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プティ・フレールの愛し子
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「え?」
行くぞ、と意気込んで一歩を踏み込んだ次の瞬間、ザァッと周囲の景色が変わり、瞬きの間に見知らぬ場所に立っていた。
(え……今……)
左右の壁が、背後にズレた───まるで自分だけをその場に取り残すかのように、周囲が動いたように見えた。
そう認識するよりも早く、目の前には見知らぬ屋敷が現れ、足元は大理石の床から、温みのある石畳みへと変化していた。
「ようこそ、奥の宮へ」
「え……えっ? なんで?」
にこやかに告げるオリヴィアに、動転したままパッと背後を振り返る。そこにあったのは白い石柱で囲われたガゼボのような建造物で、中央では見覚えのある薄絹のヴェールがゆらゆらと風に揺れていた。
「なんで…?」
「驚かれましたか?」
「うん…」
素直にコクリと頷けば、オリヴィアがクスクスと笑った。
「あのヴェールが一種の転移扉の役目を担っているので、バルドル様の許可を得た者は、このように一瞬で移動できるのですよ」
「はぇ…」
転移扉といえば、自室とフレールの庭やイヴァニエ達の部屋を繋ぐあの扉だが、どうやらその形状は様々らしい。ひとしきり感心しながら、揺れるヴェールを見つめていると、オリヴィアが繋いだ手をそっと引いた。
「参りましょう、アドニス様」
「うん…」
てっきりバルドル神の元に辿り着くまで、いくらか歩くと思っていたのだが、一瞬で奥の宮と呼ばれる所まで来てしまったことに呆気に取られる。
感心と感動が入り混じった頭のまま、オリヴィアが導く先を見つめれば、自分の知っている天界とは趣きの異なる幻想的な世界が広がっていた。
(ここが、奥の宮…)
双樹に似た淡い桃色の花木がそこかしこに根を張る一面の景色の中に、荘厳な建物が佇んでいた。
宮廷やルカーシュカ達の離宮とは異なり、高さはそれほどないのだが、視界の端から端までに全てを収めることができないその広さに圧倒される。
今まで見たことがない不思議な雰囲気の建造物を目の前に、どうしてもワクワクとした好奇心を抑えられず、視線が遊んだ。
ほんのりと温かな石畳みを歩きながら、花のトンネルのような道を進めば、どこからともなく花弁が降ってくる。
風と遊ぶそれに手を伸ばせば、一枚が手の平に乗り、眺めている間に光の粒子となってふわりと消えた。
(不思議…)
尊厳な佇まいの中に見える儚さは、確かにそこにあると分かるのに、今にも消えてしまいそうなほど淡く朧げだ。
吸い込む空気すら暖かく、幻のような屋敷を眺めながら足を進めていると、ほどなくして入り口らしき場所へと辿り着いた。
「どうぞ、お入り下さい」
「う、うん」
オリヴィアに招かれるまま、建物の中へと踏み込めば、外の明るかった景色とは対照的に、中は随分と落ち着いた色合いをしていた。
木造りの内装は床も壁も天井も真っ黒で、一瞬怯んでしまうが、その表面は艶やかで、木の木目には温もりがあった。
全体的に黒い室内だが、広さ故か圧迫感はない。置かれた調度品は華やかに輝き、生けられた花からは清廉な香りが漂う。黒い背景の中だからこそ際立つ色彩に思わず見惚れながら、辺りをぐるりと見回した。
「すごい……綺麗…」
「お気に召して頂けましたか?」
「う? …うん」
「それは良うございました」
なぜか自分の好みを気にするオリヴィアに首を傾げつつ、ひとしきり入り口付近を眺めて回ると、再び彼に手を引かれて建物の中を進んだ。
黒檀の床は滑りそうなほど美しく磨かれ、艶のある表面にはうっすらと自分の姿が映った。ぺたり、ぺたり、という自身の足音が妙に響く中、オリヴィアの後をついて歩きながら周りを見回す。
外観から見た通り、建物の内部はどこまでも広い空間が続いていて、長く長い廊下はその先が見えないほどだ。
不思議な形の扉や窓が並ぶ廊下を抜け、高い天井から吊るされた巨大な照明を見上げ、屋内の中にある小さな庭を眺める。
所々立ち止まり、「あれはなに?」とオリヴィアに尋ねながら歩くこと暫く、ふと外の香りが強くなった。
「こちらへどうぞ」
「わぁ…!」
オリヴィアが足を向けた先、そこはまるで、外の世界と屋内が混じり合ったような廊下だった。
屋根はあるのに左右に壁はなく、一段高くなった廊下の両側には、花や緑が生い茂っていた。足元がほんのりと明るいのは、左右に敷き詰められた真白い石が発光しているからだろう。
厳かな室内の造りはそのまま、漂う空気は暖かな外のそれで、明らかに特別な場所だと分かる空間に、妙に気分が高揚した。
「この先にて、バルドル様がお待ちです」
「っ…、…はい」
ワクワクとしたのも束の間、オリヴィアの言に途端に緊張が走り、背筋を伸ばした。
長い廊下をゆっくりと進みながら、気持ちを落ち着かせていると、ふとある違和感に気づき、オリヴィアに声を掛けた。
「…ねぇ、オリヴィア」
