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プティ・フレールの愛し子
116.誓いと望み(前)
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「以上が、奥の宮での仔細となります」
静かな部屋の中、淡々と語っていた少年の声が途切れるのと同時に、複数の溜め息の音が重なった。
「…ありがとうございます、オリヴィア。よく、アニーを守ってくれました」
「いえ、私は何もしておりませんので…」
「いや、何もしてくれなかったおかげで、アニーは安全にバルドル様に甘えられたし、バルドル様のお気持ちも満たせた。…オリヴィアに任せて良かったよ」
「恐れ入ります」
浅く頭を下げるオリヴィアに、ルカーシュカはソファーに深く凭れ掛かり、エルダは険しい顔のまま俯いた。
自分はと言えば、顔を隠すように額を押さえたまま、面を上げることができなかった。
アドニスと無事仲直りができた翌日、ルカーシュカ、エルダ、オリヴィアを自身の宮に招き、今後についての話し合いの場を設けた。それと同時に、オリヴィアからは奥の宮でバルドル神とアドニスがどのように過ごし、何を話したか、報告を受けることになった。
アドニス本人からも話は聞いてはいたが、第三者視点で見たこと、感じたこと、二人の様子について、オリヴィアから聞く必要があったのだ。
そうして始まった報告会は、時間が経つほどに静かになっていった。
オリヴィアから見たバルドル神とアドニスは、父子として非常に仲睦まじく、互いに相手への深い愛情と親しみを持って過ごしていたという。
その点については、二人の関係とアドニスの生い立ちを思えばこそ、絆を深められたのは良いことだと、素直にそう思えた。
奥の宮に着いてから、どのような流れで、何をして過ごし、どんな話しをしたか、その内容もアドニスから聞いていた話と一致しており、そちらについても問題はなかった。
正直に言えば、奥の宮への自由な出入りや、大天使達との交流について、色々と言いたい気持ちはあったが、オリヴィアの話しを聞き、そんな気持ちも萎んでしまった。
『バルドル様にとって、アドニス様はプティと変わらぬ存在なのです。純天使として母提樹から生まれていたならば、本来受け取るべきだった自由や愛情…それらを今からでも与えたいというお気持ちがお強いのだと思います』
あくまでも父として我が子を想い、これまで注げなかった愛情を与えたいと願うバルドル神のことを考えると、何も言えなくなってしまう。
それほどまでに、アドニスの生い立ちは痛々しいものだった。
(…あの日の内に、聞いておきたかったですね)
オリヴィアの報告を聞きながら、ついそんな考えが浮かび、グッと奥歯を噛んだ。
(いや、誰かのせいにするのは間違ってますね)
分かっている。責任転嫁などしようもないほど、悪かったのは自分だと、分かっているのだ。
「はぁ…」
ズシリと重くなった胸に、溜め息が零れる。
じくじくと疼くように痛むのは、二日前にしでかしてしまった己の失態に対する、どうしようもない自己嫌悪と後悔だった。
アドニスの意識が外に向かうことも、他の大天使達との交流を望むことも、いつか訪れる未来として、覚悟はしていた。いや、正確に言うなら、覚悟云々の話ですらなかった。
今は亡き大天使アドニスとアドニスが別人であり、別の魂であると分かった時点で、あの子の自由を奪う理由も、小さな部屋の中に閉じ込めておく理由も無くなった。
歪な誕生により、強制的に奪われてしまった自由───アドニスの魂が、別個体だと分かった時点で、それが本来あるべき形に戻るのは、至極当然のことだったのだ。
離れたくないから、寂しいから、他の者達の目に触れさせたくないから…そんな自分勝手な理由で引き留めることも、嫌がることも間違っていると、ずっとずっと、分かっていた。
