天使様の愛し子

東雲

文字の大きさ
上 下
114 / 140
プティ・フレールの愛し子

93

しおりを挟む
驚くほどの速さで飛ぶエルダから落ちぬ様、必死にしがみついてから、どれほど時間が経っただろう。
ほんの数秒にも、数分にも感じる不思議な時間感覚の中、不意に体に当たる風が弱まったことに気づき、恐る恐る顔を上げた。

「あ…」

開けた視界の中、宮廷の一角の見慣れたバルコニーが見え、体からふっと力が抜けた。
転移扉を介さずにフレールの庭から部屋まで帰ってくるのは初めてで、エルダが飛び立ってすぐはキョロキョロと辺りを見回していたのだが、当然のようにそこかしこに天使達の姿があり、途中からは怖くなってエルダの首元に顔を埋めていた。

やっと安心できる場所に帰ってこれたことに、安堵の溜め息を零している内に、体はふわりとバルコニーへと降り立った。
エルダが指先を軽く動かせば、窓が大きく開き、薄絹のカーテンがふわりと揺れる。その動きに誘われるようにエルダが歩き出し、横抱きにされたまま部屋の中へと入った。

(……帰ってこれた…)

淡く暖かな色合いで溢れた家具達と、花とミルクの混じった甘やかな香り。五感に馴染む部屋の風景に肩から力が抜け、ようやくちゃんと呼吸ができるようになった。

「…あ、ありがとう、エル───」

気の緩みから、ついぼんやりしてしまいそうなるも、気を引き締め直し、抱きついたままのエルダに視線を戻した。
色々聞きたいことや、話したいことは多々あるが、まずは感謝の気持ちを伝えるべきだろう…そう思い、口を開いた時だった。


───カチャン…


「え?」

静かに閉まった窓の音に、思わず声が漏れた。

「あれ…? エルダ…窓、閉めちゃったら、みんなが入ってこれな……っ」

庭を飛び立った時、後ろから追いかけてくる小さな天使達の姿がチラリと見えていた。
エルダの飛ぶ速度に追いつけなかったのか、その姿はあっという間に見えなくなってしまったが、あの子達は必ずここに来るはずだ。
窓が開いていないと中に入れない…そう思い、窓の外に向けていた視線をエルダに戻したのだが、眉根に皺の寄ったその表情に、途端に何も言えなくなってしまった。

「う…? ……?」

その表情の意味が分からず、戸惑いながらエルダの腕の中で縮こまる。
そういえば、いつまで横抱きのままなのだろう?
肩に回された腕の力は強く、降ろされる気配もない。
「降りる」とも言いづらい空気の中でまごついていると、エルダがゆっくりと歩を進め、ソファーへと向かった。
ソファーの上に降ろされるのだろうか…と様子を伺っていると、そのままエルダがソファーに座り、横抱きのまま、エルダの膝の上に降ろされた。

「!?」

いつかバルドル神の膝の上に座った時のような体勢にも驚くが、それよりなによりエルダの行動に驚き、目を白黒させたまま、エルダの肩から手を離した。

「エ…エルダ…? あの…重いから…っ!」

降りるよ───そう言い切る前に、エルダの両腕が腰に絡みつき、ぎゅううっと強い力で抱き締められ、息が詰まった。
苦しいほどの抱擁に、驚きから一瞬だけ身を捩ってしまいそうになるも、どこか必死さを孕んだ締め付けに咄嗟に動きを止め、大人しく腕の中に収まった。

「……エルダ…?」

ぎゅうぎゅうとしがみつくように抱き締めるエルダの髪の毛が、ふわふわと鎖骨を擽る。
胸元に顔を埋め、ほんの少しの隙間も嫌がるようにぴったりとくっついたエルダは黙ったままで、名前を呼んでも返事はない。
その代わりとでも言うように、腰に回された片手が服の背をキツく掴み、更に密着度が増した肉体に、トクリと心臓が鳴った。