「はい?」
「さっきから、誰とも会ってないけど…ここには誰もいないの…?」
「はい。こちらには基本的に他の者はおりません。今も私とアドニス様、バルドル様しかいらっしゃいませんよ」
「…こんなに広い所に、バルドル様は、一人でいるの…?」
「普段はそうですね」
「……バルドル様は、寂しく、ない…?」
「…ご安心下さいませ。側仕えの者はおりませんが、プティは例外的に自由に出入りできますから、普段はプティ達と遊んでお過ごしです。きっと、お寂しくはないはずですよ」
「そっか…良かった。みんなと一緒なら、楽しいね」
「ええ、左様でございますね」
広い広い建物の中は暖かいが、人の気配が無いせいか、どこか冷えているように感じた。
もしも自分が、この中で一人で過ごすことになったら…と考えると、寂しくて堪らない気持ちになったが、赤子達が出入りしているのだと知り、ホッと気が緩んだ。
「オリヴィアも、あの子達と一緒に、遊ぶ…?」
「私はバルドル様のお側に控えているだけなので、共に遊んでいる感覚はあまりないのですが…バルドル様のついでに、遊んでもらっているかもしれませんね」
「ふふ、そうなんだ」
どこか戯けたように話すオリヴィアに、自然と笑んでしまう。
バルドル神と遊ぶ赤ん坊達と、傍らで静かに控えながら、小さな天使達の相手をするオリヴィア。
想像した微笑ましい様子は、なんだか自分とエルダの関係に似ていて、浮かんだ光景にはたとあることに気づいた。
(そっか……オリヴィアって、エルダに似てるんだ)
見た目ではなく、纏う空気がよく似ている気がする。
思えば、きちんと言葉を交わしたのはつい先ほどのことなのに、こうして普通に話せているのも、彼とエルダが似ているからだろう。
初対面から微笑んでくれた彼に対し、元から警戒心は薄かった。その上で、柔らかな口調も、見守るような眼差しも、手を繋いで歩いてくれる行為も、オリヴィアの行動にはエルダを彷彿させるものが多かった。
(ゆっくり歩いてくれるのも、そっくりだし…)
オリヴィアがエルダに似ているから、緊張せずにこうして笑っていられるのだろう。
そんな彼を心強く思う反面、思わぬ形でエルダのことを思い出してしまい、ちょっとだけ寂しくなる。
(…帰ったら、エルダも、イヴも、ルカも、ぎゅってしよう)
それをご褒美に頑張るのだ、と気合いを入れ直すのとほぼ同じく、長い廊下の終わりが見えた。
正面の黒い壁は、中央部がぽっかりと丸くくり抜かれ、紙でできた不思議な扉で仕切られていた。
この向こう側に、神様がいる───そう確信し、コクリと息を呑む。
「アドニス様、ここからは、私はアドニス様の後ろに控えております。この先はアドニス様お一人で進んで頂きたいと思いますが…大丈夫ですか?」
「…うん」
「ご安心下さい。私はすぐ後ろにおります。お独りではないですからね」
「…うん」
どうやら手を繋いで歩けるのはここまでらしい。
少年の手がするりと解けると、途端に不安と緊張が押し寄せたが、丸まりそうになる背を精一杯伸ばし、前を向いた。
(……大丈夫)
オリヴィアに向かってコクリと頷けば、彼が目の前の扉に手を翳した。不思議な形の扉は、それだけで音もなくスラリと左右に開き、同時にパァッと視界が開けた。
視界いっぱいに映る明るい室内は、これまでの一面黒い廊下や壁とは異なり、白木造りの柔らかな色合いの部屋だった。
眩しいとすら感じる広い部屋の一面は壁が無く、外の景色が一望できた。
どこまでも広がる庭園の風景が、等間隔の柱で区切られて見える様は、まるで一つ一つが絵画のように美しい。
つい魅入ってしまいそうになるも、二間続きの部屋の先、部屋と庭との境い目にゆるりと腰を下ろし、庭園を眺めている人影があることに気づき、ドクリと胸が鳴った。
己を奮い立たせ、震える呼吸を静かに吐き出すと、象牙色の床にゆっくりと一歩を踏み出す。
足裏に感じるのはほんの少しの柔らかさと弾力で、石でも木でもないその感触に、つい立ち止まって足下を見てしまいそうになるも、グッと堪えた。
ほんのりと温かく、足音すら柔らかな床の上を歩き、庭園を眺めるその人に近づけば、目の覚めるような美丈夫がふっとこちらを振り向いた。
「よく来たね」
「ッ……!」
優しい優しい、陽だまりのような微笑みと、左右で違う色を宿す双眸に見つめられ、ふるりと身が震えた。
低い声は体の中心までジンと沁みるように重いのに、穏やかな声音は全身の強張りを溶かすように優しい。
ひどく懐かしいその声も、柔らかに瞳を細める風貌も、長く長い黒髪と同色の装いも───変わらぬ姿の神様に、なぜか無性に泣きたくなった。
「さぁ、こちらにおいで」
「は、い…」
気を抜くと泣いてしまいそうなのを堪え、おずおずとバルドル神の側に寄る。
柔らかな床とは異なり、木造りの床に腰を据えるバルドル神の足下には、鮮やかな朱色の敷物が敷かれていた。
その上まで来るように誘われ、恐る恐る近づき、敷物の上に足を乗せれば、バルドル神がそっと片手を差し出した。
