天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

99.レッドスピネルの見る夢

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その日は、唐突に訪れた。
バルドル神より『アドニス』という名を賜った新たな大天使のお披露目。
その日取りが決まったという報せを受けたのは、その存在が皆に知らされた日から、約半年が過ぎた日のことだった。



「悲しいことに、禁を破った子が出てしまった」

バルドル神からの突然の招集に宮廷に足を運べば、大天使が一堂に会する中、我らが父が悲しげに瞳を伏せた。
一堂に、とはいえ、そこに使の庇護者達の姿はなく、それに加え、橙色の髪の毛が特徴的な者の姿もなかった。
何事か、と皆が顔を見合わせる中、バルドル神から聞かされたのは、カロンが禁を破ってフレールの庭へ立ち入り、『アドニス』と接触してしまった、という話だった。

「カロンには二十日間の謹慎を罰として与えた。…さて、同じような過ちを犯す子はいないと思うが、皆には今一度、禁じた意味を話しておこうか」

ゆるりと語り始めたバルドル神からは、カロンに対する怒りはなく、ただ例の天使を案ずる気持ちだけが滲んでいた。
未だに部屋の外に出る機会も少なく、限られた領域でのみ過ごしているという『アドニス』という名の天使。
カロンとの邂逅が、柔く敏感な魂にどのような影響を与えたかすら分からない…と切々と語られた。

「多少は強くなったようだが、それでもようやく、少しずつ外を歩けるようになったばかりの子だ。もしも今回の出来事で、外に出ることそのものを恐れるようになれば、フォルセの果実としての役目を果たすことも難しくなってしまう」
「………」

少しずつ外を歩けるようになったばかり───半年経っても、未だにその行動範囲が広がっていないことに、知らず眉根に皺が寄った。

(イヴァニエ達は何をやっているんだ)

別に行動範囲を広げろとは思わない。外に出ようが出まいが、それは本人の自由だ。
だがいくら庇護が必要とはいえ、与えられた役目をこなす為、最低限の力を身につけさせ、経験は積ませるべきではないのか…大天使が三人も側についているというのに、まったく成長していない様子に、何をしているのだという憤りが湧いた。

『アドニス』の誕生とその後については、哀れにも思うし、敵意を向けてしまったことに対する負い目もある。だがそれだけだった。それよりも、今もまだバルドル神の憂慮や心痛となっていることに、僅かに胸の内がさざめいた。
そもそもそんな者が本当に存在するのか、そこからして疑問だった。

大天使アドニスの肉体の中で、新たに生まれたという魂。
器はそのままに、まるで中身だけが入れ替わるだなんてことが、果たして起こり得るのだろうか、とこれまでも半信半疑でいた。
話に聞くだけで『アドニス』という天使を見たこともなく、ルカーシュカ達に聞いても、明確な様子は明かされない。
バルドル神がその存在を認め、心を砕いているというその御心を疑うつもりはないが、だからと言って無条件に信じられるかと言えば話は別だった。

(カロンが接触したということは、実在はするのかもしれないが…)

それとて、この場に当事者であるカロンがいないのだから、真相は分からない。
こうしてバルドル神からの言葉を賜っているこの時間ですら疑わしい…そう思わずにはいられなかった。

「まぁ、こう話していても、お前達もアドニスを見たことがないのでは、信じられない気持ちもあるだろう」
「!」

疑念を抱く最中、まるで心の内を読んだかのようなお言葉に、ドキリとする。
そう感じたのは自分だけではなかったようで、似たような反応をする者がチラホラと視界の端に映った。

