天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

96.花の庭の知らないあの子

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「バルドル様から謹慎せよとの命を受けた。二十日間、堂に籠る。その間、外のことは任せた」

バルドル神との謁見から一時いっとき、自身の離宮に戻ると、側仕え達に罰を受けたことだけを告げ、返事も待たずに踵を返した。
その場にいた者達は皆驚き、固まっていたが、罰を受けた理由も、自分のしでかした罪も、あまりにも愚か過ぎて、仔細を語ることすら嫌だったのだ。
きっとバルドル神から、改めてお話があるはずだ。言い訳がましい言葉を並べるよりも、真実だけを簡潔に語って下さる言葉の方が、皆にとってもいいだろう───そう自分に言い聞かせるように、半ば逃げるような気持ちで、離宮の奥へと向かった。


鮮やかな朱色の柱が続く長い回廊を、足早に進む。
空気に混じる微かな香の香りと、鈴の音にも似たシャラシャラという音を奏でる豪奢な灯籠飾り。
艶やかで、華やかで、煌びやかな装飾が施された自慢の離宮は、いつもなら眺めているだけで気分が高揚するのに、今はやけにうるさく見えた。

歩いて歩いて、そうして辿り着いたのは、離宮の最奥にある『ダウ』と呼ばれる場所だ。
重厚な扉を開け、中に踏み入れば、ドーム型の真白く広い部屋が視界いっぱいに広がった。
部屋の中央に円形の寝具だけが置かれた空間は、天井の一部に穴が空き、そこから自然の光と青空が僅かに差し込むだけの何も無い部屋だ。

人間界における『牢』というものが無い天界において、『堂』とはそれの代わりとなる場所だ。
但し、牢とは異なり、堂の外には見張りも無く、鍵も無い。
強制された償いではなく、ただ己が行いを悔い改める為、自主的に籠ることにこそ意味がある。その為だけに作られたのが、この箱だった。

ガコン…と重い音を立てて閉じた扉から離れ、ゆっくりと部屋の中心へと進む。そうして部屋と同色の、なんの飾り気もない円形の真っ白な寝具に仰向けで横たわると、大きく溜め息を吐いた。
外界の音の一切を遮断した空間には、キン…と耳に痛いほどの静寂が溢れていた。
嗅覚も、聴覚も、肌に感じる温度すら何も感じない無の空間の中、天井の一部から見える切り取った青だけが、唯一感じ取れるものだった。

(……ちょっと怖いな…)

ここに籠るのは初めてだった。
今までも短い謹慎処分を受けたことはあったが、誰かが見張っている訳でもなく、「離宮から出なければいいのだろう」と、いつもと変わらず自室で過ごすことが常だった。
だが今回は、どうしてもそんな気分にはなれず、真っ直ぐ此処へと向かったのだ。

床も天井も全てが真白い部屋は、その境目すら曖昧で、どこまでこの空間が続いているのかさえ分からなくなるほどだ。
ただ呼吸をすることしかできない中、そっと目を瞑り、そうして二度、三度と、ゆっくりと呼吸を繰り返せば、じわじわと今日の出来事が、後悔の念と共に蘇った。

(ああ…馬鹿なことをした…)

鼓膜に残った泣き声にも似たの悲鳴に、胸がツキリと痛んだ。




初めてバルドル神からアドニスの話を聞いた時、誰もが懐疑的だった。
『アドニス』が肉体という器だけを残し、天界のことわりである命の循環から外れたこと。
残った肉体には新たな魂が宿り、新しい生命いのちが芽吹いたこと。
母提樹の花からではなく、命の源である聖気から生まれた歪な存在は、とても不安定で、ひどく幼いこと───それらの話を一度に聞かされ、皆すぐに理解することが出来なかった。
ショックと呼ぶには生易しい話は、だがバルドル神の言葉だからと言って即座に信じるのは難しく、誰もが大なり小なり疑っていた。

バルドル神の言を疑おうというのではない。
ただ、自身の目で実際に確かめないことには、気持ち的に納得ができなかったのだ。

生まれたばかりの純天使のような幼な子が、長く寂しい孤独に追いやられていたのだとしたら、確かに胸は痛むし、大天使の総意として願った先の真実としてはやるせなく、後悔ばかりが募るだろう。
だが自分達の記憶に残る『アドニス』と、新しく名を授かったというを形容する単語が、あまりにもかけ離れていて、とても信じられなかったのだ。


