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プティ・フレールの愛し子
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「うわー、ほんとにいる」
どこか笑い声を含んだようなその声は、そう大きいものではなかった。
それなのに、まるで庭中に響き渡ったかのような音の波紋に、大きく跳ね上がった心臓はドクン、ドクンと激しく脈打ち、体は凍りついたように固まったまま動けなくなった。
(………だ、れ……)
淡い桜色に染まる大地を、ザク、ザクと踏み締める音がする。
こちらに向かってくる『誰か』に視線は釘付けになったまま、瞬きも息をすることも忘れた体の内側は、混沌とした感情が高速で渦巻いていた。
(………だれ…)
指一本動かせず、全身からドッと溢れ出した汗と苦しいほど脈打つ動悸に、心臓が引き攣ってしまいそうだった。
(……誰…っ)
所々跳ねた鮮やかな蜜柑色の髪と、紫と黄色の二層に分かれた不思議な色を宿した瞳の男───背に翼は無くとも、彼が大天使であることは一目で分かった。
「───ッッ!!」
動揺が、驚愕が、恐怖が、絡みに絡んだぐちゃぐちゃとした感情が脳に辿り着いた瞬間、果実の入った器は手の平から滑り落ち、ポトポトと中身が敷物の上を転がった。
「イヤ…ッ、やだ!! やだ…っ!!」
頭で何か考えるよりも先に、感情が言葉となって口から飛び出ていた。
反射的に逃げ出そうとした体で転移扉に向かおうとするも、手足はまるで血が通っていないかのように重く、鈍く、立ち上がって駆け出そうとした足は縺れた。
「…ぁ……」
縺れた足に絡んだ服。その裾を踏んでしまい「転ぶ」と思った時には、ドシャ…という鈍い音と共に、地に膝を強く打ち付けていた。
「っ…!! …ッ、くぅ……っ」
敷物の上であったことが幸いし、血が滲むような感覚はない。それでも強打した痛みは相当で、ビリビリと足が痺れ、痛みにじわりと涙が込み上げた。
「お、おい…」
「っ…! やっ、や…っ!!」
背後から聞こえた焦りを含んだ声。そこに僅かな戸惑いが透けていたように感じたが、今はそれどころではなく、「早く此処から離れなければ」という気持ちでいっぱいだった。
とはいえ、ジンジンと痛み、痺れた足は震えていて、まともに立つことすらできない。
ただ「怖い」「逃げたい」という一心で、知らない誰かから身を隠すように、双樹の後ろ側へと這うようにして逃げ込んだ。
「はっ、はっ、はっ…!」
勝手に溢れる『怖い』という感情に呑まれ、ドクンドクンとうるさいほど脈打つ心臓は落ち着かず、唇からは浅く短い吐息が鼓動に合わせて漏れ続けた。
双樹の陰に隠れたことで、一時的に姿は見えなくなったが、それでも『そこにいる』という気配は消えず、その場から動けなくなってしまった。
太い幹の後ろ、カタカタと震える身を縮こませたまま、痛みと交互に押し寄せる後悔に唇を噛んだ。
(ちゃんと…エルダの言うこと、聞いてれば良かった…っ)
「お部屋に戻りましょう」と言ってくれた優しい声が耳の奥で再生されるも、当の本人は今は居らず、なんの根拠も力も無いのに「大丈夫」と言い切った己を悔やんだ。
これっぽっちも大丈夫じゃない。
頭は混乱と動揺と恐怖でぐちゃぐちゃで、鈍い体はまともに動かせない。
部屋まですぐ戻れるから…そう思っていた扉は遠く、いつもどう歩いてあそこまで辿り着いていたのかすら思い出せない。
いつの間にか熱を失っていた手は恐ろしいほど冷たく、それが余計に冷静さを失わせた。
…ほんの少しだけ、成長できた気でいた。
だが実際は、一人ではまだ何もできず、ただ震えて泣いているばかりの自分が、情けなくて堪らなかった。
「ぶぅぅぅっ!」
「あーば!」
