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プティ・フレールの愛し子
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「他の、大天使様達が……?」
皆と庭で過ごした翌日、ルカーシュカ達から改まって話がしたいと言われ、不思議に思いながらも彼らと共にソファーに座った。
前日は庭に生まれ変わったバルコニーのことをアレコレと彼らに聞き、部屋の中から窓越しにキラキラと光る白い花木を眺め、これからは毎日この風景が見れるのだと喜んだ。
その時は「これからはもっと庭で過ごす時間も作ろう」と言って、共に笑ってくれたのだが、なぜか今日は三人とも難しい顔をしていて、昨日との落差に驚いてしまう。
何か悪い話でもあるのだろうか…と身構えていると、思ってもみなかった話を聞かされた。
「実は、昨日の庭でのことなんだが───」
そう言ってルカーシュカが語り始めた内容に、僅かに目を見開いた。
バルドル神の命により、大天使達を前にお披露目が行われたこと。正規のお披露目とは異なり、一方的なものであったこと。昨日の一件で、大天使達に自分の存在が知れ渡ったこと…話しにくそうに言葉を続けるルカーシュカも、眉根に皺を寄せるイヴァニエも、不安げな表情を浮かべるエルダも、皆一様に纏う空気は重かった。
彼らの態度が気になったが、今は昨日のことを思い返すのに必死で、話を聞きながら思考はどこか遠くを彷徨っていた。
(他の大天使様達が、見てた…)
そう言われ、昨日の光景を思い返すも、周りに人影など無かった。
澄んだ遠い青空と、どこまでも穏やかな風景しか広がっていなかったはずなのだが、一体どこから見ていたのだろうか?
大勢の大天使達が部屋の周りを囲んでいる光景を想像し、圧迫感のような緊張から、ふるりと身が震えたが、今はそれよりも気になることがあった。
(見てたって…いつから見てたんだろう? へ、変なこと、してない……よね?)
昨日はイヴァニエとルカーシュカ、エルダや赤ん坊達と一緒に、目一杯遊んで、たくさんお喋りをした。
『皆と一緒に楽しく遊んだ』という記憶と感情は、頭と心の中に溢れ返っているのだが、少しばかり興奮していたせいか、どんな行動を取っていたかまで細かく思い出せない。
皆が隣にいて、楽しそうに笑っていて、手を繋いで、たくさんキスをした、いつもと変わらない愛しい一日。
いつもと一緒で、でも特別な出来事があったから、いつもよりもたくさん嬉しくて、たくさん楽しくて…ちょっとだけはしゃぎ過ぎてしまったことだけは覚えている。
(…ちょっと、恥ずかしいかもしれない)
新しい庭が嬉しくて、気持ちはとても高揚していた。はしゃいでいた姿を見られていたのだと思うと恥ずかしくて、羞恥に染まる頬を隠すように俯けば、イヴァニエの手が肩を抱いた。
「ごめんなさい、アニー。貴方の意思を無視して、このようなことをしてしまって…」
「ごめんな、アニー。俺達がきちんと断れれば良かったんだが…」
後悔を滲ませた二人の声と表情に、慌てて顔を上げる。
恐らく二人も、そしてエルダも、大天使が近くにいたこと自体が自身の負担になるのではないかと心配してくれているのだろう。
恥ずかしさを振り切るように、ふるふると首を横に振ると、へにゃりと笑みを返した。
「大丈夫だよ。その…ちょっとだけ、恥ずかしいけど…大丈夫だよ」
「……嫌だとは思わないんですか?」
「嫌…?」
「言い方は悪いが、アニーを見せものにしたんだ。怒っていいんだぞ?」
「…怒る?」
(…なにに怒るんだろう?)