「おいで、アドニス」
───ああ、この手の温かさを、自分は知っている。
記憶に残ったいつかの温もりを求めるように、差し出された手の平に自分の手を重ねれば、まるで吸い寄せられるように、ふわりと体が傾いた。
「っ…!?」
倒れそうな傾きに身構えるより早く、全身を包み込むような温もりが、自身の肉体を受け止めた。
「会いたかったよ、私の愛しい子」
「───」
耳元で響く重低音と、鼻先を掠める艶やかな黒髪。
息を吸い込めば、陽だまりと香を混ぜたようなバルドル神の香りが、直に鼻腔を擽った。
ふかりとした服越しに伝わる体温と、背に回された腕、緩く全身を締め付ける力に、バルドル神に抱き締められているのだと遅れて気づく。
「元気そうで安心した。ここまで、よく頑張って一人で来たな。偉いぞ、アドニス」
「っ……」
大きな手が、やわやわと頭を撫でる。
その声が、その手が、体を包み込む温もりが、優しくて優しくて、嬉しくて───気づけば、堪えていた涙がぽたりと零れていた。
「ふっ…、…ご、ごめ、なさ…っ」
「おや、どうして泣くんだ?」
「だ、だ…て……っ」
安堵の籠った声には、ずっとずっと心配してくれていたのだろう深い慈しみの情が滲んでいた。
その御心も知らず、気づこうともせず、ただ目先の幸せだけを拾い集めていた自分が恥ずかしくて、申し訳なくて…我が身を案じてもらえる喜びもごちゃ混ぜになった感情から、涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんなさい…!」
「困った子だね。謝ることなどないのに、何を悔いているんだい?」
「だって…、し、心配…っ、いっぱい、させて…っ」
「父が我が子を想うのは当然だろう? お前は優しい子だね」
「良い子、良い子」と褒めるように頭を撫でられ、更に涙が溢れる。
良い子でも、優しい子でもない。そう思うのに、そうして褒めてもらえるのが堪らなく嬉しくて、同時に恋しくて、空いていた両手が自然と大きな背に回った。
立派な体躯にしがみつくようにぎゅうっと抱きつけば、まるでそれに返事をするように、バルドル神の腕の力も強くなった。
「んぅ…」
「良い子だな、アドニス。…お前が健やかに、楽しく日々を過ごしているのであれば、父はそれだけで幸せだ。元気でいてくれて、嬉しいよ」
「う…っ、う……!」
抱き締められた腕の中、バルドル神の服の中に埋もれながら、何度も何度も頷いた。
大好きな皆に囲まれ、好きな所で好きなように過ごし、甘い果実とミルクを糧に愛しい時間を過ごす。
外の景色を眺めることすらできなかった寂しく辛い過去が、ずっとずっと遠い記憶として薄れてしまうほど、心から幸せを喜ぶ日々。
本当に、今の自分はとてもとても幸せだ───重なった温もりから、喜びと感謝の気持ちが伝わるようにと願いを込めて、何度も何度も、頷いた。
トクリ、トクリと脈打つ鼓動の音が鼓膜を揺する。
子守唄に似たその音に身を委ねるように、温もりに身を預けてから、どれほど時間が経っただろう。
安心感が体の隅々まで染み渡り、ぼんやりとする意識の中、ポン…ポン…と規則的に背を叩く淡い振動に、とろりと目を開けた。
(……寝てた?)
いや、寝てはいない…はずだ。ただぼんやりし過ぎて、ほとんど意識を無くしていたらしい。
居心地の良い温もりに包まれ、ぼぅっとする意識の中、もぞりと身じろぎをした───次の瞬間、自分が今『誰』にしがみついているのかを思い出し、弾かれるように身を起こした。
「ッ…!!」
「おっと」
「あゎっ」
勢いをつけ過ぎて、反動で後ろに倒れそうになる体を、大きな手に支えられる。
「急にどうした? 危ないぞ」
「ご、ごめんなさい…」
色んな意味でドキドキする胸を押さえながら、バルドル神と向き合うように座り込む。
膝同士が触れ合うほど近い距離に戸惑うも、今の今まで、その腕の中に収まっていたことを思うとそれどころではく、急激な羞恥が込み上げた。
「ふふ、恥ずかしくなってしまったのか」
「えぅ…」
直球で言い当てられ、恥ずかしさを誤魔化すように指先を遊ばせれば、サラリとした手の平が頬を撫でた。
「たくさん泣かせてしまったな」
「え……あ、これは…あの、自分が……えっと…」
「ああ、分かっているよ」
後悔も、羞恥も、歓喜も、全てを見透かすような瞳に見つめられ、僅かに目を見開く。
募ってた後悔ごと、全部を温かく包み込んでくれるような声音に蟠りはすぅっと溶け、溶けた後悔の雫は、言の葉になって口から溢れ出した。
「…バルドル様、これまで、いっぱい…心配して下さって…ありがとうございます。きちんと、知らないで…ずっと、ちゃんと、ありがとうございますって、言えなくて…ごめんなさい」
「謝らなくていい。先にも言ったように、お前が健やかに過ごしているのであれば、それが私にとっての喜びだ」
「…はい」
頬を撫でていた手が、再び頭を撫でる。大きな手に優しく撫でられる感覚は気持ち良くて、膨れる安心感から、つい「もっと」と甘えたくなってしまう。