それでも、そうと分かっていても、頭では理解していても、感情まではどうしようもできなかった。
アドニスの意識が、他の者に向かうのが嫌だった。
他の誰かがアドニスを想うのも嫌だった。
アドニスの世界が広がるほど、共に過ごす時間が減り、心も体も離れていくようで嫌だった。
可愛いあの子が、誰かに笑い掛けるのを想像するだけで、親しみを込めて名を呼ぶことを考えただけで、嫌で嫌で堪らなかった。
ずっとずっと、自分達だけの、自分だけの愛しい子でいてほしい───みっともないほどの独占欲と、暗く淀んだ泥のような嫉妬にまみれた恋情は、『アドニスを守る』という大義名分を盾に、アドニスを外の世界に出すことを拒み、あの子の願いを否定した。
その末に待っていたのは、生きることに恐怖を覚えるほどの自責の念と後悔だった。
ルカーシュカに連れられ、部屋を出て行ったアドニス。
自身の発した言葉で深く傷つけてしまったその姿を見ているだけで辛くて、声を聞くだけで苦しくて、名を呼ぶ声に返事をすることすらできなかった。
バルドル神を想うアドニスを責めるような物言いをしてしまった瞬間の、悲痛な金色が脳に焼き付いて離れない。
後悔ばかりが胸の内を占める中、それでもアドニスの影を追いかけるように部屋の外の音を拾えば、直後に幼な子のような泣き声が耳に届いた。
『ああぁぁ…っ!』
「っ…!」
心臓を抉るような、悲痛な泣き声。
その声音に一瞬で耐えられなくなり、音を拾うように広げていた聖気を断ち切った。と同時に、信じられないほどの恐怖に襲われ、心音は狂ったように脈打ち、呼吸は乱れた。
自分勝手な我が儘で、アドニスを傷つけてしまった。
一方的な言葉を投げつけて、怖がらせてしまった。
突き放すような態度で、泣かせてしまった。
───あの子に、アニーに、嫌われてしまったかもしれない。
「───ッ!!」
瞬間、息を吸うことも、吐くことも忘れた。
心臓を穿つように広がった絶望は、『死』に等しかった。
なんて愚かなことをしてしまったのか、なぜアドニスを責めるようなことを言ってしまったのか───冷静になった頭でいくら後悔しても、既に過去になってしまった時間を巻き戻せるはずもなく、悔恨と恐怖だけが膨らんでいった。
(ああ……アニー…アニー…ッ! 私は、なんてことを…!!)
目が醒めた、だなんて生易しいものじゃない。
ただただ自分のしでかしてしまったことが恐ろしくて、許せなくて、自分自身への怒りで頭がどうにかなりそうだった。
今すぐにでもアドニスの後を追って、己の愚行を謝りたい…そう思うのに、今の自分にはその資格すら無いように思えて、更に恐怖が加速した。
アドニスを泣かせてしまったという後悔と、恋焦がれる想いが、誰よりも大切な存在を傷つけてしまったというショック。
恐慌と狂乱の境目で、愛しいあの子に嫌われたら、もう生きていけない、と本気で命の湖に還ってしまいたいと願った。
「あの子は、自分を泣かせた男のことを心配して泣くような、優しい子だからな」
そんな中で耳に届いた信じられない言葉に、靄が掛かったように淀んでいた思考が、サァッと覚めていくのが分かった。
どうして、何故、最低なことをしたのに、心配なんて───動揺し、困惑する反面、僅かに芽生えた希望に、グラリと揺れるように気持ちが浮ついた。
「それは、どういう…」
「それより、俺達に対して何か言うことがあるんじゃないか?」
「ッ…」
が、そんな甘さを見透かすように、静かな怒りを含んだルカーシュカの声が響き、一瞬だけ浮き立った気持ちはすぐに冷静さを取り戻す。
アドニスを泣かせた自分に対して、ルカーシュカが憤るのは当然だ。
その怒りが分かるからこそ、己の愚行を理解しているからこそ、押し潰されてしまいそうなほどの後悔は、言葉になって口から零れた。