「信じられなくて当然だ。その存在を知らなければ、話に聞くだけの架空と同じだからな」

動揺する我々を否定せず、肯定の言葉を告げるバルドル神に安堵しつつ、ゆっくりと笑みを深めたそのかんばせに、姿勢を正した。

「その為にも、まずは『アドニス』という名の子が存在することを、皆に知ってもらうところから始めよう。急な話だが、アドニスのお披露目の場を設けようと思う」

思ってもみなかった発言に、皆が驚き、小さな騒めきが起こるも、バルドル神は気にも留めず、言葉を続けた。

が『アドニス』と別の存在であることは、一目見れば分かるだろう。無邪気で無垢な、愛らしい子だ」

きっと皆も、可愛らしい子だと思うはずだよ───信じ難いバルドル神の言に、堪らず顔を顰めた。




それから約一ヶ月後、『アドニス』という名の天使のお披露目の日を迎えた。
とはいえ、お披露目とは名ばかりで、実際はその姿を確認することが目的だった。

離宮の代わりに賜ったという部屋のバルコニーの周りには、イヴァニエ達以外の大天使が全員集まり、宙に浮いたまま、もしくは離れた木々の間から、その時を待っていた。
バルドル神より「強制ではない」と言われていたが、誰もが大なり小なりその存在への関心を持ち、様々な理由でこの場に集まっていた。
浮ついた空気の中、小さな庭へと様変わりしたバルコニーにはイヴァニエとルカーシュカが立ち、こちらを見上げてた。
その表情には不満の色が濃く、バルドル神の命で渋々この場を設けているのだという思考が透けて見えていた。

(何がそんなに嫌なんだ)

不満気な視線を躱し、事前に受けた説明を思い返す。
バルコニーの手摺りを境界線に張られた結界は、本来の効果を反転させたものであり、境界線を跨ぐと、その効力が失われてしまう。
こちら側の姿は見えず、声も聞こえず、逆に結界内の声は外に反響する仕様になっているらしく、話す内容も聞こえるとのことだった。
ただ姿を見るだけではなく、動き、話す姿を見せることで、その内面も周知させようということだろう。

「早く出てこないかな~」
「……お前は本当に反省したのか?」

自身の隣では、カロンが暢気に庭先を見つめていた。
今回の件は、そもそもカロンが禁を破ったことが発端になっているのだが、その意識があるのか無いのか、いつもと変わらぬ能天気な様子に瞳を細めた。

「ちゃんと反省したよ。知ってるだろ?」

ムッと唇を尖らすカロンだが、今回の謹慎では、確かにきっちり二十日間、ダウに籠り、反省していた。
出てきた後も粛々と過ごし、皆から例の天使について問われても「お披露目で見れば分かる」と明確な返答を避けていた。
珍しく真面目に与えられた罰を受け、大人しく過ごしていることに感心していたのだが、今隣にいるカロンは以前と変わらない様子で瞳を輝かせていた。

「何をそんなに興奮しているんだ」
を見れば分かるよ」

アドニスに対して使うには、あまりにも不釣り合いな響きに、驚きと困惑から口を開きかけた時だった。


「───イヴとルカを、見せたいの?」


「っ…」

恐らく、声が外に反響する領域に足を踏み入れたのだろう。
唐突に周囲に響いたその声に、その場にいた者は皆息を呑んだ。

「御手を離されませんように……ゆっくり歩きましょう」
「うん」
「開けていいですよと言うまで、閉じていて下さいね?」
「うん」

エルダの声に返事をする声は、成熟した男のそれのはずなのに、どこか幼く、表現し難い緊張が全身に走った。
微かに笑いを含んだその声が、まったく知らない誰かの声であることに、じわじわと困惑が募る。

(……アドニスは、こんな声をしていただろうか…?)

もはや記憶にすら残っていないその声だが、間違ってもこんなに柔らかな音ではなかった。
横暴で高圧的な物言いは、言葉遣いも粗野で、とても耳障りだったと記憶している。
それが、たった一言の返事ですら分かる穏やかでおっとりとした音に、恐怖にも似た困惑が広がった。

(……なぜ…)