(…なんだろう…)

密着した部分から、布越しに互いの熱が交わるような感覚に、徐々に体温が上がっていく。
胸元に当たる熱い吐息に心臓はドキドキと高鳴り、落ち着かない気持ちがじわりと広がり始めた。
覚えのあるその感覚に、ほんの少しだけ上体を動かせば、それを嫌がるように、腕の締め付けが一層強くなった。

「ッ…、エルダ…ッ」

流石に苦しいかもしれない…そう思い、逞しくなった肩に手を伸ばし、腕の力を緩めてもらおうとした。

「……ごめんなさい」
「!」

胸元で響いた振動と、くぐもった声に、肩に添えた手がその場で止まった。
俯いたエルダの顔は見えず、どんな表情をしているのかは分からない。
ただ胸元に埋まった鼻先が甘えるように擦り寄る感覚は、赤ん坊の姿でぐずる時のエルダの仕草によく似ていて、反射的に胸元にある頭を抱き締めた。

「っ…、ごめんね! 心配させちゃって、ごめんね、エルダ…!」

ああ、エルダは自分の側を離れてしまったことを悔いているのだ───それに気づいた瞬間、抱き締めていた。
そうさせたのは自分であって、エルダのせいじゃない。それなのに、自身を責めるエルダが切なくて、申し訳なくて、堪らない気持ちになった。

「…ごめんね。もう、大丈夫だよ。エルダも、イヴも、ルカも…みんな来てくれたから、大丈夫だったよ」

体が大きくなっても変わらない柔らかな髪の毛。指先が埋もれるような、ふわふわとした手触りに愛しさが込み上げ、手の平から伝わる温もりに、キュウッと胸が締め付けられた。

「心配させて、ごめんね。…守ってくれて、ありがとう、エルダ」

身を屈め、愛しさを込めて甘やかな香りのする頭部に口づければ、腰に回された腕と胸元を温める吐息が、僅かに戦慄いたのが分かった。

「……ごめんなさい。怖い思いをさせてしまい…ごめんなさい」
「謝らないで。自分が、一人でいいって、我が儘言ったんだもの。…ごめんね。心配してくれて…守ってくれて、ありがとう、エルダ」
「………」

「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返し、安心させるように柔らかな髪の毛を撫でる。
その間、エルダは黙ったまま、泣くように、甘えるように、ずっと胸元に顔を埋め、俯いたままだった。

「大丈夫だよ、エルダ。大丈夫だからね」

赤ん坊の姿をしている時と変わらぬ様子に、どこか安心しながら、エルダが落ち着くまで、ふわふわと揺れる毛先にキスをし続けた。





「……エルダ?」

どれほど時間が経ったか、互いの体温だけが溶け出した静かな部屋の中、もぞりとエルダが動いた気配に、そっと視線を落とした。

「……アドニス様…」
「…もう、大丈夫?」

頭を抱き締めていた腕を緩めれば、ほんのりと頬を色付かせたエルダが顔を上げ、互いに間近で見つめ合った。
泣いていたのか、それとも胸元に顔を埋めていた息苦しさか、僅かに蒸気した頬は色っぽく、青年の姿になったことで突然跳ね上がった色気に、忘れていた胸の高鳴りが戻ってきた。と同時に、当然のように受け入れていたエルダの変化にようやく意識が向き、首を傾げた。

(エルダはなんで、大っきいんだろう…?)