粗野で、粗暴で、傲慢で、大天使としてはおろか、天使としての気質にすら欠けていたアドニスは、侮蔑の目を向けられ、何度罰を受けても、こちらを嘲笑うかのような精神と神経の持ち主だった。
皆が心の底から嫌悪しながらも、人間達からの信仰が厚いせいか事実として力は強く、アドニスの傍若無人な振る舞いに、ただ耐えることしかできない屈辱的な日々が何百年と続いた。

だからこそ、ようやく迎えた裁きの日は、誰もがアドニスが天使としての資格を喪ったことを喜んだ。
謹慎という罰を受けたところで、どうせアドニスがバルドル神の意に叛くのは目に見えていた。
だからこそ、罰を破ったなら今度こそアドニスを命の湖に還し、本当の意味での平穏を得よう───そう皆が願っていたのだが…


(……部屋から出るのも、怖かったんだろうな…)

大天使俺達を恐れるアドニスにとって、きっと外の世界は全てが恐怖の対象で、部屋から出たいとすら思わなかったのかもしれない…そこまで考え、鬱々と重くなった胸に、何度目か分からない溜め息が漏れた。

(…一度見かけたアドニスは、あの子だったんだ…)

朧げな記憶に残るのは、約四年前、アドニスが罰を受けてほんの数週間ほど経った日のことだ。
フェルディーナを含めた数人の天使達で、偶然にもバルコニーに出ていたアドニスの姿を見てしまったことがあった。
あの時は、本当に嫌なものを見たという気分で、転んでバルコニーの床に手をつくアドニスを見て「いい気味だ」とその姿を鼻で嗤った。
当時は何も言い返さず、逃げるように部屋の中に戻っていったアドニスを、多少不審に思いもしたが、それ以上に関わりたくないという気持ちが強く、些細な不審点などあっという間に忘れてしまった。

今なら分かる。きっとあの時にはもう、その魂は自分達のよく知る『アドニス』とは別人の、の魂になっていたのだろう。



「あ"~……」

あの瞬間の、蔑むように笑った己をぶん殴ってやりたい。四年越しの後悔に、思わず唸り声が漏れた。
切々と募る後悔と自省の念。それと同時に、ほんの数刻前に初めて見たアドニスの姿を思い出し、両手で顔を覆った。

(怖かっただろうな…)


フレールの庭へ赴いたのは、単なる好奇心と懐疑的な気持ちからだった。
アドニスの葬斂そうれんの儀から約五ヶ月。新たにアドニスという名を賜った大天使の姿は、未だに誰も見たことがなかった。

離宮の代わりに宮廷の中に一室を賜ったというアドニスは、自由の身になったというのに、部屋から出てくることもなく、その姿を見た者もいなければ、話を聞いた者もいなかった。
アドニスの庇護者となったイヴァニエとルカーシュカに訪ねても「元気に過ごしている」という返事しか聞けず、普段の様子や、どんな性格なのか、それらしい情報は一切不明のままだった。
まるで秘め事のように隠された存在は、皆の関心を引き、そこかしこで囁くように、アドニスのことが話題になった。

新たなアドニスとはどんな子だろう?
本当に以前のアドニスとは異なる魂なのだろうか?
バルドル様を疑う訳ではないが、肉体だけ残り、魂が入れ替わるなどということがあり得るのだろうか───?

時間が経てば経つほど、囁く声は大きくなり、同時に興味が湧くのは自然なことだった。
そうやって徐々に膨らんでいった好奇心は、宮廷仕えの天使達の噂話によって、より刺激された。


『夜の宮廷内を散策されるアドニス様をお見かけした』


偶然その場に鉢合わせた者達の話では、姿は確かにアドニスのままだったらしい。とはいえ、その姿を見れたのはほんの数秒のことで、声を聞くことすらできなかったそうだ。
だがアドニスを守るように壁になった側仕えの様子から、以前のアドニスとは明らかに違う存在なのだろう、ということが感じ取れたという。
その話を聞き、俄然興味が湧いた。

本当に『アドニス』とは別人なのか、自分も見てみたい───バルドル神の言い付けは重々承知の上で、それでも好奇心が勝ってしまったのだ。

その存在を知ってから約半年。イヴァニエやルカーシュカを介して、大天使自分達に対する免疫も多少はついただろう。
ちょっと話し掛けるくらいなら大丈夫…そんな軽い気持ちでいた。




