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プティ・フレールの愛し子
113.昼想夜夢の冀求
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誰よりも、何よりも、貴方の側にいたい。
「……ダ、エルダ、起きろ」
「ん…」
囁くような声に名を呼ばれ、ふっと意識が浮上する。
甘いミルクと陽だまりのような香りが鼻腔を擽る胸の中、ぼんやりとしたまま身じろぎをすると、重い瞼を開け、声のする方へと視線を向けた。
「気持ち良く眠ってるところ悪いが、イヴァニエの所に行くぞ」
見上げれば、夜着の上にロープを羽織り、眠るアドニス様の横で膝をつくルカーシュカ様のお姿が目に映った。
その声も表情も、平時と変わらぬもので、アドニス様がお眠りになられた後も、ルカーシュカ様はずっと起きていらっしゃったのだということを物語っていた。
「んむ…」
ぼやける瞼を擦り、ゆっくりと体を起こすと、眠るアドニス様を起こさぬよう、慎重に温かな腕の中から抜け出す。幸い、アドニス様が目覚める気配はなく、穏やかな寝息が乱れることもなかった。
間近に見えるあどけない寝顔にホッとしつつ、愛しい人と離れなければいけない寂しさから、抗議するようにルカーシュカ様を見つめれば、苦笑混じりの声が返ってきた。
「悪いが、俺はアニーじゃないからな。そんな目で見ても、甘やかしてやらないぞ」
「…む」
幼な子を宥めるようなルカーシュカ様の声音に、駄々を捏ねても無駄だと悟ると、渋々布団の中から這い出る。
叶うならば、このままアドニス様の腕の中で眠っていたかったのに…そんな名残惜しさに後ろ髪を引かれつつ、のろのろと寝具の上を移動すると、アドニス様から十分に離れたところで翼を広げた。
ふわりと浮いた体のまま、宙に浮く寝具から飛び降りると、空中で己の肉体を切り替える。
ゆっくりと落ちていく滞空時間の中、一呼吸の間に赤子の体を少年のそれに変えると、着地する寸前で翼を消した。
足音を立てずに着地できたことに満足するも、愛しい温もりへの未練から、つい不満が口をついて出た。
「…ルカーシュカ様、私も行かなければいけないのですか?」
「当たり前だろ。アニーの側にいたい気持ちは分かるが、我慢しろ」
「…アドニス様をお一人にしてしまいます」
「ちゃんと眠りのまじないをかけたから大丈夫だ。こうしておけば、アニーは朝まで起きないし、途中で起きて寂しい思いもさせない。側仕え達も入ってこないから安心しろ」
自分の言うことなど、全部お見通しだったのだろう。
スラスラと返ってくる言葉に、それ以上我が儘を言えるはずもなく、留まりたい気持ちをグッと抑えると、観念して頷いた。
(…行って参ります、アドニス様)
頭上に浮かぶ寝具の上、姿の見えない愛しい人に向け、心の中でそっと呟くと、歩き出したルカーシュカ様の後を追うように寝室を出た。
ルカーシュカ様の離宮から宮廷を経由し、イヴァニエ様の離宮まで移動すると、誰に招かれるでもなく中に入る。
一年半ほど前まで、イヴァニエ様に仕える身として、毎日過ごしていた離宮内。ほんの少し前のことなのに、今となってはただ懐かしい日々と光景に、郷愁にも似た感情が胸に沁みた。…が、懐かしさに浸っていられたのもそこまでだった。
(…静かだな)
静まり返った廊下の中、並んで歩くルカーシュカ様と自分の足音だけがいやに響いた。
夜も更けたとはいえ、不自然なほどに誰の気配もなく、物音一つしない薄暗い離宮内に瞳を細める。
恐らくは、宮の主であるイヴァニエ様の状態に影響され、皆が粛々と過ごしているからこその静けさなのだろうが、漂う空気は重く、息が詰まるような苦しさが離宮全体に充満していた。
「…勝手に入ってきてよろしかったのですか?」
「問題ない。俺達が来ることは先に伝えてある」
「イヴァニエに聞こえているかどうかは知らんが」…そう続いた言葉に、浅く溜め息を吐く。
暗く沈んだ離宮の雰囲気から、なんとなく察しはついていたが、イヴァニエ様の状態はだいぶ悪いらしい。
向かう先で、元主がどのような状態になっているのか…仄かな緊張感に気合いを入れ直すと、長い回廊を無言のまま進んだ。
やがて辿り着いたイヴァニエ様の私室。その中に、ルカーシュカ様はノックもせずに入っていく。それに少しばかり面食らいつつ、慌てて後に続いた。
淡い光が灯った部屋の中、大きな水槽からコポコポと響く水の音は、自分が仕えていた頃と変わらず、一瞬懐かしさが込み上げるが、すぐにある違和感に気づき、周囲を見回した。
(……イヴァニエ様は?)
部屋の主がいないことを不思議に思いながら室内を突き進めば、ルカーシュカ様が寝室へと続く扉の前で足を止めた。
「来たぞ」
閉ざされた扉の前、ルカーシュカ様は一言だけ発すると、返事も待たずに扉を開けた。
音もなく開かれた扉の向こう側は、灯り一つない、真っ暗な空間だった。
扉から差し込む僅かな光源でぼんやりと映し出された部屋の奥、闇に溶けるように、ベッドに腰掛けて項垂れるイヴァニエ様のお姿が見え、息を呑んだ。
(…これは、また…)
一目で酷いと分かるイヴァニエ様の状態に、胸の臓器が怯むように跳ねた。
「おい、いつまでそうしてるつもりだ」
正直、イヴァニエ様のお姿は、声を掛けることを躊躇してしまうほどだが、ルカーシュカ様は意に介すこともなく、無遠慮な言葉をぶつけた。
「イヴァニエ」
その横顔も、名を呼ぶ声も、いつもと変わらず、責めるような響きはない。
声を発することもできないまま、黙って成り行きを見守ること暫く、長い長い沈黙の後、イヴァニエ様が囁くように呟いた。
「……アニーは…」
聞き取れるかどうかというか細い声が紡いだ言葉は、ここにはいない愛しい人の名前だった。
「今は俺の離宮で寝てる」
「……あの子、は…」
それ以上、言葉を続けられないのか、イヴァニエ様は再び黙ってしまわれた。
息を吐く音すらうるさく聞こえる緊張と静寂の中、先に沈黙を破ったのはルカーシュカ様だった。
「アニーの泣き声なら、聞こえていただろう」
「ッ…!!」
瞬間、イヴァニエ様の体が大きく揺れた。
その一言とイヴァニエ様の反応から、皆まで言われずとも、この場で起こった凡そのことは把握することができた。
(ああ……だからルカーシュカ様は、あんなに落ち着いていらっしゃったのか)
涙を零す時ですら、声を殺して静かに泣かれるアドニス様。
声を上げて泣かれたのは、アドニス様がアドニス様として、バルドル様に認められたあの日が最後だ。
だからこそ、アドニス様がルカーシュカ様の離宮で声を上げて泣かれた時には心底驚いたし、みっともないほどに動揺してしまったのだが、なぜかルカーシュカ様だけは、妙に落ち着いていらっしゃった。
その落ち着いた様子に、内心感心していたのだが、どうやらアドニス様は、本日だけで二度も声を上げて泣かれたらしい。
「………」
未だに耳に残る弱々しい泣き声を思い出し、つい眉間に皺が寄るも、誰よりもその泣き声に心を抉られ、後悔の念に押し潰されそうになっているであろう方を前に、責める気持ちも萎んでいった。
「……あの子を、泣かせてしまいました…」
項垂れたまま、両手で顔を覆ったイヴァニエ様の呟きが、静かな部屋にポツリと落ちた。
その瞬間、背中に走った悪寒と、室内に充満した昏く濁った聖気に、ゾッとするような焦りが生まれた。
「怖がらせたかった訳じゃありません……あんな…アニーを責めるような…っ、私は、なんてことを…!」
一体アドニス様に何を言われたのか…気になるところだが、今はそれどころではないだろう。
「あぁ…、本当に、どうしたら…っ」
「イヴァニエ」
「このまま、あの子に嫌われてしまったら…」
「おい、落ち着け」
「嫌だ…っ、そんなことになったら…!!」
ルカーシュカ様のお声も届いていないのか、イヴァニエ様は独り言を呟くだけだ。
そのお姿は非常に不安定で、取り乱すイヴァニエ様の言葉に、自分まで怖くなってくる。
(…もしも…)