忘れていた訳ではないのだが、目の前にいるのがエルダだということが分かっているせいか、あまり気にならないのだ。
赤ん坊にもなれるエルダのことだ。きっと特別な能力繋がりなのだろう、と勝手に納得していた。
聞いていいのだろうか…と思いつつ、言葉を探すように視線を逸らしたエルダに、自分から問い掛けた。

「…エルダ、大っきくなれたんだね?」
「っ…」

なんとなしに問いかけた言葉に「ぐっ…」と唸ると、再び俯いてしまったエルダに、慌ててその頭を撫でた。

「あ…、ご、ごめんね? あの…だ、大丈夫だよ…! 大っきくても、エルダだから…えっと…大丈夫だよ!」

何が『大丈夫』なのか自分でも分からないが、とにかく大丈夫なのだ。
何かを気にしている様子のエルダを元気づけるように、頭や背を必死に撫で、声を掛け続けた。

「……黙っていて、申し訳ありませんでした」
「謝らないで。大っきくなっても、エルダはエルダだから…」

どんな姿でもエルダはエルダだ。
小さくても大きくても変わらない…そう思ったのだが、それだけでは終われなかった。

「……体だけ、成長した訳ではないのですよ」
「え?」

ポツリと呟かれた一言。
一拍置いて、すっと顔を上げたエルダと、正面から見つめ合った。

「…今の私は、大天使です」
「……え?」
「肉体だけ成長したのではございません。アドニス様やイヴァニエ様、ルカーシュカ様と同じ…大天使まで成長したことで、この肉体を得たのです」
「……えっと…」

ゆっくりと紡がれる言葉に、妙に頭がこんがらがるような不思議な感覚を覚え、ゆっくりと首を傾げた。

(イヴやルカと、一緒……?)

一瞬だけ「みんな一緒だ」と暢気なことを考えたが、何か引っ掛かるものを感じ、パチリと目を瞬いた。

「…エルダは、大天使なの?」
「…はい」
「……すごいね?」
「…ありがとうございます」
「…いつから、なの?」
「……アドニス様と共に、命の湖へ向かった日からです」

命の湖へと向かったあの日、自分の聖気を取り込んだことで成長したというエルダ。
特異体質の能力により、赤ん坊の姿になれるのと同様に、今までと変わらぬ少年の姿にもなれることから、ずっと本来の姿を隠していた───そうポツリ、ポツリと語ってくれる話を聞きながら、少しずつ頭の中を整理していった。

「…黙っていたのは…言いたくなかった、から?」
「……はい」
「…どうしてって、聞いてもいい…?」
「………」

きっと大天使まで成長できることは、天使達にとって喜ばしいことのはずだ。
それなのに、まったく嬉しそうではなく、むしろ苦しそうにしているエルダをあやすように、優しく問いかけた。

「…大天使の姿では、アドニス様に怖がられてしまうのではないかと思って、言えませんでした」
「うん」
「……なにより、大天使が、大天使に仕えることはできません」
「…うん」
「今はバルドル様のお赦しを得て、アドニス様にお仕えしております。ですがもしも…もしも、私の行動が、アドニス様のお気持ちにそぐわないものであったらと思うと怖くて……言い出せませんでした」
「……うん」

ずっと前に皆から教わった、天界における天使の在り方を思い出しながら、エルダの言葉をゆっくりと飲み込んだ。

(…大天使とは、神の目となり、手足となり、仕える者である…)

いつか聞いた話の通りならば、大天使が…自分大天使に仕えるというのは、そのことわりから外れた行為になるのだろう。

(エルダが怖がってるのは、その行動を否定されること…?)

確かに、バルドル神の赦しがあるとはいえ、本当にいいのだろうか…と思ってしまうのは事実だ。
エルダも、きっと長いときを生きてきて、ようやく大天使になれたのだろう。
自分の元で従者として仕えるのではなく、大天使として、幾人もの天使達を束ね、皆が仕える主として過ごすことだってできたはずだ。
それらを求めず、今までと同じように、自分の世話をし続けるのは、果たしてエルダにとって良いことなのだろうか…そう思ってしまう自分もいる。

───でもそれと同時に、エルダが恐れる以上に、エルダが離れてしまうことを嫌がる自分がいた。

「…エル───」
「アドニス様」

ああ、自分はこんなにも我が儘になってしまった…そう思いながらエルダの名を呼ぼうとすれば、それに被さるように、名を呼ばれた。
エルダの膝の上、抱き締められたまま至近距離で見つめた翠は、真っ直ぐに、真剣に、こちらを見据えていた。