二人はまだ何か心配なのか、険しい表情のままだが、言われた言葉に心当たりもなく、首を傾げながら自身の胸の内を語った。
「えっと…みんなに見られてたんだなって思うと、ドキドキするけど……ヤじゃ、ないよ」
「…ドキドキするというのは、怖かったという意味ではないですか?」
「うぅん。その……へ、変なこと、してなかったかなって、思って……恥ずかしくて…」
「……アニーはずっと可愛らしかったですから、安心して下さい」
「…? ありがとう…?」
若干噛み合っていないように思うイヴァニエの返答に応えつつ、落ち着いてきた頭でゆっくりと状況を飲み込むと、浮かんだ疑問について尋ねた。
「でも、どうして、みんなは、自分のこと見てたの…?」
「皆、アニーのことが気になるからだよ」
「気になる?」
「そうだな……ゆっくり、順に話そうか」
それからルカーシュカとイヴァニエが交互に語り、時たまエルダが言葉を挟みながら、ゆっくりと自分の知らなかった『外にいる皆』のことを教えてくれた。
大天使アドニスの死と入れ替わるように生まれた魂のことを、皆ずっと気にしていたらしい。そこには純粋な興味本位の他に、疑念や疑惑といった疑いの眼差しも含まれていた。
それでも、バルドル神が大天使アドニスとは異なる魂であると認め、新たに誕生した大天使として『アドニス』という名を与えた。
天界唯一の神が認めた存在に意を唱えようとする者は無く、同時に、隠されるようにひっそりと過ごす存在を、無理やり暴こうとする者もいなかった。
だが時間が経つにつれ、どれだけ待っても姿を見せることも、またその名を聞くことすらない存在に、最初に芽生えた興味や疑念が、皆の中で少しずつ膨らんでいったのだという。
「他のヤツらの気持ちが分からない訳じゃないんだ。俺達だって、少しずつアドニスとアニーは別人だって、考えられるようになったんだからな。まったく知らないヤツからしたら、信じられないと思うのは当然だろう」
そう言われ、同意の意を込めてコクリと頷いた。
自分自身、そうだったのだ。『自分』のことも分からないまま生まれて、肉体の人物と『自分』が同一人物なのかすら分からないまま、あやふやな存在としてずっと生きてきた。
肉体だけを共有した別の魂と知った後ですら、きちんと自分と『アドニス』は違うのだと理解するまで、ふわふわとした感覚が抜けなかったように思う。
(何にも知らない大天使様達からしたら、信じられないって思うのは、当然だよね…)
だが皆の興味に反して、自分が外に出ることはなく、本当に存在するのかどうかすら疑われていたらしい。
結果、カロンという大天使が興味を抑えきれず、いつかの邂逅が起きてしまった。
「バルドル様は、皆がアニーを知らないことも、アニーが皆を知らないことも、どちらも双方にとって良くないとお考えなのです。アニーが皆の前に出るには、まだもう少し時間が必要でしょう。ならばせめて、皆だけでもアニーという子を認識する機会を与えるべきだと仰ったのです」
「……私も、みんなと、会った方がいいの…?」
「いいえ。それを強要する気はありません。…もしもいつか、アニーが自分の意思で皆と交流を持ちたいと思ったなら……その時は、少しずつ、慣れていけたらいいですね」
「……うん」
イヴァニエの手が、甘やかすように頬を撫でる。柔らかな声に頷きつつも、他者との交流に対し、あまり積極的になれない心境に、そっと俯いた。
(他の天使様達と、お話ししてみたいって、思う日がくるのかな…?)