「……私の身勝手な行動で、アニーを泣かせ、あなた達にも不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。本当に、心から、後悔しています。…二度と、アニーを傷つけるようなことも、調和を乱し、不安にさせるようなこともしないと誓います」
「俺達じゃなく、アニーに誓えるか?」
「はい」
「アニーを泣かせたこと、忘れるなよ」
「…はい」
「……二度目はないと思え」
心の底から告げた懺悔に対して返ってきたのは、戒めるような声音と、穏やかに凪いだ黒水晶の眼差しだった。
その後、ルカーシュカからは叱責され、エルダからは責めるように見つめられたが、二人とも、アドニスを泣かせたことに対して怒りはすれど、蔑んだりはしなかった。
勿論、アドニスがどれだけ泣き、傷ついたか、延々と語られる内容に、何度も胸を刺され、途切れることのない後悔が押し寄せたが、それが自分に与えられた罰だと思い、耐えた。
その上で、ルカーシュカが去り際に残した「明日はちゃんと来いよ」という言葉。
その一言に隠された『アニーが待ってる』という意味に、ドクリと胸が鳴った。
(……どうして…)
アドニスに会いたい、謝りたい、抱き締めたい───そう願ってやまないのに、もしもまた怯えさせてしまったらと思うと恐ろしくて、生きた心地がしなかった。
(……アニー…)
もしも、嫌われてしまったとしても、自業自得だと理解していた。
ただせめて、愛しいあの子の心に憂いを残すことがないように、どうか己の愚行で、これ以上アドニスを泣かせてしまうことがないようにと、真っ暗な部屋の中、ただひたすらに祈り続けた。
祈って、祈って、祈って、そうして一睡もできぬままに迎えた朝は、長く生きてきた中で一番陰鬱とした夜明けだった。
アドニスに会いたいのに、会いたくない。
そんな矛盾した思いを胸に抱いたまま、それでも体は本能と欲に忠実に、宮廷にあるアドニスの部屋に向かった。
しかし、いざ部屋の前まで来ると、アドニスの視界に入ることすら罪な気がして、ドアノブに手を掛けることもできなかった。
扉一枚隔てた向こう側に、アドニスがいると思うだけで、心臓がドクドクと痛いほど脈打ち、緊張と恐怖、不安で吐く息が震えた。
立ち尽くしたまま、その場から一歩も動けず、かと言って離れることもできず、逃げるように扉に背を向けた。
そのまま怯える心臓を宥めていると、ふと背後で扉が開く音がした。
ああ、きっとなかなか入ってこないことに焦れて、エルダが開けてくれたのだろう…情けなくて、振り向くこともできなかった。
「ッ…、イヴ…!!」
刹那、耳に届いた声に、弾かれたように振り返れば、そこには今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめるアドニスがいた。
「ア───」
「ごめんなさい!!」
直後、胸の中に飛び込んできた腕に馴染む温もりと謝罪の言葉に、息が止まった。
「ごめんなさい…! イヴが、いっぱい心配してくれたのに…っ、否定すること、ばっかり言って…、ごめんなさい…!」
「嫌なこと、いっぱい、言わせちゃって…っ、ごめんなさい…! いっぱい…、不安にさせて、心配、させて…っ、ごめんなさい…っ」
(……どうして…)
悪いのは自分だ。
自分勝手な欲を押し付けて、アドニスの自由を奪おうとした。
それなのに、泣きながら謝り続けるアドニスに、頭の中が真っ白になった。
「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」
空っぽになった頭の中、響いたアドニスの声に、言葉に、胸の臓器がドクリと鼓動する。
「ごめんなさぃ…っ、大好きだから…っ、…ッ、嫌いにならないでぇ…!」
「…ッ!!」
ああ、貴方はどうしてそんなに───!!
