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プティ・フレールの愛し子
100.依依恋恋の憂鬱
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(本当に嫌です…)
バルドル神からアドニスのお披露目をするように言い渡されてから数日、日々は鬱々と過ぎていた。
カロンとの邂逅以降、幸いにも比較的穏やかに過ごしていたアドニスだが、やはりカロンと接触した瞬間のことが忘れられないのか、数日間、フレールの庭に出ることを躊躇った。
怯えたように瞳を揺らすアドニスに胸が痛んだが、それと同時に溢れたのは、まだまだ己の庇護が必要なか弱く儚い愛らしい姿への安堵だった。
愛しさと共に渦巻く独占欲。
ふわふわとした笑顔はあどけなく、ふにゃりと話す言葉は仔猫の鳴き声のように愛らしく、それでいて熟成した肉体は、甘やかな蜜の香りを纏って性を誘う。
叶うことならば己の離宮の奥深く、誰の目にも触れない秘密の部屋に、大事に大事に閉じ込めておきたいのに、それが叶わぬ願いであることは分かっていた。
ならばせめて、アドニスの安全が約束された領域の中で、自分やルカーシュカ、エルダからの愛情だけを一身に受け、それだけしか知らぬまま、心穏やかに過ごしてほしい、そう願って止まないのに…
(私達だけ……私だけのアニーでいいのに…)
無数の蜜蜂が飛び交う中に、一輪の大輪の花を見せびらかすような未来への憂いは、その日のその瞬間を迎えるまで、晴れることはなかった。
アドニスの為の小さな庭へと生まれ変わったバルコニーを眺め、既に何度目か分からない溜め息が空に溶けた。
「いい加減、諦めろ」
「諦めてますよ。納得してないだけで」
うんざりといった空気を隠しもしないルカーシュカに言い返せば、胡乱な目を向けられた。
嘘ではない。バルドル神の命ではどうしようもないと諦めている。ただ納得していないだけだ。
未だ晴れないままの不満を胸に、周囲に集まった大天使達を見上げた。
(この庭だって、私達だけで喜ぶアニーを愛でる予定だったのに…)
アドニスが今の部屋をバルドル神より賜った際、室内の模様替えと共に庭の改造をしなかったのは、アドニスに二度喜んでもらう為だった。
一度に全てを一新したのでは芸がない。新しい部屋に馴染んだ頃、改めてバルコニーも改造し、驚かせよう…そうルカーシュカ達と話していたのだ。
だがフレールの庭に向かうようになってから、アドニスがバルコニーに出る機会は減り、代わりに自分やルカーシュカの離宮へと遊びに来る回数が増えた。
アドニスがバルコニー以外にも好む場所を見つけたのならそれでいい。なにより、離宮に来る機会が増えるのならそれが良い、とバルコニーの改造は後回しにしていたのだが…まさかこんな形で新しい庭のお披露目まですることになるなんて、考えてもいなかった。
庭への改造は別の時でもいいだろうにと思ったのだが、今回のお披露目を区切りに、アドニスの世界がどう変わっていくか分からない。
アドニスの気が外へ、外へ、と向くようになる前に、自室をより好ましい場所として覚えてもらった方が安心だろう、というルカーシュカの言葉に、つい頷いてしまったのだ。
(エルダはアニーの側を離れるつもりがない分、余裕ですしね)
今も最後の仕上げと他の大天使達への説明は自分とルカーシュカの役目で、エルダは眠るアドニスの側でその目覚めを待っていた。
お披露目の準備の為、アドニスには粛法で眠ってもらったのだが、エルダはその側を離れる気がまったくなかった。
アドニスの従者として、エルダが側に控えていること自体はなんらおかしいことではない。おかしいことではないのだが、朝から晩まで、常にアドニスと共にいられるその身が羨ましく、少しばかり恨めしかった。
それでも深い嫉妬に苛まれないのは、エルダが自身の望みに忠実に過ごし、常に一歩引いた態度でいるからだろう。
(たぶん今も、眠るアドニスを眺めているだけでしょうしね)