「フォルセの果実としての務めも、頑張っているね」
「はい」
「務めは楽しいか?」
「はい」
「それは良いことだ」
嬉しげな声に、自分まで嬉しくなる。
褒めてもらえたことに、ほんの少しだけ誇らしい気持ちになりながら頭を差し出していると、ふっと手の平が頭から離れた。
「本当に、よく会いに来てくれた。元気な姿を見れて、父は嬉しいよ」
「…私も、バルドル様にお会いできて、嬉しいです」
本心からそう告げれば、美しい顔が、蕩けるように微笑んだ。
見惚れてしまうほどの神々しい微笑みに、ただただ見惚れていると、両手をバルドル神の手の平が包んだ。
「ここまで来るのは、怖くなかったかな?」
「はい。えっと…オリヴィアが、いてくれたから…」
「それは良かった。オリヴィアも、よくやってくれた。ありがとう」
「恐れ入ります」
背後から聞こえた涼やかな声に、ようやくオリヴィアがそこにいたことを思い出す。
今の今まで、完全に気配が消えていた為、バルドル神に抱き締められた辺りから、その存在が意識の端から飛び出ていた。
ハッとすると同時に、バルドル神に縋り付き、泣きじゃくっていた姿を見られていたのだと思い出し、じわじわと頬が熱くなる。
(…オリヴィアにも、泣き虫だって思われちゃう…)
正直、初対面の時点で盛大に泣きじゃくっているので、今更かもしれないが…そう思いつつ、恥ずかしさから俯けば、大きな手が火照る頬をそっと包んだ。
「どうした? また何かあったか?」
「い、いえ、なんでもな……あっ」
ふと下げた視線の先、胸元を飾っていた青い花がくしゃりと潰れていることに気づき、青褪めた。
「あ…ど、どうし…」
「うん? どうした?」
「こ、これ…イヴが、くれた…お花が…」
先ほどの抱擁で潰れてしまったのだろう。形の崩れてしまったそれに手を添え、泣きそうになっていると、バルドル神が花飾りに手を翳した。
そのまま見えない空気を掴むように、くっと手の平を動かせば、潰れていた花がまるで命を吹き返すように、ふわりと元の形に戻った。
「え…?」
「これでいいか?」
「あ…は、はい。ありがとう、ございます…」
一瞬で花が咲き誇ったような光景に驚きながら、まじまじと花飾りを見つめていると、バルドル神の指先がふわふわと揺れる花弁をそっと撫でた。
「これは、イヴァニエからの贈り物なのか?」
「はい。…えっと、ローブは、ルカから、です」
「そうか。お前によく似合っているよ」
「ありがとうございます」
大好きな二人からの大事な贈り物。それを褒めてもらえたことが嬉しくて、へにゃりと笑えば、バルドル神の口元も綻んだ。
「アドニスは、イヴァニエとルカーシュカ、エルダのことが大好きだな」
「はい。大好きです」
「あの子達に、いっぱい愛してもらっているんだね」
「はい…!」
好きな人を「好きだ」と胸を張って言える喜びと、愛情をしっかりと受け取れる喜びから力一杯答えれば、クツクツとした笑い声が返ってきた。
「お前は本当に、素直で良い子だね」
「…?」
「うんうん、皆元気で、仲が良くて良いことだ」
満足気に頷くバルドル神に、再び頭を撫でられる。なぜかは分からないが、優しい神様が嬉しそうにしている姿に、ぽかぽかと胸が温かくなった。
(…会いに来て、良かった)
達成感にも似た満足感にほくほくとしていると、バルドル神がおもむろに立ち上がった。
「さて、アドニス。せっかく此処まで来たんだ。今日はもう暫く、父と遊んでおくれ」
差し出された手と、告げられた言葉にパチリと目を瞬きつつ、その手を取って立ち上がる。
「何をして、遊ぶんですか…?」
「なに、本当に遊ぶ訳じゃないよ。そうだな…少しばかり散歩に付き合ってくれるかな?」
「はい」
散歩は好きだ。コクンと頷きながら、視線を庭へと向ける。美しい庭に、実は先ほどからずっと胸が踊っていたのだ。
一段高い家屋からそのまま庭先へと足を下ろしたバルドル神に続き、ドキドキしながら地面に足を下ろそうとした───その時だった。
「おや、アドニスの履き物はないのか?」
「え?」
唐突な問いに、はたと下を見遣れば、先ほどまで自分と同じように裸足だったバルドル神の足下には、不思議な形の靴が出現していた。
「えっと……自分は、いつも裸足、なので…」
「それはいけないな。怪我でもしたら大変だ」
「へ? いえ、だいじょ、えわっ!?」
「大丈夫です」…そう言い終えるよりも早く、視界がブレ、グンッと持ち上げられる感覚と共に、突然視点が高くなった。
「………え?」
「うん、これで安心だ」
「…………え?」
普段よりも数段高い視点と、定まらない重心。
にこやかに微笑むバルドル神を見下ろしているという状況に、三拍遅れで抱き上げられていることに気づき、頭の中は真っ白になった。
---------------
補足色々。
奥の宮=御殿
紙の扉=障子と襖
柔らかな床=畳
バルドル様の部屋の前の廊下は渡り廊下、二人が抱き合っていた場所は、くれ縁…ということで、バルドル様のお住まいは和の趣きです。