「イヤ…ッ、やだ!! やだ…っ!!」

その結果が、暖かな庭の空気を凍らせるような泣き声と悲鳴だった。

アドニスが一人でいる空間に踏み込んだのは、偶然だった。
庇護者の内の誰かが側にいれば、ちょっと様子を見るだけでもできないか、頼むつもりでいた。
だがいざフレールの庭へと向かえば、そこにいたのはアドニスとプティ達だけで、本当にフォルセの果実としての役目を担っていることへの驚きと、遠目から見ても分かる雰囲気の違いに、つい後先考えずに近づいてしまったのだ。

なんの根拠もなく「大丈夫だろう」と安直に考えていた自分の愚かさを後悔したのは、その直後だった。
ガクリと崩れるように転んだ姿は、いつか見た光景とそっくりで、堪らず声を掛けるも、返ってきたのは引き攣った泣き声だった。

「っ…! やっ、や…っ!!」

怯えて怖がるアドニスの姿に、衝撃とショックで思考は完全に停止してしまった。
長く生きてきた中で、これまで一度だって、そんな反応をされたことも、激しく拒絶されたこともなかったからだ。

『あの子は、お前達を酷く怖がるのだ』

哀れむようなバルドル神の言葉の意味を、現実を突きつけられて初めて痛感し、冷水を浴びせられたような心地から、声を発することすらできなかった。

どうしよう、泣かせた、怖がらせた、怖い思いをさせてる、そんなつもりは、怖がらせるつもりなんてなかったのに───!

ショックから狼狽えている間に、プティ達から怒りの感情を向けられ、更に気が動転した。
基本的にどこまでも自由で、特定の人物に固執しないはずの純天使が、アドニスを守る為に動き、アドニスの為に怒っている…信じられない行動に驚き、頭は混乱しっぱなしだった。

「やー!」
「やぅあー!」
「まった、待って…っ、離れるから!」

「あっち行って!」と言わんばかりの強さで、服の裾や髪の毛を引っ張るプティに逆らえるはずもなく、気づけばアドニスとの距離はどんどん離れていった。
ああ、危害を加えるつもりはないことだけでも伝えないと───焦りが滲んだその時、風を切って飛んでくる翼の音に、ギクリと心臓が跳ねた。

「───アドニス様ッ!!」

空から降ってきた切羽詰まるような声は、アドニスの従者として仕えることになった大天使、エルダのものだった。
大天使が大天使に仕えるという異例を許された唯一の存在。その彼が、飛んできた勢いのまま、一直線にアドニスの元へと駆け寄り、腕の中に隠すようにその身を抱き締めた。

「───」

その光景は、泣いて怯えるアドニスとは別の意味で衝撃的で、言葉を失った。
エルダの腕と翼の中、彼を見上げるアドニスはどこか幼く、その表情に不思議と目が釘付けになりながらも、エルダが現れた瞬間に落ち着きを取り戻した様子に、強張っていた体から力が抜けた。

(……良かった…)

自身のせいだと分かっている。だからこそ、その恐怖心が薄れてくれたことに酷く安堵した。
同時に、自分自身が恐怖の対象になるという初めての体験は苦しくて、それだけこの子は傷ついたのだろうと思うと胸が痛くて、安易に近づいてしまった己の愚かさが腹立たしくて、キツく拳を握り締めた。

そうしてエルダに続き、イヴァニエとルカーシュカが現れると、自分に出来ることは完全に無くなった。
庇護者達に囲まれ、アドニスの姿は見えなくなったが、大天使三人という過剰なほどの護りの中、大事に大事にされているのであろうことが、僅かなやりとりだけでも伝わった。

(…アニーって、呼ばれてるのか…)

イヴァニエとルカーシュカが呼んだ『アニー』という愛称。
深い情を含んだ声でその名を呼び、慈しむような手つきでアドニスを撫でる。それに対し、安心しきった様子で彼らに身を委ねるアドニス。
そんな中にいて、あまりにもその場の空気に馴染んでいない異質な存在である自分が、恥ずかしくて堪らなかった。

(……アイツらと、アイツら以外は、違うんだ)

同じ大天使であるルカーシュカ達が側にいられるのなら、自分だって───彼らと自分が同じ存在であるはずがないのに、どうしてそんな風に思えたのだろう。
当たり前のことを痛いほど思い知ると同時に、ようやく「ああ、この子はアドニスとは違う子なんだ」と、ハッキリと認識した。


