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プティ・フレールの愛し子
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「おかえりなさい、アニー」
「ただいま、イヴ」
全身を包み込むイヴァニエの腕の中、甘えるようにその肩口に鼻先を擦り寄せると、深く息を吸い込んだ。
ふわりと広がった香りは慣れ親しんだ彼の匂いで、安堵と安心感が同時に胸に満ち溢れ、ほぅ…と息を吐く。
「ああ…っ、無事に帰ってきてくれて本当に良かったです…!」
「? 帰ってくるの、遅くなっちゃって、ごめんね?」
「いいんですよ。アニーが帰ってきてくれたのならそれで…」
その言葉に引っ掛かるものを感じながら、イヴァニエの背に手を回す。ぎゅうっと抱きつけば、体を包む腕の力が一層強くなった。
「んむ…」
「イヴァニエ、そろそろ代われ」
「……仕方ないですね」
イヴァニエの背後から聞こえた声に視線を向ければ、ルカーシュカとエルダが立っていた。身を包んでいた腕の力が緩み、イヴァニエと場所を代わるようにルカーシュカが前に出る。
「おかえり、アニー」
「ただいま、ルカ」
ふんわりと腰を抱き寄せる優しい腕。包み込むような温もりに誘われるように、ルカーシュカの体を抱き締めれば、こちらを見上げた彼がふっと微笑んでくれた。
「バルドル様とのお話しは楽しかったか?」
「うん…!」
「そうか。それなら良かった」
言葉と共にぎゅうっと抱き締められ、彼のサラリとした髪の毛が首筋を擽った。擽ったさにふへりと笑いながら、互いの温もりを胸に残すと、ゆっくりと体を離す。
「エルダ」
ルカーシュカの後ろ、静かに佇むエルダに声を掛ける。そろりと寄ってきた彼に自ら近づくと、華奢な体を目一杯抱き締めた。
「ただいま、エルダ」
「…おかえりなさいませ、アドニス様」
腕の中にすっぽりと収まってしまう細い体を胸元に寄せれば、エルダの手がおずおずと背中に回ったのが分かった。
きちんと抱き締め返してくれる抱擁に気持ちが浮き立つ中、非日常的な世界から帰ってきたのだという実感が、じわじわと身に染み始めた。
「アドニス様、何もございませんでしたか? ご不便や、困ったことはございませんでしたか?」
「大丈夫だよ。オリヴィアが、ずっと側にいてくれたから…」
言いながら背後を振り返り、背後に控えていたオリヴィアを見る。相変わらず気配もなく、静かにそこに立っていた彼だが、目が合うとゆるりと表情を和らげた。
「今日は、ずっとありがとう。オリヴィア」
「勿体ないお言葉でございます」
ニコリと笑う彼に笑みを返せば、エルダが腕の中からゆっくりと離れていった。
「エルダ?」
「…アドニス様は、オリヴィアと親しくなられたのですね」
「うん。オリヴィアとね、お友達になったの」
「……良いご縁を結べたのですね」
「うん…!」
若干の気恥ずかしさを混ぜて答えながら、ふとあることを思い出し、それを確かめるようにエルダとオリヴィアを交互に見つめた。
「? どうかなさいましたか?」
「今日ね、オリヴィアと一緒にいて思ったんだけど…エルダとオリヴィアは、似てるね」
「…!」
「ふふっ」
直後、目を見開いたエルダと、なぜか笑い声を漏らしたオリヴィアに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ、少し懐かしいことを思い出しまして…ねぇ、エルダ?」
「……そうですね」
「?」
ニコニコ顔のオリヴィアと、視線を逸らしてしまったエルダ。
不思議な反応に、再び二人を交互に見つめていると、こちらを見上げたエルダの視線が首元でぴたりと留まった。
「…アドニス様、こちらの首飾りはどうなさったのですか?」
「あ」
そう言われ、はたとその存在を思い出す。
バルドル神の優しさが込められたら金色の首飾りに指先を添えると、三人にもよく見えるように、くっと顔を上げた。
「これね、いつでも奥の宮に遊びにきなさいって、バルドル様がくださったんだよ」
「「「………」」」
喜びと嬉しさを混ぜて報告するも、返ってきたのはなぜか無言で、パチリと目を瞬く。
同時に三人の視線がオリヴィアに向き、その視線を辿るように顔を動かせば、なんとも言えない表情で肩を竦めるオリヴィアが視界に映った。
「色々と仰りたいお気持ちは分かりますが、まずはアドニス様のお話を聞いて差し上げて下さい。本日の出来事については、また改めてご報告致しますので」
「…そうだな。ここで話すことでもないだろう」
「…?」
(…報告ってなんだろう?)