バルドル様もここにいる間は着物を着崩したような装いですが、全身真っ黒なのはご健在です。
行くぞ、と意気込んで一歩を踏み込んだ次の瞬間、ザァッと周囲の景色が変わり、瞬きの間に見知らぬ場所に立っていた。
(え……今……)
左右の壁が、背後にズレた───まるで自分だけをその場に取り残すかのように、周囲が動いたように見えた。
そう認識するよりも早く、目の前には見知らぬ屋敷が現れ、足元は大理石の床から、温みのある石畳みへと変化していた。
「ようこそ、奥の宮へ」
「え……えっ? なんで?」
にこやかに告げるオリヴィアに、動転したままパッと背後を振り返る。そこにあったのは白い石柱で囲われたガゼボのような建造物で、中央では見覚えのある薄絹のヴェールがゆらゆらと風に揺れていた。
「なんで…?」
「驚かれましたか?」
「うん…」
素直にコクリと頷けば、オリヴィアがクスクスと笑った。
「あのヴェールが一種の転移扉の役目を担っているので、バルドル様の許可を得た者は、このように一瞬で移動できるのですよ」
「はぇ…」
転移扉といえば、自室とフレールの庭やイヴァニエ達の部屋を繋ぐあの扉だが、どうやらその形状は様々らしい。ひとしきり感心しながら、揺れるヴェールを見つめていると、オリヴィアが繋いだ手をそっと引いた。
「参りましょう、アドニス様」
「うん…」
てっきりバルドル神の元に辿り着くまで、いくらか歩くと思っていたのだが、一瞬で奥の宮と呼ばれる所まで来てしまったことに呆気に取られる。
感心と感動が入り混じった頭のまま、オリヴィアが導く先を見つめれば、自分の知っている天界とは趣きの異なる幻想的な世界が広がっていた。
(ここが、奥の宮…)
双樹に似た淡い桃色の花木がそこかしこに根を張る一面の景色の中に、荘厳な建物が佇んでいた。
宮廷やルカーシュカ達の離宮とは異なり、高さはそれほどないのだが、視界の端から端までに全てを収めることができないその広さに圧倒される。
今まで見たことがない不思議な雰囲気の建造物を目の前に、どうしてもワクワクとした好奇心を抑えられず、視線が遊んだ。
ほんのりと温かな石畳みを歩きながら、花のトンネルのような道を進めば、どこからともなく花弁が降ってくる。
風と遊ぶそれに手を伸ばせば、一枚が手の平に乗り、眺めている間に光の粒子となってふわりと消えた。
(不思議…)
尊厳な佇まいの中に見える儚さは、確かにそこにあると分かるのに、今にも消えてしまいそうなほど淡く朧げだ。
吸い込む空気すら暖かく、幻のような屋敷を眺めながら足を進めていると、ほどなくして入り口らしき場所へと辿り着いた。
「どうぞ、お入り下さい」
「う、うん」
オリヴィアに招かれるまま、建物の中へと踏み込めば、外の明るかった景色とは対照的に、中は随分と落ち着いた色合いをしていた。
木造りの内装は床も壁も天井も真っ黒で、一瞬怯んでしまうが、その表面は艶やかで、木の木目には温もりがあった。
全体的に黒い室内だが、広さ故か圧迫感はない。置かれた調度品は華やかに輝き、生けられた花からは清廉な香りが漂う。黒い背景の中だからこそ際立つ色彩に思わず見惚れながら、辺りをぐるりと見回した。
「すごい……綺麗…」
「お気に召して頂けましたか?」
「う? …うん」
「それは良うございました」
なぜか自分の好みを気にするオリヴィアに首を傾げつつ、ひとしきり入り口付近を眺めて回ると、再び彼に手を引かれて建物の中を進んだ。
黒檀の床は滑りそうなほど美しく磨かれ、艶のある表面にはうっすらと自分の姿が映った。ぺたり、ぺたり、という自身の足音が妙に響く中、オリヴィアの後をついて歩きながら周りを見回す。
外観から見た通り、建物の内部はどこまでも広い空間が続いていて、長く長い廊下はその先が見えないほどだ。
不思議な形の扉や窓が並ぶ廊下を抜け、高い天井から吊るされた巨大な照明を見上げ、屋内の中にある小さな庭を眺める。
所々立ち止まり、「あれはなに?」とオリヴィアに尋ねながら歩くこと暫く、ふと外の香りが強くなった。
「こちらへどうぞ」
「わぁ…!」
オリヴィアが足を向けた先、そこはまるで、外の世界と屋内が混じり合ったような廊下だった。
屋根はあるのに左右に壁はなく、一段高くなった廊下の両側には、花や緑が生い茂っていた。足元がほんのりと明るいのは、左右に敷き詰められた真白い石が発光しているからだろう。
厳かな室内の造りはそのまま、漂う空気は暖かな外のそれで、明らかに特別な場所だと分かる空間に、妙に気分が高揚した。
「この先にて、バルドル様がお待ちです」
「っ…、…はい」
ワクワクとしたのも束の間、オリヴィアの言に途端に緊張が走り、背筋を伸ばした。
長い廊下をゆっくりと進みながら、気持ちを落ち着かせていると、ふとある違和感に気づき、オリヴィアに声を掛けた。
「…ねぇ、オリヴィア」
「はい?」
「さっきから、誰とも会ってないけど…ここには誰もいないの…?」
「はい。こちらには基本的に他の者はおりません。今も私とアドニス様、バルドル様しかいらっしゃいませんよ」