想像することすら難しい未来に、柔く唇を喰むと、ルカーシュカの手が自身の手に重なった。
「アニーは、他の者達に会いたいと思うか?」
「………わかんない…」
「うん。分からないなら、無理に分かろうとしなくていいよ。急がなくていいからな」
「……ん。…ねぇ、ルカ」
「うん?」
「他の天使様達は……私のこと、どう、思ったかな…?」
「……もう一人のアドニスとは、別の魂だって、ちゃんと分かってくれたよ」
「カロン様、みたいに…?」
「ああ、そうだな。カロンみたい……あぁ~、そうだ、アニー。一つ言い忘れてたことがあるんだが」
「うん?」
「庭の、あのブランコな。アレをくれたのはカロンだ」
「え…?」
「怖がらせたお詫びに、アニーへの贈り物だそうだ」
予想外の言葉に、パチリと目を瞬く。
昨日一日中、赤ん坊達が楽しそうに揺らして遊んでいた遊具を思い出し、それがある窓の外に視線を向けた。
「カロン様が、くれたの…?」
「そうだよ」
「…じゃあ、お礼、言わなきゃ…」
「アニー、お詫びの品ですから、そのまま受け取るだけでいいんですよ」
「で、でも、ごめんねって、言ってくれたのに…私も、ごめんなさいって、したから……じゃ、じゃあ、自分も、何かおく───」
「そうですね、アニー。カロンにはお礼を言いましょう。お礼の言葉は私から伝えますから、任せて下さい」
「そうだな。イヴァニエに任せておけば大丈夫だよ、アニー」
「う、うん」
二人の勢いに呑まれ、よく分からないまま返事をする。
(…イヴが、お礼言ってくれるなら、いいのかな?)
正直、他者との正しい関わり方も、まだよく分かっていない。
「素敵な贈り物をありがとう」という感謝の気持ちを伝えるだけで果たして足りるのか、それすら分からないのだが、イヴァニエとルカーシュカが大丈夫だというのだから、きっと大丈夫なのだろう。
うんうん、と頷いていると、困り顔で微笑むエルダと目が合った
「エルダ? どうしたの?」
「いえ…また改めて、お話ししますね」
「?」
「アニー、実はもう一つ、お話しすることがあるんですが…」
「なぁに?」
言葉を濁すエルダを不思議に思いつつ見つめていると、イヴァニエの手が腰に回された。
「こちらは決定事項ではありません。アニーの意思で断ってくれていいので、嫌なら嫌と言って下さいね?」
「う……う?」
「おい、その言い方だとアニーが怖がるだろ」
「怖がってもらわないと困るのですが」
「どういう理屈で言ってるんだ。…あのな、アニー、バルドル様が、アニーに会いたがってるんだ」
「へ?」
それまでの話も驚きに満ちていたが、アッサリと告げられた言葉に、間の抜けた声が漏れた。
「バルドル、様が…?」
「アニーがバルドル様にお会いしたのは、命の湖から帰ってきたあの日だけだろう?」
「うん…」
「バルドル様も、アニーが落ち着くまでは、無理に会おうとはされなかったんだが…その、昨日のお披露目は、バルドル様も見ててな」
「えっ」
「アニーの元気な姿を見て、ご自身も会いたいと思われたみたいなんだ」
「アニー、これは強制ではありません。アニーの気持ちを優先していいと言われています。無理に会おうとしなくていいのですよ」
「イヴァニエ、お前はちょっと黙ってろ」
(バルドル様が…)
思い返せば、バルドル神とは随分と前に一度会ったきりだと、今更になってようやく思い出す。それも、最終的にはその膝の上で眠ってしまい、気づいたら部屋に帰ってきていたので、別れ際の挨拶すらしていない。
その後は、フォルセの果実としての務めや、イヴァニエやルカーシュカ、エルダと恋仲になり、彼らや赤ん坊達と過ごす日々に満足していて、意識の端に上ることすら無くなっていた。
(ど、どうしよう…)
途端に込み上げた罪悪感に、胸の鼓動が速くなる。
初めてきちんと言葉を交わしたあの日、あんなにも自分の身を案じ、慈しみの情を惜しみなく与えてくれた神様。
優しく穏やかな低い声が、「良い子」「愛しい子」と沁みるように身の内に響くたび、生きていていいのだと思えた。