彼らだけで理解し合っているらしい短いやりとりに、何事かと尋ねてもいいものかと迷っていると、目が合ったオリヴィアがゆったりとした動作で腰を折った。
「アドニス様、本日はありがとうございました。短いお時間でしたが、たくさんお話しができて、嬉しゅうございました」
「…私も、嬉しかったよ。また、お話ししようね」
「ええ、是非」
穏やかな声音につられるようにへにゃりと笑えば、淡い微笑みが返ってきた。
それを嬉しく思いつつ、なんとなく疑問を尋ねにくい雰囲気にこそりと口を噤めば、直後にエルダにそっと手を引かれた。
「アドニス様、そろそろお部屋に戻って、お休みになりましょう」
「…お休みするの?」
「ええ。バルドル様とたくさんお話しして、きっとアニーも気づかない内に、疲れが出ているはずです。少し休んだ方がいいでしょう」
「…ん」
エルダの言葉を引き継いだイヴァニエの言に、コクンと頷く。
確かに、奥の宮に行ってからずっとはしゃいでいた。たくさん泣いて、初めて見るもの、触れるものに感動して、バルドル神との会話で色々考えて…そう自覚した途端、体がほんの少しだけ重くなったような気がした。
それに気がついたのか、珍しく急かすように歩き出したエルダに手を引かれながら、イヴァニエとルカーシュカ、オリヴィアと共に出口へと向かう。
「オリヴィアは、またバルドル様の所に戻るの…?」
「はい。皆様をお見送りしてから、戻りたいと思います」
「…アニーは、オリヴィアとは普通に喋れるんだな」
「うん」
「ふふ、エルダと似ているからでしょうか?」
「そう…かも…だけど、でも、オリヴィアは、オリヴィアで…エルダと似てても違くて…オリヴィアだから、好きだよ?」
「ッ…!」
「……ありがとうございます。光栄です、アドニス様」
エルダに似ているからこそ親しみを感じたのは本当だ。でも、エルダとオリヴィアは違う。オリヴィアはオリヴィアで、優しい子で、彼個人として好きだ。
思ったままを口にすれば、彼が紫色の瞳をぱっちりと見開いた後、柔らかに細めた。
そうして短い会話を繰り返している間に、扉の前まで辿り着いていた。
ゆっくりと開いていく大きな扉を見上げていると、不意に足の裏が床から離れた。
「へゎっ!?」
「部屋に帰るまで、目を瞑っててもいいからな」
「え? ……あ…」
浮いた体と間近に見えるルカーシュカの顔に、抱き上げられていることを遅れて理解する。
一瞬、なにを言われているのか分からずポカンとするも、思い返せば、此処に来るまでの道のりは、イヴァニエに横抱きにされてやってきたのだ。
バルドル神との再会を終え、気を緩めていたせいか、歩いて自分の部屋まで戻らなければいけないことを完全に失念していた。
「フードを被っておきましょうね」
「……うん」
傍らに立ったイヴァニエにローブのフードを被せてもらえば、安全な腕の中から降りる気持ちは、音を立てて萎んでしまった。
バルドル神との会話で、大天使達に対する恐怖心も薄れ、前向きな気持ちになれたと思っていたのだが、そんなにいきなりは変われないらしい。
「それでは、話し合いの場はまた改めて設けましょう」
「承知致しました。本日はお越し下さいまして、ありがとうございました」
イヴァニエとオリヴィアがやりとりする様子を眺めながら、こちらを向いた彼に別れの挨拶を告げる。
「またね、オリヴィア」
「! …ええ。またお会いしましょう、アドニス様」
再会を願う言葉は温かくて、自然と頬が緩んだ。
閉じられていく扉の向こう側、徐々に見えなくなっていくオリヴィアを眺めている内に、パタリと扉が閉まった。
「さぁ、帰ろうか」
「うん」
ルカーシュカに横抱きにされたまま、長い廊下を進む。来た時とは違い、それほど怖いと思わないのは、バルドル神と話したおかげだろう。