もしも、アドニス様に嫌われてしまったら───想像するだけでも恐ろしい『もしも』に、心臓が嫌な音を立て、腹の中がぐにゃりと捩れるような気持ち悪さに襲われた。
想像しただけでこれなのだ。イヴァニエ様の味わう恐怖はいかほどか…その胸中をなぞるだけで苦しくなる呼吸を振り解くように、大きく息を吸い込んだ。
「………命の湖に還ります」
突然静かになったイヴァニエ様が、ふらりと立ち上がった。
「アニーに嫌われたままで、生きてなどいけません」
感情が抜け落ちたような面差しに、焦りが加速するも、対峙するルカーシュカ様は僅かな揺らぎも見せず、とても落ち着いていらっしゃった。
「はぁ…そんなことを言う暇があるなら、アニーに謝れ」
「勿論、謝ります。……謝らせてもらえるか、分かりませんが…」
「ほぅ? アニーは悔いる者に対し、謝らせてもくれないと?」
「………」
「アニーのことを、謝っても許してくれないような子だと思っていたとは驚きだ」
「っ…、思ってません!! アニーは…っ」
揚げ足を取るように、イヴァニエ様の言葉を否定するルカーシュカ様だが、わざと煽っているのだとすぐに分かった。
刺激するような言葉のおかげか、それとも己の言葉を自ら否定したことで冷静になれたのか、イヴァニエ様のお顔にも徐々に表情が戻り始める。
「……アニーは、そんな子じゃない…」
「そうだな。あの子は、自分を泣かせた男のことを心配して泣くような、優しい子だからな」
「!?」
瞬間、弾かれるように顔を上げたイヴァニエ様の瞳に、輝きが戻った。
「それは、どういう…」
「それより、俺達に対して何か言うことがあるんじゃないか?」
「ッ…」
「俺達がどんなにアニーを心配したか、あの子の泣く姿にどれほど苦しんだか、言わせたくなかった言葉にどれだけ憤ったか……分からない訳じゃあるまい」
それまでの雰囲気から一変、剣呑な光を宿した瞳でイヴァニエ様を射抜くルカーシュカ様に、新たな緊張感が生まれる。
一瞬で張り詰めた空気の中、ルカーシュカ様に倣うようにイヴァニエ様を見つめれば、息を呑むような一拍の後、イヴァニエ様がゆっくりと腰を折った。
「……私の身勝手な行動で、アニーを泣かせ、あなた達にも不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。本当に、心から、後悔しています。…二度と、アニーを傷つけるようなことも、調和を乱し、不安にさせるようなこともしないと誓います」
胸に手を添え、頭を下げたまま顔を上げないイヴァニエ様から伝わる深い自省の念に、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
チラリとルカーシュカ様を見上げれば、こちらを見つめる黒と目が合う。
見つめ返した瞳には、先ほどまでの鋭さはなく、言葉にせずとも伝わった互いの気持ちを確認するように浅く頷くと、もう一度イヴァニエ様に視線を戻した。
「俺達じゃなく、アニーに誓えるか?」
「はい」
「アニーを泣かせたこと、忘れるなよ」
「…はい」
「……二度目はないと思え」
それだけ告げると、ルカーシュカ様は踵を返し、寝室の前を離れた。その背に誘われるように、ゆっくりと顔を上げたイヴァニエ様が、ふらりと寝台から離れ、こちらに向かって来る。
扉の脇に立ったまま、どこか覚束ない足取りを見守るように、その姿に視線を留めていると、真横まで来たイヴァニエ様がピタリと足を止めた。
「…エルダ、あなたも、言いたいことがあるでしょう?」
「え?」
「今回のことは、全面的に私が悪いです。あなたも、怒っていいんですよ?」
まるで「怒れ」とでも言うようなイヴァニエ様の言に、目を見開く。
その声音に卑屈さはなく、穏やかな表情からは、それを当然のこととして受け止めようという懺悔の念が色濃く滲んでいた。
その思いに応えるように、脳は記憶を巻き戻し、今日起こった出来事と共に、己の感情をゆっくりと辿り始めた。
アドニス様が連れ去られた瞬間、湧き上がったのは尋常ではないほどの焦りと、強制的に離れていく距離に対する恐怖だった。
泣きそうなお顔のまま、転位扉の向こう側へと消えていったアドニス様。
ただその身が心配で心配で、もしも何かあったらと思うと恐ろしくて、連れ去った張本人であるイヴァニエ様に対する感情は二の次になっていた。
勿論、一時的に感情が昂りもしたが、それも一瞬のことで、憤りはアドニス様を案じる気持ちに掻き消された。
アドニス様と離れている間、ルカーシュカ様の私室の中を意味もなくウロウロと歩き回った。
もしもアドニス様の御心に傷がつくようなことがあったら、泣かれるようなことがあったら、悲しまれることがあったら…そんな考えばかりが頭の中でぐるぐると渦巻き、待つことしかできない歯痒さに唇を噛んだ。
だからこそ、アドニス様がお戻りになられた時は、安堵と歓喜から思わずその身に駆け寄り、抱きついてしまった。
抱き留めてもらえた腕の中、愛して止まない香りと温もりに、ようやく気が緩んだが、アドニス様の沈んだ声と表情に不安は拭えず、安心することはできなかった。
事実、その後の話し合いは、アドニス様にとって大きな負担となり、自分とルカーシュカ様にとっては、酷く胸を痛めるものになってしまった。
『他の、天使様達と、お話ししなくていい……お話し、しない……お外にも、行かない…』
振り絞るように紡がれた掠れた声に、心の臓が悲鳴を上げた。
違う! 違う! そんなことを言わせたかったんじゃない───!!
心の中で必死に叫ぶも、その声が声帯を震わせることはなかった。
…分かっていた。自分も、イヴァニエ様と同じだ。
アドニス様の世界が広がることを肯定しながら、その裏側で、他の誰にも邪魔されない、小さくも幸せな日々がいつまでも続けばいいと願っていたのだ。
イヴァニエ様が叫んだ「嫌だ」という想いは、傲慢な願望を砕かれた、自分自身の声でもあった。…その結果は、血の気が引くほど痛ましいものだった。
(…きっと、自分も同罪だ)
勿論、イヴァニエ様の行動を肯定するつもりはない。だが一歩間違えば、自分もイヴァニエ様と同じことをしていたかもしれないと思うと、怒りは動揺に変わり、アドニス様の悲痛な声を思い返すたびに、罪悪感が押し寄せた。
『他の、天使様と、会えなくていい……バルドル様の、お庭にも行かない…っ、ずっと…、みんなと一緒に、お部屋にいる…!』
お前が望んでいたのは、こういうことだろう───聞こえるはずのない幻聴が、浅はかな欲を嗤った。
アドニス様の背に抱きつきながら、己の罪の重さに顔を歪めたあの瞬間、後悔してもしきれないほどの胸の痛みに襲われ、キツく奥歯を噛み締めた。
ルカーシュカ様がアドニス様を想い、真摯に、実直に重ねたお言葉の数々。あれらはきっと、アドニス様を安心させる為の慰撫であり、強欲な自分達への戒めでもあったのだ。
「……いえ、私は…」
長い沈黙の末、やっとの思いでそれだけ呟く。
適当な言葉が見つからず、返事の代わりに瞳を伏せれば、イヴァニエ様は薄く眉根を寄せたまま、微笑んだ。
「…そうですか」
イヴァニエ様を咎められる資格など、自分には無かった。
「明日はちゃんと来いよ」
「……はい…」
「…おやすみなさいませ」
イヴァニエ様の私室の前、ぐったりと項垂れる部屋の主に見送られ、ルカーシュカ様と共にその場を離れる。
さっさと歩き出したルカーシュカ様の背を追いかけながら、チラリと背後を見遣れば、開けた扉に凭れ掛かったまま、微動だにしないイヴァニエ様のお姿が目に映った。
(大丈夫だろうか…)
今にも倒れそうなお姿は流石に心配になったが、下手に声を掛けることもできず、自力で乗り越えてもらうことを心の中で祈る。
あの後、イヴァニエ様から、アドニス様と二人でいる間にどのような会話をされ、何が起こったのか、一部始終の出来事をすべて伺ったのだが、ルカーシュカ様がその内容に大層お怒りになられたのだ。
『お前は本当に、余計なことを言ってくれたな』
冷気すら漂うほど冷えた怒りを込め、うっすらと笑んだルカーシュカ様の瞳は、これっぽっちも笑っていなかった。
そこからは、ルカーシュカ様の独壇場だ。
