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プティ・フレールの愛し子
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「アニー、大丈夫か?」
「無理はしないで下さいね、アニー」
「う、うん…」
バルドル神に会いに行くと決めてから五日後、ついにその日を迎えた。
会うと決めてから、エルダを通して日取りの調整をしてもらったのだが、日にちが決まってからはずっとドキドキしっぱなしだった。
というのも、今回は前回のように、日が暮れた後にバルドル神の元へ向かうのではなく、昼のまだ明るい内に会いに行くことになったからだ。
昼日中に宮廷内を歩いたことは、まだ一度もない。当然だが、他の天使達も行き交う中を歩き、バルドル神の部屋まで向かわなければいけないことに、緊張はピークに達していた。
「…アドニス様、本当に扉を開けて大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ…!」
扉の前、不安げな声と表情で問い掛けるエルダになんとか返事をする。
本当は、あまり大丈夫ではない。だがまずは部屋を出ないことには、何も始まらない。
『会いに行く』と決めたのは自分なのだから、頑張らなければ…そう自分に言い聞かせ、必死に己を奮い立たせた。
久方ぶりに羽織ったフード付きのローブを頭からすっぽりと被ると、左右に立つイヴァニエとルカーシュカの手を強く握り締めた。
「……では、参りましょう」
重苦しい声と共に、エルダがゆっくりと扉を開けば、扉の隙間から明るい光が差し込んだ。
「…っ」
美しい白亜の回廊がどこまでも続く扉の先は、夜の景色の中では何度も目にした光景なのに、燦々と降り注ぐ陽の光を反射する中で見ると、まるで違った世界に見えた。
本来なら胸が躍るだろう美しい光景だが、今は見惚れている余裕もなかった。
「…アニー、行けるか?」
「ぅ…、うん…」
ルカーシュカとイヴァニエに手を引かれ、ゆっくりと足を動かす。
扉という境界線を越え、踏み出した一歩は、とにかく緊張して、やっぱり怖くて、小さな小さな半歩になってしまった。
それでもなんとか足を進めれば、徐々に部屋から体が離れていく。それと比例するように膨らんでいく不安と緊張に、足元を見つめたまま、少しも顔を上げることができなかった。
「……アドニス様…」
「だ、大丈夫…!」
背後からエルダの声が聞こえるが、振り返ることもできない。
ただ必死に足を動かし、早くバルドル神の部屋まで着いてほしいと願いながら歩いていると、向かい側から近づいてくる足音が聞こえ、ビクリと肩が跳ねた。
(あ……ど、どうしよう…)
同時に足が止まり、バクバクと激しく脈打つ心臓と、浅くなる呼吸に手足が震えた。
止まってしまった足を再び動かす勇気はなく、尋常ではない焦りと恐怖に、『逃げたい』という気持ちが一気に膨れ上がった───その時だった。
「えっ、わっ…!?」
ふわりと体が宙に浮き、温かな腕が肉体を包み込んだ。
「……イヴ?」
「アニー、頑張るのは偉いですが、そんなに無理をしなくてもいいんですよ」
「そうだな。ここまでよく頑張ったよ」
イヴァニエによって、瞬きの間に横抱きにされた体。突然のことに驚いていると、ルカーシュカが自身のローブを脱ぎ、横抱きにされた体を隠すように覆ってくれた。
イヴァニエの腕の中、ルカーシュカの香りと温もりを纏ったローブに包まれたことで、緊張と恐怖がとろりと溶けていく。
「……ごめんなさい」
「謝ることなどございませんよ、アドニス様」
「そうですよ。アニーはよく頑張りました」
「これから少しずつ、慣れていけばいいさ」
「……ん」
「大丈夫」と強がってみせたが、結局ダメだった。不甲斐なさから抱かれたまま縮こまるも、三人の反応は優しく、それが余計に申し訳なさを煽る。
そうこうしている内に、足音がすぐそこまで近づいていることに気づき、思わずルカーシュカのローブの中に顔を埋めて隠れた。
「っ…、……?」
何か起こるのではないか…そう思い、身を固くしたのだが、足音はすぐ側で一瞬途切れた後、そのまま通り過ぎていった。
(……あれ?)
様子を窺うように、恐る恐るローブの端から顔を出せば、イヴァニエの綺麗な微笑みが視界いっぱいに映った。
「さぁ、行きましょうか、アニー」
「え……えと…?」
「怖かったら、そのままローブの中に隠れてな」
「……うん」
何事もなかったかのような二人の態度に、状況を尋ねることもできず、大人しく口を噤む。
この不自然な状況に対し、足音の主は何も言わなかったのだろうか?