イヴァニエ達の背に隠れていたアドニスの姿が次に見えたのは、その身が宙に浮いた時だった。
エルダの腕に抱かれ、その肩にしがみついたアドニス───その黄金の瞳と、バチリと目が合った。

「ッ…」

エルダが広げた翼の風圧で、ふわりと舞った双樹の花弁。その向こう側で、何か言いたげにこちらを見つめるアドニスと、ほんの一瞬だけ視線が絡んだ。
その瞬間に見えたアドニスの顔は、『アドニス』と同じ面立ちなのに、初めて見る誰かのようで、僅かに胸が波立った。

知っているけれど、知らない子。
矛盾した感覚の中、エルダに抱き抱えられたまま飛び立ったアドニスに謝ることも忘れ、ただ茫然とその姿を見送ることしかできなかった。



その後、申し開きのしようもない愚行に、イヴァニエとルカーシュカ、バルドル神に謝罪を重ね、アドニスへの謝罪の言葉を預けると、真っ直ぐ離宮へと戻り、今に至る。

「はぁ……」

寄せては返す波のような後悔に、反省すればするほど、まるで遠いいつかの出来事のような感覚を味わった。

(この中にいるからか…)

時間の感覚すらない堂の中、ひたすらに己の罪を悔い改めるという罰は、なかなかに堪える。
だからと言って、与えられた罰から逃げたいとも思えず、もう一度深く深呼吸をした。

(あの子が、堂の中に入ることにならなくて良かった…)

『アドニス』の離宮が閉鎖されたことで、宮廷の一室に閉じ込められたアドニス。
宮廷内には堂が無く、だからこそ、その代わりとして部屋を与えられたのだが…

文字通り何も無い真っ白な空間は、切り取った小さな空しか見えない無音の世界だ。
そんなところに何年も閉じ込められていたら、それこそ気が触れるほどの孤独と絶望に、幼い魂は耐えられなかったかもしれない。

(…アイツらが、見つけてくれて良かった)

自省の念と共に積もるのは、あの子が今も存在してくれているという、泣きたくなるような安堵だった。

(……怖がらせて、ごめん)

僅かに見える空が、緩やかに色を変えていく。
その様子を見つめながら、何度も何度も、声にならない謝罪を繰り返した。




「───カロン様」

トントン…と扉を叩く音に、ふっと瞼を上げる。
いつの間にか眠っていたのか、天井から見える空には星が輝いていた。

「……なに?」

従者の呼び掛けに、外に向けて声を飛ばせば、躊躇いがちな声が返ってきた。

「その……お見えになっている御方が…」
「謹慎中につき、会えませんって言って」

いつもの自分なら、謹慎中だろうが気にせず他の者とも会っていた。だが今回は、そんな気分にもなれず、「追い返してくれ」という意を込めて告げれば、思わぬ声が返ってきた。

「俺だ」
「っ…!」

扉越しに聞こえた低い声。そのたった一言に飛び起きると、部屋の中を駆け、堂の扉を勢いよく開けた。

「……ルカーシュカ…」
「真面目に反省中のようだな」
「そりゃ……流石にね」

夜空色の瞳を細め、こちらを見据えるルカーシュカ。まさか今日の今日で彼が訪ねてくるとは思わず、驚きと気まずさからそっと視線を逸らした。

「……アドニスに、何かあった?」

それ以外に、ルカーシュカがわざわざ離宮まで来る心当たりがなかった。
もしや今日の出来事が原因で、アドニスの心身に負担を掛けてしまったのでは…恐る恐る尋ねれば、呆れたような溜め息が返ってきた。

「…安心しろとは言いたくないが、心配はいらない。それなりに元気だ」
「…そっか……良かった」

不服そうな物言いに若干怯みつつ、「元気」という言葉に胸を撫で下ろす。
だが、それならばなんの用事で来たのだろう…と疑問を顔に浮かべれば、ルカーシュカが軽く肩を竦めた。

「アドニスから、お前宛に伝言だ」
「!?」

まさかの言にビクリと肩が跳ねるも、そんなことはお構いなしに、ルカーシュカは続けた。

「『私も、怖がってごめんなさい』…だそうだ」
「ッ…!」
「確かに伝えたからな」

ルカーシュカはそれだけ言うと、用事は済んだとばかりに踵を返した。
小さくなっていくルカーシュカの背を見つめ、その姿が見えなくなった後も、茫然とその場に立ち尽くし、言われた言葉を頭の中で反芻した。