「…っ!」
ぐずぐずと落ち込みそうになる中、突然聞こえた赤ん坊達のキャンキャンと吠え立てるような声に、ビクリと体が跳ねた。
「わっ、ちょ…と、まって…! なに!?」
「ん"んー!」
「ぶやー!」
焦ったような男の声と重なる赤子達の声に、何事かと双樹の後ろからそろりと顔を覗かせれば、庭を飛び回っていた赤子達が皆で男に群がり、ぐいぐいとその体を押していた。
「やー!」
「やぅあー!」
「まった、待って…っ、離れるから!」
(…あ……)
ふくふくとした小さな小さな手が、男の体を押し、服の裾を引っ張り、ぐいぐいと遠ざけていく。
薄く小さな眉を寄せ、口々に「うーっ」と唸る姿からはうっすらと怒気が揺めき、ぷくりと膨れた真っ赤な頬に、こんな時だというのに喜びが湧いた。
小さく柔い体で、自分のことを守ろうとしてくれている───そう理解した瞬間、固く強張っていた体はほろりと解け、冷たかった指先にはじんわりと熱が戻った。
薄い羽が生えた小さな背が頼もしくて、愛しくて、幼い天使達の優しさと強さに、それまでとは異なる感情から、瞳に水の膜が張った。
「うー?」
「あぅあ?」
「ぁ…あり…、ありがとう…っ」
男に群がっていた赤子達の中から、二人の子が飛んできて、「大丈夫?」と言うように傍らに寄り添ってくれた。
ホッとする愛らしい声と温もりになんとか返事をするも、安堵からか、急速に力の抜けた体は重く、まるで腰が抜けてしまったように立ち上がることができなくなっていた。
(ど、どうしよう…)
少し離れたらしい所からは、まだ男の声が聞こえていて、それだけで心臓がビクビクと竦んだ。
どうかこのまま帰ってくれますように───そう祈るように、キツく両手を握り締めた時だった。
「…あ…」
手首で光る白い腕輪。
そこに輝く水色と黒の宝石が目に映った瞬間、組んでいた指を解き、腕輪を包み込むように、ぎゅうっと握り締めた。
(ルカ…! イヴ…!)
御守りとして、いつも肌身離さず身につけていた二人からの贈り物。
これまで何事もなく、それ故に装飾品という意識が強くなっていた腕輪の効能を、今の状況になって思い出した。
(イヴ…ッ、ルカ…!)
自分の感情と連動して加護が発動し、二人にも何がしかの報せが届く…いつか聞いた言葉を思い出しながら、祈るような気持ちで二人の名前を唱え、同時に届かぬはずのエルダの名を呼んだ。
(エルダ……エルダ…! 早く帰ってきて…!)
帰ってきたら、ちゃんと謝るから。
これからはちゃんと、言うことを聞くから。
だから、だから、早く帰ってきて───願いが届くように、強く強く腕輪を握り締め、体を丸めるように自分の腕ごと抱き締めた。
「エルダ…!」
膨れた感情が、声となって喉の奥から溢れ出た───その瞬間だった。
「アドニス様ッ!!」
バサリッと空を裂くような大きな羽ばたきと共に、悲痛な叫び声が鼓膜を揺らした。
「…っ!」
頭上から降ってきたその声は、初めて聞く声だった。
それなのに、何故か自分の名を叫ぶその声が耳に届いた瞬間、安堵が広がり、縋るようにバッと空を見上げていた。
「エル───」
ああ、エルダが帰ってきた───直感でそう思った視界の中、飛び込んできた光景に、大きく目を見開いた。
空の青を遮るように広がった四枚の大きな真白い翼。
見覚えのある服と、淡い金色の髪と、自分の大好きな煌めくエメラルド色の瞳。
どこからどう見ても、間違いなくエルダだ───そう思うのに、瞳に映った彼は、どこからどう見ても、知らない青年の姿をしていた。
「───……ダ?」
直前までの混沌とした焦りも、動揺と恐怖でグラついていた精神も、請い願うように彼らに助けを求めていた祈りも、その姿を目にした瞬間、ポンッと全てがどこかに飛んでいってしまった。
(………エルダ…だよね?)