それなのに、きっとずっと心配してくれていたのだろうその御心にも気づかず、本来自分のするべき報告の役目すらエルダに任せ、会おうという考えすら湧かなかった己の薄情さに、後悔の念が一挙に押し寄せた。
「アニー? どうした?」
「あっ、会う…! ちゃんと、バルドル様に、会う…!」
「アニー、急にどうしたんです?」
「アドニス様、どうか落ち着いて下さいませ」
半泣きになりながら必死になって答えれば、三人に一斉に心配されてしまい、アワアワと喘ぐように言葉を紡いだ。
「だ、だって…、ずっと、バルドル様は…心配して、下さってたのに…っ、全然、お話しも、してないし…お礼も、ご、ごめんなさいも、言ってないし…!」
「……何を謝るつもりなのかは分からんが、アニーはバルドル様に会うのは平気なのか?」
「う……うん…!」
一瞬、返事に詰まったのは、恐怖ではなく緊張からだ。だがそれだけ。バルドル神に会うのは緊張はするが、怖くもないし、嫌でもない。
バルドル神だけは、生まれたあの日からずっと怖くない、唯一の存在なのだ。
「バルドル様と、会う…!」
ふんす、と気合いを入れ、三人をそれぞれ見つめる。
きちんと自分の意思で会いたいと告げれば、今回は皆を困らせることもないだろう───そう思い、少しだけ意気込んで返事をしたのだが、彼らの反応は思っていたものと違った。
「アニーが素直で良い子なばっかりに…!」
「なんだろうな…嫌ではないんだが、心配だな」
「アドニス様、バルドル様がお優しくとも、決して気を許されてはいけませんよ?」
「う…?」
喜んでくれるか、もしくは安心してくれるかと思っていた三人の反応は三者三様で、昂っていた感情はぷしゅると音を立て、鎮まっていった。
数日後、皆と共に、宮廷内にあるバルドル神の私室へと向かった。
初めて足を踏み入れたその部屋に、好奇心からキョロキョロと辺りを見回すも、そこにバルドル神の姿はなく、待っていたのは、いつかバルドル神の隣に控えていた黒髪の天使、唯一人だった。
「お待ちしておりました、アドニス様。バルドル様が、奥の宮にてお待ちです。───恐れながら、これより先は、アドニス様お一人でお越し頂きたく存じます」
皆と庭で過ごした翌日、ルカーシュカ達から改まって話がしたいと言われ、不思議に思いながらも彼らと共にソファーに座った。
前日は庭に生まれ変わったバルコニーのことをアレコレと彼らに聞き、部屋の中から窓越しにキラキラと光る白い花木を眺め、これからは毎日この風景が見れるのだと喜んだ。
その時は「これからはもっと庭で過ごす時間も作ろう」と言って、共に笑ってくれたのだが、なぜか今日は三人とも難しい顔をしていて、昨日との落差に驚いてしまう。
何か悪い話でもあるのだろうか…と身構えていると、思ってもみなかった話を聞かされた。
「実は、昨日の庭でのことなんだが───」
そう言ってルカーシュカが語り始めた内容に、僅かに目を見開いた。
バルドル神の命により、大天使達を前にお披露目が行われたこと。正規のお披露目とは異なり、一方的なものであったこと。昨日の一件で、大天使達に自分の存在が知れ渡ったこと…話しにくそうに言葉を続けるルカーシュカも、眉根に皺を寄せるイヴァニエも、不安げな表情を浮かべるエルダも、皆一様に纏う空気は重かった。
彼らの態度が気になったが、今は昨日のことを思い返すのに必死で、話を聞きながら思考はどこか遠くを彷徨っていた。
(他の大天使様達が、見てた…)
そう言われ、昨日の光景を思い返すも、周りに人影など無かった。
澄んだ遠い青空と、どこまでも穏やかな風景しか広がっていなかったはずなのだが、一体どこから見ていたのだろうか?
大勢の大天使達が部屋の周りを囲んでいる光景を想像し、圧迫感のような緊張から、ふるりと身が震えたが、今はそれよりも気になることがあった。
(見てたって…いつから見てたんだろう? へ、変なこと、してない……よね?)