『私も、怖がってごめんなさい』


(……なに、それ…)

思ってもみなかった言葉は、衝撃にも似た強さで胸を突いた。
悪いのは自分で、謝るのは怖がらせてしまった自分だけでいいのに…ぎゅうっと締め付けられた胸に、フラリと蹌踉めいたまま扉により掛かれば、その場に残っていた側仕えが心配そうにこちらを見上げた。

「カロン様、大丈夫ですか? …あの、アドニス様と何か…?」
「……大丈夫。その話は、また改めてするよ」

まだ何か言いたそうな視線を遮るように、堂の扉を閉めると、部屋の中央に向かい、寝具の上にバタリと倒れ込んだ。

(……なんだこれ…)

トクトクと落ち着かない心臓の鼓動に、胸元に手を当てると、天を仰いだ。
頬が火照るような感覚に、片腕で目元を覆うと、表現し難い感情に「ぐぅ」と唸った。


アドニスからの伝言を聞いた瞬間、謝らせてしまった心苦しさと同時に湧いたのは、切なくなるような『愛しさ』だった。


(なに……怖がってごめんなさいって…)

アドニスが謝ることなど何もない。きっとルカーシュカ達だってそう思っているはずだ。
それでも、その上で伝言を届けに来てくれたということは、きっと「謝りたい」と強く願ったからだろう。

「…ごめんなんて、言わないでよ…」

自身に対する憤りとは異なる感情でごちゃ混ぜになった胸は苦しく、大きく息を吐き出すも、頭の中では同じ言葉がぐるぐると渦巻いた。
それと同時に、脳内では今日初めて見たアドニスの姿が再生され、落ち着かない気持ちに拍車をかけた。

平穏な天界の中において、純天使を育むフレールの庭は、殊更穏やかな時間が流れている。
遠目に見たプティ達に囲まれるアドニスは、淡く色づいた大地が作り出した空間の中に、とても馴染んでいるように見えた。
その一瞬、刹那の瞬間に見えた微笑みが、瞼の裏に鮮明に蘇る。
蜂蜜色の瞳を細め、花が綻ぶように笑っていたその表情はとても優しげで、幼な子達への慈しみに溢れていた。

(……可愛かった…かもしれない…)

『アドニス』と同じ顔。それなのに、そう思えることが不思議だった。
自分よりも大きく立派な体躯は逞しく、可愛らしいと思える要素などないはずなのに、甘い香りがしそうなあの庭で見たアドニスは、なぜか愛らしい小さな生き物のように見えた。

(謝る必要なんてないのに…)

そう思う反面、ほんの少しでも『自分』という存在を気にしてくれたことが嬉しくて、喜んではいけないのに、どうしてもソワソワと揺れてしまう感情を抑えることができなかった。

(もし…また会えたら…その時はもう一度、ちゃんと謝ろう)

ちゃんと顔を合わせて、自分の口で謝って、きちんとけじめをつけたい。

(それで、怖くないよって、伝えられたら…)

そうしたら、少しは仲良くなれるだろうか───ふっと浮かんだ考えは、妙に浮ついていて、ふるりとかぶりを振った。
イヴァニエとルカーシュカ、エルダの様子から考えても、恐らくアドニスとはなのだろう。
彼らの仲を邪魔をするつもりはないし、まして特別な感情がある訳でもない。…ただ少し、ほんの少しだけ、愛らしく笑っていたあの子と親しくなれたらいいなと、そう思っただけだ。

(…今は、そんなこと考えてる場合じゃないけど)

今の自分がすべきことは、己の愚行を反省し、今日の出来事がアドニスの心に翳りや憂いを残さないようにと、ただひたすらに祈るだけだ。

「ふぅ…」

なだらかに昂る感情を鎮めるように、ゆっくりと呼吸を繰り返すと、天井から見える小さな夜空を見上げた。


(…怖がらせたお詫びに、何か作って贈ったら、受け取ってくれるかな…)


あの子はどんなものを好むんだろう───空っぽな真白い部屋の中、膨れていく淡い感情には気づかぬまま、今日という日の記憶を閉じ込めるように、そっと瞼を閉じた。










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イヴァニエさんの心配が的中してしまうカロンくんのお話でした。
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