瞬間的に体内を突き抜けた激情に、血肉は滾り、反射的に叫んでいた。
「嫌いになる訳がないでしょうっ!!」
熱い血が心臓から全身に巡るように、言葉にし難い安堵が波となって押し寄せ、力の抜けた体は足から崩れ落ちた。
「ごめんなさい! 私の我が儘でアニーを怖がらせて、困らせてごめんなさい…! 悲しい思いをさせて、本当に本当に、ごめんなさい…!」
誰よりも愛しく、なによりも大切なたった一人を、自ら傷つけ、悲しませ、泣かせてしまったことを、心の底から悔いた。
嫌われてしまっても自業自得だと己を詰りながら、アドニスに嫌われたらもう生きていけないと、死に等しい絶望を味わった。
会いたくて、謝りたくて、声が聞きたくて、そう願ってやまないのに、会うのが怖くて怖くて堪らなかった。
「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」
それなのに、どうしてこの子はこんなにも清く、美しく、無垢なのだろう。
どうして、『ありがとう』などと言えるのだろう。
怒りもせず、怯えもせず、ただ『大好き』と全身で訴える姿が愛しくて、嬉しくて、苦しくて、溢れんばかりの熱に、じわりと視界が滲んだ。
「……私も、愛しています、アニー」
謝罪の言葉を封じられた中、再び愛を伝えられる幸福を噛み締めながら、瞼を閉じる。
(もう二度と…)
愚かな欲と我が儘で、貴方を泣かせたりしない───強く抱き締め合った腕の中、何度も何度も自分の名を呼ぶ泣き声を脳に焼き付けながら、今一度の誓いを立てた。
--------------------
ご無沙汰しております。東雲です。
大っっっ変長らくお待たせ致しました!諸々の事情によりなかなか筆が進まず、まさかの三ヶ月更新ストップで本当に申し訳ございませんでした…!
万全とはなかなか言い難い状態ではございますが、少しずつペースを戻せるよう、努めていきたいと思います!(毎回言っている気が…)
また更新が止まってしまっている間も、感想やエールを送ってくださいまして、本当にありがとうございました!
喜びと嬉しみを糧に、これからも頑張って書いていきたいと思います!(*´◒`*)
東雲
静かな部屋の中、淡々と語っていた少年の声が途切れるのと同時に、複数の溜め息の音が重なった。
「…ありがとうございます、オリヴィア。よく、アニーを守ってくれました」
「いえ、私は何もしておりませんので…」
「いや、何もしてくれなかったおかげで、アニーは安全にバルドル様に甘えられたし、バルドル様のお気持ちも満たせた。…オリヴィアに任せて良かったよ」
「恐れ入ります」
浅く頭を下げるオリヴィアに、ルカーシュカはソファーに深く凭れ掛かり、エルダは険しい顔のまま俯いた。
自分はと言えば、顔を隠すように額を押さえたまま、面を上げることができなかった。
アドニスと無事仲直りができた翌日、ルカーシュカ、エルダ、オリヴィアを自身の宮に招き、今後についての話し合いの場を設けた。それと同時に、オリヴィアからは奥の宮でバルドル神とアドニスがどのように過ごし、何を話したか、報告を受けることになった。
アドニス本人からも話は聞いてはいたが、第三者視点で見たこと、感じたこと、二人の様子について、オリヴィアから聞く必要があったのだ。
そうして始まった報告会は、時間が経つほどに静かになっていった。
オリヴィアから見たバルドル神とアドニスは、父子として非常に仲睦まじく、互いに相手への深い愛情と親しみを持って過ごしていたという。
その点については、二人の関係とアドニスの生い立ちを思えばこそ、絆を深められたのは良いことだと、素直にそう思えた。
奥の宮に着いてから、どのような流れで、何をして過ごし、どんな話しをしたか、その内容もアドニスから聞いていた話と一致しており、そちらについても問題はなかった。
正直に言えば、奥の宮への自由な出入りや、大天使達との交流について、色々と言いたい気持ちはあったが、オリヴィアの話しを聞き、そんな気持ちも萎んでしまった。