昨日はイヴァニエとルカーシュカ、エルダや赤ん坊達と一緒に、目一杯遊んで、たくさんお喋りをした。
『皆と一緒に楽しく遊んだ』という記憶と感情は、頭と心の中に溢れ返っているのだが、少しばかり興奮していたせいか、どんな行動を取っていたかまで細かく思い出せない。
皆が隣にいて、楽しそうに笑っていて、手を繋いで、たくさんキスをした、いつもと変わらない愛しい一日。
いつもと一緒で、でも特別な出来事があったから、いつもよりもたくさん嬉しくて、たくさん楽しくて…ちょっとだけはしゃぎ過ぎてしまったことだけは覚えている。
(…ちょっと、恥ずかしいかもしれない)
新しい庭が嬉しくて、気持ちはとても高揚していた。はしゃいでいた姿を見られていたのだと思うと恥ずかしくて、羞恥に染まる頬を隠すように俯けば、イヴァニエの手が肩を抱いた。
「ごめんなさい、アニー。貴方の意思を無視して、このようなことをしてしまって…」
「ごめんな、アニー。俺達がきちんと断れれば良かったんだが…」
後悔を滲ませた二人の声と表情に、慌てて顔を上げる。
恐らく二人も、そしてエルダも、大天使が近くにいたこと自体が自身の負担になるのではないかと心配してくれているのだろう。
恥ずかしさを振り切るように、ふるふると首を横に振ると、へにゃりと笑みを返した。
「大丈夫だよ。その…ちょっとだけ、恥ずかしいけど…大丈夫だよ」
「……嫌だとは思わないんですか?」
「嫌…?」
「言い方は悪いが、アニーを見せものにしたんだ。怒っていいんだぞ?」
「…怒る?」
(…なにに怒るんだろう?)
二人はまだ何か心配なのか、険しい表情のままだが、言われた言葉に心当たりもなく、首を傾げながら自身の胸の内を語った。
「えっと…みんなに見られてたんだなって思うと、ドキドキするけど……ヤじゃ、ないよ」
「…ドキドキするというのは、怖かったという意味ではないですか?」
「うぅん。その……へ、変なこと、してなかったかなって、思って……恥ずかしくて…」
「……アニーはずっと可愛らしかったですから、安心して下さい」
「…? ありがとう…?」
若干噛み合っていないように思うイヴァニエの返答に応えつつ、落ち着いてきた頭でゆっくりと状況を飲み込むと、浮かんだ疑問について尋ねた。
「でも、どうして、みんなは、自分のこと見てたの…?」
「皆、アニーのことが気になるからだよ」
「気になる?」
「そうだな……ゆっくり、順に話そうか」
それからルカーシュカとイヴァニエが交互に語り、時たまエルダが言葉を挟みながら、ゆっくりと自分の知らなかった『外にいる皆』のことを教えてくれた。
大天使アドニスの死と入れ替わるように生まれた魂のことを、皆ずっと気にしていたらしい。そこには純粋な興味本位の他に、疑念や疑惑といった疑いの眼差しも含まれていた。
それでも、バルドル神が大天使アドニスとは異なる魂であると認め、新たに誕生した大天使として『アドニス』という名を与えた。
天界唯一の神が認めた存在に意を唱えようとする者は無く、同時に、隠されるようにひっそりと過ごす存在を、無理やり暴こうとする者もいなかった。
だが時間が経つにつれ、どれだけ待っても姿を見せることも、またその名を聞くことすらない存在に、最初に芽生えた興味や疑念が、皆の中で少しずつ膨らんでいったのだという。