なぜ、なにを、恐れているのだろう?
自分ですら分からない感情に心臓が脈打つも、視線は開け放たれた窓の向こう側から逸らすことができなかった。

「アドニス様。どうぞ、お進み下さい」

薄絹のカーテンがゆらりと揺らめく中、その姿がゆっくりと現れる。
そうして全身が露わになった瞬間、ドクリと一際大きく心臓が跳ねた。

エルダに手を引かれて現れたその者は、確かにアドニスの姿をしていて───だがどう見ても、『アドニス』には見えなかったのだ。

薄手の真白い服に、同系色のローブを羽織ったその身は、ただ立ってそこにいるだけなのに、記憶に残るアドニスと何もかもが異なっていた。
装飾の類のほとんどが省かれた衣服は、楚々とした雰囲気で、無駄に豪華で金の装飾が多かった装いからは、かけ離れたものだった。
エルダに手を引かれて楽しげに歩く姿は、幼な子のそれで、自信に満ち溢れ、傲慢さが滲み出ていた立ち姿の名残りは欠片も無い。
閉じられた瞳は見えなかったが、その表情はひどく穏やかで、『アドニス』と同じ顔をしているはずなのに、知らない誰かにしか見えなかった。

「わっ…!?」

ゆっくりとした足取りで、ようやく部屋の外へ一歩出たその身は、足元の変化に驚いているのか、何かを確かめるように、爪先で真白い芝生をつついた。

「わぁ…」

その足元に広がっているのは、なんの変哲もない、ただの草だ。
それなのに、何がそんなに嬉しいのか、まるでその感触を楽しむように、その場で小さく足を動かす様子に、いよいよ記憶と現実が引き剥がされた。

(………あれは、誰だ?)

足裏の芝生の感触を楽しむ───たったそれだけのことを喜ぶ見知らぬ子に、静かに血の気が引いていくような衝撃を覚えた。
それは皆も同じなのだろう。誰もが息すら殺し、静寂だけが満ちた空気の中、囁くような笑い声だけが響いていた。
沈黙のまま見つめた先では、イヴァニエとルカーシュカが目を瞑ったままの声の主に近づき、その手を取った。

「イヴ、ルカ」

嬉しげに二人の名を呼ぶ声は、やはり耳に馴染まず、未だに動揺で落ち着かぬ中、イヴァニエの唇が閉じられた瞼の端にそっと触れた。

「ッ…!?」

…キスをした。それだけでも衝撃的だったのに、キスをされた本人はただただ嬉しそうにしている姿に、この行為が彼らにとって、日常的なものなのだと確信する。
イヴァニエは勿論、ルカーシュカはアドニスを徹底的に避け、アドニスの名を耳にすることすら嫌がっていた。
そのルカーシュカが、見たこともない微笑みを浮かべ、うやうやしくその手を取っている姿に、茫然と他なかった。

(……アニーというのは、愛称か…)

互いに愛称で呼び合い、寄り添う姿は、庇護される者と庇護する者の距離感ではなく、特別な情を育んでいるのだと察するには充分すぎるほどだった。
茫然としたまま見つめた先では、ルカーシュカ達が目を開くように、と手を繋いだままの相手に促す。
その口ぶりから、どうやらこの庭を見ること自体、初めてなのだろうと察することができた。

わざわざ今日のお披露目に合わせて改造したのだろうか、とふっと意識が逸れた瞬間、『アドニス』の閉じられていた瞼がパチリと開き、黄金色の瞳が露わになった。

「わぁ…っ!」

濃い蜂蜜を流し込んだような瞳が、大きく見開かれ、キラキラと煌めく───その顔に、誰もが息を呑んだ。

(………違う)


そこにいたのは、自分の知らない『誰か』だった。


「すごい…っ、すごいね…!」

様子の変わったバルコニーを端から端まで眺め、弾む声に合わせ、体を揺らす姿は、記憶に残っていたアドニスの僅かな残像すら塗り潰した。

(…違う……あれは…)

アドニスと同じ声、同じ顔、同じ体。
それなのに、声音も、表情も、仕草も、何もかもが違うのだ。

(……アドニスではない)

『あの子が『アドニス』と別の存在であることは、一目見れば分かるだろう』

バルドル神の言っていた言葉の意味が、嫌というほど身に沁みた。
そうこうしている間も、はしゃぐ声は止まず、それに混じって聞こえるルカーシュカとイヴァニエの声は甘く、周囲の存在を忘れているのかと疑いたくなるほどだった。

(ルカーシュカ達からは、私達が見えているはずなんだがな…)