不思議に思いつつも、強張っていた体から力を抜くと、イヴァニエの腕に身を委ね、こそりとローブの中に隠れた。
三人分の足音を耳で追いかけること暫く、イヴァニエの歩みが止まり、それと同時にゆっくりと腕の中から下ろされた。
「アニー、着きましたよ」
「ん…ありがとう、イヴ」
ツルリとした床に足を着くと、ゆらゆらと揺れる感覚の残る体で、目の前の大きな扉を見上げた。
広いホールの真ん中に佇む巨大な純白の扉は、見上げるほど高く、金粉を纏っているかのように淡く煌めいていた。
清廉で、それでいて華やかな飾り彫りが施された扉は美しく、感嘆の溜め息を零していると、ルカーシュカの手がそっと背中に添えられた。
「アニー、行くぞ」
「う、うん…」
「バルドル様に申し上げます。アドニス、イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダが参りました」
「お入り下さい」
返ってきたのは、涼やかな少年の声。
バルドル神のものではない声が返ってきたことに、少しばかり面食らっていると、大きな扉がゆっくりと開いた。
「わ、あ…っ」
開けた扉の向こう側、そこは白を基調にした、淡くも華やかな色彩で彩られた驚くほど広い部屋だった。
見上げるほど大きかった扉よりも更に高い天井は、空の色が仄かに透けて見え、遠くに見える大きな窓からは、外の景色がよく見えた。
広い部屋の中、並ぶ支柱は透き通るような白で、解放感のある室内には多くの樹木と花が生い茂り、小さな噴水のようなものからは水飛沫が上がっていた。
足元は大理石のような固い床と、ふかふかとした芝生が混じり合うように一続きになり、そこかしこにソファーやクッションが置かれていた。
(…あ、ブランコがある)
ふと視線を向けた先の樹木には、見覚えのある小さなブランコが揺れていて、ここで赤ん坊達が遊べるのだということを物語っていた。
木の枝では小鳥が囀り、目の前に広がる光景が、部屋の中だということを一瞬忘れてしまう。
(部屋の中なのに、お外みたい…)
ポカンと口を開けたまま、部屋の中を見回していると、左右からそっと手を引かれた。
「おいで、アニー」
「アニー、行きますよ」
「あ、う、あい」
扉の前でぼぅっと立ちっぱなしだったことに気づき、慌てて返事をすると、部屋の中へと踏み込んだ。
自室よりもずっと広いと思っていたイヴァニエやルカーシュカの部屋よりも更に広い室内に、キョロキョロと視線が遊ぶ。そうしている間も、二人に手を引かれ、体だけは前に進んだ。
「アドニス様、前を見ていないと転んでしまわれますよ」
「安心なさい、エルダ。転んでも、ちゃんと抱き留めてあげますよ」
「うん…」
「…聞こえてないな」
目に映る全てが視界の中でキラキラと輝く中、ふわふわとした感覚で歩いていると、不意に手を引かれる感覚がなくなり、ピタリと足が止まった。
動きが止まったことにハッとして前を向けば、その先にあったのは数段高い所に鎮座する大きな椅子で───そこには、誰の姿も無かった。
「……ん?」
恐らくだが、あの椅子はバルドル神が座る席だ。言われずとも、なんとなく分かる。だがその席が空であることに、「はて?」と首を傾げた。
「お待ちしておりました、アドニス様」
「っ…!?」
直後、突然聞こえた少年の声に、驚きから跳ねるように声のした方を振り向けば、見覚えのある天使が一人立っていた。
「お久しぶりでございます」
「あ……え、は、い……、…?」
にこやかに微笑む天使を前に、どうしたらいいのか分からずイヴァニエとルカーシュカを見遣れば、二人ともどこか険しい顔で彼を見つめていた。
「オリヴィア、バルドル様はどこです? お約束していたはずですよ」
「ええ、そちらについて、これからご案内致します。……アドニス様」
「は、はいっ」
再び声を掛けられ、反射的に姿勢を正して返事をすれば、バルドル神と同じ黒髪の彼が、ゆっくりと腰を折った。
「バルドル様が、奥の宮にてお待ちです。恐れながら、これより先は、アドニス様お一人でお越し頂きたく存じます」
「は!?」
「なっ」
「…聞いていないぞ」
「…?」
黒髪の彼の発言に、三人がそれぞれ反応をする中、言葉の意味が分からず首を捻る。
奥の宮とはなんだろう…そう尋ねようとする前に、突然体を引き寄せられ、強い力で抱き締められた。
「わっ!?」
「いけません! アニーを一人で行かせるなど…っ、何かあったらどうするんです!」
「イヴァニエ様、バルドル様とお話しをされるだけです。それ以外のことは起こりませんし、起こさせません」
「…オリヴィア、私はアドニス様の側仕えです。従者が共に行くのも許されないのですか?」
「エルダ、従者は主に望まれてお側に控えているものです。己の私利私欲を優先するものではありませんよ」
「ッ…」
「…?」
ぎゅうぎゅうと締め付けるイヴァニエの腕の中、どこを見ていればいいのか、誰に何を問えばいいのかも分からず、視線が辺りを彷徨う。
「バルドル様とお会いするだけなら、ここでお話しすれば済むだろう? わざわざ奥の宮までアニーを呼び出すのはなぜだ?」