「他のヤツらの気持ちが分からない訳じゃないんだ。俺達だって、少しずつアドニスとアニーは別人だって、考えられるようになったんだからな。まったく知らないヤツからしたら、信じられないと思うのは当然だろう」
そう言われ、同意の意を込めてコクリと頷いた。
自分自身、そうだったのだ。『自分』のことも分からないまま生まれて、肉体の人物と『自分』が同一人物なのかすら分からないまま、あやふやな存在としてずっと生きてきた。
肉体だけを共有した別の魂と知った後ですら、きちんと自分と『アドニス』は違うのだと理解するまで、ふわふわとした感覚が抜けなかったように思う。
(何にも知らない大天使様達からしたら、信じられないって思うのは、当然だよね…)
だが皆の興味に反して、自分が外に出ることはなく、本当に存在するのかどうかすら疑われていたらしい。
結果、カロンという大天使が興味を抑えきれず、いつかの邂逅が起きてしまった。
「バルドル様は、皆がアニーを知らないことも、アニーが皆を知らないことも、どちらも双方にとって良くないとお考えなのです。アニーが皆の前に出るには、まだもう少し時間が必要でしょう。ならばせめて、皆だけでもアニーという子を認識する機会を与えるべきだと仰ったのです」
「……私も、みんなと、会った方がいいの…?」
「いいえ。それを強要する気はありません。…もしもいつか、アニーが自分の意思で皆と交流を持ちたいと思ったなら……その時は、少しずつ、慣れていけたらいいですね」
「……うん」
イヴァニエの手が、甘やかすように頬を撫でる。柔らかな声に頷きつつも、他者との交流に対し、あまり積極的になれない心境に、そっと俯いた。
(他の天使様達と、お話ししてみたいって、思う日がくるのかな…?)
想像することすら難しい未来に、柔く唇を喰むと、ルカーシュカの手が自身の手に重なった。
「アニーは、他の者達に会いたいと思うか?」
「………わかんない…」
「うん。分からないなら、無理に分かろうとしなくていいよ。急がなくていいからな」
「……ん。…ねぇ、ルカ」
「うん?」
「他の天使様達は……私のこと、どう、思ったかな…?」
「……もう一人のアドニスとは、別の魂だって、ちゃんと分かってくれたよ」
「カロン様、みたいに…?」
「ああ、そうだな。カロンみたい……あぁ~、そうだ、アニー。一つ言い忘れてたことがあるんだが」
「うん?」
「庭の、あのブランコな。アレをくれたのはカロンだ」
「え…?」
「怖がらせたお詫びに、アニーへの贈り物だそうだ」
予想外の言葉に、パチリと目を瞬く。
昨日一日中、赤ん坊達が楽しそうに揺らして遊んでいた遊具を思い出し、それがある窓の外に視線を向けた。
「カロン様が、くれたの…?」
「そうだよ」
「…じゃあ、お礼、言わなきゃ…」
「アニー、お詫びの品ですから、そのまま受け取るだけでいいんですよ」
「で、でも、ごめんねって、言ってくれたのに…私も、ごめんなさいって、したから……じゃ、じゃあ、自分も、何かおく───」
「そうですね、アニー。カロンにはお礼を言いましょう。お礼の言葉は私から伝えますから、任せて下さい」
「そうだな。イヴァニエに任せておけば大丈夫だよ、アニー」
「う、うん」
二人の勢いに呑まれ、よく分からないまま返事をする。
(…イヴが、お礼言ってくれるなら、いいのかな?)