「アドニス様、私はこの先もずっと、アドニス様のお側にいとうございます」


未だ耳に慣れない、低い男の人の声。
だがその声音も、「アドニス様」と呼ぶ優しい響きも、全部がエルダそのもので、その声は心地良く鼓膜を揺らし、心臓を鳴らした。

「大天使まで成長できたことは嬉しく思います。ですが、私はアドニス様の従者として、アドニス様のお力になる為、これからもお側にいたいのです。大天使として、それ以外のことは望みません。欲しくありません。ずっとずっと、私は貴方様の唯一でありたいのです」

いつもの儚げなエルダからは考えられないほど、一欠片の照れもなく紡がれる力強い言葉に、呼吸をすることすら忘れた。

「大天使になれたことで、出来ることが増えました。アドニス様をお守りする為の力を得ました。今日のようなことが起こらない様、お側を離れないと誓います。必ず、アドニス様をお守り致します。…だからどうか、これまでと変わらず、私をお側に置いて下さいませ」

請い願うような真摯な言葉。
真っ直ぐ届いたその声は、驚くほどすんなりと胸の内に入り込み、じんわりと体を温めるように、全身を喜びで満たした。

「……うん」

エルダの願いに、自身の願いも織り交ぜるようにして答えれば、涼やかな造形に変わった瞳が大きく見開かれた。

「側にいて。私も、一緒にいるのは、エルダがいい。…エルダに、側にいてほしい」

それは紛れもない本心で、きっとどうしても諦めることができない我が儘だった。

エルダが自分の側にいたいと願ってくれたように、自分もエルダに側にいてほしい。

願うことを赦されるのならば、我慢をしなくていいのなら、エルダがそれを求めてくれるのなら───例え理から外れたとしても、自分も彼を求めたいと、心からそう思ったのだ。

「アドニス様…!!」
「わっ」

答えた直後、煌めく翠色は僅かに水気を帯び、綺麗な顔がくしゃりと歪んだ。
背に回されていた腕に再び力が籠り、ぎゅうっと目一杯抱き締められるも、エルダの勢いにグラリと体勢が崩れ、仰向けのままソファーに倒れ込んだ。

「う…っ」

ボフリッと音を立て、体を支えてくれたクッションが、二人分の体重で沈む。

「ありがとうございます…っ、アドニス様…!」
「…私も、ありがとう。ずっと、側にいてくれて…ありがとう、エルダ」

僅かに震える声で、再び胸元に抱きついたエルダ。その姿が愛らしくて、大きくなっても変わらぬ愛しさに笑みを零すと、もう一度その頭を撫でた。

「ずっと、ずっと、お側にいます…!」
「…うん。一緒にいてね」

本音を言えば、大天使となったエルダが今までと変わらず、ずっと自分の側にいられるのだろうか…という小さな不安はあった。
ただ今はそれを口にするのは違う気がして、湧いた心配事には目を瞑り、これからも共に過ごせる幸せを純粋に喜んだ。

「…これからは、大っきい姿でいるの?」
「いいえ。バルドル様とのお約束で、天使の…いつもの姿でお側に控えるようにと、言われております」
「そっか…」

(いつものエルダと一緒…)

大きくても小さくてもエルダはエルダなのだが、なぜか少しだけホッとする感覚にゆるりと体の力を抜けば、抱きついていたエルダがゆっくりと上体を起こし、密着していた体が離れた。

「……アドニス様は、今の姿の私は、お嫌ですか?」
「えっ!? ヤ、ヤじゃないよ…! なんで…!?」

なぜ急にそんなことを言われたのか分からず、ギョッとしてエルダを見返す。
嘘ではない。多少落ち着かない気持ちはあるが、大天使の姿のエルダも好きだ。
悲しげな表情のエルダを見上げ、フルフルと必死になって首を横に振れば、エルダがふっと表情を和らげた。

「ッ…」

その表情が、見慣れているはずのエルダの笑顔とまったく違くて、トクリと胸が鳴った。

(あ…あれ…?)