一定量以上の聖気を有している者、つまりはイヴァニエ、ルカーシュカ、エルダからは、反転させた結界の影響を受けない仕組みになっていると聞いた。だが、こちらのことなどまるで視界に入っていないかの如く振る舞う様子に、薄く眉根を寄せた。
仲睦まじいのは構わんが…そう思った次の瞬間、アドニスという名の天使が、ふにゃりと笑った。

「…ありがとう。イヴも、ルカも、エルダも、本当にありがとう。すごく…すごく嬉しい。新しい庭も、みんなも、大好き…!」

「───!」

大好き───そう言って、イヴァニエ達の頬にキスをする姿に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
本心から喜び、溢れんばかりの愛しさを浮かべた表情からは、三人への深い愛情が伝わってきた。
心底信頼し、安心しているからこそ向けられた表情なのだと、そう理解して、なぜかショックを受ける自分がいた。

「やっぱり可愛いなぁ…」
「っ…」

何に対してかすら分からない衝撃に放心していると、ポツリと呟くような声が聞こえ、ハッとした。
食い入るように見つめていた存在から視線を切り離し、隣を見遣れば、カロンもまた、ジッと一点を見つめていた。

「……可愛いとは、あの者のことか?」
「そうだよ? 可愛いじゃん」
「………」

あっけらかんとした発言に、なんと答えるべきか分からず、言葉に詰まる。…いや、ここで言葉に詰まった時点で、肯定しているようなものだろう。

「………アドニスだぞ」
「違うよ。あの子はアドニスって名前だけど、俺らの知ってる『アドニス』とは別の子だ」

苦し紛れで呟いた一言は、即座に否定され、分かりきっていた現実がストンと胸に落ちた。

(……アドニス、か)

ふと辺りを見回せば、誰も彼もがアドニスの姿を食い入るように見つめ、微動だにしていなかった。
その心情が如何なるものか、それを計ることはできなかったが、きっと誰もがバルドル神の言葉を思い出していることだろう。

『きっと皆も、可愛らしい子だと思うはずだよ』

その答えを、見せつけられているような気分だった。


「あぁー!」

アドニス達の仲睦まじい姿を目で追う最中、不意に静寂を破る声が一帯に響き渡った。声のした方角を見れば、そこには一人のプティがいて、アドニスに向けて満面の笑みを浮かべていた。
その表情に、知らず強張っていた体から力が抜けた。が、それもほんの一瞬のことで、小さな天使と目が合った瞬間、その表情が崩れた。

「んぶぅ」
「…え?」

薄い眉を寄せたプティの小さな指先が、真っ直ぐ自分を指差した。そこに浮かんだ明らかな嫌悪に、訳も分からずたじろいだ。

(なんだ? なぜそんな顔で───)

小さな幼な子の責めるような態度に、どうすればいいのかも分からず、僅かに身を引いたその瞬間、遠い日の記憶が唐突に蘇り、ヒュッと心臓が竦み上がった。

「どうしたの? おいで?」

息が止まるほどの衝撃を受け止めきれぬ間に、優しく問い掛ける声が耳に届いた。

(…! まずい!)

見れば、アドニスがプティに両腕を伸ばし、宙に浮く存在に自ら近づこうとしていた。
手摺りを越えると、結界の効果が消えてしまう───ヒヤリと心臓が冷えるのと重なるように、こちらに近づいてくるアドニスの体にイヴァニエとルカーシュカの腕が伸びた。

「…あまり手摺りの側に近づくのは、危ないですからね」
「そうだな、落ちたら大変だ」
「…? 落ちないよ…?」

抱き締め、繋ぎ止めるようにその身に回された腕にホッとするも、こちらに向けられたイヴァニエの鋭い視線に、思わず瞳を細めた。

(……なるほど。近寄らせるのも嫌ということか)

アドニスの行動範囲が狭い理由、その根底には、『部屋の外に出したくない』という、彼らの独占欲や嫉妬の類があるのだと、イヴァニエから向けられた視線で気づいた。
視線だけの刹那のやりとりを交わしている間に、プティがアドニスの元へと飛んでいき、その腕の中に収まった。