正直、他者との正しい関わり方も、まだよく分かっていない。
「素敵な贈り物をありがとう」という感謝の気持ちを伝えるだけで果たして足りるのか、それすら分からないのだが、イヴァニエとルカーシュカが大丈夫だというのだから、きっと大丈夫なのだろう。
うんうん、と頷いていると、困り顔で微笑むエルダと目が合った
「エルダ? どうしたの?」
「いえ…また改めて、お話ししますね」
「?」
「アニー、実はもう一つ、お話しすることがあるんですが…」
「なぁに?」
言葉を濁すエルダを不思議に思いつつ見つめていると、イヴァニエの手が腰に回された。
「こちらは決定事項ではありません。アニーの意思で断ってくれていいので、嫌なら嫌と言って下さいね?」
「う……う?」
「おい、その言い方だとアニーが怖がるだろ」
「怖がってもらわないと困るのですが」
「どういう理屈で言ってるんだ。…あのな、アニー、バルドル様が、アニーに会いたがってるんだ」
「へ?」
それまでの話も驚きに満ちていたが、アッサリと告げられた言葉に、間の抜けた声が漏れた。
「バルドル、様が…?」
「アニーがバルドル様にお会いしたのは、命の湖から帰ってきたあの日だけだろう?」
「うん…」
「バルドル様も、アニーが落ち着くまでは、無理に会おうとはされなかったんだが…その、昨日のお披露目は、バルドル様も見ててな」
「えっ」
「アニーの元気な姿を見て、ご自身も会いたいと思われたみたいなんだ」
「アニー、これは強制ではありません。アニーの気持ちを優先していいと言われています。無理に会おうとしなくていいのですよ」
「イヴァニエ、お前はちょっと黙ってろ」
(バルドル様が…)
思い返せば、バルドル神とは随分と前に一度会ったきりだと、今更になってようやく思い出す。それも、最終的にはその膝の上で眠ってしまい、気づいたら部屋に帰ってきていたので、別れ際の挨拶すらしていない。
その後は、フォルセの果実としての務めや、イヴァニエやルカーシュカ、エルダと恋仲になり、彼らや赤ん坊達と過ごす日々に満足していて、意識の端に上ることすら無くなっていた。
(ど、どうしよう…)
途端に込み上げた罪悪感に、胸の鼓動が速くなる。
初めてきちんと言葉を交わしたあの日、あんなにも自分の身を案じ、慈しみの情を惜しみなく与えてくれた神様。
優しく穏やかな低い声が、「良い子」「愛しい子」と沁みるように身の内に響くたび、生きていていいのだと思えた。
それなのに、きっとずっと心配してくれていたのだろうその御心にも気づかず、本来自分のするべき報告の役目すらエルダに任せ、会おうという考えすら湧かなかった己の薄情さに、後悔の念が一挙に押し寄せた。
「アニー? どうした?」
「あっ、会う…! ちゃんと、バルドル様に、会う…!」
「アニー、急にどうしたんです?」
「アドニス様、どうか落ち着いて下さいませ」
半泣きになりながら必死になって答えれば、三人に一斉に心配されてしまい、アワアワと喘ぐように言葉を紡いだ。
「だ、だって…、ずっと、バルドル様は…心配して、下さってたのに…っ、全然、お話しも、してないし…お礼も、ご、ごめんなさいも、言ってないし…!」
「……何を謝るつもりなのかは分からんが、アニーはバルドル様に会うのは平気なのか?」
「う……うん…!」
一瞬、返事に詰まったのは、恐怖ではなく緊張からだ。だがそれだけ。バルドル神に会うのは緊張はするが、怖くもないし、嫌でもない。
バルドル神だけは、生まれたあの日からずっと怖くない、唯一の存在なのだ。
「バルドル様と、会う…!」
ふんす、と気合いを入れ、三人をそれぞれ見つめる。
きちんと自分の意思で会いたいと告げれば、今回は皆を困らせることもないだろう───そう思い、少しだけ意気込んで返事をしたのだが、彼らの反応は思っていたものと違った。
「アニーが素直で良い子なばっかりに…!」
「なんだろうな…嫌ではないんだが、心配だな」
「アドニス様、バルドル様がお優しくとも、決して気を許されてはいけませんよ?」
「う…?」
喜んでくれるか、もしくは安心してくれるかと思っていた三人の反応は三者三様で、昂っていた感情はぷしゅると音を立て、鎮まっていった。
数日後、皆と共に、宮廷内にあるバルドル神の私室へと向かった。
初めて足を踏み入れたその部屋に、好奇心からキョロキョロと辺りを見回すも、そこにバルドル神の姿はなく、待っていたのは、いつかバルドル神の隣に控えていた黒髪の天使、唯一人だった。
「お待ちしておりました、アドニス様。バルドル様が、奥の宮にてお待ちです。───恐れながら、これより先は、アドニス様お一人でお越し頂きたく存じます」
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