離れず、だがその身には触れず、ただ静かに側に寄り添っているだけというのは、己にはできないことだった。
(……ああ、やっぱり嫌だ)
現状のままでいい。自分とルカーシュカ、エルダ以外の者の介入も、変化も、いらない───そう思わずにはいられなかった。
だがそんな想いも虚しく、バルコニーへと続く大きな窓が開き、アドニスの目覚めを告げる。
お披露目が始まる合図に、深く溜め息を吐いた。
「アニーに気取られるなよ」
「アニーを心配させるようなことはしませんよ」
ポツリと呟かれたルカーシュカに返事をしつつ、気合いを入れる。
本心では、他の者達にアドニスを見せたくないが、ここまで来たら、もうどうしようもない。
覚悟を決めると同時に、こうなったら目一杯アドニスと育んだ愛情を見せつけてやろうと頭を切り替えた。
「ブランコ、楽しいね」
「んふぅ」
「うーぁ」
真新しい庭の中、はしゃぐ赤子達の声が響く。
遊ぶプティの様子を柔らかな表情で眺めるアドニスは愛らしく、その腰を抱き寄せ、こめかみにそっと唇を寄せた。
「ふふ」
キスを受け、頬を綻ばせるアドニスに瞳を細めながら、視線だけを結界の外へと向けた。
(…皆、アニーに釘付けですね)
その視線の強さに顔を顰めそうになるも、アドニスの手前、なんとか歪みそうになる表情を堪えた。
無垢で愛らしいアドニス。
この子の存在が、アドニスとはまったくの別人であることは、きっと庭先に姿を現したその瞬間に、誰もが痛感したことだろう。
纏う雰囲気は柔らかく、足先に触れる芝生の感触に喜び、頬への口づけにあどけなく笑い、生まれ変わったバルコニーに目を輝かせてはしゃぐ───大天使アドニスとは異なる、新たな存在として皆の記憶に刻みつけられたのは確実だった。
それだけならまだいい。だが、驚愕や愕然といった感情から徐々に変化していった表情と、食い入るように見つめる瞳に、内心は穏やかでいられなかった。
誰も彼もが口を閉ざし、ただアドニスだけを注視する。その瞳は仄かに揺めき、煌めき、感嘆の溜め息が聞こえそうなほど、雄弁にその内情を語っていた。
惚れた欲目を抜きにしても、アドニスは大変可愛らしい。
純粋なものに惹かれ、善を好む天使の性を刺激するには充分すぎる微笑みは、どこまでも魅力的に映るだろう。
例えその肉体が、その面立ちが、もう一人のアドニスと同じであったとしても、だ。
己と同じように、それまで積み重なっていたアドニスへの嫌悪は崩れ、まるで記憶を塗り替えるように愛らしいだけの微笑みを向けられた時、果たしてどれほどの者が恋慕の種をその身に宿すのか…想像するだけで胸の内がザラついた。
(……だから嫌だったんだ)
私のアニーを見るな───黒く重い靄が湧き出るのを感じながら、醜い感情を隠すように、アドニスの頬に唇を寄せた。
長いお披露目を終え、集まった者達が散り散りに去っていくのを眺めながら、ルカーシュカに愚痴を零す。
「アニーの可愛さが皆に知られてしまいました…」
「お前はそればっかりだな。アニーが好きなのは俺達なんだから、少しは落ち着け」
「それとこれとは別です」
アドニスから好かれている自覚は十二分にある。自信もある。だがアドニスの感情と、他の誰にも見せたくないという感情は別物なのだ。
(要注意なのはフェルディーナですね)
アドニスとの仲をわざと見せつけたにも関わらず、あえて口を挟んできたフェルディーナ。
彼は亡きアドニスに対し、誰よりも嫌悪と憎悪の念を抱いていた。それは彼が真面目で誠実であるが故に、アドニスの傲慢さが我慢ならなかったからだ。
亡きアドニスへの嫌悪が強かった分、アドニスに対する感情の揺れ幅は誰より大きく、だからこそ意識せずにはいられないのだろう。
(まぁ、アニーに一番怖がられているのは恐らく彼ですからね。当分の間、接触はないでしょう)
別にフェルディーナのことは嫌いではない。真面目な性格は好ましいとさえ思っている。但し、アドニスのことが絡まなければの話だ。
「イヴァニエ、話は後だ。先に手を動かせ」
「分かってます」