花が綻ぶような、美少女に見違えるような可憐な微笑みとは異なる、大人の男性が放つ独特な色香を多分に含んだ笑みに、トクトクと心臓が鳴り出す。

「……アドニス様」
「ふゃっ、は、はい…!」

一層低く呟かれた声に、大袈裟なほど肩が跳ね───なぜか、その先に続く言葉が予想できてしまい、体温が急激に上がった。


「お慕いしております。アドニス様」
「っ…!」


───分かっていた。
なぜか、どうしてか、そう言われることが分かっていて、だが分かっていても心の準備ができていなかった心臓は、ドクリと大きく脈打った。

「イヴァニエ様や、ルカーシュカ様と同じ感情です。……愛しております、アドニス様」
「は…ゎ…」

真っ直ぐ向けられた愛の言葉に、ぶわりと体が熱くなり、心臓がおかしくなってしまったのではないかと思うほど激しく鼓動する。
イヴァニエとルカーシュカからも、毎日たくさんの愛情を言葉と共に受け取っているが、エルダから向けられた初めての愛の告白に、恥ずかしさと照れが振り切れ、まともに言葉を返すことすら出来なくなっていた。

「…お嫌ですか?」
「う、う…!」

嫌な訳がない。切なげに伏せられた長い睫毛に、否定の気持ちを込めてブンブンと首を横に振れば、エルダの瞳が柔らかに弧を描いた。

「……赤ん坊の姿の時は、プティ達のように、アドニス様に愛でて頂けることが喜びでした」

ゆっくりと紡がれる言葉と共に、片手を取られた。

「天使の姿の時は、従者として、アドニス様にお仕えするに相応しい自分でありたいと、常に思っておりました」

掬い上げられた片手をゆるりと握られ、その指先にエルダの口元が寄った。

「今は、貴方様が愛しくて、恋しくて…その身に触れたくて堪りません」
「ふゎっ」

言い終えると同時に、チュ…と小さなリップ音が響き、指先にエルダの唇が触れた。
信じられないほど柔らかなその感触が、信じられないほど恥ずかしくて、パクパクと口が開くだけの声にならない声が漏れた。

(と、特別な、好き…て、こと…だけど…っ、えっと…えっと…っ)

自分もエルダのことは好きだ。大好きだ。
ただあまりにも急な展開に頭が追いつかず、ぐるぐると回る思考の片隅では少年の姿のエルダがチラつき、どう答えるべきなのか分からなくなっていた。

「…ふ…触れ、る…て……」
「…体を交えたい、という意味と取って頂いて構いません」
「あゎ…」
「ご安心下さいませ。今すぐに求めている訳ではございません」
「は……ぅ…」
「…今は、そうですね…」
「エ、エル…ッ」

エルダが性交を求めていることへの驚きと、言葉にし難い羞恥から、思考が停止しかけている間に、エルダの綺麗なかんばせが間近に迫り、心臓がビクンッと跳ね上がった。


「……唇に、触れてもよろしいでしょうか?」


囁きのように零れ落ちた言葉と共に、唇の薄皮を指先で撫でられ、ゾクリとしたものが腰に走った。
流石にその言葉の意味を正しく理解できるくらいには、自分も成長した。
エルダから口づけを求められている───夢のような、それでいて目を逸らすことすらできない現実に、キュウキュウと胸が鳴く。
正直、頭も胸もいっぱいいっぱいで、茹だった脳と体でアレコレと考える余裕などこれっぽっちも無かった。

───だからこそ、エルダに見つめられ、口づけを求められている今、嬉しさを含んだ恥ずかしさと、期待のような喜びで満ち溢れた胸が、自分の素直な気持ちであり、考えずとも出ていた『答え』のような気がした。