「バルドル様は、アドニス様とお話しがされたいのです。その為には、お一人でお会いして頂く必要があります。…ご理解下さい。これはバルドル様の命にございます。覆ることはございません」
「くっ…」
頭上から降ってきた悔しさを混ぜたイヴァニエの吐息にオロオロしながら、四人に視線を巡らせる。
「う……う…?」
「ああ、ごめんな、アニー。急なことで驚いたよな」
「ん…」
驚きよりも、話が見えない戸惑いの方が大きい。
なんと返事をすべきか答えあぐねいている横で、エルダが悔しそうに唇を噛んでいるのが見え、慌ててエルダに向けて手を伸ばした。
「エル、エルダ…!」
イヴァニエに抱き締められたまま、自由が効かない体を懸命に動かして手を伸ばせば、エルダがパッと顔を上げ、伸ばした手を握ってくれた。
「…アドニス様?」
「エルダ、あの、大丈夫だよ…! 私も、いつもエルダに、側にいてほしいって、思ってるよ…!」
「…!」
黒髪の彼の言葉だと、エルダが一方的な想いで自分の側に控えているように聞こえてしまうが、そんなことはない。
エルダが自分の側にいたいと思ってくれているように、自分もエルダに側にいてほしいと思っているのだ。
「今は、バルドル様が、ダメって言うから、ダメだけど……ほんとは、エルダも一緒がいいよ…?」
「……ありがとうございます、アドニス様」
「アニー、私は?」
「イヴも、ルカも、一緒がいいよ」
「そうですよね。オリヴィア、アニーもこう言ってますから───」
「あっ、ダ、ダメだよ…! 今は、だって……ダメ、なんでしょう…?」
イヴァニエの発言に慌てつつ、ルカーシュカとその隣に立つ彼をチラリと見れば、ルカーシュカは重い溜め息を吐き、黒髪の彼は眉を下げて微笑んだ。
「はい。アドニス様お一人で、お越し頂きたいと思います」
「…バルドル様からのご命令だからな……それより、アニーは一人で大丈夫なのか? 怖くないのか?」
そう問われ、改めて思考を巡らせる。
確かに、一人でバルドル神の元へ行くのは緊張するし、そういう意味では少し怖い。
だが先ほど、廊下でこちらに向かって歩いてきた知らない誰かの足音に比べたら、これっぽっちも怖くなかった。
(それに、自分一人でバルドル様の所に行けたら…バルドル様はたぶん、安心してくれると思う…)
きっとエルダやイヴァニエ、ルカーシュカがいないと、何もできない子だと思われているのだ。実際その通りなのだが、ここで一人でバルドル神の元へと向かえば、少しは自分も成長したのだろうと思ってもらえるはずだ。
それは、自分の身をずっと案じてくれていた、優しい神様の『安心』にも繋がる気がした。
「…大丈夫。怖くないから、一人で、行けるよ」
緊張を隠すように、へにゃりと笑えば、ルカーシュカとエルダは不安気に、イヴァニエは不満気に眉根を寄せた。
「アニーがそう言うなら、俺達は見守るしかないな…」
「……左様でございますね」
「アニー、本当に行くのですか?」
「うん。お約束、してたもの」
今日はバルドル神に会う為に、ここまで来たのだ。それも、自らが願って。ならば、ここで『行けません』と言ってはいけないはずだ。
「一人でも、行く」
抱き締められたまま、イヴァニエをジッと見つめ返せば、数秒見つめ合った後、水色の瞳がそっと閉じられた。
「………分かりました。その代わり、備えは万全にしていって下さい」
「ん」
チュッと目元に口づけを受けると共に、イヴァニエの腕が解け、体の自由が戻ってきた。
「私とルカーシュカが贈った腕輪はしていますね?」
「うん」
「耳飾りにも加護を施しとくんだったな……エルダ、以前アニーに贈った服は持ってるか?」
「ございます」
「ローブを出してくれ」
「青い花飾りもです」
「畏まりました」
なにやら慌ただしくし始めた三人を前にポカンとしていると、黒髪の彼が小さく肩を竦めた。
「そこまで厳重にお守り頂かなくとも大丈夫ですよ。奥の宮にお呼ばれしているのはアドニス様だけですが、お側には私も控えております。バルドル様とお二人きりになることはございませんので、ご安心下さい」
「オリヴィア、頼みましたよ。絶対にアニーの側を離れないで下さいね」
「本当に頼むぞ」
「オリヴィア…」
「御三方のご心配は私も重々承知しております。今一時は、私めにお任せ下さいませ」
「……?」
自分だけが蚊帳の外で話が進む中、どうやら黒髪の彼は、共にバルドル神の元へ行ってくれるのだと知る。
一人で行くつもりでいたが、それでも独りきりではないことにホッと胸を撫で下ろすのと同時に、彼がこちらに向き直った。
「では…改めまして、アドニス様」
「は、はいっ」
「バルドル様にお仕えしております、オリヴィアと申します。こうしてきちんとご挨拶をするのは初めてですね」
「あ……は、はい」
「これからバルドル様の元へと向かいますが、その間は私がエルダの代わりを務めます。困ったことがございましたら、なんなりとお申しつけ下さいませ」
「は、はい…よろしく、お願い、します。……えっと…」
「オリヴィアとお呼び下さい。話し方も、エルダに話し掛ける時と同じ口調で大丈夫ですよ」
「は……えっと、うん…」