『バルドル様にとって、アドニス様はプティと変わらぬ存在なのです。純天使として母提樹から生まれていたならば、本来受け取るべきだった自由や愛情…それらを今からでも与えたいというお気持ちがお強いのだと思います』
あくまでも父として我が子を想い、これまで注げなかった愛情を与えたいと願うバルドル神のことを考えると、何も言えなくなってしまう。
それほどまでに、アドニスの生い立ちは痛々しいものだった。
(…あの日の内に、聞いておきたかったですね)
オリヴィアの報告を聞きながら、ついそんな考えが浮かび、グッと奥歯を噛んだ。
(いや、誰かのせいにするのは間違ってますね)
分かっている。責任転嫁などしようもないほど、悪かったのは自分だと、分かっているのだ。
「はぁ…」
ズシリと重くなった胸に、溜め息が零れる。
じくじくと疼くように痛むのは、二日前にしでかしてしまった己の失態に対する、どうしようもない自己嫌悪と後悔だった。
アドニスの意識が外に向かうことも、他の大天使達との交流を望むことも、いつか訪れる未来として、覚悟はしていた。いや、正確に言うなら、覚悟云々の話ですらなかった。
今は亡き大天使アドニスとアドニスが別人であり、別の魂であると分かった時点で、あの子の自由を奪う理由も、小さな部屋の中に閉じ込めておく理由も無くなった。
歪な誕生により、強制的に奪われてしまった自由───アドニスの魂が、別個体だと分かった時点で、それが本来あるべき形に戻るのは、至極当然のことだったのだ。
離れたくないから、寂しいから、他の者達の目に触れさせたくないから…そんな自分勝手な理由で引き留めることも、嫌がることも間違っていると、ずっとずっと、分かっていた。
それでも、そうと分かっていても、頭では理解していても、感情まではどうしようもできなかった。
アドニスの意識が、他の者に向かうのが嫌だった。
他の誰かがアドニスを想うのも嫌だった。
アドニスの世界が広がるほど、共に過ごす時間が減り、心も体も離れていくようで嫌だった。
可愛いあの子が、誰かに笑い掛けるのを想像するだけで、親しみを込めて名を呼ぶことを考えただけで、嫌で嫌で堪らなかった。
ずっとずっと、自分達だけの、自分だけの愛しい子でいてほしい───みっともないほどの独占欲と、暗く淀んだ泥のような嫉妬にまみれた恋情は、『アドニスを守る』という大義名分を盾に、アドニスを外の世界に出すことを拒み、あの子の願いを否定した。
その末に待っていたのは、生きることに恐怖を覚えるほどの自責の念と後悔だった。
ルカーシュカに連れられ、部屋を出て行ったアドニス。
自身の発した言葉で深く傷つけてしまったその姿を見ているだけで辛くて、声を聞くだけで苦しくて、名を呼ぶ声に返事をすることすらできなかった。
バルドル神を想うアドニスを責めるような物言いをしてしまった瞬間の、悲痛な金色が脳に焼き付いて離れない。
後悔ばかりが胸の内を占める中、それでもアドニスの影を追いかけるように部屋の外の音を拾えば、直後に幼な子のような泣き声が耳に届いた。
『ああぁぁ…っ!』
「っ…!」
心臓を抉るような、悲痛な泣き声。
その声音に一瞬で耐えられなくなり、音を拾うように広げていた聖気を断ち切った。と同時に、信じられないほどの恐怖に襲われ、心音は狂ったように脈打ち、呼吸は乱れた。
自分勝手な我が儘で、アドニスを傷つけてしまった。
一方的な言葉を投げつけて、怖がらせてしまった。
突き放すような態度で、泣かせてしまった。
───あの子に、アニーに、嫌われてしまったかもしれない。
「───ッ!!」
瞬間、息を吸うことも、吐くことも忘れた。
心臓を穿つように広がった絶望は、『死』に等しかった。
なんて愚かなことをしてしまったのか、なぜアドニスを責めるようなことを言ってしまったのか───冷静になった頭でいくら後悔しても、既に過去になってしまった時間を巻き戻せるはずもなく、悔恨と恐怖だけが膨らんでいった。
(ああ……アニー…アニー…ッ! 私は、なんてことを…!!)