視界に映るのは、間違いなくエルダだ。
だがどう見ても、エルダではないのだ。
認識の矛盾に、頭の中には疑問符が幾つも浮かび、気づけば滲んでいた涙も止まっていた。
半開きになった口を閉じることも忘れ、ポカンと呆けたまま、一直線にこちらに向かってくるエルダと思しき天使を見つめる。
そうしている間にも、彼との距離は一瞬で縮まり、やがて視界は彼の姿でいっぱいになった。
「アドニス様!!」
「ぁわっ!?」
地面を抉る勢いで空から降り立った彼───エルダに、向かってきた勢いのまま抱き締められ、拍子で素っ頓狂な声が出た。
引き寄せるように体を包んだ腕は、見慣れた細腕より二回りも太く、細くしなやかだった少年の指は、僅かに骨張った男の手になっていた。
抱き寄せられた肩口は広く、触れる体の感触は硬く、華奢で柔らかかったエルダの面影は欠片も残っていない───それなのに、今自分を抱き締めているのは『エルダ』なのだと、なんの疑いもなく安心しきっている自分がいた。
「エ……、ッ…」
混乱と安堵が競り合う中、エルダの名を呼ぼうと口を開くも、ぎゅうぎゅうと苦しいほど抱き締める腕の力に息が詰まり、声が出せなかった。
同時にバサリと動いた翼の音に、目だけで辺りを見回せば、広げた翼の中、まるで周囲からの視線を遮るように囲われ、エルダとエルダの翼以外は何も見えなくなった。
(……大っきい羽だ…)
今の状況もエルダの姿の変化も、何もかもに脳が追いついていないせいか、どこかズレた感想を抱く。
エルダの腕の中、茫然としたままその胸に張り付いていると、肩を抱いた指先にグッと力が籠った。
「……アドニス様」
「ふぁ、はい…!」
耳に慣れない低い声に、返事をする声がどもる。
だが『アドニス様』というその呼び方も、こちらを心配そうに見つめる翠の瞳も、少年の面影を残した綺麗な面立ちも、全部が全部エルダそのもので、一瞬だけ力んでしまった体からは、ゆるゆると力が抜けていった。
「…ご無事ですか? お怪我は、ありませんか?」
「あ、う…な、ない…ない、です…」
とはいえ、すぐに慣れるのは難しく、ドギマギしながら答えれば、エルダの眉根にキュッと皺が寄った。
「だ、大丈夫…! 本当に、なんにも…、大丈夫だよ…!」
「……ならば、良いのですが…」
瞳を伏せたエルダだが、そこに安心した様子はない。
慌てて言葉を続けようとするも、いつも穏やかに笑んでいる瞳が、自分の背後を睨みつけるような鋭い目付きに変わり、コクリと息を呑んだ。
(……そう、だった…)
思いがけないエルダの変貌ぶりに、記憶が飛びかけていたが、自分の背後には、先ほどの見知らぬ天使がまだいるはずだった。
動転に動転を重ね、それどころではなくなっていたが、恐怖や動揺は跡形もなく消えていた。
だからもう大丈夫───そう言おうとしたのだが、それで終われるはずがなかった。
「…カロン、なぜ此処にいる。フレールの庭への立ち入りは禁じられているはずだ」
「ッ…!」
地を這うような低い声。
自分に対する怒りではないと分かっていても、触れた肌から振動で伝わった怒気に、ブルリと背筋が震えた。
「わ、悪かった…! ただの好奇心で…、怖がらせるつもりじゃなかったんだ!」
エルダの翼に包まれ、赤子達や見知らぬ天使の様子を確認することはできなかったが、悲壮感さえ漂う上擦った声に、どこかホッとしている自分がいた。
と同時に、何もされていないのに、過剰なまでに怖がり、拒絶してしまった自分を猛省した。
(…悪いこと、しちゃったかもしれない…)
確かに怖かった。だがそれは、もう久しく感じていない、突き刺さる痛みのような『恐怖』ではなく、脳と体に刻みつけられた記憶を連想し、反射的に『怖い』と思ってしまった恐怖だった。