黒髪の彼、オリヴィアの言にコクリと頷けば、アメジストのぱっちりとした瞳を細めて彼が笑んだ。
(……不思議)
こうして対面するのはまだ二度目のはずなのに、さして緊張していない自分自身に小首を傾げながら、このまま疑問も彼に聞いてしまおう、と思い切って口を開いた。
「あ、あの……オ、リヴィア」
「! …はい。如何なさいましたか、アドニス様」
「えっと…奥の宮って、なぁに…?」
「ああ、説明が不十分で失礼致しました。奥の宮というのは、バルドル様個人の離宮でございます」
オリヴィア曰く、宮廷そのものがバルドル神の住まいであることに変わりはないのだが、それとは別に、私的な宮があるらしい。
そちらはバルドル神の許可なく立ち入ることが禁じられており、自由に行き来できる場所ではないとのことだった。
「バルドル様は、お家が二つあるの…?」
「アドニス様、アドニス様のお部屋と同じだとお考え下さい。皆で遊ぶお部屋と、お休みになる寝室が分かれているのと同じように、バルドル様も用途で過ごす場所を変えていらっしゃるのですよ」
「エルダ」
オリヴィアとの会話にエルダの声が混じる。
自分の部屋と同じ、という説明に「なるほど」と頷いていると、なんとも言えない顔をしたエルダと目が合った。
「? どうしたの?」
「……アドニス様は、オリヴィアが怖くないのですね」
「エルダ、私の前でそれを聞くのですか?」
エルダの問いに、自分自身も不思議に思っていた疑問について改めて考える。
思えば、初めて彼と対面したのはバルドル神と同じ日で、あの時も、自分は彼に対し恐怖を感じていなかった。
(…最初から、笑ってくれてたからかな)
あの日、自分自身が誰なのか、それを確認する為にバルドル神の元へと向かった。
あの時点では、自分が『大天使アドニス』とは異なる魂かどうかの判断もできず、疑念があって然るべきだったはずだ。にも関わらず、オリヴィアはほんの少しの戸惑いも、疑いも向けず、ただ穏やかに微笑んでくれた。
敵意や侮蔑の眼差しを向けられるのが当然だった身にとって、彼の態度は衝撃的で、だからこそ、最初に受けたその衝撃を体と脳が覚えているからこそ、オリヴィアのことは今も怖くないのだと思う。
「…そう、だね。オリヴィアは、怖くないよ」
「光栄にございます」
「………」
「エルダ、そこで不満そうな顔をしないで下さい」
「…してません」
(エルダが、イヴとルカ以外の人とお喋りしてる)
なんだか新鮮な様子をまじまじと眺めていると、羽織っていたローブがするりと肩から落ちた。
「え?」
「アニー、バルドル様の元へ行くなら、これを羽織っていきな」
「こちらの花飾りも付けていきましょうね」
ルカーシュカの手で新たに肩から掛けてもらったのは、内側が夜空色のしっとりとしたローブで、胸元にはイヴァニエの手によって鮮やかな水色の花飾りが添えられた。
「これって……」
「ローブには守りの加護が付与してある。バルドル様の御前では意味が無いかもしれんが、気休め程度にはなるだろう」
「花飾りには安らぎの加護を付与しています。緊張も、多少は和らげてくれるはずですよ」
「あ、ありがとう…!」
見覚えのあるそれに、頬が綻ぶ。
ふわりと広がるローブも、胸元を彩る花飾りもキラキラと光り、自分自身が淡く輝いているような装いに、気持ちが浮き立った。
「頑張って行っておいで、アニー。俺達はここで待ってるからな」
「アニー、何かあったら、すぐにオリヴィアを頼りなさい。我慢をしたらいけませんよ?」
「うん。ありがとう、ルカ、イヴ」
左右の頬にイヴァニエとルカーシュカから口づけを受け、擽ったさに笑みが零れる。
受けた口づけに返事をするように、二人の頬に唇を寄せると、一人ずつ抱擁を交わした。
「アドニス様、ご準備はよろしいですか?」
「うん…!」
「お早いお帰りをお待ちしております、アドニス様」
「うん。行ってくるね、エルダ」
エルダの頬にもキスを贈り、緩く抱き締め合うと、名残惜しさのような寂しさと不安を引き剥がすように、互いの体を離した。
「アドニス様、御手を」
「え?」
「ここからは、私めがご案内致します。御手を繋いでいた方が、アドニス様もご安心かと思いますので、よろしければ御手をどうぞ」
「あ…ありが、とう」
目の前に差し出されたオリヴィアの手。
イヴァニエとルカーシュカ、エルダと赤子、そしてバルドル神以外で初めて触れることになる温もりにドギマギしながら、そっと手を重ねれば、エルダの手よりも幾分しっかりとした少年の手の感触が、手の平から伝わった。
「では、参りましょう」
「はい…!」
オリヴィアに手を引かれ、目の前の階段をゆっくりと登る。
玉座のように置かれた椅子のその奥には、薄絹のヴェールで隠された通路があり、その先からは、此処ではない何処かへと通じているような香りがうっすらと漂ってきた。
(この先に、神様がいる……)
緊張と少しの高揚感から、トクトクと心臓が脈打つ。
気持ちを落ち着けるように、大きく深呼吸をすると、後ろを振り返り、心配そうにこちらを見つめる三人に向け、「大丈夫」と言うように笑ってみせた。