アドニス様がどんなお気持ちで、どんな表情で、どのような言葉を紡ぎ、どれだけ苦しまれたか…淡々と語り続けるルカーシュカ様の言葉は、ゆっくりと、だが確実に、イヴァニエ様の急所を突き、じわじわと致命傷を負わせていった。
横で聞いているだけの自分でさえ肝が冷えたのだ。イヴァニエ様の受けたダメージは相当なものだろう。
(……ルカーシュカ様は、お強いな)
イヴァニエ様に対する態度が、ではない。
アドニス様がイヴァニエ様に連れ去られた時も、お戻りになられた時も、そして今も、精神的な面で、揺るがず、乱れず、常に凛としているお姿に、そう思わずにいられなかった。
(私も、ルカーシュカ様のようになれたら…)
不安定になったアドニス様を、優しく、だが厳しく、「それはいけないことだ」と諭していたお姿を思い出し、憧れにも似た感情が芽生えた───その時だ。
「大丈夫か?」
「え?」
「ぼぅっとしてるが…まぁ、今日は色々あったからな。疲れただろう」
「あ…いえ、少し、考え事を…」
唐突に話し掛けられ、反射的に答えてしまった。
まさか話し掛けてきた本人のことを考えていたなどとも言えず、咄嗟に誤魔化す為の話題を探す。
「その……アドニス様が、イヴァニエ様を心配されて泣かれたというのは、どういうことだろうと思って…」
苦し紛れに吐いた言葉は、実際気になっていたことだった。
イヴァニエ様は、その件に触れる気力すら残らなかったのか、尋ねることもなかったが、自分はずっと、アドニス様が泣かれた理由が気になっていた。
「ああ、それか。まぁ、言葉通りの意味だ。アニーは、自分の発言がイヴァニエを傷つけたと思ったんだろうな。イヴがお返事してくれない、イヴに嫌われたかもしれない…そう言って、イヴァニエの心配ばっかりして、大泣きしたんだ」
「……左様で」
瞬間、チリリと灼けるような感情が胸を焦がした。
なぜアドニス様が自責の念によって泣かなければいけないのか…そんな憤りと共に湧いたのは、そのような状態であってもアドニス様に想われるイヴァニエ様に対する、どうしようもない羨望だった。
(……イヴァニエ様、ばっかり…)
ついそんなことを思ってしまう自分に、眉間に皺が寄る。
ルカーシュカ様のようになれたら…そう願った直後に思い知る己の余裕の無さと心の狭さに、密かに落ち込んだ一瞬、不意にルカーシュカ様の平坦な声が耳に届いた。
「妬けるな」
「…え?」
耳に届いた言葉に、パチリと目を瞬いた。
「あの馬鹿が悪いのに、アニーが泣くのも嫌だし、イヴァニエが心配されるのも腹が立つ。…いや、アニーがイヴァニエを心配するのはいいんだ。だがイヴァニエがアニーに心配されるのはシャクだ」
言葉遊びのように不満を漏らしながら溜め息を吐くルカーシュカ様に、ポカンとする。
思わずその姿を凝視すれば、目が合ったルカーシュカ様が、ふっと笑みを零した。
「俺がこういうことを言うのは意外か?」
「あ、いえ、……いえ、はい…そうですね」
「正直だな」
くつくつと笑うルカーシュカ様は気分を害した様子もなく、穏やかな雰囲気のままだ。
だからこそだろう。先ほどの「妬けるな」という言葉が、今のルカーシュカ様の姿と結びつかなくて、戸惑う気持ちが声になって漏れた。
「…ルカーシュカ様も、嫉妬されることがあるんですね」
「そりゃあるさ。アニーにもそう言っただろう? イヴァニエにも、なんならお前にも嫉妬するぞ」
「……そう、でしたか」
自分に対する嫉妬心もあっけらかんと明かされ、戸惑いに驚愕が混じるも、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ、ルカーシュカ様も自分やイヴァニエ様と同じなのだと分かり、少しだけホッとした。
それと同時に、ルカーシュカ様の感情を隠し、律する能力の高さに圧倒され、つい胸の内が零れた。
「…私も、ルカーシュカ様のように、上手く感情を抑えられたらいいのですが…」
「特別抑えてるつもりはないんだがな…エルダは今のままでいいと思うぞ?」
「ですが…」
「イヴァニエだって、別に態度を改めろとは思わないしな。まぁ、暴走するのは止めてほしいが」
「…え?」
思わぬ発言に、疑念を込めてルカーシュカ様を見つめれば、苦笑を混ぜた声が返ってきた。
「そんなにおかしいことを言ったか?」
「…イヴァニエ様に対して怒っていらっしゃっても、そのように思われるのですか?」
「俺が怒ったのは、イヴァニエが自分の感情をアニーに押し付けて、泣かせたからだ。アイツの嫉妬深さについて、今更どうこう言うつもりはない。イヴァニエみたいに、感情を剥き出しにしてる方が、アニーに気持ちが伝わりやすいこともあるだろうしな。…それに、今日のことだって、俺達には必要なことだったと思ってる」
「…それは、どういう意味でしょうか?」
アドニス様にとって辛い出来事が、必要だったこととは思えず、無意識の内に声が低くなる。
「怒るな。俺達には、と言っただろう。…これから先、アニーが他のヤツらと交流するようになれば、俺もお前も、イヴァニエも、少なからず精神を摩耗するはずだ。それがアニー本人の発言や行動が元となれば、余計にな。それこそ、俺やエルダが、今日のイヴァニエのようにならないなんて保証、どこにもない」
「ッ…」
「いつかどこかで感情が爆発して、俺達がアニーを傷つけるかもしれない。そんなことになるくらいなら、例え僅かだろうが、先に不安な気持ちを打ち明けておいた方が、俺達にとってもアニーにとっても安全だ。…知らないままでいるより、知っていてくれた方がいい」
「まぁ、もっと違う形で伝えたかったがな」そう言って肩を竦めるルカーシュカ様の言葉は、不思議なほどストンと胸の中に落ちた。
自分達が抱く燃えるような嫉妬心や、重く沈んだ不安。
それらの欲を、アドニス様が感情として理解される日は、恐らく永遠に訪れないだろう。
愛情を独占したいという欲を知らず、ただ『愛しい』と想うことしか知らないアドニス様にとって、『嫉妬』という感情はどこまでも遠く、無縁なものだ。
愛しいからこそ抱く独占欲、執着心、嫉妬。それらによる綻びは、いつか必ず、どこかで生まれていた。
そう思えばこそ、自分達が抱くどうしようもない欲を、正直にアドニス様に打ち明ける必要があったのだろう。
この気持ちを、理解してほしいとは思わない。ただ、知っていてほしい───ルカーシュカ様のお気持ちは、まるで元からそこにあったかのように、自分の中に融け込んだ。
「感情を抑えてると言ってくれたが、無理に抑えてる訳じゃない。俺の愛し方が、そういう形をしてるってだけだ。イヴァニエも、お前も、俺も、アニーを想う気持ちは同じでも、それぞれ別の存在で、愛し方も、愛情表現も、それぞれ違うだろう?」
二人分の足音だけが反響する静かな回廊に、ルカーシュカ様の声だけが響く。
「もしかしたら、俺の愛し方がアニーを不安にさせるかもしれないし、イヴァニエの愛し方が安心させるかもしれない。どちらが正しいなんてこともなければ、正解だってないはずだ。だからエルダも、エルダのまま、想うままに想えばいい」
「───…」
柔らかな声と表情は、アドニス様を優しく諭されていた時のそれと同じで、あの時のお言葉が、偽ることのない、ルカーシュカ様の御心だったのだと改めて思い知る。
アドニス様の手を握りながら、己に言い聞かせるように、必死に言葉を紡いでいた自分とは大違いだ…そう思うも、それがルカーシュカ様と自分の違いであり、愛し方の違いなのだと思えば、少しだけ気持ちが軽くなった。
「…ありがとうございます」
「礼を言われるようなことは言ってないが、どういたしまして。それより、アニーに何も言わないままで良かったのか?」
「え?」
「俺も、イヴァニエも、自分の気持ちをアニーに伝えたぞ。エルダは、『寂しい』だけで良かったのか?」
「ッ…!」
唐突に核心を突いた思わぬ言に、心臓がドキリと跳ねた。
「言いたくないなら、言わなくていい。ただ、言わないと伝わらないこともあるからな」
「……はい」
ああ…この方はきっと、自分が隠そうとした本音も、飲み込んだ欲も、本当に全部、お見通しだったのだろう。