「…こんなに広い所に、バルドル様は、一人でいるの…?」
「普段はそうですね」
「……バルドル様は、寂しく、ない…?」
「…ご安心下さいませ。側仕えの者はおりませんが、プティは例外的に自由に出入りできますから、普段はプティ達と遊んでお過ごしです。きっと、お寂しくはないはずですよ」
「そっか…良かった。みんなと一緒なら、楽しいね」
「ええ、左様でございますね」
広い広い建物の中は暖かいが、人の気配が無いせいか、どこか冷えているように感じた。
もしも自分が、この中で一人で過ごすことになったら…と考えると、寂しくて堪らない気持ちになったが、赤子達が出入りしているのだと知り、ホッと気が緩んだ。
「オリヴィアも、あの子達と一緒に、遊ぶ…?」
「私はバルドル様のお側に控えているだけなので、共に遊んでいる感覚はあまりないのですが…バルドル様のついでに、遊んでもらっているかもしれませんね」
「ふふ、そうなんだ」
どこか戯けたように話すオリヴィアに、自然と笑んでしまう。
バルドル神と遊ぶ赤ん坊達と、傍らで静かに控えながら、小さな天使達の相手をするオリヴィア。
想像した微笑ましい様子は、なんだか自分とエルダの関係に似ていて、浮かんだ光景にはたとあることに気づいた。
(そっか……オリヴィアって、エルダに似てるんだ)
見た目ではなく、纏う空気がよく似ている気がする。
思えば、きちんと言葉を交わしたのはつい先ほどのことなのに、こうして普通に話せているのも、彼とエルダが似ているからだろう。
初対面から微笑んでくれた彼に対し、元から警戒心は薄かった。その上で、柔らかな口調も、見守るような眼差しも、手を繋いで歩いてくれる行為も、オリヴィアの行動にはエルダを彷彿させるものが多かった。
(ゆっくり歩いてくれるのも、そっくりだし…)
オリヴィアがエルダに似ているから、緊張せずにこうして笑っていられるのだろう。
そんな彼を心強く思う反面、思わぬ形でエルダのことを思い出してしまい、ちょっとだけ寂しくなる。
(…帰ったら、エルダも、イヴも、ルカも、ぎゅってしよう)
それをご褒美に頑張るのだ、と気合いを入れ直すのとほぼ同じく、長い廊下の終わりが見えた。
正面の黒い壁は、中央部がぽっかりと丸くくり抜かれ、紙でできた不思議な扉で仕切られていた。
この向こう側に、神様がいる───そう確信し、コクリと息を呑む。
「アドニス様、ここからは、私はアドニス様の後ろに控えております。この先はアドニス様お一人で進んで頂きたいと思いますが…大丈夫ですか?」
「…うん」
「ご安心下さい。私はすぐ後ろにおります。お独りではないですからね」
「…うん」
どうやら手を繋いで歩けるのはここまでらしい。
少年の手がするりと解けると、途端に不安と緊張が押し寄せたが、丸まりそうになる背を精一杯伸ばし、前を向いた。
(……大丈夫)
オリヴィアに向かってコクリと頷けば、彼が目の前の扉に手を翳した。不思議な形の扉は、それだけで音もなくスラリと左右に開き、同時にパァッと視界が開けた。
視界いっぱいに映る明るい室内は、これまでの一面黒い廊下や壁とは異なり、白木造りの柔らかな色合いの部屋だった。
眩しいとすら感じる広い部屋の一面は壁が無く、外の景色が一望できた。
どこまでも広がる庭園の風景が、等間隔の柱で区切られて見える様は、まるで一つ一つが絵画のように美しい。
つい魅入ってしまいそうになるも、二間続きの部屋の先、部屋と庭との境い目にゆるりと腰を下ろし、庭園を眺めている人影があることに気づき、ドクリと胸が鳴った。
己を奮い立たせ、震える呼吸を静かに吐き出すと、象牙色の床にゆっくりと一歩を踏み出す。
足裏に感じるのはほんの少しの柔らかさと弾力で、石でも木でもないその感触に、つい立ち止まって足下を見てしまいそうになるも、グッと堪えた。
ほんのりと温かく、足音すら柔らかな床の上を歩き、庭園を眺めるその人に近づけば、目の覚めるような美丈夫がふっとこちらを振り向いた。
「よく来たね」
「ッ……!」
優しい優しい、陽だまりのような微笑みと、左右で違う色を宿す双眸に見つめられ、ふるりと身が震えた。
低い声は体の中心までジンと沁みるように重いのに、穏やかな声音は全身の強張りを溶かすように優しい。
ひどく懐かしいその声も、柔らかに瞳を細める風貌も、長く長い黒髪と同色の装いも───変わらぬ姿の神様に、なぜか無性に泣きたくなった。
「さぁ、こちらにおいで」
「は、い…」
気を抜くと泣いてしまいそうなのを堪え、おずおずとバルドル神の側に寄る。
柔らかな床とは異なり、木造りの床に腰を据えるバルドル神の足下には、鮮やかな朱色の敷物が敷かれていた。
その上まで来るように誘われ、恐る恐る近づき、敷物の上に足を乗せれば、バルドル神がそっと片手を差し出した。
「おいで、アドニス」
───ああ、この手の温かさを、自分は知っている。
記憶に残ったいつかの温もりを求めるように、差し出された手の平に自分の手を重ねれば、まるで吸い寄せられるように、ふわりと体が傾いた。