(…怖い…けど、恐くはなかった…)
事実、彼が現れてから今まで、魂が凍えるような恐ろしさも痛みも感じていない。
きっとただ本当に、自分という存在を見に来ただけなのかも───そう思ったら、なんだか申し訳なくて、情けなくて、怒れるエルダに恐る恐る縋りついた。
「エ、エルダ……あの、ごめんなさい。ちがうの…あの、何にも、されてなくて…」
ただ自分が勝手に怖がってしまっただけ───そう弁解しようと喋り始めた時だった。
「アニー!!」
「アニー! 無事か!?」
「…ッ、イヴ! ルカ…!」
バササッと羽ばたく翼の音と共に、イヴァニエとルカーシュカの声が響いた。反射的に空を見上げれば、焦りの表情を浮かべた二人の姿が目に映った。
すぐ傍らにイヴァニエとルカーシュカが降り立ち、周囲から守るように広げられていたエルダの翼が閉じられると、二人の顔がよく見えるようになった。
「アニー、大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「大丈夫か、アニー? …エルダ、お前が側にいたんじゃないのか?」
「…申し訳ございません。バルドル様に呼ばれ、お側を離れてしまいました」
「……そうか。アニー、もう大丈夫だぞ。怖かったな」
僅かに乱れた息遣いから、二人が急いで駆けつけてくれたことは明白だった。
それが嬉しいのに、勝手に怖がって、勝手に取り乱して、逃げることもできずにただ助けを求めてしまったことが恥ずかしくて、申し訳なくて、居た堪れなさから視界が滲んだ。
「ご、ごめんなさい…! ちがうの…、あの…、こ、怖いことは、何にも、されてなくて…っ」
頬や頭を撫でてくれる優しい手に、安心と羞恥から泣きそうになる。
急いで駆けつけてくれた二人の優しさが嬉しい。それと同じくらい、情けなくて申し訳ない。
エルダの腕の中、二人を見上げ、なんとか状況を説明しようとすれば、イヴァニエがふっと笑みを零した。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、アニー。後でゆっくり、お話ししましょう。この場は私達に任せて、アニーはお部屋に戻りましょうね。……エルダ、任せましたよ」
「仰せのままに」
「えっ、わ…!」
「また後でな、アニー」
エルダの返事と同時に、腰の抜けた体を抱き上げられ、驚いている間にふわりと体が宙に浮いた。
横抱きにされた体を支える為、慌ててエルダの肩にしがみつけば、大きな羽ばたきと共に、浮遊感が全身を包んだ。
「っ…」
バサリと広がった翼の風圧で、ぶわりと舞い上がった桃色の花弁。花吹雪のようなそれが、視界の中でキラキラと踊った。
その向こう側、驚いたような表情でこちらを見上げる蜜柑色の髪の毛の天使と一瞬目が合い、心の中で精一杯謝罪した。
(ごめんなさい…っ、ごめんなさい…!)
何もされていないから、どうか彼を怒らないで───届くか分からない願いを込め、イヴァニエとルカーシュカを見つめれば、淡い微笑みが返ってきた。
それに返事を返す暇もなく、柔らかに笑んだ瞳に見送られ、体は高く空に舞い上がった。
(……エルダにも、いっぱい心配させちゃった…)
目と鼻の先、これまで経験したことのない速さで飛ぶエルダの横顔は険しく、唇を引き結んだまま前を見据える眼差しの強さに、謝るのは部屋に戻ってからにしよう…と、今は口を噤んだ。
何から何まで失敗してしまった…そんな自分に落ち込みながら、はたと今更なことを思い出し、パチリと目を瞬いた。
(……そういえば、エルダはどうして大っきいんだろう…?)