瞳を細めて笑うルカーシュカ様を前に、再び湧いた憧憬は、ほんの少しの焦燥と淡い羨望を纏っていた。
「俺はヴェラの花畑を見回ってから帰る。先に戻って、寝てていいぞ」
イヴァニエ様の離宮から宮廷に転移すると、ルカーシュカ様はそう言い残し、止める間もなく夜空に飛び立った。
その背を見送り、一人ルカーシュカ様の離宮へと戻ってきたのだが、落ち着かなさから妙に足元が浮ついた。
(…改めて考えると、すごい状況だな)
主がいない離宮の中を、他の大天使が我が物顔で出入りし、あまつさえ主人不在の寝具で寝ようとしている…よくよく考えなくてもおかしな話だが、深く考えるのはやめた。
ほんのりと明かりが灯る廊下を進み、ルカーシュカ様の私室に入ると、その奥にある寝室の扉を静かに開いた。
静寂の音しか聞こえない部屋にそっと足を踏み入れ、物音を立てぬように翼を広げると、宙に浮かぶ寝具に向かって飛び立つ。
最小限の羽ばたきで宙に浮くと、寝具に降り立つ直前で、肉体を赤子のそれに変えた。
柔らかな寝具の上、軽くなった体でぽふりと降り立つと、短くなった手足で這いながら、愛しい人が待つ中心部へと向かう。
「んむっ、う…」
広い寝具の上、柔らかな羽毛に埋もれて転びながら進むこと暫く、やっとの思いでアドニス様の元へと辿り着くと、乱れた呼吸を整え、そろりとそのお顔を覗き込んだ。
じっと見つめた先、その寝顔も、寝息も、部屋を出る時と変わらず穏やかなままで、ホッと胸を撫で下ろした。
途中で目を覚ました様子もなく、スヤスヤと眠るアドニス様のお姿に、じんわりと安堵が広がる。
それと同時に、離れていた間の恋しさも帰ってきて、本能のままに愛情を求める体は、にじり、にじりとアドニス様の肉体に近寄った。
アドニス様を起こさぬよう、慎重にその腕の中に収まれば、緊張感は一気に解け、代わりに堪らないほどの安心感に包まれる。
ふかふかとした胸に額を押し付け、衣服の端をきゅっと握り締めながら深く息を吸い込めば、肺いっぱいに甘い香りが広がり、小さな体は瞬く間に喜びと愛しさで満たされた。
「んふ」
多幸感から堪らず笑みが零れた瞬間、ふとルカーシュカ様の声が頭の中で響いた。
『俺も、イヴァニエも、自分の気持ちをアニーに伝えたぞ。エルダは、『寂しい』だけで良かったのか?』
背中を押すでも、手を引くでもない。
ただ「それでいいのか?」と問い掛ける言葉が、頭の中で木霊した。
(…私は…)
アドニス様が、他の者達との交流を願われた時、確かに寂しく思った。不安にもなった。その気持ちは、間違いなく本物だ。
だがそれよりも、奥の宮に向かうアドニス様の供を許されず、代わりにオリヴィアが側に控えると聞かされたことの方が、自分にとってはよほど衝撃的で、我慢できないほどに辛いことだった。
昨日、一時とはいえ、オリヴィアがアドニス様のお側にいた。
本当は、それが嫌で嫌で堪らなかったのだ。
アドニス様のお隣は、私の場所なのに───!!
叫びたくなるような感情は、黒く澱んだ嫉妬になり、腹の底で渦巻いた。
それでも、一時的なものだと思えば、まだ我慢できた。
今だけ、今日だけ、この時間が終われば、オリヴィアがアドニス様のお側に仕える機会は二度とない。そう思っていたのに…
(……オリヴィアが、アドニス様のお側にいるのは嫌だ…)
オリヴィアのことが嫌いな訳じゃない。
礼儀正しく、穏やかで、万が一にもアドニス様を傷つけることはないだろうと言い切れる程度には、オリヴィアのことは信頼している。
なにより、アドニス様がオリヴィアのことを好ましく思っている。そんな彼が、アドニス様と『友』になってくれるのであれば、こんなに喜ばしいことはないと思えた。
そう思うのに、従者としてオリヴィアがアドニス様のお側にいるのは、どうしたって嫌なのだ。
オリヴィアだけじゃない。
他の誰にだって、この役目を奪われたくない。共有だってしたくない。…自分だけが、側にいたい。
ただお側にいられたら───そう願っていたあの頃が嘘のように我が儘に、貪欲に膨れ上がった欲。
それを後ろめたく思うも、この気持ちがなによりも真っ直ぐな、隠してしまいたい自分の本音だった。
「…くぅ」
ぐるぐると渦巻き始めた欲は、アドニス様に愛されることだけを望んだ小さな体には大きすぎて、息苦しさから鳴き声が漏れた。
(…こんなこと、言えない…)
言ってしまったら、アドニス様に嫌われてしまうかもしれない…イヴァニエ様が恐れたような思考に飲み込まれ、くしゃりと顔が歪んだ。
欲深い自分が恥ずかしくて、切なくて、形容し難い苦しさから逃げるように、温かな胸にしがみついた。
「怖い」と言って赤子が泣くように、愛しい胸にぎゅうっと体を密着させた───瞬間、不意に後頭部を撫でられた気がして、ハッとして顔を上げた。
「……ねえないの…?」
反射的に見上げた先、とろりと蕩けた蜂蜜色が自分を見つめていて、息を呑んだ。
かろうじて聞き取れた声は、今にも眠ってしまいそうなほどふわふわしていて、寝惚けているのだろうことはすぐに分かった。
それなのに、ほとんど眠っている状態なのに、ゆるゆると頭を撫でる優しい手は止まらず、それが無性に嬉しくて、じわりと視界が滲んだ。
「んぅ…っ」
「ん……うれしぃね…」
込み上げる喜びのまま、目一杯の力でアドニス様に抱きつけば、ほにゃりとした微笑みと共に、自分の気持ちを読み取ったかのような一言が返ってきた。
驚いて目を見開くも、次の瞬間には金色の瞳は瞼の下に隠れていて、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
「………」
たまたま、目が覚めてしまったのだろう。
きっと明日の朝には、夜中に目覚めたことすら、アドニス様は忘れてしまっているだろう。
それでも、自分の寂しさや悲しさに寄り添ってくれるように、頭を撫で、微笑んでもらえたことが嬉しくて、心臓はトクトクとはしゃぎ、直前までの息苦しさは跡形もなく消えていた。
「…ん」
鼓膜を揺らす愛らしい寝息を聞きながら、静かに呼吸を繰り返せば、徐々に気持ちも凪いでいく。
そのまま柔らかな胸元に鼻先を擦り寄せ、甘えるように温もりに身を委ねれば、渦巻いていた欲はゆっくりと解けていった。
自分は、イヴァニエ様のように、素直に己の気持ちを口にすることもできない。
ルカーシュカ様のように、穏和にすべてを受け入れることもできない。
そればかりか、自分勝手な欲と切望を手放すこともできなければ、それを口にする勇気もない。
(……でも)
たぶん、それでいいのだ。
すべてをありのまま伝えられなくても、すべてを受け入れられなくても、本音を隠したいと抗っても、いいのだ。
欲望を曝け出すのは怖い。アドニス様に嫌われてしまうのも、悲しい思いをさせるのも、泣かせてしまうのも嫌だ。
それでも、ただ少し、ほんの少しでいい。
この欲張りな願いのその一欠片を、アドニス様に知っていてほしい───それが、自分の正直な気持ちだった。
『言わないと伝わらないこともあるからな』
ルカーシュカ様の言葉を思い出しながら、触れた肌から伝わる心音に耳をすませる。
トクリ、トクリと脈打つ音はどこまでも優しくて、泣きたくなるような熱と共に、心の真ん中にある純粋な願いが溢れ出す。
誰よりも、何よりも、貴方の側にいたい。
アドニス様を支え、お守りし、お仕えする唯一の者として、そこに在りたい。
そこに潜んだ独占欲は、イヴァニエ様の愛情とも、ルカーシュカ様の愛情とも違う。
自分だけの、特別な愛情だ。
(……上手に、言えるだろうか…)
言いたいけど言いたくないような、言いたくないけど言いたいような、揺れる気持ちを持て余したまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
期待と呼ぶには臆病で、不安と呼ぶには明朗な鼓動の音が、アドニス様の心音と重なるように混じり合う。
ただそれだけのことが嬉しくて、愛しくて、まだ告げてもいない我が儘を許されたような安堵から、意識はとろりと溶けていく。