フードの隙間からこっそりと周りを見ていると、ふとエルダの姿が見えないことに気づき、キョロキョロと辺りを見回した。
「あれ? エルダは?」
「エルダなら後ろにいるよ」
歩みを止めたルカーシュカが振り向けば、そこには俯きがちに立つエルダがいた。
「エルダ?」
「…はい」
「…どうしたの?」
いつもなら真っ直ぐこちらを見てくれる翠色が、なぜか伏せられたままだ。声にも元気がないことにオロオロするも、隣に立つイヴァニエがクスリと笑みを零し、「大丈夫」と言うように頬を撫でた。
「アニー、エルダは寂しかったのですよ」
「寂しい…?」
「オリヴィアがエルダの代わりに、アニーの側にいたでしょう? その間、エルダは一人でしたからね。オリヴィアとアニーが仲良くなって、自分との時間が減ってしまったのが寂しくて仕方ないのですよ」
「………」
イヴァニエの言葉を、エルダは否定しなかった。
寂しげな、それでいてどこか拗ねているような様子が可愛らしくて、堪らずキュウッと胸が鳴く。
チラリとルカーシュカを見れば、それだけで自分の言いたいことが伝わったのか、小さく頷いてくれた。
「エルダ、おいで」
「……ですが…」
「エルダ、いいから来い」
「っ…!」
誘うように手を伸ばせば、キュッと唇を喰んだエルダがポンッという軽やかな音と共に姿を変えた。
小さくなった身で一直線に胸に飛び込んできたエルダを抱き留めると、柔い体をぎゅうっと抱き締める。
「ごめんね。寂しい気持ちにさせちゃったね」
「…う」
エルダの匂いに、ほんのりと混じった甘いミルクの香り。綿毛のようなふわふわとした毛先に、そっと唇を寄せれば、胸の上で小さな体がもぞもぞと身じろぎした。
「アニー、私も寂しかったですよ」
「張り合うな」
「張り合ってません。本心です」
「んと…イヴも、あとで、ギュッてしようね」
「ええ、たくさんギュッてしましょう」
「ルカも」
「…ああ」
ニコニコと笑うイヴァニエと、困ったように微笑むルカーシュカ、腕の中で甘えるエルダに囲まれ、部屋に向かうまでの道中は、ほんの少しも怖いと思うことはなかった。
「アニー、着いたよ」
「ん…」
ゆらゆらと揺れる心地良い振動と、温い赤ん坊体温に包まれ、部屋に辿り着いた頃には意識はウトウトとし始めていた。
ぽんわりとする頭のまま、ぼぅっと見つめた先にはベッドがあり、その上にゆっくりと降ろされた。
「ん……まだ、寝ない…」
そのまま寝かされそうになり、眠気に逆らうように体を起こす。
奥の宮で見たもの、触れたもの、バルドル神との会話で感じたこと…皆に話したいことがたくさんあるのだ。
のそのそと起き上がろうとするも、それをイヴァニエにやんわりと止められ、一緒に横になったエルダには小さな手でぐいぐいと服を引っ張られた。
「アニー、無理をしないで、今は休みましょうね」
「う!」
「でも……お話し…したい…」
「うん、お話しは起きたらしような」
「……ん」
ルカーシュカに布団を被せられ、イヴァニエに頭を撫でられ、眠気に弱い体はゆるゆるとベッドに横たわる。
「エルダも寝るんですか?」
「ん」
「…まぁ、今日は仕方ないですね」
肩を竦めるイヴァニエの声に返事をするように、エルダが胸元に頬を擦り寄せる。
いつもより甘えたなエルダのまろい頬を撫でれば、その柔らかさと愛らしさに頬が綻んだ。と、そこでイヴァニエとルカーシュカと『ギュッ』としてないことを思い出し、横になったまま両腕を伸ばした。
「イヴ……ギュッて、する…」
「! ふふ、ええ、ギュッてしましょうね」
ベッドの脇に腰掛けていたイヴァニエが身を屈め、上半身を抱き締めてくれる。そのまま唇が触れるだけの優しいキスを交わすと、イヴァニエの体がそっと離れていった。