「えぅ! あ! あ!」
「ふふ…うん。素敵なお庭になったね」

はしゃぐプティに微笑みかける姿は、もう一人のアドニスの時には有り得なかった光景で、自分も、周囲の者も、絶句するばかりだった。
ああ、本当に、今こうして目の前で幼な子と笑い合うアドニスは別人なのだ───その違いを見せつけられるたびに、疑念は崩れ、音もなく消えていった。
その直後、こちらを見上げたアドニスと目が合い、心臓がドクリと飛び跳ねた。

「…さっきは、どうしたの? 何か、あそこにあった?」

「…っ!」

正確には、アドニスからは自分の姿は見えていないので、目が合ったように感じただけだ。
そうと分かっていても、無垢な金色に射抜くように見つめられ、固まった四肢を動かすことができなかった。
アドニスの腕の中、それまで顰めっ面をしていたプティだが、恐らく結界の内側に入ったことで、こちらの姿が見えなくなったのだろう。もう関心を向けることも無くなっていた。
プティを抱いたまま、視線を逸らしたアドニスに、詰めていた息を深く吐き出す。
だが落ち着きを取り戻したのも束の間、先ほどのプティの視線と行動を思い出し、いっそ忘れてしまいたい記憶が無理やり掘り起こされた。

(……そうだ。あの時もプティは…)

それは、が罰を受けてから数週間後のことだった。
たまたまアドニスがバルコニーに出ているのを見かけたことがあった。そう、今正に自分がいる、この場所で。
あの日も、一人のプティが側に寄ってきた。正確に言えば、アドニスのいる部屋に近づこうとしていた。
それを咎め、離れるように伝えたのだが…あの時も、頬を膨らませ、不満と怒りを混ぜた感情をプティにぶつけられた。

あの時は、なぜプティに怒りの感情を向けられたのか分からず、戸惑っている間にその子は飛び去ってしまった。
その後は暫く、プティの態度が気になっていたが、それも時間が経つにつれ、忘れてしまった。

(…あの時には既に、プティは気づいていたということか…)

あの日のプティと、今アドニスの腕の中で笑うプティが同じ子なのかは分からない。だが間違いなく、プティ達はあの日の己の失態を知っているということだ。
生まれたばかりの、無垢で純粋な弱々しい魂。その持ち主が部屋の中に閉じ込められていることを知っていて、その上で、我々がアドニスを傷つけたのだと気づいていた───その事実に、罪悪感と後悔が波のように押し寄せた。

(……私は、どんな言葉を口にしただろう)

もう覚えてすらいない。
ただ、忌々しい存在がそこにいることが許せなくて、その感情のままに言葉を投げつけたはずだ。
一片の濁りもなく向けられた敵意と憎悪は、一体どれほどの痛みとなって幼い身に突き刺さったのか、想像しただけでゾッとした。

「っ…」

後悔と呼ぶには生易しい感情に、動悸は激しくなり、握り締めた拳が震えた。

謝罪をするには遅すぎる。かと言って、触れぬままでいるのはあまりにも辛い。
だが今は、その身に近づくことすら叶わない。…その原因を作ったのは、紛れもなく自分自身だった。

バルドル神は「どうしようもなかったこと」と我々を責めることはしなかった。
実際、その通りなのかもしれない。が、そうと割り切るにはあまりにも罪深い過ちに、奥歯を噛み締めた。
鬱々とした感情が渦巻く胸中とは裏腹に、視界の中ではアドニスが庇護者達に囲まれ、楽しげに笑っていた。

「イヴ、ルカ、エルダ。みんな、素敵な贈り物を、本当にありがとう。本当に、本当に、嬉しくて…いっぱい、いっぱい、大好きだよ」

ほんのりと頬を染めながら紡がれた、歓喜と感謝を込めた告白。
「大好き」という言葉が、それ以上の情となって溢れているような表情は温かく、心底彼らを愛しているのだという気持ちが伝わってきた。

