です」
向きを変え、再び歩き出したルカーシュカとエルダの後を、半歩遅れるようについていく。
向かう先、アドニスの部屋の扉を見つめながら、じわじわと頬が緩むのを抑えられず、柔く唇を喰んだ。
(…不思議なものですね)
愛した唯一からの愛情を、独占することはできない。でも今は、不思議とそれが嫌ではない。
自分だけがアドニスの唯一になることはできないけれど、三人でなら、アドニスの唯一になれる。
そんな安心感にも似た一体感が、今はとても心地良く、どうしてか無性に嬉しかった。
いつか訪れる最期の日。その日までずっと、彼らと共に、アドニスの隣にいるのだろう───思い描いた未来は今日と変わらず、驚くほど鮮明で、温かな光景だった。
明るく朗らかで、快活とした彼だが、その性格は非常に穏やかだ。
繊細で大人しい性格のアドニスでも、あまり緊張せずに話せる相手だろう、とアドニスの初めての話し相手に選んだ。
「なるほど。シルヴェスト様がお相手であれば、アドニス様もそれほど緊張せずにお話しできるかもしれませんね」
彼のおおらかな性格は、皆が知っていることだ。オリヴィアも『納得』という表情で頷いた。
(まぁ、性格だけで彼を選んだのではないですけどね)
勿論、アドニスのことを考え、一番負担にならない相手を選んだが、それ以上に、シルヴェストを選んだのには理由があった。
大天使アドニスの葬斂の儀が行われたあの日、同時に新たな魂として生まれたアドニスのことも、皆の知るところとなった。
あの時、ほとんどの者はアドニスの存在に対して懐疑的であり、バルドル神が広間を去った後、詰め寄るように自分達の元へと集まってきた。
『本当にアドニスは死んでしまったのか?』
『新たな魂に生まれ変わったというが、本当なのか?』
『どうやってそれを知ったのか?』
『アドニスに騙されているんじゃないのか?』
矢継ぎ早に飛んできたそんな質問に、心底げんなりした。
彼らの疑念はもっともだ。例えバルドル神からの言だったとしても、肉体はそのままに、魂だけが入れ替わるように生まれたなど、到底信じられるものではないだろう。
もしも自分が彼らの立場なら、同じように詰め寄っていたかもしれない。
だが、アドニスという美しくも愛らしい存在を知った今、彼らのそんな態度はあの子を否定しているように見えて、顔を顰めずにはいられなかった。
バルドル神の言葉に間違いはなく、すべて事実だと告げると、まだ何か聞きたそうにする者達から逃げるように、三人で広間を出た。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、アドニスの元へ向かうため、足早に回廊を進めば、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
『ちょっと、待ってくれ!』
呼び掛ける声に立ち止まり、振り返れば、そこにはシルヴェストの姿があった。
『……なんです?』
『そんなおっかない顔するなよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだって』
先ほどのやりとりでうんざりしていたせいか、自然と眉間に皺が寄ったが、シルヴェストは苦笑いするだけだった。
そうしてどこか苦しげな表情のまま、彼はおもむろに口を開いた。
『その、アドニス…えーっと……生まれたばかりの、アドニスは…今は、元気なのか?』
それは、思ってもみなかった一言だった。
自分は勿論、ルカーシュカも、そしてエルダも、驚愕から言葉を失い、短い沈黙が流れた。
『……ええ。まだ少し不安定ですが、元気ですよ』
一拍の沈黙の後、正直に答えれば、強張っていたシルヴェストの表情がホッと和らぎ、笑みの形に崩れた。
『そうか……良かった、って俺が言っていいのか分からんが、元気に過ごしてるなら良かったよ。引き止めて悪かったな』
そう言うと、シルヴェストは踵を返し、元来た道を帰っていった。
それだけ、たったそれだけだったが、彼の表情から、声から、アドニスの身を案じる気持ちが伝わってきて、胸が詰まった。
皆が『アドニス』という存在を疑う中で、シルヴェストだけが、純粋にあの子のことを案じてくれた。
衝撃にも似た出来事は、確かな喜びとして、記憶に刻まれた。
(だからこそ、彼なんですよね)
アドニスが他の者達との交流を望んだ時、三人同時に同じ人物を思い浮かべたのは、偶然ではなく必然だった。
今後、第三者の介入は免れない。ならばせめて、あの子にとって最良で最善となる相手を選びたい。言葉にせずとも、望むことは皆同じだ。
思えば、大天使アドニスとアドニスが別人だと分かる前から、シルヴェストの態度は他の者達と少し違っていた。
誰もが『アドニス』に対する憎悪を剥き出しにする中、彼だけは憐憫の情を残し、改心したのでは…という僅かな希望を抱いていた。
(…優しい男だ)
アドニスにとって害にならないという点においては、オリヴィア同様、安全な存在だろう。
ただ正直、だからこそアドニスの側に寄せることに対する不安もあるのだが、それを言い出したらキリがない。
僅かに残る不安は、彼の良心を信じる気持ちで打ち消した。
「…シルヴェストなら、恐らく問題ないでしょう。他の、細かい部分の取り決めは、バルドル様との話し合いが終わってからにしましょうか」