「ルカ、イヴ、エルダ。いってきます」
「ああ、行っておいで」
「気をつけて」
「いってらっしゃいませ、アドニス様」
返ってきた優しい声に励まされるように、ヴェールの向こう側に向き直る。
本当は、皆と離れるのはまだ少し怖い…そう言って怯える臓器を宥めるように、そっと胸を押さえると、繋いだオリヴィアの手の平をやんわりと握り締めた。
「オリヴィア……私を、バルドル様の所へ、連れていって」
「仰せのままに」
穏やかな声音も表情も、何一つ変わらないオリヴィア。
その落ち着いた様子にホッとしながら、歩き出した彼に続き、一歩を踏み出す。
(一人でも、きっと大丈夫…)
ふわりと揺れるヴェールの先、神様の待つ何処かへと向かう為、真っ直ぐ前を見据えた。
「無理はしないで下さいね、アニー」
「う、うん…」
バルドル神に会いに行くと決めてから五日後、ついにその日を迎えた。
会うと決めてから、エルダを通して日取りの調整をしてもらったのだが、日にちが決まってからはずっとドキドキしっぱなしだった。
というのも、今回は前回のように、日が暮れた後にバルドル神の元へ向かうのではなく、昼のまだ明るい内に会いに行くことになったからだ。
昼日中に宮廷内を歩いたことは、まだ一度もない。当然だが、他の天使達も行き交う中を歩き、バルドル神の部屋まで向かわなければいけないことに、緊張はピークに達していた。
「…アドニス様、本当に扉を開けて大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ…!」
扉の前、不安げな声と表情で問い掛けるエルダになんとか返事をする。
本当は、あまり大丈夫ではない。だがまずは部屋を出ないことには、何も始まらない。
『会いに行く』と決めたのは自分なのだから、頑張らなければ…そう自分に言い聞かせ、必死に己を奮い立たせた。
久方ぶりに羽織ったフード付きのローブを頭からすっぽりと被ると、左右に立つイヴァニエとルカーシュカの手を強く握り締めた。
「……では、参りましょう」
重苦しい声と共に、エルダがゆっくりと扉を開けば、扉の隙間から明るい光が差し込んだ。
「…っ」
美しい白亜の回廊がどこまでも続く扉の先は、夜の景色の中では何度も目にした光景なのに、燦々と降り注ぐ陽の光を反射する中で見ると、まるで違った世界に見えた。
本来なら胸が躍るだろう美しい光景だが、今は見惚れている余裕もなかった。
「…アニー、行けるか?」
「ぅ…、うん…」
ルカーシュカとイヴァニエに手を引かれ、ゆっくりと足を動かす。
扉という境界線を越え、踏み出した一歩は、とにかく緊張して、やっぱり怖くて、小さな小さな半歩になってしまった。
それでもなんとか足を進めれば、徐々に部屋から体が離れていく。それと比例するように膨らんでいく不安と緊張に、足元を見つめたまま、少しも顔を上げることができなかった。
「……アドニス様…」
「だ、大丈夫…!」
背後からエルダの声が聞こえるが、振り返ることもできない。
ただ必死に足を動かし、早くバルドル神の部屋まで着いてほしいと願いながら歩いていると、向かい側から近づいてくる足音が聞こえ、ビクリと肩が跳ねた。
(あ……ど、どうしよう…)
同時に足が止まり、バクバクと激しく脈打つ心臓と、浅くなる呼吸に手足が震えた。
止まってしまった足を再び動かす勇気はなく、尋常ではない焦りと恐怖に、『逃げたい』という気持ちが一気に膨れ上がった───その時だった。
「えっ、わっ…!?」
ふわりと体が宙に浮き、温かな腕が肉体を包み込んだ。
「……イヴ?」
「アニー、頑張るのは偉いですが、そんなに無理をしなくてもいいんですよ」
「そうだな。ここまでよく頑張ったよ」
イヴァニエによって、瞬きの間に横抱きにされた体。突然のことに驚いていると、ルカーシュカが自身のローブを脱ぎ、横抱きにされた体を隠すように覆ってくれた。
イヴァニエの腕の中、ルカーシュカの香りと温もりを纏ったローブに包まれたことで、緊張と恐怖がとろりと溶けていく。
「……ごめんなさい」
「謝ることなどございませんよ、アドニス様」
「そうですよ。アニーはよく頑張りました」
「これから少しずつ、慣れていけばいいさ」
「……ん」
「大丈夫」と強がってみせたが、結局ダメだった。不甲斐なさから抱かれたまま縮こまるも、三人の反応は優しく、それが余計に申し訳なさを煽る。
そうこうしている内に、足音がすぐそこまで近づいていることに気づき、思わずルカーシュカのローブの中に顔を埋めて隠れた。
「っ…、……?」
何か起こるのではないか…そう思い、身を固くしたのだが、足音はすぐ側で一瞬途切れた後、そのまま通り過ぎていった。
(……あれ?)
様子を窺うように、恐る恐るローブの端から顔を出せば、イヴァニエの綺麗な微笑みが視界いっぱいに映った。
「さぁ、行きましょうか、アニー」
「え……えと…?」
「怖かったら、そのままローブの中に隠れてな」
「……うん」
何事もなかったかのような二人の態度に、状況を尋ねることもできず、大人しく口を噤む。
この不自然な状況に対し、足音の主は何も言わなかったのだろうか?