目が醒めた、だなんて生易しいものじゃない。
ただただ自分のしでかしてしまったことが恐ろしくて、許せなくて、自分自身への怒りで頭がどうにかなりそうだった。
今すぐにでもアドニスの後を追って、己の愚行を謝りたい…そう思うのに、今の自分にはその資格すら無いように思えて、更に恐怖が加速した。
アドニスを泣かせてしまったという後悔と、恋焦がれる想いが、誰よりも大切な存在を傷つけてしまったというショック。
恐慌と狂乱の境目で、愛しいあの子に嫌われたら、もう生きていけない、と本気で命の湖に還ってしまいたいと願った。
「あの子は、自分を泣かせた男のことを心配して泣くような、優しい子だからな」
そんな中で耳に届いた信じられない言葉に、靄が掛かったように淀んでいた思考が、サァッと覚めていくのが分かった。
どうして、何故、最低なことをしたのに、心配なんて───動揺し、困惑する反面、僅かに芽生えた希望に、グラリと揺れるように気持ちが浮ついた。
「それは、どういう…」
「それより、俺達に対して何か言うことがあるんじゃないか?」
「ッ…」
が、そんな甘さを見透かすように、静かな怒りを含んだルカーシュカの声が響き、一瞬だけ浮き立った気持ちはすぐに冷静さを取り戻す。
アドニスを泣かせた自分に対して、ルカーシュカが憤るのは当然だ。
その怒りが分かるからこそ、己の愚行を理解しているからこそ、押し潰されてしまいそうなほどの後悔は、言葉になって口から零れた。
「……私の身勝手な行動で、アニーを泣かせ、あなた達にも不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。本当に、心から、後悔しています。…二度と、アニーを傷つけるようなことも、調和を乱し、不安にさせるようなこともしないと誓います」
「俺達じゃなく、アニーに誓えるか?」
「はい」
「アニーを泣かせたこと、忘れるなよ」
「…はい」
「……二度目はないと思え」
心の底から告げた懺悔に対して返ってきたのは、戒めるような声音と、穏やかに凪いだ黒水晶の眼差しだった。
その後、ルカーシュカからは叱責され、エルダからは責めるように見つめられたが、二人とも、アドニスを泣かせたことに対して怒りはすれど、蔑んだりはしなかった。
勿論、アドニスがどれだけ泣き、傷ついたか、延々と語られる内容に、何度も胸を刺され、途切れることのない後悔が押し寄せたが、それが自分に与えられた罰だと思い、耐えた。
その上で、ルカーシュカが去り際に残した「明日はちゃんと来いよ」という言葉。
その一言に隠された『アニーが待ってる』という意味に、ドクリと胸が鳴った。
(……どうして…)
アドニスに会いたい、謝りたい、抱き締めたい───そう願ってやまないのに、もしもまた怯えさせてしまったらと思うと恐ろしくて、生きた心地がしなかった。
(……アニー…)
もしも、嫌われてしまったとしても、自業自得だと理解していた。
ただせめて、愛しいあの子の心に憂いを残すことがないように、どうか己の愚行で、これ以上アドニスを泣かせてしまうことがないようにと、真っ暗な部屋の中、ただひたすらに祈り続けた。
祈って、祈って、祈って、そうして一睡もできぬままに迎えた朝は、長く生きてきた中で一番陰鬱とした夜明けだった。
アドニスに会いたいのに、会いたくない。
そんな矛盾した思いを胸に抱いたまま、それでも体は本能と欲に忠実に、宮廷にあるアドニスの部屋に向かった。
しかし、いざ部屋の前まで来ると、アドニスの視界に入ることすら罪な気がして、ドアノブに手を掛けることもできなかった。
扉一枚隔てた向こう側に、アドニスがいると思うだけで、心臓がドクドクと痛いほど脈打ち、緊張と恐怖、不安で吐く息が震えた。
立ち尽くしたまま、その場から一歩も動けず、かと言って離れることもできず、逃げるように扉に背を向けた。