あまりにも突然な、それでいて当然のように受け入れていたエルダの変化に、ようやく追いついた脳が、少しずつ動き始める。
ああ、話さなければいけないことも、聞きたいことも、いっぱいある───ぐるぐると巡る思考の中、駆けるように飛んでいくエルダの腕から落ちぬ様、必死になってその身にしがみついた。
◇◇◇◇◇◇
(…あの速さでは、プティは追いつけませんね)
アドニスを抱いたエルダが庭から飛び立つと、小さな天使達はその後を追いかけるように、一斉に飛んでいった。
その速度の違いは歴然で、小さな羽でふよふよと浮かぶように飛ぶプティ達が、エルダに追いつくのはまず無理だろう。
(まぁ、わざと距離を取ったのでしょうけど)
きっと部屋に戻ったら、胸に抱いた想いの丈をアドニスに告げるのだろう。
ようやく本来の姿でアドニスと向き合うことになったエルダに、ほんの少しの嫉妬を混ぜた応援の念を送ると、気持ちを切り替えるように息を吐いた。
「…さて、カロン。あなたはなぜ此処にいるのでしょうね」
体ごと振り向き、その場で立ち尽くしていたカロンを睨むように見つめれば、彼が僅かに怯んだ。
「わ、悪かったよ…! 本当に、怖がらせるつもりはなかったんだ!」
素直に謝罪をする彼に瞳を細めつつ、チラリとルカーシュカを見遣った。
「アニー……アドニスに、何もしてないだろうな」
「してない! 誓って、何もしてない! 声を掛けただけで側にも寄ってない! 本当だ!」
「…まぁ、そうだろうな」
はぁ…と溜め息を吐くルカーシュカと視線が合い、互いに同じ予想であったことを確認する。
「……信じてくれるのか?」
「あなたの言葉を信じるというより、アニ……アドニスの言葉を信じているだけですよ」
アドニスに贈った御守りから『助けて』という感情が流れてきた時は、正直生きた心地がしなかった。
誰かに襲われたか、傷つけられたか、はたまた攫われたか…そんな恐ろしい想像に、どこかで泣いてる愛しい子を守らなければと、役目も放り出して駆け付けた。
エルダが大天使の姿でいたことには驚いたが、幸いアドニスには怪我もなく、無事であったことになにより安堵した。
その後のアドニスの狼狽ぶりや「何にもされてない」という発言で、「ああ、なるほど」とすぐに合点がいった。
恐らく、安全だと思っていた場所に、突然部外者が現れたことで、パニックになってしまったのだろう、と。
加護が発動していないことを考えても、事実として何もされていないのだろうと考えるのが自然だった。
とはいえ、だから許されるかと言えば話は別だ。
「アドニスに危害を加えていなくとも、禁じられていた庭への立ち入りは、バルドル様との約束を違う行為です。このまま、彼の方の元へ行きますよ」
「…分かってる」
肩を下げ、落ち込んだように俯いたカロンを一瞥すると、連れ立ってバルドル神の元へと向かった
「カロン、フレールの庭への立ち入りは禁じていたはずだぞ?」
「…はい。仰る通りでございます。誠に申し訳ございませんでした」
正面の椅子にゆるりと腰掛け、微笑むバルドル神。そこに怒りの感情はない。
それでもその御前で片膝をつき、頭を深く下げたまま顔を上げないカロンからは、重圧に押し潰されてしまいそうなほどの恐慌が滲んでいた。
「困った子だね。好奇心旺盛なのは結構だが、それも過ぎると痛い目を見る。聖樹の苗木の一件で、あれほど泣いて、カロンも学んだはずだが……もう二千年も前のことだから、忘れてしまったかな?」
「…っ、い、いえ…! その節は本当に、大変申し訳ございませんでした…!」