「ルカも…」
寝返りを打つように体の向きを変え、ルカーシュカにも手を伸ばす。苦笑を零す彼と口づけと抱擁を交わせば、やわやわと頭を撫でられた。
「アニーは本当に可愛いな。さぁ、ギュッてしたから、もう寝ような」
「ん…」
両サイドに腰を下ろしたイヴァニエとルカーシュカに、頬や頭を撫でられ、エルダの温かな体を腕に抱けば、意識はあっという間に薄れていく。
「バルドル様とね……いっぱい…お話し、したよ」
「うん」
「お船に…乗って……、お散歩…して……」
「アニー、お話しはまたゆっくりしましょう。今はお口を閉じて、おやすみしましょうね」
「……ん…」
断片的に今日の出来事を語ろうとするも、既に眠気は限界で、目を閉じれば、体が心地良い重みに沈んでいくのが分かった。
(起きたら、いっぱい、お話ししよう…)
眠ったら忘れてしまわないよう、今日の思い出を夢見るように思い描いている内に、意識はとぷりと眠りの底に落ちていった。
翌日、改めてイヴァニエとルカーシュカ、エルダが揃う中で、バルドル神と過ごした時間と交わした言葉について語った。
きちんと再会できたこと、奥の宮へ遊びにおいでと言われたこと、大天使達のこと、そして、大天使達に対する恐怖心はもう無いこと───…
緊張はするし、正直に言えば、怯える気持ちはまだ残っている。
それでも、少しずつでもいいから、彼らと接する機会を増やしていきたいと、素直に自分の気持ちを伝えた。
これまで、自分のことを心から案じてくれていた彼らなら、きっとこの成長を喜んでくれるはず───そう信じて疑わなかった。
「ただいま、イヴ」
全身を包み込むイヴァニエの腕の中、甘えるようにその肩口に鼻先を擦り寄せると、深く息を吸い込んだ。
ふわりと広がった香りは慣れ親しんだ彼の匂いで、安堵と安心感が同時に胸に満ち溢れ、ほぅ…と息を吐く。
「ああ…っ、無事に帰ってきてくれて本当に良かったです…!」
「? 帰ってくるの、遅くなっちゃって、ごめんね?」
「いいんですよ。アニーが帰ってきてくれたのならそれで…」
その言葉に引っ掛かるものを感じながら、イヴァニエの背に手を回す。ぎゅうっと抱きつけば、体を包む腕の力が一層強くなった。
「んむ…」
「イヴァニエ、そろそろ代われ」
「……仕方ないですね」
イヴァニエの背後から聞こえた声に視線を向ければ、ルカーシュカとエルダが立っていた。身を包んでいた腕の力が緩み、イヴァニエと場所を代わるようにルカーシュカが前に出る。
「おかえり、アニー」
「ただいま、ルカ」
ふんわりと腰を抱き寄せる優しい腕。包み込むような温もりに誘われるように、ルカーシュカの体を抱き締めれば、こちらを見上げた彼がふっと微笑んでくれた。
「バルドル様とのお話しは楽しかったか?」
「うん…!」
「そうか。それなら良かった」
言葉と共にぎゅうっと抱き締められ、彼のサラリとした髪の毛が首筋を擽った。擽ったさにふへりと笑いながら、互いの温もりを胸に残すと、ゆっくりと体を離す。
「エルダ」
ルカーシュカの後ろ、静かに佇むエルダに声を掛ける。そろりと寄ってきた彼に自ら近づくと、華奢な体を目一杯抱き締めた。
「ただいま、エルダ」
「…おかえりなさいませ、アドニス様」
腕の中にすっぽりと収まってしまう細い体を胸元に寄せれば、エルダの手がおずおずと背中に回ったのが分かった。
きちんと抱き締め返してくれる抱擁に気持ちが浮き立つ中、非日常的な世界から帰ってきたのだという実感が、じわじわと身に染み始めた。
「アドニス様、何もございませんでしたか? ご不便や、困ったことはございませんでしたか?」
「大丈夫だよ。オリヴィアが、ずっと側にいてくれたから…」