ルカーシュカに促され、最後の後片付けとばかりに、結界を本来あるべき形へと張り直していく。
一秒でも早くアドニスの元に向かう為、黙々と手を動かし続けた。
「よく寝ていますね」
庭での作業を終え、部屋の中へと戻れば、寝室ではアドニスがプティ達と共にスヤスヤと眠っていた。
無防備な寝顔は、溜まっていた鬱憤が溶けて消えていくようで、ホッとするような愛らしさに、自然と口元が緩んだ。
「一応、お二人が戻られたら起こしますとはお伝えしたのですが…」
「いや、よく寝てるのに起こすのも可哀想だ。寝かせてやりな」
「ずっとはしゃいでましたからね、興奮して疲れたのでしょう」
それだけ新しい庭を喜んでくれたのだろう。
「大好き」と言って初めてアドニスから口づけてくれた喜びを思い出し、堪らないほどの愛しさが蘇る。
「お披露目があったことについては、明日話そうか。起きても、アニーは庭のことで頭がいっぱいだろうしな」
「そうですね。ひとまず、アニーが起きるまでは、私達も一休みしましょう。流石に今日は気疲れしました」
「…あれだけ他のヤツらに見せつけといて、何に疲れるんだよ」
「可愛いアニーを他の者達に見られていると思うだけで疲れるんですよ」
「お二人とも、お疲れ様でございました。どうぞお掛け下さい。お茶をお淹れしますね」
「ああ、悪いな」
寝室の中に置かれたソファーに腰を下ろし、アドニスの穏やかな寝顔と寝息を眺めて過ごすことで、波立っていた気持ちがようやく凪いでいく。
それでもまだ、少しばかり気が重いのは、今日のお披露目について話さなければいけないという、最後の仕事が残っているからだ。
バルドル神は、見せ物にするような行為に対し、アドニスが怒ったり悲しんだりしたら…と仰っていたが、きっと可愛いこの子は「変なことしてなかった?」と言って、オロオロするだけだろう。
鮮明に想像できるその姿を愛しく思いながら、お披露目と他の天使達の反応を伝えたその先で、アドニスがどんな反応を返すか、それが上手く想像できず、苦々しい気持ちが広がった。
「……もしも、アニーが他の者との交流を願ったら、どうしましょう…」
「どうしましょうも何も、それを俺達に制限できる権利なんてないだろう」
至極当然と言わんばかりの返事に眉を寄せれば、ルカーシュカが大きく肩を竦めた。
「俺だって、それなりに思うところはある。でも、俺達の感情をアニーに押し付けるのは違う。そうだろ?」
「………分かってますよ」
分かってはいる。アドニスの世界を狭めてはいけないと、分かっているのだ。
己のどうしようもない独占欲と嫉妬だと、分かっている。…分かっていても、どうしようもないのだから、せめてアドニスの知らぬ所で愚痴を零すくらいは許してほしい。
「ああ…っ、アニーを外に出したくありません…!」
「イヴァニエ様、あまり大きい声を出されますとアドニス様が起きてしまいます」
「おい、間違ってもアニーにそんなこと言うなよ」
「……言いませんよ」
顔を顰めるルカーシュカと、困ったような顔でアドニスの眠るベッドの天蓋を閉じるエルダ。
同じ立場でありながら、どこか余裕のある二人を憎たらしく思いながら、大きく息を吐き出し、ソファーの背凭れに深く身を預けた。
「アドニスのお披露目は、無事終わったようだな」
その日の夜、ルカーシュカと共に、再びバルドル神の私室を訪ねた。
「皆、きちんとあの子のことを分かってくれたようだね。喜ばしいことだ」
「…左様でございますね」
恐らくオリヴィアの能力を介して、どこからか見ていたのだろう。僅かに弾んだ声には、喜色が滲んでいた。
我々を我が子と呼び、愛情を注いで下さるバルドル神にとって、歪な誕生故、より一層目を掛けているアドニスが他の者達に受け入れられることは、喜ばしいことなのだろう。
ただどうにも複雑な心境から、素直に返事ができず、抑揚のない声を返すことしかできなかった。
「アドニスは、お披露目についてどんな反応だったかな?」
「申し訳ございません。アドニスは本日既に休んでおりまして、そちらについては、明日改めて話す予定です」