不思議に思いつつも、強張っていた体から力を抜くと、イヴァニエの腕に身を委ね、こそりとローブの中に隠れた。
三人分の足音を耳で追いかけること暫く、イヴァニエの歩みが止まり、それと同時にゆっくりと腕の中から下ろされた。
「アニー、着きましたよ」
「ん…ありがとう、イヴ」
ツルリとした床に足を着くと、ゆらゆらと揺れる感覚の残る体で、目の前の大きな扉を見上げた。
広いホールの真ん中に佇む巨大な純白の扉は、見上げるほど高く、金粉を纏っているかのように淡く煌めいていた。
清廉で、それでいて華やかな飾り彫りが施された扉は美しく、感嘆の溜め息を零していると、ルカーシュカの手がそっと背中に添えられた。
「アニー、行くぞ」
「う、うん…」
「バルドル様に申し上げます。アドニス、イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダが参りました」
「お入り下さい」
返ってきたのは、涼やかな少年の声。
バルドル神のものではない声が返ってきたことに、少しばかり面食らっていると、大きな扉がゆっくりと開いた。
「わ、あ…っ」
開けた扉の向こう側、そこは白を基調にした、淡くも華やかな色彩で彩られた驚くほど広い部屋だった。
見上げるほど大きかった扉よりも更に高い天井は、空の色が仄かに透けて見え、遠くに見える大きな窓からは、外の景色がよく見えた。
広い部屋の中、並ぶ支柱は透き通るような白で、解放感のある室内には多くの樹木と花が生い茂り、小さな噴水のようなものからは水飛沫が上がっていた。
足元は大理石のような固い床と、ふかふかとした芝生が混じり合うように一続きになり、そこかしこにソファーやクッションが置かれていた。
(…あ、ブランコがある)
ふと視線を向けた先の樹木には、見覚えのある小さなブランコが揺れていて、ここで赤ん坊達が遊べるのだということを物語っていた。
木の枝では小鳥が囀り、目の前に広がる光景が、部屋の中だということを一瞬忘れてしまう。
(部屋の中なのに、お外みたい…)
ポカンと口を開けたまま、部屋の中を見回していると、左右からそっと手を引かれた。
「おいで、アニー」
「アニー、行きますよ」
「あ、う、あい」
扉の前でぼぅっと立ちっぱなしだったことに気づき、慌てて返事をすると、部屋の中へと踏み込んだ。
自室よりもずっと広いと思っていたイヴァニエやルカーシュカの部屋よりも更に広い室内に、キョロキョロと視線が遊ぶ。そうしている間も、二人に手を引かれ、体だけは前に進んだ。
「アドニス様、前を見ていないと転んでしまわれますよ」
「安心なさい、エルダ。転んでも、ちゃんと抱き留めてあげますよ」
「うん…」
「…聞こえてないな」
目に映る全てが視界の中でキラキラと輝く中、ふわふわとした感覚で歩いていると、不意に手を引かれる感覚がなくなり、ピタリと足が止まった。
動きが止まったことにハッとして前を向けば、その先にあったのは数段高い所に鎮座する大きな椅子で───そこには、誰の姿も無かった。
「……ん?」
恐らくだが、あの椅子はバルドル神が座る席だ。言われずとも、なんとなく分かる。だがその席が空であることに、「はて?」と首を傾げた。
「お待ちしておりました、アドニス様」
「っ…!?」
直後、突然聞こえた少年の声に、驚きから跳ねるように声のした方を振り向けば、見覚えのある天使が一人立っていた。
「お久しぶりでございます」
「あ……え、は、い……、…?」
にこやかに微笑む天使を前に、どうしたらいいのか分からずイヴァニエとルカーシュカを見遣れば、二人ともどこか険しい顔で彼を見つめていた。
「オリヴィア、バルドル様はどこです? お約束していたはずですよ」
「ええ、そちらについて、これからご案内致します。……アドニス様」
「は、はいっ」
再び声を掛けられ、反射的に姿勢を正して返事をすれば、バルドル神と同じ黒髪の彼が、ゆっくりと腰を折った。
「バルドル様が、奥の宮にてお待ちです。恐れながら、これより先は、アドニス様お一人でお越し頂きたく存じます」
「は!?」
「なっ」
「…聞いていないぞ」
「…?」
黒髪の彼の発言に、三人がそれぞれ反応をする中、言葉の意味が分からず首を捻る。
奥の宮とはなんだろう…そう尋ねようとする前に、突然体を引き寄せられ、強い力で抱き締められた。
「わっ!?」
「いけません! アニーを一人で行かせるなど…っ、何かあったらどうするんです!」
「イヴァニエ様、バルドル様とお話しをされるだけです。それ以外のことは起こりませんし、起こさせません」
「…オリヴィア、私はアドニス様の側仕えです。従者が共に行くのも許されないのですか?」
「エルダ、従者は主に望まれてお側に控えているものです。己の私利私欲を優先するものではありませんよ」
「ッ…」
「…?」
ぎゅうぎゅうと締め付けるイヴァニエの腕の中、どこを見ていればいいのか、誰に何を問えばいいのかも分からず、視線が辺りを彷徨う。
「バルドル様とお会いするだけなら、ここでお話しすれば済むだろう? わざわざ奥の宮までアニーを呼び出すのはなぜだ?」
「バルドル様は、アドニス様とお話しがされたいのです。その為には、お一人でお会いして頂く必要があります。…ご理解下さい。これはバルドル様の命にございます。覆ることはございません」
「くっ…」
頭上から降ってきた悔しさを混ぜたイヴァニエの吐息にオロオロしながら、四人に視線を巡らせる。