言いながら背後を振り返り、背後に控えていたオリヴィアを見る。相変わらず気配もなく、静かにそこに立っていた彼だが、目が合うとゆるりと表情を和らげた。
「今日は、ずっとありがとう。オリヴィア」
「勿体ないお言葉でございます」
ニコリと笑う彼に笑みを返せば、エルダが腕の中からゆっくりと離れていった。
「エルダ?」
「…アドニス様は、オリヴィアと親しくなられたのですね」
「うん。オリヴィアとね、お友達になったの」
「……良いご縁を結べたのですね」
「うん…!」
若干の気恥ずかしさを混ぜて答えながら、ふとあることを思い出し、それを確かめるようにエルダとオリヴィアを交互に見つめた。
「? どうかなさいましたか?」
「今日ね、オリヴィアと一緒にいて思ったんだけど…エルダとオリヴィアは、似てるね」
「…!」
「ふふっ」
直後、目を見開いたエルダと、なぜか笑い声を漏らしたオリヴィアに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ、少し懐かしいことを思い出しまして…ねぇ、エルダ?」
「……そうですね」
「?」
ニコニコ顔のオリヴィアと、視線を逸らしてしまったエルダ。
不思議な反応に、再び二人を交互に見つめていると、こちらを見上げたエルダの視線が首元でぴたりと留まった。
「…アドニス様、こちらの首飾りはどうなさったのですか?」
「あ」
そう言われ、はたとその存在を思い出す。
バルドル神の優しさが込められたら金色の首飾りに指先を添えると、三人にもよく見えるように、くっと顔を上げた。
「これね、いつでも奥の宮に遊びにきなさいって、バルドル様がくださったんだよ」
「「「………」」」
喜びと嬉しさを混ぜて報告するも、返ってきたのはなぜか無言で、パチリと目を瞬く。
同時に三人の視線がオリヴィアに向き、その視線を辿るように顔を動かせば、なんとも言えない表情で肩を竦めるオリヴィアが視界に映った。
「色々と仰りたいお気持ちは分かりますが、まずはアドニス様のお話を聞いて差し上げて下さい。本日の出来事については、また改めてご報告致しますので」
「…そうだな。ここで話すことでもないだろう」
「…?」
(…報告ってなんだろう?)
彼らだけで理解し合っているらしい短いやりとりに、何事かと尋ねてもいいものかと迷っていると、目が合ったオリヴィアがゆったりとした動作で腰を折った。
「アドニス様、本日はありがとうございました。短いお時間でしたが、たくさんお話しができて、嬉しゅうございました」
「…私も、嬉しかったよ。また、お話ししようね」
「ええ、是非」
穏やかな声音につられるようにへにゃりと笑えば、淡い微笑みが返ってきた。
それを嬉しく思いつつ、なんとなく疑問を尋ねにくい雰囲気にこそりと口を噤めば、直後にエルダにそっと手を引かれた。
「アドニス様、そろそろお部屋に戻って、お休みになりましょう」
「…お休みするの?」
「ええ。バルドル様とたくさんお話しして、きっとアニーも気づかない内に、疲れが出ているはずです。少し休んだ方がいいでしょう」
「…ん」
エルダの言葉を引き継いだイヴァニエの言に、コクンと頷く。
確かに、奥の宮に行ってからずっとはしゃいでいた。たくさん泣いて、初めて見るもの、触れるものに感動して、バルドル神との会話で色々考えて…そう自覚した途端、体がほんの少しだけ重くなったような気がした。
それに気がついたのか、珍しく急かすように歩き出したエルダに手を引かれながら、イヴァニエとルカーシュカ、オリヴィアと共に出口へと向かう。
「オリヴィアは、またバルドル様の所に戻るの…?」
「はい。皆様をお見送りしてから、戻りたいと思います」
「…アニーは、オリヴィアとは普通に喋れるんだな」
「うん」
「ふふ、エルダと似ているからでしょうか?」