「っ…!?」
倒れそうな傾きに身構えるより早く、全身を包み込むような温もりが、自身の肉体を受け止めた。
「会いたかったよ、私の愛しい子」
「───」
耳元で響く重低音と、鼻先を掠める艶やかな黒髪。
息を吸い込めば、陽だまりと香を混ぜたようなバルドル神の香りが、直に鼻腔を擽った。
ふかりとした服越しに伝わる体温と、背に回された腕、緩く全身を締め付ける力に、バルドル神に抱き締められているのだと遅れて気づく。
「元気そうで安心した。ここまで、よく頑張って一人で来たな。偉いぞ、アドニス」
「っ……」
大きな手が、やわやわと頭を撫でる。
その声が、その手が、体を包み込む温もりが、優しくて優しくて、嬉しくて───気づけば、堪えていた涙がぽたりと零れていた。
「ふっ…、…ご、ごめ、なさ…っ」
「おや、どうして泣くんだ?」
「だ、だ…て……っ」
安堵の籠った声には、ずっとずっと心配してくれていたのだろう深い慈しみの情が滲んでいた。
その御心も知らず、気づこうともせず、ただ目先の幸せだけを拾い集めていた自分が恥ずかしくて、申し訳なくて…我が身を案じてもらえる喜びもごちゃ混ぜになった感情から、涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんなさい…!」
「困った子だね。謝ることなどないのに、何を悔いているんだい?」
「だって…、し、心配…っ、いっぱい、させて…っ」
「父が我が子を想うのは当然だろう? お前は優しい子だね」
「良い子、良い子」と褒めるように頭を撫でられ、更に涙が溢れる。
良い子でも、優しい子でもない。そう思うのに、そうして褒めてもらえるのが堪らなく嬉しくて、同時に恋しくて、空いていた両手が自然と大きな背に回った。
立派な体躯にしがみつくようにぎゅうっと抱きつけば、まるでそれに返事をするように、バルドル神の腕の力も強くなった。
「んぅ…」
「良い子だな、アドニス。…お前が健やかに、楽しく日々を過ごしているのであれば、父はそれだけで幸せだ。元気でいてくれて、嬉しいよ」
「う…っ、う……!」
抱き締められた腕の中、バルドル神の服の中に埋もれながら、何度も何度も頷いた。
大好きな皆に囲まれ、好きな所で好きなように過ごし、甘い果実とミルクを糧に愛しい時間を過ごす。
外の景色を眺めることすらできなかった寂しく辛い過去が、ずっとずっと遠い記憶として薄れてしまうほど、心から幸せを喜ぶ日々。
本当に、今の自分はとてもとても幸せだ───重なった温もりから、喜びと感謝の気持ちが伝わるようにと願いを込めて、何度も何度も、頷いた。
トクリ、トクリと脈打つ鼓動の音が鼓膜を揺する。
子守唄に似たその音に身を委ねるように、温もりに身を預けてから、どれほど時間が経っただろう。
安心感が体の隅々まで染み渡り、ぼんやりとする意識の中、ポン…ポン…と規則的に背を叩く淡い振動に、とろりと目を開けた。
(……寝てた?)
いや、寝てはいない…はずだ。ただぼんやりし過ぎて、ほとんど意識を無くしていたらしい。
居心地の良い温もりに包まれ、ぼぅっとする意識の中、もぞりと身じろぎをした───次の瞬間、自分が今『誰』にしがみついているのかを思い出し、弾かれるように身を起こした。
「ッ…!!」
「おっと」
「あゎっ」
勢いをつけ過ぎて、反動で後ろに倒れそうになる体を、大きな手に支えられる。
「急にどうした? 危ないぞ」
「ご、ごめんなさい…」
色んな意味でドキドキする胸を押さえながら、バルドル神と向き合うように座り込む。
膝同士が触れ合うほど近い距離に戸惑うも、今の今まで、その腕の中に収まっていたことを思うとそれどころではく、急激な羞恥が込み上げた。
「ふふ、恥ずかしくなってしまったのか」
「えぅ…」
直球で言い当てられ、恥ずかしさを誤魔化すように指先を遊ばせれば、サラリとした手の平が頬を撫でた。
「たくさん泣かせてしまったな」
「え……あ、これは…あの、自分が……えっと…」
「ああ、分かっているよ」
後悔も、羞恥も、歓喜も、全てを見透かすような瞳に見つめられ、僅かに目を見開く。
募ってた後悔ごと、全部を温かく包み込んでくれるような声音に蟠りはすぅっと溶け、溶けた後悔の雫は、言の葉になって口から溢れ出した。
「…バルドル様、これまで、いっぱい…心配して下さって…ありがとうございます。きちんと、知らないで…ずっと、ちゃんと、ありがとうございますって、言えなくて…ごめんなさい」
「謝らなくていい。先にも言ったように、お前が健やかに過ごしているのであれば、それが私にとっての喜びだ」
「…はい」
頬を撫でていた手が、再び頭を撫でる。大きな手に優しく撫でられる感覚は気持ち良くて、膨れる安心感から、つい「もっと」と甘えたくなってしまう。
「フォルセの果実としての務めも、頑張っているね」
「はい」
「務めは楽しいか?」
「はい」
「それは良いことだ」
嬉しげな声に、自分まで嬉しくなる。