「う……う…?」
「ああ、ごめんな、アニー。急なことで驚いたよな」
「ん…」
驚きよりも、話が見えない戸惑いの方が大きい。
なんと返事をすべきか答えあぐねいている横で、エルダが悔しそうに唇を噛んでいるのが見え、慌ててエルダに向けて手を伸ばした。
「エル、エルダ…!」
イヴァニエに抱き締められたまま、自由が効かない体を懸命に動かして手を伸ばせば、エルダがパッと顔を上げ、伸ばした手を握ってくれた。
「…アドニス様?」
「エルダ、あの、大丈夫だよ…! 私も、いつもエルダに、側にいてほしいって、思ってるよ…!」
「…!」
黒髪の彼の言葉だと、エルダが一方的な想いで自分の側に控えているように聞こえてしまうが、そんなことはない。
エルダが自分の側にいたいと思ってくれているように、自分もエルダに側にいてほしいと思っているのだ。
「今は、バルドル様が、ダメって言うから、ダメだけど……ほんとは、エルダも一緒がいいよ…?」
「……ありがとうございます、アドニス様」
「アニー、私は?」
「イヴも、ルカも、一緒がいいよ」
「そうですよね。オリヴィア、アニーもこう言ってますから───」
「あっ、ダ、ダメだよ…! 今は、だって……ダメ、なんでしょう…?」
イヴァニエの発言に慌てつつ、ルカーシュカとその隣に立つ彼をチラリと見れば、ルカーシュカは重い溜め息を吐き、黒髪の彼は眉を下げて微笑んだ。
「はい。アドニス様お一人で、お越し頂きたいと思います」
「…バルドル様からのご命令だからな……それより、アニーは一人で大丈夫なのか? 怖くないのか?」
そう問われ、改めて思考を巡らせる。
確かに、一人でバルドル神の元へ行くのは緊張するし、そういう意味では少し怖い。
だが先ほど、廊下でこちらに向かって歩いてきた知らない誰かの足音に比べたら、これっぽっちも怖くなかった。
(それに、自分一人でバルドル様の所に行けたら…バルドル様はたぶん、安心してくれると思う…)
きっとエルダやイヴァニエ、ルカーシュカがいないと、何もできない子だと思われているのだ。実際その通りなのだが、ここで一人でバルドル神の元へと向かえば、少しは自分も成長したのだろうと思ってもらえるはずだ。
それは、自分の身をずっと案じてくれていた、優しい神様の『安心』にも繋がる気がした。
「…大丈夫。怖くないから、一人で、行けるよ」
緊張を隠すように、へにゃりと笑えば、ルカーシュカとエルダは不安気に、イヴァニエは不満気に眉根を寄せた。
「アニーがそう言うなら、俺達は見守るしかないな…」
「……左様でございますね」
「アニー、本当に行くのですか?」
「うん。お約束、してたもの」
今日はバルドル神に会う為に、ここまで来たのだ。それも、自らが願って。ならば、ここで『行けません』と言ってはいけないはずだ。
「一人でも、行く」
抱き締められたまま、イヴァニエをジッと見つめ返せば、数秒見つめ合った後、水色の瞳がそっと閉じられた。
「………分かりました。その代わり、備えは万全にしていって下さい」
「ん」
チュッと目元に口づけを受けると共に、イヴァニエの腕が解け、体の自由が戻ってきた。
「私とルカーシュカが贈った腕輪はしていますね?」
「うん」
「耳飾りにも加護を施しとくんだったな……エルダ、以前アニーに贈った服は持ってるか?」
「ございます」
「ローブを出してくれ」
「青い花飾りもです」
「畏まりました」
なにやら慌ただしくし始めた三人を前にポカンとしていると、黒髪の彼が小さく肩を竦めた。
「そこまで厳重にお守り頂かなくとも大丈夫ですよ。奥の宮にお呼ばれしているのはアドニス様だけですが、お側には私も控えております。バルドル様とお二人きりになることはございませんので、ご安心下さい」
「オリヴィア、頼みましたよ。絶対にアニーの側を離れないで下さいね」
「本当に頼むぞ」
「オリヴィア…」
「御三方のご心配は私も重々承知しております。今一時は、私めにお任せ下さいませ」
「……?」
自分だけが蚊帳の外で話が進む中、どうやら黒髪の彼は、共にバルドル神の元へ行ってくれるのだと知る。
一人で行くつもりでいたが、それでも独りきりではないことにホッと胸を撫で下ろすのと同時に、彼がこちらに向き直った。
「では…改めまして、アドニス様」
「は、はいっ」
「バルドル様にお仕えしております、オリヴィアと申します。こうしてきちんとご挨拶をするのは初めてですね」
「あ……は、はい」
「これからバルドル様の元へと向かいますが、その間は私がエルダの代わりを務めます。困ったことがございましたら、なんなりとお申しつけ下さいませ」
「は、はい…よろしく、お願い、します。……えっと…」
「オリヴィアとお呼び下さい。話し方も、エルダに話し掛ける時と同じ口調で大丈夫ですよ」
「は……えっと、うん…」
黒髪の彼、オリヴィアの言にコクリと頷けば、アメジストのぱっちりとした瞳を細めて彼が笑んだ。
(……不思議)
こうして対面するのはまだ二度目のはずなのに、さして緊張していない自分自身に小首を傾げながら、このまま疑問も彼に聞いてしまおう、と思い切って口を開いた。
「あ、あの……オ、リヴィア」
「! …はい。如何なさいましたか、アドニス様」
「えっと…奥の宮って、なぁに…?」
「ああ、説明が不十分で失礼致しました。奥の宮というのは、バルドル様個人の離宮でございます」