正確には一度起きてまた寝たのだが、嘘は言ってない。
「そうか。まぁ、急ぐ話でもない。あの子が落ち着いている時にでも話してあげなさい」
「承知致しました」
そうは言っても、あまり先延ばしにはできないだろう…そんなことを考えていると、ふとバルドル神の笑みが深くなり、ドキリと胸が鳴った。
「それにしても、あの子はとても元気になったね。私と会った時はずっと泣いていたのに、あんなによく笑うようになって…お前達とも随分と仲が良くなった」
「……はい」
どこか含みのある言い方に、途端に嫌な予感が走る。
自分達がアドニスと『仲が良い』という点に対してではない。
『ずっと泣いていたのに』という点に対してだ。
我々を『我が子』と呼んで愛してくれる、我らが神。
愛情深く、慈悲深いその御心は、なにより子を愛でたいというお気持ちが強く───それでいて少しばかり、『愛し方』の幅が広いのだ。
「お披露目も済んだことだし、せっかくだ。そろそろ愛しい我が子の元気な姿を、父にも見せておくれ、とアドニスに伝えてくれるかな?」
父ばかり会えなくて、寂しいからな…そう言って寂しげに微笑むバルドル神を前に、キツく目を瞑った。
ああ、この御方が誰よりも厄介なのだということを失念していた───それを思い出したところで、『是』と答える以外の道などなく、焦燥と不安で歪む顔を隠すように、断腸の思いで首を垂れた。
--------------------
いつも『天使様の愛し子』をお読み下さり、ありがとうございます。東雲です。
諸事情により、ゆっくり更新に磨きがかかっておりますが、ついに100話(通算で数えると100話目ではないのですが)に到達致しました!(*´◒`*)
コツコツちまちまペースで書いてきた本作ですが、アドニスくんを見守り、お話を読んで下さる皆様のおかげで、ずっと書き続けてこれました!本当にありがとうございます!
101話からようやくアドニスくん視点に戻ります!
相変わらずゆっくりペースで進むお話ですが、続きも楽しくお読み頂けましたら幸いです!
東雲
バルドル神からアドニスのお披露目をするように言い渡されてから数日、日々は鬱々と過ぎていた。
カロンとの邂逅以降、幸いにも比較的穏やかに過ごしていたアドニスだが、やはりカロンと接触した瞬間のことが忘れられないのか、数日間、フレールの庭に出ることを躊躇った。
怯えたように瞳を揺らすアドニスに胸が痛んだが、それと同時に溢れたのは、まだまだ己の庇護が必要なか弱く儚い愛らしい姿への安堵だった。
愛しさと共に渦巻く独占欲。
ふわふわとした笑顔はあどけなく、ふにゃりと話す言葉は仔猫の鳴き声のように愛らしく、それでいて熟成した肉体は、甘やかな蜜の香りを纏って性を誘う。
叶うことならば己の離宮の奥深く、誰の目にも触れない秘密の部屋に、大事に大事に閉じ込めておきたいのに、それが叶わぬ願いであることは分かっていた。
ならばせめて、アドニスの安全が約束された領域の中で、自分やルカーシュカ、エルダからの愛情だけを一身に受け、それだけしか知らぬまま、心穏やかに過ごしてほしい、そう願って止まないのに…
(私達だけ……私だけのアニーでいいのに…)
無数の蜜蜂が飛び交う中に、一輪の大輪の花を見せびらかすような未来への憂いは、その日のその瞬間を迎えるまで、晴れることはなかった。
アドニスの為の小さな庭へと生まれ変わったバルコニーを眺め、既に何度目か分からない溜め息が空に溶けた。
「いい加減、諦めろ」
「諦めてますよ。納得してないだけで」
うんざりといった空気を隠しもしないルカーシュカに言い返せば、胡乱な目を向けられた。
嘘ではない。バルドル神の命ではどうしようもないと諦めている。ただ納得していないだけだ。
未だ晴れないままの不満を胸に、周囲に集まった大天使達を見上げた。
(この庭だって、私達だけで喜ぶアニーを愛でる予定だったのに…)
アドニスが今の部屋をバルドル神より賜った際、室内の模様替えと共に庭の改造をしなかったのは、アドニスに二度喜んでもらう為だった。