そのまま怯える心臓を宥めていると、ふと背後で扉が開く音がした。
ああ、きっとなかなか入ってこないことに焦れて、エルダが開けてくれたのだろう…情けなくて、振り向くこともできなかった。
「ッ…、イヴ…!!」
刹那、耳に届いた声に、弾かれたように振り返れば、そこには今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめるアドニスがいた。
「ア───」
「ごめんなさい!!」
直後、胸の中に飛び込んできた腕に馴染む温もりと謝罪の言葉に、息が止まった。
「ごめんなさい…! イヴが、いっぱい心配してくれたのに…っ、否定すること、ばっかり言って…、ごめんなさい…!」
「嫌なこと、いっぱい、言わせちゃって…っ、ごめんなさい…! いっぱい…、不安にさせて、心配、させて…っ、ごめんなさい…っ」
(……どうして…)
悪いのは自分だ。
自分勝手な欲を押し付けて、アドニスの自由を奪おうとした。
それなのに、泣きながら謝り続けるアドニスに、頭の中が真っ白になった。
「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」
空っぽになった頭の中、響いたアドニスの声に、言葉に、胸の臓器がドクリと鼓動する。
「ごめんなさぃ…っ、大好きだから…っ、…ッ、嫌いにならないでぇ…!」
「…ッ!!」
ああ、貴方はどうしてそんなに───!!
瞬間的に体内を突き抜けた激情に、血肉は滾り、反射的に叫んでいた。
「嫌いになる訳がないでしょうっ!!」
熱い血が心臓から全身に巡るように、言葉にし難い安堵が波となって押し寄せ、力の抜けた体は足から崩れ落ちた。
「ごめんなさい! 私の我が儘でアニーを怖がらせて、困らせてごめんなさい…! 悲しい思いをさせて、本当に本当に、ごめんなさい…!」
誰よりも愛しく、なによりも大切なたった一人を、自ら傷つけ、悲しませ、泣かせてしまったことを、心の底から悔いた。
嫌われてしまっても自業自得だと己を詰りながら、アドニスに嫌われたらもう生きていけないと、死に等しい絶望を味わった。
会いたくて、謝りたくて、声が聞きたくて、そう願ってやまないのに、会うのが怖くて怖くて堪らなかった。
「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」
それなのに、どうしてこの子はこんなにも清く、美しく、無垢なのだろう。
どうして、『ありがとう』などと言えるのだろう。
怒りもせず、怯えもせず、ただ『大好き』と全身で訴える姿が愛しくて、嬉しくて、苦しくて、溢れんばかりの熱に、じわりと視界が滲んだ。
「……私も、愛しています、アニー」
謝罪の言葉を封じられた中、再び愛を伝えられる幸福を噛み締めながら、瞼を閉じる。
(もう二度と…)
愚かな欲と我が儘で、貴方を泣かせたりしない───強く抱き締め合った腕の中、何度も何度も自分の名を呼ぶ泣き声を脳に焼き付けながら、今一度の誓いを立てた。
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ご無沙汰しております。東雲です。
大っっっ変長らくお待たせ致しました!諸々の事情によりなかなか筆が進まず、まさかの三ヶ月更新ストップで本当に申し訳ございませんでした…!
万全とはなかなか言い難い状態ではございますが、少しずつペースを戻せるよう、努めていきたいと思います!(毎回言っている気が…)
また更新が止まってしまっている間も、感想やエールを送ってくださいまして、本当にありがとうございました!
喜びと嬉しみを糧に、これからも頑張って書いていきたいと思います!(*´◒`*)
東雲
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