オリヴィア曰く、宮廷そのものがバルドル神の住まいであることに変わりはないのだが、それとは別に、私的な宮があるらしい。
そちらはバルドル神の許可なく立ち入ることが禁じられており、自由に行き来できる場所ではないとのことだった。
「バルドル様は、お家が二つあるの…?」
「アドニス様、アドニス様のお部屋と同じだとお考え下さい。皆で遊ぶお部屋と、お休みになる寝室が分かれているのと同じように、バルドル様も用途で過ごす場所を変えていらっしゃるのですよ」
「エルダ」
オリヴィアとの会話にエルダの声が混じる。
自分の部屋と同じ、という説明に「なるほど」と頷いていると、なんとも言えない顔をしたエルダと目が合った。
「? どうしたの?」
「……アドニス様は、オリヴィアが怖くないのですね」
「エルダ、私の前でそれを聞くのですか?」
エルダの問いに、自分自身も不思議に思っていた疑問について改めて考える。
思えば、初めて彼と対面したのはバルドル神と同じ日で、あの時も、自分は彼に対し恐怖を感じていなかった。
(…最初から、笑ってくれてたからかな)
あの日、自分自身が誰なのか、それを確認する為にバルドル神の元へと向かった。
あの時点では、自分が『大天使アドニス』とは異なる魂かどうかの判断もできず、疑念があって然るべきだったはずだ。にも関わらず、オリヴィアはほんの少しの戸惑いも、疑いも向けず、ただ穏やかに微笑んでくれた。
敵意や侮蔑の眼差しを向けられるのが当然だった身にとって、彼の態度は衝撃的で、だからこそ、最初に受けたその衝撃を体と脳が覚えているからこそ、オリヴィアのことは今も怖くないのだと思う。
「…そう、だね。オリヴィアは、怖くないよ」
「光栄にございます」
「………」
「エルダ、そこで不満そうな顔をしないで下さい」
「…してません」
(エルダが、イヴとルカ以外の人とお喋りしてる)
なんだか新鮮な様子をまじまじと眺めていると、羽織っていたローブがするりと肩から落ちた。
「え?」
「アニー、バルドル様の元へ行くなら、これを羽織っていきな」
「こちらの花飾りも付けていきましょうね」
ルカーシュカの手で新たに肩から掛けてもらったのは、内側が夜空色のしっとりとしたローブで、胸元にはイヴァニエの手によって鮮やかな水色の花飾りが添えられた。
「これって……」
「ローブには守りの加護が付与してある。バルドル様の御前では意味が無いかもしれんが、気休め程度にはなるだろう」
「花飾りには安らぎの加護を付与しています。緊張も、多少は和らげてくれるはずですよ」
「あ、ありがとう…!」
見覚えのあるそれに、頬が綻ぶ。
ふわりと広がるローブも、胸元を彩る花飾りもキラキラと光り、自分自身が淡く輝いているような装いに、気持ちが浮き立った。
「頑張って行っておいで、アニー。俺達はここで待ってるからな」
「アニー、何かあったら、すぐにオリヴィアを頼りなさい。我慢をしたらいけませんよ?」
「うん。ありがとう、ルカ、イヴ」
左右の頬にイヴァニエとルカーシュカから口づけを受け、擽ったさに笑みが零れる。
受けた口づけに返事をするように、二人の頬に唇を寄せると、一人ずつ抱擁を交わした。
「アドニス様、ご準備はよろしいですか?」
「うん…!」
「お早いお帰りをお待ちしております、アドニス様」
「うん。行ってくるね、エルダ」
エルダの頬にもキスを贈り、緩く抱き締め合うと、名残惜しさのような寂しさと不安を引き剥がすように、互いの体を離した。
「アドニス様、御手を」
「え?」
「ここからは、私めがご案内致します。御手を繋いでいた方が、アドニス様もご安心かと思いますので、よろしければ御手をどうぞ」
「あ…ありが、とう」
目の前に差し出されたオリヴィアの手。
イヴァニエとルカーシュカ、エルダと赤子、そしてバルドル神以外で初めて触れることになる温もりにドギマギしながら、そっと手を重ねれば、エルダの手よりも幾分しっかりとした少年の手の感触が、手の平から伝わった。
「では、参りましょう」
「はい…!」
オリヴィアに手を引かれ、目の前の階段をゆっくりと登る。
玉座のように置かれた椅子のその奥には、薄絹のヴェールで隠された通路があり、その先からは、此処ではない何処かへと通じているような香りがうっすらと漂ってきた。
(この先に、神様がいる……)
緊張と少しの高揚感から、トクトクと心臓が脈打つ。
気持ちを落ち着けるように、大きく深呼吸をすると、後ろを振り返り、心配そうにこちらを見つめる三人に向け、「大丈夫」と言うように笑ってみせた。
「ルカ、イヴ、エルダ。いってきます」
「ああ、行っておいで」
「気をつけて」
「いってらっしゃいませ、アドニス様」
返ってきた優しい声に励まされるように、ヴェールの向こう側に向き直る。
本当は、皆と離れるのはまだ少し怖い…そう言って怯える臓器を宥めるように、そっと胸を押さえると、繋いだオリヴィアの手の平をやんわりと握り締めた。
「オリヴィア……私を、バルドル様の所へ、連れていって」
「仰せのままに」
穏やかな声音も表情も、何一つ変わらないオリヴィア。
その落ち着いた様子にホッとしながら、歩き出した彼に続き、一歩を踏み出す。
(一人でも、きっと大丈夫…)
ふわりと揺れるヴェールの先、神様の待つ何処かへと向かう為、真っ直ぐ前を見据えた。
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