一度に全てを一新したのでは芸がない。新しい部屋に馴染んだ頃、改めてバルコニーも改造し、驚かせよう…そうルカーシュカ達と話していたのだ。
だがフレールの庭に向かうようになってから、アドニスがバルコニーに出る機会は減り、代わりに自分やルカーシュカの離宮へと遊びに来る回数が増えた。
アドニスがバルコニー以外にも好む場所を見つけたのならそれでいい。なにより、離宮に来る機会が増えるのならそれが良い、とバルコニーの改造は後回しにしていたのだが…まさかこんな形で新しい庭のお披露目まですることになるなんて、考えてもいなかった。
庭への改造は別の時でもいいだろうにと思ったのだが、今回のお披露目を区切りに、アドニスの世界がどう変わっていくか分からない。
アドニスの気が外へ、外へ、と向くようになる前に、自室をより好ましい場所として覚えてもらった方が安心だろう、というルカーシュカの言葉に、つい頷いてしまったのだ。
(エルダはアニーの側を離れるつもりがない分、余裕ですしね)
今も最後の仕上げと他の大天使達への説明は自分とルカーシュカの役目で、エルダは眠るアドニスの側でその目覚めを待っていた。
お披露目の準備の為、アドニスには粛法で眠ってもらったのだが、エルダはその側を離れる気がまったくなかった。
アドニスの従者として、エルダが側に控えていること自体はなんらおかしいことではない。おかしいことではないのだが、朝から晩まで、常にアドニスと共にいられるその身が羨ましく、少しばかり恨めしかった。
それでも深い嫉妬に苛まれないのは、エルダが自身の望みに忠実に過ごし、常に一歩引いた態度でいるからだろう。
(たぶん今も、眠るアドニスを眺めているだけでしょうしね)
離れず、だがその身には触れず、ただ静かに側に寄り添っているだけというのは、己にはできないことだった。
(……ああ、やっぱり嫌だ)
現状のままでいい。自分とルカーシュカ、エルダ以外の者の介入も、変化も、いらない───そう思わずにはいられなかった。
だがそんな想いも虚しく、バルコニーへと続く大きな窓が開き、アドニスの目覚めを告げる。
お披露目が始まる合図に、深く溜め息を吐いた。
「アニーに気取られるなよ」
「アニーを心配させるようなことはしませんよ」
ポツリと呟かれたルカーシュカに返事をしつつ、気合いを入れる。
本心では、他の者達にアドニスを見せたくないが、ここまで来たら、もうどうしようもない。
覚悟を決めると同時に、こうなったら目一杯アドニスと育んだ愛情を見せつけてやろうと頭を切り替えた。
「ブランコ、楽しいね」
「んふぅ」
「うーぁ」
真新しい庭の中、はしゃぐ赤子達の声が響く。
遊ぶプティの様子を柔らかな表情で眺めるアドニスは愛らしく、その腰を抱き寄せ、こめかみにそっと唇を寄せた。
「ふふ」
キスを受け、頬を綻ばせるアドニスに瞳を細めながら、視線だけを結界の外へと向けた。
(…皆、アニーに釘付けですね)
その視線の強さに顔を顰めそうになるも、アドニスの手前、なんとか歪みそうになる表情を堪えた。
無垢で愛らしいアドニス。
この子の存在が、アドニスとはまったくの別人であることは、きっと庭先に姿を現したその瞬間に、誰もが痛感したことだろう。
纏う雰囲気は柔らかく、足先に触れる芝生の感触に喜び、頬への口づけにあどけなく笑い、生まれ変わったバルコニーに目を輝かせてはしゃぐ───大天使アドニスとは異なる、新たな存在として皆の記憶に刻みつけられたのは確実だった。
それだけならまだいい。だが、驚愕や愕然といった感情から徐々に変化していった表情と、食い入るように見つめる瞳に、内心は穏やかでいられなかった。
誰も彼もが口を閉ざし、ただアドニスだけを注視する。その瞳は仄かに揺めき、煌めき、感嘆の溜め息が聞こえそうなほど、雄弁にその内情を語っていた。
惚れた欲目を抜きにしても、アドニスは大変可愛らしい。
純粋なものに惹かれ、善を好む天使の性を刺激するには充分すぎる微笑みは、どこまでも魅力的に映るだろう。