「…ん…っ」


ドクドクと脈打つ心臓と、火照る体を叱咤し、返事をする代わりにギュッと目を瞑って唇を差し出せば、閉じた瞼の向こう側で、エルダが息を呑んだのが分かった。

直後、ふっと笑うような吐息が聞こえ───衣擦れの音と共に、温かく柔らかな唇が、自身のそれにゆっくりと重なった。


「ふ…」

その感触にふるりと肌は粟立ち、同時に喜びと愛しさが、胸の内で弾けた。
ゆっくりと重なった唇が薄く開き、熱い舌が絡むも、その動きはひどく優しく、知らず力んでいた体からゆるゆると力が抜けていく。
優しく優しく、殊更丁寧に咥内を暴いた舌は、僅かな逢瀬の余韻を残すように、そっと離れていった。

「アドニス様…」

ゆっくりと瞼を開けば、愛しげに微笑んでくれるエルダの顔が、瞳の中いっぱいに映った。
その優しい微笑みは、自分の大好きなエルダの顔で───気づけば自然と、笑みを返していた。


「……私も、大好きだよ、エルダ」


いつ、どの瞬間に、恋慕の情が芽生えたかなんて分からない。
もしかしたら、もうずっとずっと前から、エルダに抱いていた『特別な好き』は、エルダと同じ『特別な好き』だったのかもしれない。

ただエルダのことが好きで、大好きで、大切で、これからも共にいられる喜びと溢れ返るほどの愛しさは、紛れもない本物だった。

「ッ…!」

想いを告げた途端、綺麗なエメラルドは潤み、今にも泣き出しそうな表情に笑みが崩れた。

「エルダ」

愛しい人を求めるように、泣く子をあやすように、腕を伸ばしてその背に抱きつけば、エルダの腕もまた背に周り、互いに強く抱き締め合った。

「…大好き。大好きだよ、エルダ」
「愛しています…っ、愛しています、アドニス様…! これからもずっと…ずっと、お側におります…!」

触れた肌が重なるように、想いが通じ合った喜びと、血や肉にまで染み渡るような幸福感を、共に分かち合った。





「みんな、さっきは守ってくれて、ありがとう。とっても、かっこよかったよ」
「あ!」
「んぁ」

エルダと想いを交わした後、窓に張り付いていた赤ん坊達を中へと招き入れれば、皆が一斉に室内に飛び込み、あっという間に周囲を囲まれた。
もちもちと音がしそうなほどの密集具合に思わず笑いつつ、フレールの庭で自分を守ろうと奮闘してくれた小さな天使達一人一人の頬を撫で、感謝の気持ちを伝えた。
皆が嬉しそうに、誇らしそうに、きゃあきゃあと笑う姿に頬を緩めれば、隣でエルダも嬉しそうに笑ってくれた。
その雰囲気がどこかイヴァニエに似ていて、赤子達の頬を弄りながら、ぼんやりとエルダの変化について考える。

(いつものエルダは、ルカに似てるけど…大っきい時はイヴに似てるかも…)

そして赤ん坊の姿の時は、時に甘えてぐずるこの子達にそっくりで───エルダは一人なのに、まるで何人もエルダがいるような不思議な感覚に、ほぅ…とどこか感心したような息を吐いた。
そんなことを考えていると、リィンと耳に馴染んだ鈴の音が聞こえ、ハッとして顔を上げれば、イヴァニエとルカーシュカが部屋へと入ってきた。

「イヴ! ルカ…!」
「アニー! ああ、良かった…あなたが無事で、本当に良かったです」
「アニー、大丈夫か? どこも辛くないか?」
「…大丈夫。二人とも、心配させて、ごめんなさい。…来てくれて、ありがとう…!」

二人共、御守りである腕輪に呼ばれ、駆けつけてくれた。
慌てさせてしまったのに何も無かった、という申し訳なさもあるが、それ以上に心配してくれた彼らの優しさが嬉しくて、イヴァニエとルカーシュカの元へと駆けるように寄ると、ぎゅうっと彼らを抱き締めた。