明日も、明後日も、その先も───アドニス様の世界がどれだけ変わっても、いつまでも変わらず、お隣にいられる自分を夢見ながら、愛しい腕の中で、眠りについた。
「……ダ、エルダ、起きろ」
「ん…」
囁くような声に名を呼ばれ、ふっと意識が浮上する。
甘いミルクと陽だまりのような香りが鼻腔を擽る胸の中、ぼんやりとしたまま身じろぎをすると、重い瞼を開け、声のする方へと視線を向けた。
「気持ち良く眠ってるところ悪いが、イヴァニエの所に行くぞ」
見上げれば、夜着の上にロープを羽織り、眠るアドニス様の横で膝をつくルカーシュカ様のお姿が目に映った。
その声も表情も、平時と変わらぬもので、アドニス様がお眠りになられた後も、ルカーシュカ様はずっと起きていらっしゃったのだということを物語っていた。
「んむ…」
ぼやける瞼を擦り、ゆっくりと体を起こすと、眠るアドニス様を起こさぬよう、慎重に温かな腕の中から抜け出す。幸い、アドニス様が目覚める気配はなく、穏やかな寝息が乱れることもなかった。
間近に見えるあどけない寝顔にホッとしつつ、愛しい人と離れなければいけない寂しさから、抗議するようにルカーシュカ様を見つめれば、苦笑混じりの声が返ってきた。
「悪いが、俺はアニーじゃないからな。そんな目で見ても、甘やかしてやらないぞ」
「…む」
幼な子を宥めるようなルカーシュカ様の声音に、駄々を捏ねても無駄だと悟ると、渋々布団の中から這い出る。
叶うならば、このままアドニス様の腕の中で眠っていたかったのに…そんな名残惜しさに後ろ髪を引かれつつ、のろのろと寝具の上を移動すると、アドニス様から十分に離れたところで翼を広げた。
ふわりと浮いた体のまま、宙に浮く寝具から飛び降りると、空中で己の肉体を切り替える。
ゆっくりと落ちていく滞空時間の中、一呼吸の間に赤子の体を少年のそれに変えると、着地する寸前で翼を消した。
足音を立てずに着地できたことに満足するも、愛しい温もりへの未練から、つい不満が口をついて出た。
「…ルカーシュカ様、私も行かなければいけないのですか?」
「当たり前だろ。アニーの側にいたい気持ちは分かるが、我慢しろ」
「…アドニス様をお一人にしてしまいます」
「ちゃんと眠りのまじないをかけたから大丈夫だ。こうしておけば、アニーは朝まで起きないし、途中で起きて寂しい思いもさせない。側仕え達も入ってこないから安心しろ」
自分の言うことなど、全部お見通しだったのだろう。
スラスラと返ってくる言葉に、それ以上我が儘を言えるはずもなく、留まりたい気持ちをグッと抑えると、観念して頷いた。
(…行って参ります、アドニス様)
頭上に浮かぶ寝具の上、姿の見えない愛しい人に向け、心の中でそっと呟くと、歩き出したルカーシュカ様の後を追うように寝室を出た。
ルカーシュカ様の離宮から宮廷を経由し、イヴァニエ様の離宮まで移動すると、誰に招かれるでもなく中に入る。
一年半ほど前まで、イヴァニエ様に仕える身として、毎日過ごしていた離宮内。ほんの少し前のことなのに、今となってはただ懐かしい日々と光景に、郷愁にも似た感情が胸に沁みた。…が、懐かしさに浸っていられたのもそこまでだった。
(…静かだな)
静まり返った廊下の中、並んで歩くルカーシュカ様と自分の足音だけがいやに響いた。
夜も更けたとはいえ、不自然なほどに誰の気配もなく、物音一つしない薄暗い離宮内に瞳を細める。
恐らくは、宮の主であるイヴァニエ様の状態に影響され、皆が粛々と過ごしているからこその静けさなのだろうが、漂う空気は重く、息が詰まるような苦しさが離宮全体に充満していた。
「…勝手に入ってきてよろしかったのですか?」
「問題ない。俺達が来ることは先に伝えてある」
「イヴァニエに聞こえているかどうかは知らんが」…そう続いた言葉に、浅く溜め息を吐く。
暗く沈んだ離宮の雰囲気から、なんとなく察しはついていたが、イヴァニエ様の状態はだいぶ悪いらしい。
向かう先で、元主がどのような状態になっているのか…仄かな緊張感に気合いを入れ直すと、長い回廊を無言のまま進んだ。
やがて辿り着いたイヴァニエ様の私室。その中に、ルカーシュカ様はノックもせずに入っていく。それに少しばかり面食らいつつ、慌てて後に続いた。
淡い光が灯った部屋の中、大きな水槽からコポコポと響く水の音は、自分が仕えていた頃と変わらず、一瞬懐かしさが込み上げるが、すぐにある違和感に気づき、周囲を見回した。
(……イヴァニエ様は?)
部屋の主がいないことを不思議に思いながら室内を突き進めば、ルカーシュカ様が寝室へと続く扉の前で足を止めた。
「来たぞ」
閉ざされた扉の前、ルカーシュカ様は一言だけ発すると、返事も待たずに扉を開けた。
音もなく開かれた扉の向こう側は、灯り一つない、真っ暗な空間だった。
扉から差し込む僅かな光源でぼんやりと映し出された部屋の奥、闇に溶けるように、ベッドに腰掛けて項垂れるイヴァニエ様のお姿が見え、息を呑んだ。
(…これは、また…)
一目で酷いと分かるイヴァニエ様の状態に、胸の臓器が怯むように跳ねた。
「おい、いつまでそうしてるつもりだ」
正直、イヴァニエ様のお姿は、声を掛けることを躊躇してしまうほどだが、ルカーシュカ様は意に介すこともなく、無遠慮な言葉をぶつけた。
「イヴァニエ」
その横顔も、名を呼ぶ声も、いつもと変わらず、責めるような響きはない。
声を発することもできないまま、黙って成り行きを見守ること暫く、長い長い沈黙の後、イヴァニエ様が囁くように呟いた。
「……アニーは…」
聞き取れるかどうかというか細い声が紡いだ言葉は、ここにはいない愛しい人の名前だった。
「今は俺の離宮で寝てる」
「……あの子、は…」
それ以上、言葉を続けられないのか、イヴァニエ様は再び黙ってしまわれた。
息を吐く音すらうるさく聞こえる緊張と静寂の中、先に沈黙を破ったのはルカーシュカ様だった。
「アニーの泣き声なら、聞こえていただろう」
「ッ…!!」
瞬間、イヴァニエ様の体が大きく揺れた。
その一言とイヴァニエ様の反応から、皆まで言われずとも、この場で起こった凡そのことは把握することができた。
(ああ……だからルカーシュカ様は、あんなに落ち着いていらっしゃったのか)
涙を零す時ですら、声を殺して静かに泣かれるアドニス様。
声を上げて泣かれたのは、アドニス様がアドニス様として、バルドル様に認められたあの日が最後だ。
だからこそ、アドニス様がルカーシュカ様の離宮で声を上げて泣かれた時には心底驚いたし、みっともないほどに動揺してしまったのだが、なぜかルカーシュカ様だけは、妙に落ち着いていらっしゃった。
その落ち着いた様子に、内心感心していたのだが、どうやらアドニス様は、本日だけで二度も声を上げて泣かれたらしい。
「………」
未だに耳に残る弱々しい泣き声を思い出し、つい眉間に皺が寄るも、誰よりもその泣き声に心を抉られ、後悔の念に押し潰されそうになっているであろう方を前に、責める気持ちも萎んでいった。
「……あの子を、泣かせてしまいました…」
項垂れたまま、両手で顔を覆ったイヴァニエ様の呟きが、静かな部屋にポツリと落ちた。
その瞬間、背中に走った悪寒と、室内に充満した昏く濁った聖気に、ゾッとするような焦りが生まれた。
「怖がらせたかった訳じゃありません……あんな…アニーを責めるような…っ、私は、なんてことを…!」
一体アドニス様に何を言われたのか…気になるところだが、今はそれどころではないだろう。
「あぁ…、本当に、どうしたら…っ」
「イヴァニエ」
「このまま、あの子に嫌われてしまったら…」
「おい、落ち着け」
「嫌だ…っ、そんなことになったら…!!」
ルカーシュカ様のお声も届いていないのか、イヴァニエ様は独り言を呟くだけだ。
そのお姿は非常に不安定で、取り乱すイヴァニエ様の言葉に、自分まで怖くなってくる。
(…もしも…)
もしも、アドニス様に嫌われてしまったら───想像するだけでも恐ろしい『もしも』に、心臓が嫌な音を立て、腹の中がぐにゃりと捩れるような気持ち悪さに襲われた。
想像しただけでこれなのだ。イヴァニエ様の味わう恐怖はいかほどか…その胸中をなぞるだけで苦しくなる呼吸を振り解くように、大きく息を吸い込んだ。