「ああ、そうしよう。…オリヴィアも、今日はありがとうな。色々と面倒を掛けるが、これからもよろしく頼む」
「お任せ下さい」
話し合いという名の報告会の終わりが見え、ふっと息を吐く。
少しずつ、だが確実に、アドニスの世界を広げるための準備が整っていく。
腹を括っても尚、気持ちは後ろ向きだが、アドニスの安全のため、己の精神の安寧のため、やれることは全部やろうと考えられるようにはなっていた。
(…アニーのためです)
愛しいあの子の笑顔のため、きっと永遠に消えることのない欲をそっと胸の内に隠すと、気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。
数日後、ルカーシュカ、エルダと共にバルドル神の元へと向かい、アドニスの願いと、これからの動向について報告した。
それと同時に、こちらからの要望である奥の宮への事前の立ち入り許可と、オリヴィアの能力を用いての情報共有を願えば、意外なほどすんなりとお許しがもらえた。
「お前達は本当に心配性だな」
そう言って苦笑するだけのバルドル神に拍子抜けしつつ、その傍らに立つオリヴィアにチラリと視線を流せば、彼が頷くように瞳を伏せた。
(…オリヴィアに感謝ですね)
バルドル神の私的空間である奥の宮に、緊急時のみとはいえ、都度の断りなく立ち入る許可など、そう簡単に頂けるはずがない。
恐らくは、オリヴィアからバルドル神へ、事前にある程度の話しが通っており、それとなく説得してくれたのだろう。
一番の難関であったバルドル神からの許可が下り、ホッと胸を撫で下ろすと、早くもアドニスとの再会を望む父への明確な返答を避け、その場を後にした。
「ひとまず、なんとかなったな」
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「…そうですね」
「正直に目的を話して、なんでそうなるって聞かれるのも面倒だしな。ひとまず呼び出して、アニーが一緒にいる空間で説明した方が話が早い」
「なるほど…」
ルカーシュカの言う通り、確かにその場で説明した方が話は早いだろう。ついでに言えば、先にアドニスの存在を伝えることで、妙に身構えられる心配もない。
アドニスにシルヴェストの為人を知ってもらうためにも、彼には自然体でいてもらいたいのだ。
「アイツのことだ。アニーの存在に気づいても、驚くだけで、過剰に反応することはないだろう。アニーが怖がる心配もない」
「…まぁ、シルヴェストならその心配はないでしょうね」
彼の性格なら、アドニスが同じ室内にいると知っても、騒ぐことはないだろう。いきなり近づくような迂闊な真似もしないだろうし、強く意識しすぎて、アドニスを怖がらせることもない。
きっと、アドニスがいることに純粋に驚いて、「大丈夫なのか?」とあの子の心配をするだけ…シルヴェストという大天使は、そういう男だ。
「エルダは、どう思いますか?」
ここまで一言も発せず、黙って歩いていたエルダに声を掛ければ、ハッとしたようにその肩が揺れた。
「……シルヴェスト様なら、アドニス様のご負担になるようなことはなさらないでしょうし、よろしいかと思います。万が一、予想外のことが起こったとしても、アドニス様は私がお守り致しますので、問題ございません」
「…あなたは、こちらに参加しないのですか?」
「はい。アドニス様のお側にいるのが、私の役目ですので」
「…エルダはエルダですね」
キッパリと言い切ったエルダに、肩を竦めつつも納得する。
今後、一時的とはいえ、エルダはオリヴィアにその大事な役目を奪われてしまう。今まで以上にアドニスの側を離れたくないと思うのは、当然のことなのだろう。
なによりもアドニスを優先するその思考と姿勢は、自分のそれとはまた異なった執着で、いっそ清々しいほどだ。
(…本当に、皆同じなんですよね)
瞬間、昨日から何度も感じた言葉にし難い感情が、胸の内でじわりと熱を帯びた。
愛し方も、愛情の伝え方も、求める愛情も三者三様で、けれどもアドニスを愛する気持ちも、愛しているからこそ抱く不安や焦燥も、ぴたりと重なるように皆同じ。それが、手に取るように分かる。
可愛いあの子に、溢れんばかりの愛情を。
優しいあの子に、抱えきれないほどの慈しみを。
もう二度と、悲しみの底で泣かせることがないように。
もう二度と、孤独の淵で寂しい思いをさせないように。
赤子達が集う暖かな陽だまりの中、真白いレースが揺れる柔らかな陽射しの中、小さな幸せと喜びを愛でるように笑うあの子を守り、愛したい。
その想いが『永遠』であることは、きっと皆一緒だ。
なればこそ、その想いを『誓い』に変えたいと願うのも、きっと自分だけではないはず───目に見えぬ共鳴が、確信へと変わるのは一瞬だった。
「イヴァニエ? どうした?」
真白い支柱が立ち並ぶ宮廷の回廊。
その端、自分達以外、誰もいない回廊の真ん中で足を止めれば、ルカーシュカとエルダも歩みを止め、こちらを振り返った。
自分を見つめる黒と翠の瞳。二人の瞳を見つめ返せば、その後ろ、長く続く回廊の正面に、光り輝くような純白の扉が見えた。
あの扉の向こう側で、アドニスが待っている。
そう思うだけで込み上げる多幸感に胸を膨らませながら、再び二人に焦点を合わせると、すぅっと息を吸った。