褒めてもらえたことに、ほんの少しだけ誇らしい気持ちになりながら頭を差し出していると、ふっと手の平が頭から離れた。
「本当に、よく会いに来てくれた。元気な姿を見れて、父は嬉しいよ」
「…私も、バルドル様にお会いできて、嬉しいです」
本心からそう告げれば、美しい顔が、蕩けるように微笑んだ。
見惚れてしまうほどの神々しい微笑みに、ただただ見惚れていると、両手をバルドル神の手の平が包んだ。
「ここまで来るのは、怖くなかったかな?」
「はい。えっと…オリヴィアが、いてくれたから…」
「それは良かった。オリヴィアも、よくやってくれた。ありがとう」
「恐れ入ります」
背後から聞こえた涼やかな声に、ようやくオリヴィアがそこにいたことを思い出す。
今の今まで、完全に気配が消えていた為、バルドル神に抱き締められた辺りから、その存在が意識の端から飛び出ていた。
ハッとすると同時に、バルドル神に縋り付き、泣きじゃくっていた姿を見られていたのだと思い出し、じわじわと頬が熱くなる。
(…オリヴィアにも、泣き虫だって思われちゃう…)
正直、初対面の時点で盛大に泣きじゃくっているので、今更かもしれないが…そう思いつつ、恥ずかしさから俯けば、大きな手が火照る頬をそっと包んだ。
「どうした? また何かあったか?」
「い、いえ、なんでもな……あっ」
ふと下げた視線の先、胸元を飾っていた青い花がくしゃりと潰れていることに気づき、青褪めた。
「あ…ど、どうし…」
「うん? どうした?」
「こ、これ…イヴが、くれた…お花が…」
先ほどの抱擁で潰れてしまったのだろう。形の崩れてしまったそれに手を添え、泣きそうになっていると、バルドル神が花飾りに手を翳した。
そのまま見えない空気を掴むように、くっと手の平を動かせば、潰れていた花がまるで命を吹き返すように、ふわりと元の形に戻った。
「え…?」
「これでいいか?」
「あ…は、はい。ありがとう、ございます…」
一瞬で花が咲き誇ったような光景に驚きながら、まじまじと花飾りを見つめていると、バルドル神の指先がふわふわと揺れる花弁をそっと撫でた。
「これは、イヴァニエからの贈り物なのか?」
「はい。…えっと、ローブは、ルカから、です」
「そうか。お前によく似合っているよ」
「ありがとうございます」
大好きな二人からの大事な贈り物。それを褒めてもらえたことが嬉しくて、へにゃりと笑えば、バルドル神の口元も綻んだ。
「アドニスは、イヴァニエとルカーシュカ、エルダのことが大好きだな」
「はい。大好きです」
「あの子達に、いっぱい愛してもらっているんだね」
「はい…!」
好きな人を「好きだ」と胸を張って言える喜びと、愛情をしっかりと受け取れる喜びから力一杯答えれば、クツクツとした笑い声が返ってきた。
「お前は本当に、素直で良い子だね」
「…?」
「うんうん、皆元気で、仲が良くて良いことだ」
満足気に頷くバルドル神に、再び頭を撫でられる。なぜかは分からないが、優しい神様が嬉しそうにしている姿に、ぽかぽかと胸が温かくなった。
(…会いに来て、良かった)
達成感にも似た満足感にほくほくとしていると、バルドル神がおもむろに立ち上がった。
「さて、アドニス。せっかく此処まで来たんだ。今日はもう暫く、父と遊んでおくれ」
差し出された手と、告げられた言葉にパチリと目を瞬きつつ、その手を取って立ち上がる。
「何をして、遊ぶんですか…?」
「なに、本当に遊ぶ訳じゃないよ。そうだな…少しばかり散歩に付き合ってくれるかな?」
「はい」
散歩は好きだ。コクンと頷きながら、視線を庭へと向ける。美しい庭に、実は先ほどからずっと胸が踊っていたのだ。
一段高い家屋からそのまま庭先へと足を下ろしたバルドル神に続き、ドキドキしながら地面に足を下ろそうとした───その時だった。
「おや、アドニスの履き物はないのか?」
「え?」
唐突な問いに、はたと下を見遣れば、先ほどまで自分と同じように裸足だったバルドル神の足下には、不思議な形の靴が出現していた。
「えっと……自分は、いつも裸足、なので…」
「それはいけないな。怪我でもしたら大変だ」
「へ? いえ、だいじょ、えわっ!?」
「大丈夫です」…そう言い終えるよりも早く、視界がブレ、グンッと持ち上げられる感覚と共に、突然視点が高くなった。
「………え?」
「うん、これで安心だ」
「…………え?」
普段よりも数段高い視点と、定まらない重心。
にこやかに微笑むバルドル神を見下ろしているという状況に、三拍遅れで抱き上げられていることに気づき、頭の中は真っ白になった。
---------------
補足色々。
奥の宮=御殿
紙の扉=障子と襖
柔らかな床=畳
バルドル様の部屋の前の廊下は渡り廊下、二人が抱き合っていた場所は、くれ縁…ということで、バルドル様のお住まいは和の趣きです。
バルドル様もここにいる間は着物を着崩したような装いですが、全身真っ黒なのはご健在です。
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