「そう…かも…だけど、でも、オリヴィアは、オリヴィアで…エルダと似てても違くて…オリヴィアだから、好きだよ?」
「ッ…!」
「……ありがとうございます。光栄です、アドニス様」
エルダに似ているからこそ親しみを感じたのは本当だ。でも、エルダとオリヴィアは違う。オリヴィアはオリヴィアで、優しい子で、彼個人として好きだ。
思ったままを口にすれば、彼が紫色の瞳をぱっちりと見開いた後、柔らかに細めた。
そうして短い会話を繰り返している間に、扉の前まで辿り着いていた。
ゆっくりと開いていく大きな扉を見上げていると、不意に足の裏が床から離れた。
「へゎっ!?」
「部屋に帰るまで、目を瞑っててもいいからな」
「え? ……あ…」
浮いた体と間近に見えるルカーシュカの顔に、抱き上げられていることを遅れて理解する。
一瞬、なにを言われているのか分からずポカンとするも、思い返せば、此処に来るまでの道のりは、イヴァニエに横抱きにされてやってきたのだ。
バルドル神との再会を終え、気を緩めていたせいか、歩いて自分の部屋まで戻らなければいけないことを完全に失念していた。
「フードを被っておきましょうね」
「……うん」
傍らに立ったイヴァニエにローブのフードを被せてもらえば、安全な腕の中から降りる気持ちは、音を立てて萎んでしまった。
バルドル神との会話で、大天使達に対する恐怖心も薄れ、前向きな気持ちになれたと思っていたのだが、そんなにいきなりは変われないらしい。
「それでは、話し合いの場はまた改めて設けましょう」
「承知致しました。本日はお越し下さいまして、ありがとうございました」
イヴァニエとオリヴィアがやりとりする様子を眺めながら、こちらを向いた彼に別れの挨拶を告げる。
「またね、オリヴィア」
「! …ええ。またお会いしましょう、アドニス様」
再会を願う言葉は温かくて、自然と頬が緩んだ。
閉じられていく扉の向こう側、徐々に見えなくなっていくオリヴィアを眺めている内に、パタリと扉が閉まった。
「さぁ、帰ろうか」
「うん」
ルカーシュカに横抱きにされたまま、長い廊下を進む。来た時とは違い、それほど怖いと思わないのは、バルドル神と話したおかげだろう。
フードの隙間からこっそりと周りを見ていると、ふとエルダの姿が見えないことに気づき、キョロキョロと辺りを見回した。
「あれ? エルダは?」
「エルダなら後ろにいるよ」
歩みを止めたルカーシュカが振り向けば、そこには俯きがちに立つエルダがいた。
「エルダ?」
「…はい」
「…どうしたの?」
いつもなら真っ直ぐこちらを見てくれる翠色が、なぜか伏せられたままだ。声にも元気がないことにオロオロするも、隣に立つイヴァニエがクスリと笑みを零し、「大丈夫」と言うように頬を撫でた。
「アニー、エルダは寂しかったのですよ」
「寂しい…?」
「オリヴィアがエルダの代わりに、アニーの側にいたでしょう? その間、エルダは一人でしたからね。オリヴィアとアニーが仲良くなって、自分との時間が減ってしまったのが寂しくて仕方ないのですよ」
「………」
イヴァニエの言葉を、エルダは否定しなかった。
寂しげな、それでいてどこか拗ねているような様子が可愛らしくて、堪らずキュウッと胸が鳴く。
チラリとルカーシュカを見れば、それだけで自分の言いたいことが伝わったのか、小さく頷いてくれた。
「エルダ、おいで」
「……ですが…」
「エルダ、いいから来い」
「っ…!」
誘うように手を伸ばせば、キュッと唇を喰んだエルダがポンッという軽やかな音と共に姿を変えた。
小さくなった身で一直線に胸に飛び込んできたエルダを抱き留めると、柔い体をぎゅうっと抱き締める。
「ごめんね。寂しい気持ちにさせちゃったね」
「…う」