「───私は、アドニスを愛しています。この先もずっと、この想いが色褪せることはないでしょう」
突然の告白。にも関わらず、彼らは少しの戸惑いも見せなかった。
まるで、何を言われるのか分かっていたかのような反応に、目を細める。
自分がアドニスを愛し、愛されているように、彼らもまた、アドニスを愛し、愛されている。
そこには、他の者に向けるような鮮烈な嫉妬も、渇望もない。
ただアドニスに愛されているという自信と、彼らとなら、共にアドニスの隣に在れるという、絶対的な信頼だけがあった。
「誓いを。アニーの魂が命の湖に還るその日まで、共に生きようという誓いを、私の魂と共に、あの子に捧げたいです」
いつ頃からか、当たり前のように胸に宿り、熱望していた願い。
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純粋に、ただそれだけを互いに願い、望むだけの、名も無き誓い。
叶うならば、これからアドニスの世界が広がっていくその前に、この想いを伝えたいと、そう強く思ったのだ。
「いつ言い出すかと思ってたが、ようやくか」
数秒の静寂の後、回廊に響いたのは、ひどく穏やかな声だった。
「……その言い方だと、私が言い出すのを待っていたように聞こえるんですが?」
「ああ、待ってたぞ」
実にあっけらかんとした返答と反応に、パチリと目を瞬く。それと同時に、うっすらと漂っていた緊張感が一瞬で霧散した。
「待っていたというより、我慢ができなくなって言い出すのは、イヴァニエだろうなと思ってたよ」
そう言って、どこか楽しげに笑うルカーシュカと、いつもと変わらぬ表情のまま、コクリと頷くエルダ。
その姿があまりにも普段と変わらないことに、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
「安心しな。俺も、エルダも、一緒だよ」
何が、と言われずとも分かる。
自分が言葉にした告白全て、丸ごと全部、『一緒』なのだろう。
それが当然のことであるかのように、凛と張ったルカーシュカの声と、一片の迷いもないエルダの眼差し。その音と色に、心底安堵している自分がいた。
「まぁ、まずはアニーにちゃんと話しをして、俺達の気持ちを知ってもらうところから始めないとだけどな」
「…ええ、勿論です」
向きを変え、再び歩き出したルカーシュカとエルダの後を、半歩遅れるようについていく。
向かう先、アドニスの部屋の扉を見つめながら、じわじわと頬が緩むのを抑えられず、柔く唇を喰んだ。
(…不思議なものですね)
愛した唯一からの愛情を、独占することはできない。でも今は、不思議とそれが嫌ではない。
自分だけがアドニスの唯一になることはできないけれど、三人でなら、アドニスの唯一になれる。
そんな安心感にも似た一体感が、今はとても心地良く、どうしてか無性に嬉しかった。
いつか訪れる最期の日。その日までずっと、彼らと共に、アドニスの隣にいるのだろう───思い描いた未来は今日と変わらず、驚くほど鮮明で、温かな光景だった。
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『もっと早く出会いたかった』という嬉しいお言葉をありがとうございます‼️
アドニスくんが大好きで、隙あらば絵を描いてしまうのですが、じっくり愛でて頂き嬉しい限りです🥰
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四葩さん、お久しぶりです!コメントありがとうございます(*´◒`*)
カロンくんは危険視はされてませんが、最初の出会いが良くなかったですね笑
アドニスくんですから!いきなり大人数と対面なんてしたら気絶しちゃいますから!恋人同伴は絶対事項です!🤗
アドニスくんも彼氏達も、お互いが納得して、良い感じのところに丸く収まりました(о´∀`о)
当方へのお心遣いもありがとうございます🥰
体調管理に気をつけながら、続きも楽しんで頂けるように執筆していきたいと思います!
お久しぶりです(*´ `*)
東雲さんはお元気ですか?
体調が悪くても、更新が遅れても、感想を書いた方には、必ずコメントを返してくれる東雲さん…
その返信コメントがない事に、かなり心配してます:( ;˙꒳˙;):
大丈夫ですか?
また、楽しく執筆できる時まで、気長に♪̊̈♪̆̈
待っています。
お身体、ご自愛ください。
La+さん、お久しぶりです!コメントありがとうございます!(*´◒`*)お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ございません💦
更新も何もかも止まってしまっている中、当方のご心配をしてくださり、本当に本当にありがとうございます…!!
ご心配して頂けることのなんと有り難いことだろうと、嬉しくて涙が出そうです🥲
お恥ずかしいことに色々とガタがきてしまい、お返事を書くことすらできなくなっておりましたが、少しずつ回復して参りまして、こうして浮上できるようになりました!
本調子とは言い難い状態ですが、ゆっくりペースでも執筆をしていけるように、頑張っていきたいと思います!💪✨
温かいお言葉とお気持ちをありがとうございました!🥰