「全部、いっぱい、大好きだよ」

告白と共に贈られた口づけは眩しくて、どうしてか見ていられず、そっと視線を逸らした。



それから暫く、アドニスが庭で過ごす姿を眺めた。
代わる代わるアドニスの元へと飛んでくるプティ達は後を絶たず、常に周りに赤子達がいる姿に、もはや驚きを通り越した感情から、誰もが口を閉ざした。
どれほど時間が経った頃か、アドニスが眠たげに瞼を閉じたところで、お披露目は終了となった。
長い時間であったにも関わらず、誰一人としてその場から立ち去ることはなく、時が止まったかのように、皆がアドニスの一挙手一投足に釘付けになっていた。
イヴァニエとルカーシュカから口づけを受け、エルダに手を引かれて部屋の中へと戻っていくアドニス。その背を見送り、窓が閉じられた瞬間、止まっていた時間が動き出したかのように、あちらこちらで深く息を吐く音が聞こえた。

「これで分かっただろう?」

緩んだ空気に混じって聞こえた声に、皆の視線が一斉にそちらを向いた。
声の主のルカーシュカは、先ほどまでアドニスに向けていた微笑みが嘘のように消えていた。

「今ここにいるアドニスは、お前達の知ってるアドニスと見た目は同じでも、魂が違う。別人だ」
「……そのようだな」

改めて言われなくとも、皆理解していた。
そうして理解した後だからこそ、ルカーシュカ達が何も知らぬ状態で、あのアドニスの存在をよく受け入れることができたな…と、そう思わずにはいられなかった。

(……私なら、どうしただろうか…)

過ぎ去った『もしも』を想像しかけるも、その思考はカロンによって断ち切られた。

「なぁ、あのブランコ、俺からの贈り物だって言ってくれたか?」
「………機会があれば伝える」
「機会がなくても伝えてくれよ!」

わぁわぁと騒ぐカロンに、面倒だと言わんばかりの顔で答えるルカーシュカ。それを横目に、イヴァニエに声を掛けた。

「それで、あの者はいつになったら満足に外に出られるようになるんだ?」
「さぁ、分かりません。私達はアニーの意思を尊重していますので」

にこやかな笑みだが、そこに温度は無い。

「……安全な場所に閉じ込めておくだけが、愛情だと思わない方がいいぞ」
「ご忠告どうも。ですが、私達の関係にまで口を挟んで頂かなくて結構ですよ」

瞬間、バチッと空気が弾けたが、それも一瞬のことだった。

「まてまて、お前ら。アドニスのお披露目が終わったばかりで何やってるんだ」

割って入ったシルヴェストの穏やかな声に、剣呑な空気は霧散した。

「ひとまずアドニスが元気そうで良かった。今はそれが分かっただけで充分だろう?」
「……そうだな」
「ただ確かに今のまんまじゃ、ちっと危なっかしい子だなとも思う。大事にしたい気持ちは分かるが、ほどほどにな」
「……分かってます」

双方をやんわりと諌めつつ、その場の空気を悪くさせないのは、この男の纏う朗らかな雰囲気故だろう。
イヴァニエと共に、互いに毒気を抜かれ、緩く息を吐き出すと、自然とその場は解散となった。



その後、アドニスについては、バルドル神より改めて「ゆっくり成長を見守ってほしい」との周知がなされた。
そしてこの対面により、アドニスの存在が知れ渡ったことで、多くの者達がアドニスを意識し、密かに再会できる日を願うようになった。
それは自分も同じだったが、胸に巣食った感情は未来への希求ではなく、もう二度と訪れない、いつかの日の『もしも』に対する後悔と、浅ましいほどの羨望だった。


(……もしも…)

もしも、あの日、あの時、怯えて泣いていたあの子に気づけていたなら、手を差し伸べていたなら、イヴァニエ達のいたあの場所には、自分がいたのだろうか───…


溢れんばかりの愛情を注がれて、屈託なく笑う愛らしい子。
その笑みを思い返すたび、罪悪感と共に、二度と手に入らぬ情を自ら突き放してしまった後悔が、未練のように絡みついた。










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ネタバレですが、フェルディーナさんが闇堕ちすることはありません!
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