例えその肉体が、その面立ちが、もう一人のアドニスと同じであったとしても、だ。
己と同じように、それまで積み重なっていたアドニスへの嫌悪は崩れ、まるで記憶を塗り替えるように愛らしいだけの微笑みを向けられた時、果たしてどれほどの者が恋慕の種をその身に宿すのか…想像するだけで胸の内がザラついた。
(……だから嫌だったんだ)
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長いお披露目を終え、集まった者達が散り散りに去っていくのを眺めながら、ルカーシュカに愚痴を零す。
「アニーの可愛さが皆に知られてしまいました…」
「お前はそればっかりだな。アニーが好きなのは俺達なんだから、少しは落ち着け」
「それとこれとは別です」
アドニスから好かれている自覚は十二分にある。自信もある。だがアドニスの感情と、他の誰にも見せたくないという感情は別物なのだ。
(要注意なのはフェルディーナですね)
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彼は亡きアドニスに対し、誰よりも嫌悪と憎悪の念を抱いていた。それは彼が真面目で誠実であるが故に、アドニスの傲慢さが我慢ならなかったからだ。
亡きアドニスへの嫌悪が強かった分、アドニスに対する感情の揺れ幅は誰より大きく、だからこそ意識せずにはいられないのだろう。
(まぁ、アニーに一番怖がられているのは恐らく彼ですからね。当分の間、接触はないでしょう)
別にフェルディーナのことは嫌いではない。真面目な性格は好ましいとさえ思っている。但し、アドニスのことが絡まなければの話だ。
「イヴァニエ、話は後だ。先に手を動かせ」
「分かってます」
ルカーシュカに促され、最後の後片付けとばかりに、結界を本来あるべき形へと張り直していく。
一秒でも早くアドニスの元に向かう為、黙々と手を動かし続けた。
「よく寝ていますね」
庭での作業を終え、部屋の中へと戻れば、寝室ではアドニスがプティ達と共にスヤスヤと眠っていた。
無防備な寝顔は、溜まっていた鬱憤が溶けて消えていくようで、ホッとするような愛らしさに、自然と口元が緩んだ。
「一応、お二人が戻られたら起こしますとはお伝えしたのですが…」
「いや、よく寝てるのに起こすのも可哀想だ。寝かせてやりな」
「ずっとはしゃいでましたからね、興奮して疲れたのでしょう」
それだけ新しい庭を喜んでくれたのだろう。
「大好き」と言って初めてアドニスから口づけてくれた喜びを思い出し、堪らないほどの愛しさが蘇る。
「お披露目があったことについては、明日話そうか。起きても、アニーは庭のことで頭がいっぱいだろうしな」
「そうですね。ひとまず、アニーが起きるまでは、私達も一休みしましょう。流石に今日は気疲れしました」
「…あれだけ他のヤツらに見せつけといて、何に疲れるんだよ」
「可愛いアニーを他の者達に見られていると思うだけで疲れるんですよ」
「お二人とも、お疲れ様でございました。どうぞお掛け下さい。お茶をお淹れしますね」
「ああ、悪いな」
寝室の中に置かれたソファーに腰を下ろし、アドニスの穏やかな寝顔と寝息を眺めて過ごすことで、波立っていた気持ちがようやく凪いでいく。
それでもまだ、少しばかり気が重いのは、今日のお披露目について話さなければいけないという、最後の仕事が残っているからだ。
バルドル神は、見せ物にするような行為に対し、アドニスが怒ったり悲しんだりしたら…と仰っていたが、きっと可愛いこの子は「変なことしてなかった?」と言って、オロオロするだけだろう。
鮮明に想像できるその姿を愛しく思いながら、お披露目と他の天使達の反応を伝えたその先で、アドニスがどんな反応を返すか、それが上手く想像できず、苦々しい気持ちが広がった。
「……もしも、アニーが他の者との交流を願ったら、どうしましょう…」
「どうしましょうも何も、それを俺達に制限できる権利なんてないだろう」
至極当然と言わんばかりの返事に眉を寄せれば、ルカーシュカが大きく肩を竦めた。