「………命の湖に還ります」
突然静かになったイヴァニエ様が、ふらりと立ち上がった。
「アニーに嫌われたままで、生きてなどいけません」
感情が抜け落ちたような面差しに、焦りが加速するも、対峙するルカーシュカ様は僅かな揺らぎも見せず、とても落ち着いていらっしゃった。
「はぁ…そんなことを言う暇があるなら、アニーに謝れ」
「勿論、謝ります。……謝らせてもらえるか、分かりませんが…」
「ほぅ? アニーは悔いる者に対し、謝らせてもくれないと?」
「………」
「アニーのことを、謝っても許してくれないような子だと思っていたとは驚きだ」
「っ…、思ってません!! アニーは…っ」
揚げ足を取るように、イヴァニエ様の言葉を否定するルカーシュカ様だが、わざと煽っているのだとすぐに分かった。
刺激するような言葉のおかげか、それとも己の言葉を自ら否定したことで冷静になれたのか、イヴァニエ様のお顔にも徐々に表情が戻り始める。
「……アニーは、そんな子じゃない…」
「そうだな。あの子は、自分を泣かせた男のことを心配して泣くような、優しい子だからな」
「!?」
瞬間、弾かれるように顔を上げたイヴァニエ様の瞳に、輝きが戻った。
「それは、どういう…」
「それより、俺達に対して何か言うことがあるんじゃないか?」
「ッ…」
「俺達がどんなにアニーを心配したか、あの子の泣く姿にどれほど苦しんだか、言わせたくなかった言葉にどれだけ憤ったか……分からない訳じゃあるまい」
それまでの雰囲気から一変、剣呑な光を宿した瞳でイヴァニエ様を射抜くルカーシュカ様に、新たな緊張感が生まれる。
一瞬で張り詰めた空気の中、ルカーシュカ様に倣うようにイヴァニエ様を見つめれば、息を呑むような一拍の後、イヴァニエ様がゆっくりと腰を折った。
「……私の身勝手な行動で、アニーを泣かせ、あなた達にも不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。本当に、心から、後悔しています。…二度と、アニーを傷つけるようなことも、調和を乱し、不安にさせるようなこともしないと誓います」
胸に手を添え、頭を下げたまま顔を上げないイヴァニエ様から伝わる深い自省の念に、知らず強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
チラリとルカーシュカ様を見上げれば、こちらを見つめる黒と目が合う。
見つめ返した瞳には、先ほどまでの鋭さはなく、言葉にせずとも伝わった互いの気持ちを確認するように浅く頷くと、もう一度イヴァニエ様に視線を戻した。
「俺達じゃなく、アニーに誓えるか?」
「はい」
「アニーを泣かせたこと、忘れるなよ」
「…はい」
「……二度目はないと思え」
それだけ告げると、ルカーシュカ様は踵を返し、寝室の前を離れた。その背に誘われるように、ゆっくりと顔を上げたイヴァニエ様が、ふらりと寝台から離れ、こちらに向かって来る。
扉の脇に立ったまま、どこか覚束ない足取りを見守るように、その姿に視線を留めていると、真横まで来たイヴァニエ様がピタリと足を止めた。
「…エルダ、あなたも、言いたいことがあるでしょう?」
「え?」
「今回のことは、全面的に私が悪いです。あなたも、怒っていいんですよ?」
まるで「怒れ」とでも言うようなイヴァニエ様の言に、目を見開く。
その声音に卑屈さはなく、穏やかな表情からは、それを当然のこととして受け止めようという懺悔の念が色濃く滲んでいた。
その思いに応えるように、脳は記憶を巻き戻し、今日起こった出来事と共に、己の感情をゆっくりと辿り始めた。
アドニス様が連れ去られた瞬間、湧き上がったのは尋常ではないほどの焦りと、強制的に離れていく距離に対する恐怖だった。
泣きそうなお顔のまま、転位扉の向こう側へと消えていったアドニス様。
ただその身が心配で心配で、もしも何かあったらと思うと恐ろしくて、連れ去った張本人であるイヴァニエ様に対する感情は二の次になっていた。
勿論、一時的に感情が昂りもしたが、それも一瞬のことで、憤りはアドニス様を案じる気持ちに掻き消された。
アドニス様と離れている間、ルカーシュカ様の私室の中を意味もなくウロウロと歩き回った。
もしもアドニス様の御心に傷がつくようなことがあったら、泣かれるようなことがあったら、悲しまれることがあったら…そんな考えばかりが頭の中でぐるぐると渦巻き、待つことしかできない歯痒さに唇を噛んだ。
だからこそ、アドニス様がお戻りになられた時は、安堵と歓喜から思わずその身に駆け寄り、抱きついてしまった。
抱き留めてもらえた腕の中、愛して止まない香りと温もりに、ようやく気が緩んだが、アドニス様の沈んだ声と表情に不安は拭えず、安心することはできなかった。
事実、その後の話し合いは、アドニス様にとって大きな負担となり、自分とルカーシュカ様にとっては、酷く胸を痛めるものになってしまった。
『他の、天使様達と、お話ししなくていい……お話し、しない……お外にも、行かない…』
振り絞るように紡がれた掠れた声に、心の臓が悲鳴を上げた。
違う! 違う! そんなことを言わせたかったんじゃない───!!
心の中で必死に叫ぶも、その声が声帯を震わせることはなかった。
…分かっていた。自分も、イヴァニエ様と同じだ。
アドニス様の世界が広がることを肯定しながら、その裏側で、他の誰にも邪魔されない、小さくも幸せな日々がいつまでも続けばいいと願っていたのだ。
イヴァニエ様が叫んだ「嫌だ」という想いは、傲慢な願望を砕かれた、自分自身の声でもあった。…その結果は、血の気が引くほど痛ましいものだった。
(…きっと、自分も同罪だ)
勿論、イヴァニエ様の行動を肯定するつもりはない。だが一歩間違えば、自分もイヴァニエ様と同じことをしていたかもしれないと思うと、怒りは動揺に変わり、アドニス様の悲痛な声を思い返すたびに、罪悪感が押し寄せた。
『他の、天使様と、会えなくていい……バルドル様の、お庭にも行かない…っ、ずっと…、みんなと一緒に、お部屋にいる…!』
お前が望んでいたのは、こういうことだろう───聞こえるはずのない幻聴が、浅はかな欲を嗤った。
アドニス様の背に抱きつきながら、己の罪の重さに顔を歪めたあの瞬間、後悔してもしきれないほどの胸の痛みに襲われ、キツく奥歯を噛み締めた。
ルカーシュカ様がアドニス様を想い、真摯に、実直に重ねたお言葉の数々。あれらはきっと、アドニス様を安心させる為の慰撫であり、強欲な自分達への戒めでもあったのだ。
「……いえ、私は…」
長い沈黙の末、やっとの思いでそれだけ呟く。
適当な言葉が見つからず、返事の代わりに瞳を伏せれば、イヴァニエ様は薄く眉根を寄せたまま、微笑んだ。
「…そうですか」
イヴァニエ様を咎められる資格など、自分には無かった。
「明日はちゃんと来いよ」
「……はい…」
「…おやすみなさいませ」
イヴァニエ様の私室の前、ぐったりと項垂れる部屋の主に見送られ、ルカーシュカ様と共にその場を離れる。
さっさと歩き出したルカーシュカ様の背を追いかけながら、チラリと背後を見遣れば、開けた扉に凭れ掛かったまま、微動だにしないイヴァニエ様のお姿が目に映った。
(大丈夫だろうか…)
今にも倒れそうなお姿は流石に心配になったが、下手に声を掛けることもできず、自力で乗り越えてもらうことを心の中で祈る。
あの後、イヴァニエ様から、アドニス様と二人でいる間にどのような会話をされ、何が起こったのか、一部始終の出来事をすべて伺ったのだが、ルカーシュカ様がその内容に大層お怒りになられたのだ。
『お前は本当に、余計なことを言ってくれたな』
冷気すら漂うほど冷えた怒りを込め、うっすらと笑んだルカーシュカ様の瞳は、これっぽっちも笑っていなかった。
そこからは、ルカーシュカ様の独壇場だ。
アドニス様がどんなお気持ちで、どんな表情で、どのような言葉を紡ぎ、どれだけ苦しまれたか…淡々と語り続けるルカーシュカ様の言葉は、ゆっくりと、だが確実に、イヴァニエ様の急所を突き、じわじわと致命傷を負わせていった。