エルダの匂いに、ほんのりと混じった甘いミルクの香り。綿毛のようなふわふわとした毛先に、そっと唇を寄せれば、胸の上で小さな体がもぞもぞと身じろぎした。
「アニー、私も寂しかったですよ」
「張り合うな」
「張り合ってません。本心です」
「んと…イヴも、あとで、ギュッてしようね」
「ええ、たくさんギュッてしましょう」
「ルカも」
「…ああ」
ニコニコと笑うイヴァニエと、困ったように微笑むルカーシュカ、腕の中で甘えるエルダに囲まれ、部屋に向かうまでの道中は、ほんの少しも怖いと思うことはなかった。
「アニー、着いたよ」
「ん…」
ゆらゆらと揺れる心地良い振動と、温い赤ん坊体温に包まれ、部屋に辿り着いた頃には意識はウトウトとし始めていた。
ぽんわりとする頭のまま、ぼぅっと見つめた先にはベッドがあり、その上にゆっくりと降ろされた。
「ん……まだ、寝ない…」
そのまま寝かされそうになり、眠気に逆らうように体を起こす。
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「アニー、無理をしないで、今は休みましょうね」
「う!」
「でも……お話し…したい…」
「うん、お話しは起きたらしような」
「……ん」
ルカーシュカに布団を被せられ、イヴァニエに頭を撫でられ、眠気に弱い体はゆるゆるとベッドに横たわる。
「エルダも寝るんですか?」
「ん」
「…まぁ、今日は仕方ないですね」
肩を竦めるイヴァニエの声に返事をするように、エルダが胸元に頬を擦り寄せる。
いつもより甘えたなエルダのまろい頬を撫でれば、その柔らかさと愛らしさに頬が綻んだ。と、そこでイヴァニエとルカーシュカと『ギュッ』としてないことを思い出し、横になったまま両腕を伸ばした。
「イヴ……ギュッて、する…」
「! ふふ、ええ、ギュッてしましょうね」
ベッドの脇に腰掛けていたイヴァニエが身を屈め、上半身を抱き締めてくれる。そのまま唇が触れるだけの優しいキスを交わすと、イヴァニエの体がそっと離れていった。
「ルカも…」
寝返りを打つように体の向きを変え、ルカーシュカにも手を伸ばす。苦笑を零す彼と口づけと抱擁を交わせば、やわやわと頭を撫でられた。
「アニーは本当に可愛いな。さぁ、ギュッてしたから、もう寝ような」
「ん…」
両サイドに腰を下ろしたイヴァニエとルカーシュカに、頬や頭を撫でられ、エルダの温かな体を腕に抱けば、意識はあっという間に薄れていく。
「バルドル様とね……いっぱい…お話し、したよ」
「うん」
「お船に…乗って……、お散歩…して……」
「アニー、お話しはまたゆっくりしましょう。今はお口を閉じて、おやすみしましょうね」
「……ん…」
断片的に今日の出来事を語ろうとするも、既に眠気は限界で、目を閉じれば、体が心地良い重みに沈んでいくのが分かった。
(起きたら、いっぱい、お話ししよう…)
眠ったら忘れてしまわないよう、今日の思い出を夢見るように思い描いている内に、意識はとぷりと眠りの底に落ちていった。
翌日、改めてイヴァニエとルカーシュカ、エルダが揃う中で、バルドル神と過ごした時間と交わした言葉について語った。
きちんと再会できたこと、奥の宮へ遊びにおいでと言われたこと、大天使達のこと、そして、大天使達に対する恐怖心はもう無いこと───…
緊張はするし、正直に言えば、怯える気持ちはまだ残っている。
それでも、少しずつでもいいから、彼らと接する機会を増やしていきたいと、素直に自分の気持ちを伝えた。
これまで、自分のことを心から案じてくれていた彼らなら、きっとこの成長を喜んでくれるはず───そう信じて疑わなかった。
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