「…ごめんなさい。なんにも、無かったのに…」
「何かあってからじゃ遅いんだ。いくらでも呼んでくれて良いんだよ」
「ええ、アニーを守る為なら、いくらでも駆けつけます。頼ってくれて、ありがとうございます、アニー」
「っ…、…私も、心配してくれて…来てくれて、ありがとう…!」

イヴァニエとルカーシュカの温かい言葉に、抱き返してくれる温もりに、じんわりと安堵が広がった。

「あの……さっきの、人は…?」
「その話は、また後でしましょう。今はゆっくりお休みなさい」
「……ん…」

(…心配させちゃってる…)

恐らくは、無理して聞かなくていい、という気遣いだろう。
正直、エルダとのアレコレで頭がいっぱいで、見知らぬ大天使に対しての恐怖心はもう残っていない。
本当にもう大丈夫なのだが…とそこまで考え、はたとあることに気づき、イヴァニエとルカーシュカ、そしてエルダを見回した。

「…イヴとルカは、エルダが大っきくなれるの…知ってたの?」

未だに大天使の姿のまま、傍らに佇むエルダに対し、イヴァニエもルカーシュカも平然としている。
まるで当たり前のこととして受け入れている彼らを交互に見つめれば、揃って苦笑が返ってきた。

「そうだな。知ってたよ」
「……私、知らなかったよ…」
「ああ、アニー。そんな悲しそうな顔をしないで下さい。エルダが自分で言い出すまでは、私達の口からは言えなかったのですよ」
「…む」

確かに、先ほどのエルダの話を聞く限り、致し方ないことなのだろう。それでも、勝手に湧いてしまうほんの少しの疎外感に眉根を寄せれば、エルダが困ったように微笑んだ。

「申し訳ございません、アドニス様。お二人とも、私の我が儘に付き合って下さったのです。お叱りは、どうぞ私に…」
「……怒ってないよ」

怒ってはいない。…ちょっとだけ拗ねているだけだ。
こうなったら、これからいっぱい話を聞くんだ───そう思っていると、突然エルダの翼がふわりと広がり、瞬きの間にその姿が変わった。

「……エルダ?」
「お二人もいらっしゃいましたので、私は私のお役目に戻りたいと思います」

少年の姿に戻ったエルダは、そう言うと半歩だけ後ろに下がった。
その様子も、その立ち位置も、その声も、全部が見慣れたエルダのそれで安心する。と同時に、ほんのりと寂しさが湧き上がり、そっと歩み寄ると、エルダの手を取った。
握った白い指先には、先ほどまでの男らしい硬さはなく、細く柔らかな感触へと戻っていた。

「んっと…」

何を言うつもりだったのかも分からない。
ただなんとなく、このまま何事もなく、いつもと変わらぬ日常に戻ってしまうのは寂しい気がして、言葉を探すように繋いだ細い指先をふにふにと握れば、エルダが優しく微笑んでくれた。

「また二人きりの時に、、アドニス様」
「…うん」

囁くようなその声は、まるで内緒話のようで、自分もそれに倣うように、こっくりと静かに頷いた。


同じエルダだけど、違うエルダ。
彼に会えるのは、特別な時だけのようだ。

指先を握り返し、はにかむように微笑んだエルダの顔は、とびきり綺麗で───いつもより少しだけ、大人びて見えた。
しおりを挟む
感想 503

あなたにおすすめの小説

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

若さまは敵の常勝将軍を妻にしたい

雲丹はち
BL
年下の宿敵に戦場で一目惚れされ、気づいたらお持ち帰りされてた将軍が、一週間の時間をかけて、たっぷり溺愛される話。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

朝起きたら幼なじみと番になってた。

オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。 隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた 思いつきの書き殴り オメガバースの設定をお借りしてます

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

処理中です...