横で聞いているだけの自分でさえ肝が冷えたのだ。イヴァニエ様の受けたダメージは相当なものだろう。
(……ルカーシュカ様は、お強いな)
イヴァニエ様に対する態度が、ではない。
アドニス様がイヴァニエ様に連れ去られた時も、お戻りになられた時も、そして今も、精神的な面で、揺るがず、乱れず、常に凛としているお姿に、そう思わずにいられなかった。
(私も、ルカーシュカ様のようになれたら…)
不安定になったアドニス様を、優しく、だが厳しく、「それはいけないことだ」と諭していたお姿を思い出し、憧れにも似た感情が芽生えた───その時だ。
「大丈夫か?」
「え?」
「ぼぅっとしてるが…まぁ、今日は色々あったからな。疲れただろう」
「あ…いえ、少し、考え事を…」
唐突に話し掛けられ、反射的に答えてしまった。
まさか話し掛けてきた本人のことを考えていたなどとも言えず、咄嗟に誤魔化す為の話題を探す。
「その……アドニス様が、イヴァニエ様を心配されて泣かれたというのは、どういうことだろうと思って…」
苦し紛れに吐いた言葉は、実際気になっていたことだった。
イヴァニエ様は、その件に触れる気力すら残らなかったのか、尋ねることもなかったが、自分はずっと、アドニス様が泣かれた理由が気になっていた。
「ああ、それか。まぁ、言葉通りの意味だ。アニーは、自分の発言がイヴァニエを傷つけたと思ったんだろうな。イヴがお返事してくれない、イヴに嫌われたかもしれない…そう言って、イヴァニエの心配ばっかりして、大泣きしたんだ」
「……左様で」
瞬間、チリリと灼けるような感情が胸を焦がした。
なぜアドニス様が自責の念によって泣かなければいけないのか…そんな憤りと共に湧いたのは、そのような状態であってもアドニス様に想われるイヴァニエ様に対する、どうしようもない羨望だった。
(……イヴァニエ様、ばっかり…)
ついそんなことを思ってしまう自分に、眉間に皺が寄る。
ルカーシュカ様のようになれたら…そう願った直後に思い知る己の余裕の無さと心の狭さに、密かに落ち込んだ一瞬、不意にルカーシュカ様の平坦な声が耳に届いた。
「妬けるな」
「…え?」
耳に届いた言葉に、パチリと目を瞬いた。
「あの馬鹿が悪いのに、アニーが泣くのも嫌だし、イヴァニエが心配されるのも腹が立つ。…いや、アニーがイヴァニエを心配するのはいいんだ。だがイヴァニエがアニーに心配されるのはシャクだ」
言葉遊びのように不満を漏らしながら溜め息を吐くルカーシュカ様に、ポカンとする。
思わずその姿を凝視すれば、目が合ったルカーシュカ様が、ふっと笑みを零した。
「俺がこういうことを言うのは意外か?」
「あ、いえ、……いえ、はい…そうですね」
「正直だな」
くつくつと笑うルカーシュカ様は気分を害した様子もなく、穏やかな雰囲気のままだ。
だからこそだろう。先ほどの「妬けるな」という言葉が、今のルカーシュカ様の姿と結びつかなくて、戸惑う気持ちが声になって漏れた。
「…ルカーシュカ様も、嫉妬されることがあるんですね」
「そりゃあるさ。アニーにもそう言っただろう? イヴァニエにも、なんならお前にも嫉妬するぞ」
「……そう、でしたか」
自分に対する嫉妬心もあっけらかんと明かされ、戸惑いに驚愕が混じるも、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ、ルカーシュカ様も自分やイヴァニエ様と同じなのだと分かり、少しだけホッとした。
それと同時に、ルカーシュカ様の感情を隠し、律する能力の高さに圧倒され、つい胸の内が零れた。
「…私も、ルカーシュカ様のように、上手く感情を抑えられたらいいのですが…」
「特別抑えてるつもりはないんだがな…エルダは今のままでいいと思うぞ?」
「ですが…」
「イヴァニエだって、別に態度を改めろとは思わないしな。まぁ、暴走するのは止めてほしいが」
「…え?」
思わぬ発言に、疑念を込めてルカーシュカ様を見つめれば、苦笑を混ぜた声が返ってきた。
「そんなにおかしいことを言ったか?」
「…イヴァニエ様に対して怒っていらっしゃっても、そのように思われるのですか?」
「俺が怒ったのは、イヴァニエが自分の感情をアニーに押し付けて、泣かせたからだ。アイツの嫉妬深さについて、今更どうこう言うつもりはない。イヴァニエみたいに、感情を剥き出しにしてる方が、アニーに気持ちが伝わりやすいこともあるだろうしな。…それに、今日のことだって、俺達には必要なことだったと思ってる」
「…それは、どういう意味でしょうか?」
アドニス様にとって辛い出来事が、必要だったこととは思えず、無意識の内に声が低くなる。
「怒るな。俺達には、と言っただろう。…これから先、アニーが他のヤツらと交流するようになれば、俺もお前も、イヴァニエも、少なからず精神を摩耗するはずだ。それがアニー本人の発言や行動が元となれば、余計にな。それこそ、俺やエルダが、今日のイヴァニエのようにならないなんて保証、どこにもない」
「ッ…」
「いつかどこかで感情が爆発して、俺達がアニーを傷つけるかもしれない。そんなことになるくらいなら、例え僅かだろうが、先に不安な気持ちを打ち明けておいた方が、俺達にとってもアニーにとっても安全だ。…知らないままでいるより、知っていてくれた方がいい」
「まぁ、もっと違う形で伝えたかったがな」そう言って肩を竦めるルカーシュカ様の言葉は、不思議なほどストンと胸の中に落ちた。
自分達が抱く燃えるような嫉妬心や、重く沈んだ不安。
それらの欲を、アドニス様が感情として理解される日は、恐らく永遠に訪れないだろう。
愛情を独占したいという欲を知らず、ただ『愛しい』と想うことしか知らないアドニス様にとって、『嫉妬』という感情はどこまでも遠く、無縁なものだ。
愛しいからこそ抱く独占欲、執着心、嫉妬。それらによる綻びは、いつか必ず、どこかで生まれていた。
そう思えばこそ、自分達が抱くどうしようもない欲を、正直にアドニス様に打ち明ける必要があったのだろう。
この気持ちを、理解してほしいとは思わない。ただ、知っていてほしい───ルカーシュカ様のお気持ちは、まるで元からそこにあったかのように、自分の中に融け込んだ。
「感情を抑えてると言ってくれたが、無理に抑えてる訳じゃない。俺の愛し方が、そういう形をしてるってだけだ。イヴァニエも、お前も、俺も、アニーを想う気持ちは同じでも、それぞれ別の存在で、愛し方も、愛情表現も、それぞれ違うだろう?」
二人分の足音だけが反響する静かな回廊に、ルカーシュカ様の声だけが響く。
「もしかしたら、俺の愛し方がアニーを不安にさせるかもしれないし、イヴァニエの愛し方が安心させるかもしれない。どちらが正しいなんてこともなければ、正解だってないはずだ。だからエルダも、エルダのまま、想うままに想えばいい」
「───…」
柔らかな声と表情は、アドニス様を優しく諭されていた時のそれと同じで、あの時のお言葉が、偽ることのない、ルカーシュカ様の御心だったのだと改めて思い知る。
アドニス様の手を握りながら、己に言い聞かせるように、必死に言葉を紡いでいた自分とは大違いだ…そう思うも、それがルカーシュカ様と自分の違いであり、愛し方の違いなのだと思えば、少しだけ気持ちが軽くなった。
「…ありがとうございます」
「礼を言われるようなことは言ってないが、どういたしまして。それより、アニーに何も言わないままで良かったのか?」
「え?」
「俺も、イヴァニエも、自分の気持ちをアニーに伝えたぞ。エルダは、『寂しい』だけで良かったのか?」
「ッ…!」
唐突に核心を突いた思わぬ言に、心臓がドキリと跳ねた。
「言いたくないなら、言わなくていい。ただ、言わないと伝わらないこともあるからな」
「……はい」
ああ…この方はきっと、自分が隠そうとした本音も、飲み込んだ欲も、本当に全部、お見通しだったのだろう。
瞳を細めて笑うルカーシュカ様を前に、再び湧いた憧憬は、ほんの少しの焦燥と淡い羨望を纏っていた。
「俺はヴェラの花畑を見回ってから帰る。先に戻って、寝てていいぞ」