「俺だって、それなりに思うところはある。でも、俺達の感情をアニーに押し付けるのは違う。そうだろ?」
「………分かってますよ」
分かってはいる。アドニスの世界を狭めてはいけないと、分かっているのだ。
己のどうしようもない独占欲と嫉妬だと、分かっている。…分かっていても、どうしようもないのだから、せめてアドニスの知らぬ所で愚痴を零すくらいは許してほしい。
「ああ…っ、アニーを外に出したくありません…!」
「イヴァニエ様、あまり大きい声を出されますとアドニス様が起きてしまいます」
「おい、間違ってもアニーにそんなこと言うなよ」
「……言いませんよ」
顔を顰めるルカーシュカと、困ったような顔でアドニスの眠るベッドの天蓋を閉じるエルダ。
同じ立場でありながら、どこか余裕のある二人を憎たらしく思いながら、大きく息を吐き出し、ソファーの背凭れに深く身を預けた。
「アドニスのお披露目は、無事終わったようだな」
その日の夜、ルカーシュカと共に、再びバルドル神の私室を訪ねた。
「皆、きちんとあの子のことを分かってくれたようだね。喜ばしいことだ」
「…左様でございますね」
恐らくオリヴィアの能力を介して、どこからか見ていたのだろう。僅かに弾んだ声には、喜色が滲んでいた。
我々を我が子と呼び、愛情を注いで下さるバルドル神にとって、歪な誕生故、より一層目を掛けているアドニスが他の者達に受け入れられることは、喜ばしいことなのだろう。
ただどうにも複雑な心境から、素直に返事ができず、抑揚のない声を返すことしかできなかった。
「アドニスは、お披露目についてどんな反応だったかな?」
「申し訳ございません。アドニスは本日既に休んでおりまして、そちらについては、明日改めて話す予定です」
正確には一度起きてまた寝たのだが、嘘は言ってない。
「そうか。まぁ、急ぐ話でもない。あの子が落ち着いている時にでも話してあげなさい」
「承知致しました」
そうは言っても、あまり先延ばしにはできないだろう…そんなことを考えていると、ふとバルドル神の笑みが深くなり、ドキリと胸が鳴った。
「それにしても、あの子はとても元気になったね。私と会った時はずっと泣いていたのに、あんなによく笑うようになって…お前達とも随分と仲が良くなった」
「……はい」
どこか含みのある言い方に、途端に嫌な予感が走る。
自分達がアドニスと『仲が良い』という点に対してではない。
『ずっと泣いていたのに』という点に対してだ。
我々を『我が子』と呼んで愛してくれる、我らが神。
愛情深く、慈悲深いその御心は、なにより子を愛でたいというお気持ちが強く───それでいて少しばかり、『愛し方』の幅が広いのだ。
「お披露目も済んだことだし、せっかくだ。そろそろ愛しい我が子の元気な姿を、父にも見せておくれ、とアドニスに伝えてくれるかな?」
父ばかり会えなくて、寂しいからな…そう言って寂しげに微笑むバルドル神を前に、キツく目を瞑った。
ああ、この御方が誰よりも厄介なのだということを失念していた───それを思い出したところで、『是』と答える以外の道などなく、焦燥と不安で歪む顔を隠すように、断腸の思いで首を垂れた。
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いつも『天使様の愛し子』をお読み下さり、ありがとうございます。東雲です。
諸事情により、ゆっくり更新に磨きがかかっておりますが、ついに100話(通算で数えると100話目ではないのですが)に到達致しました!(*´◒`*)
コツコツちまちまペースで書いてきた本作ですが、アドニスくんを見守り、お話を読んで下さる皆様のおかげで、ずっと書き続けてこれました!本当にありがとうございます!
101話からようやくアドニスくん視点に戻ります!
相変わらずゆっくりペースで進むお話ですが、続きも楽しくお読み頂けましたら幸いです!
東雲
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