イヴァニエ様の離宮から宮廷に転移すると、ルカーシュカ様はそう言い残し、止める間もなく夜空に飛び立った。
その背を見送り、一人ルカーシュカ様の離宮へと戻ってきたのだが、落ち着かなさから妙に足元が浮ついた。
(…改めて考えると、すごい状況だな)
主がいない離宮の中を、他の大天使が我が物顔で出入りし、あまつさえ主人不在の寝具で寝ようとしている…よくよく考えなくてもおかしな話だが、深く考えるのはやめた。
ほんのりと明かりが灯る廊下を進み、ルカーシュカ様の私室に入ると、その奥にある寝室の扉を静かに開いた。
静寂の音しか聞こえない部屋にそっと足を踏み入れ、物音を立てぬように翼を広げると、宙に浮かぶ寝具に向かって飛び立つ。
最小限の羽ばたきで宙に浮くと、寝具に降り立つ直前で、肉体を赤子のそれに変えた。
柔らかな寝具の上、軽くなった体でぽふりと降り立つと、短くなった手足で這いながら、愛しい人が待つ中心部へと向かう。
「んむっ、う…」
広い寝具の上、柔らかな羽毛に埋もれて転びながら進むこと暫く、やっとの思いでアドニス様の元へと辿り着くと、乱れた呼吸を整え、そろりとそのお顔を覗き込んだ。
じっと見つめた先、その寝顔も、寝息も、部屋を出る時と変わらず穏やかなままで、ホッと胸を撫で下ろした。
途中で目を覚ました様子もなく、スヤスヤと眠るアドニス様のお姿に、じんわりと安堵が広がる。
それと同時に、離れていた間の恋しさも帰ってきて、本能のままに愛情を求める体は、にじり、にじりとアドニス様の肉体に近寄った。
アドニス様を起こさぬよう、慎重にその腕の中に収まれば、緊張感は一気に解け、代わりに堪らないほどの安心感に包まれる。
ふかふかとした胸に額を押し付け、衣服の端をきゅっと握り締めながら深く息を吸い込めば、肺いっぱいに甘い香りが広がり、小さな体は瞬く間に喜びと愛しさで満たされた。
「んふ」
多幸感から堪らず笑みが零れた瞬間、ふとルカーシュカ様の声が頭の中で響いた。
『俺も、イヴァニエも、自分の気持ちをアニーに伝えたぞ。エルダは、『寂しい』だけで良かったのか?』
背中を押すでも、手を引くでもない。
ただ「それでいいのか?」と問い掛ける言葉が、頭の中で木霊した。
(…私は…)
アドニス様が、他の者達との交流を願われた時、確かに寂しく思った。不安にもなった。その気持ちは、間違いなく本物だ。
だがそれよりも、奥の宮に向かうアドニス様の供を許されず、代わりにオリヴィアが側に控えると聞かされたことの方が、自分にとってはよほど衝撃的で、我慢できないほどに辛いことだった。
昨日、一時とはいえ、オリヴィアがアドニス様のお側にいた。
本当は、それが嫌で嫌で堪らなかったのだ。
アドニス様のお隣は、私の場所なのに───!!
叫びたくなるような感情は、黒く澱んだ嫉妬になり、腹の底で渦巻いた。
それでも、一時的なものだと思えば、まだ我慢できた。
今だけ、今日だけ、この時間が終われば、オリヴィアがアドニス様のお側に仕える機会は二度とない。そう思っていたのに…
(……オリヴィアが、アドニス様のお側にいるのは嫌だ…)
オリヴィアのことが嫌いな訳じゃない。
礼儀正しく、穏やかで、万が一にもアドニス様を傷つけることはないだろうと言い切れる程度には、オリヴィアのことは信頼している。
なにより、アドニス様がオリヴィアのことを好ましく思っている。そんな彼が、アドニス様と『友』になってくれるのであれば、こんなに喜ばしいことはないと思えた。
そう思うのに、従者としてオリヴィアがアドニス様のお側にいるのは、どうしたって嫌なのだ。
オリヴィアだけじゃない。
他の誰にだって、この役目を奪われたくない。共有だってしたくない。…自分だけが、側にいたい。
ただお側にいられたら───そう願っていたあの頃が嘘のように我が儘に、貪欲に膨れ上がった欲。
それを後ろめたく思うも、この気持ちがなによりも真っ直ぐな、隠してしまいたい自分の本音だった。
「…くぅ」
ぐるぐると渦巻き始めた欲は、アドニス様に愛されることだけを望んだ小さな体には大きすぎて、息苦しさから鳴き声が漏れた。
(…こんなこと、言えない…)
言ってしまったら、アドニス様に嫌われてしまうかもしれない…イヴァニエ様が恐れたような思考に飲み込まれ、くしゃりと顔が歪んだ。
欲深い自分が恥ずかしくて、切なくて、形容し難い苦しさから逃げるように、温かな胸にしがみついた。
「怖い」と言って赤子が泣くように、愛しい胸にぎゅうっと体を密着させた───瞬間、不意に後頭部を撫でられた気がして、ハッとして顔を上げた。
「……ねえないの…?」
反射的に見上げた先、とろりと蕩けた蜂蜜色が自分を見つめていて、息を呑んだ。
かろうじて聞き取れた声は、今にも眠ってしまいそうなほどふわふわしていて、寝惚けているのだろうことはすぐに分かった。
それなのに、ほとんど眠っている状態なのに、ゆるゆると頭を撫でる優しい手は止まらず、それが無性に嬉しくて、じわりと視界が滲んだ。
「んぅ…っ」
「ん……うれしぃね…」
込み上げる喜びのまま、目一杯の力でアドニス様に抱きつけば、ほにゃりとした微笑みと共に、自分の気持ちを読み取ったかのような一言が返ってきた。
驚いて目を見開くも、次の瞬間には金色の瞳は瞼の下に隠れていて、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
「………」
たまたま、目が覚めてしまったのだろう。
きっと明日の朝には、夜中に目覚めたことすら、アドニス様は忘れてしまっているだろう。
それでも、自分の寂しさや悲しさに寄り添ってくれるように、頭を撫で、微笑んでもらえたことが嬉しくて、心臓はトクトクとはしゃぎ、直前までの息苦しさは跡形もなく消えていた。
「…ん」
鼓膜を揺らす愛らしい寝息を聞きながら、静かに呼吸を繰り返せば、徐々に気持ちも凪いでいく。
そのまま柔らかな胸元に鼻先を擦り寄せ、甘えるように温もりに身を委ねれば、渦巻いていた欲はゆっくりと解けていった。
自分は、イヴァニエ様のように、素直に己の気持ちを口にすることもできない。
ルカーシュカ様のように、穏和にすべてを受け入れることもできない。
そればかりか、自分勝手な欲と切望を手放すこともできなければ、それを口にする勇気もない。
(……でも)
たぶん、それでいいのだ。
すべてをありのまま伝えられなくても、すべてを受け入れられなくても、本音を隠したいと抗っても、いいのだ。
欲望を曝け出すのは怖い。アドニス様に嫌われてしまうのも、悲しい思いをさせるのも、泣かせてしまうのも嫌だ。
それでも、ただ少し、ほんの少しでいい。
この欲張りな願いのその一欠片を、アドニス様に知っていてほしい───それが、自分の正直な気持ちだった。
『言わないと伝わらないこともあるからな』
ルカーシュカ様の言葉を思い出しながら、触れた肌から伝わる心音に耳をすませる。
トクリ、トクリと脈打つ音はどこまでも優しくて、泣きたくなるような熱と共に、心の真ん中にある純粋な願いが溢れ出す。
誰よりも、何よりも、貴方の側にいたい。
アドニス様を支え、お守りし、お仕えする唯一の者として、そこに在りたい。
そこに潜んだ独占欲は、イヴァニエ様の愛情とも、ルカーシュカ様の愛情とも違う。
自分だけの、特別な愛情だ。
(……上手に、言えるだろうか…)
言いたいけど言いたくないような、言いたくないけど言いたいような、揺れる気持ちを持て余したまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
期待と呼ぶには臆病で、不安と呼ぶには明朗な鼓動の音が、アドニス様の心音と重なるように混じり合う。
ただそれだけのことが嬉しくて、愛しくて、まだ告げてもいない我が儘を許されたような安堵から、意識はとろりと溶けていく。
明日も、明後日も、その先も───アドニス様の世界がどれだけ変わっても、いつまでも変わらず、お隣にいられる自分を夢見ながら、愛しい腕の中で、眠りについた。
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