ぐぅ…と唸るように、更に頭を深く下げたカロン。己の生の中で、最も恥じるべき歴史を思い出し、羞恥に堪え兼ねているのだろう。
いつかアドニスに語った聖樹の話。
苗木を枯らしてしまった三人のプティの内の一人───それがカロンだった。
聖樹の苗木に触れてしまった時のような好奇心が、大天使に成長しても尚健在だったカロンは、『アドニス』とは異なる意味で問題児だった。
それでも誰かを傷つけるような問題を起こさなかっただけ、可愛らしいものだったが、今回のようなことがあっては困る。
身を小さくしたままのカロンを暫し見つめると、バルドル神がゆっくりとこちらに視線を向けた。
「アドニスは、今はどうしている?」
「エルダが付き添っております」
「様子は?」
「そこまで取り乱した様子はございません。ただ、安全だと思っていた場所が、そうではなかったと恐れてしまうことがないか、今はそちらの方が心配です」
「…っ」
カロンを責めるつもりはない。…いや、それは嘘だが、実際心配しているのはそこだ。
ようやくなんの気兼ねもなく、フレールの庭を出歩けるようになったアドニス。そのささやかな成長は、“安全な場所”という安心があって初めて成立していたものだった。
もしもこの出来事がキッカケで、その意識が崩れてしまったら、アドニスはまた部屋の中に引きこもってしまうかもしれない。
(出歩くことで危険性が高まるよりはいいですが、流石にフォルセの果実としての役目を果たせなくなると、問題ですからね…)
フォルセの果実は、双樹が根を張るあの庭でしか実らせることができない。果実だけをどこかに持ち出して、そこで実らせようとしても、果実として実ることはないのだ。
あくまで『フォルセの果実』は、双樹が純天使を育む為、その手助けをする者であり、果実は双樹から切り離されても、繋がっているのだ。
アドニスの為、アドニスがフォルセの果実としての役目を今後も果たす為、今日のような出来事が二度と起きないようにしなければいけない。
「ふむ……アドニスの精神の安定については、お前達に任せていいかな?」
「お任せ下さい」
「頼んだよ。…さて、カロン。お前には罰を与えよう。二十日間の謹慎だ。その間に、アドニスが自分の意思でフレールの庭へと向かえるようになれば、それ以上の罰は無し。もし二十日を過ぎても、アドニスが怖がって庭に出れないようであれば、改めて罰を与えよう。いいね?」
「…はい。寛大な御心に、感謝申し上げます」
罰として、これが重いのか軽いのかは分からない。
ただアドニスを怖がらせた分は、心底反省してほしい───そんなことを考えている内に、バルドル神との謁見は終わった。
「イヴァニエ! ルカーシュカ!」
広間を離れ、アドニスの元へと向かう為、ルカーシュカと共に歩き出せば、カロンの声が後ろから追いかけてきた。
「…なんだ」
「っ…、わ、悪かったって……本当に、反省してるよ…」
明らかに不機嫌なルカーシュカの様子に、カロンがしょんぼりと俯く。
彼に悪気がなかったとはいえ、結果としてアドニスが泣く事態に繋がっているのだから、不機嫌になるなという方が無理だ。
「これに懲りて、今後はフレールの庭に近づかないことですね」
「…分かってる。……なぁ」
「なんです?」
「…アドニスは……その…あの子は、本当に大丈夫なのか…?」
恐る恐る尋ねてきたカロンの『あの子』という言い方に、眉を顰めた。
(ああ…だからアニーを他の者に見せたくなかったのですよ)
『アドニス』と『アニー』が別人であることは、一目見ればその違いは一目瞭然だ。
半信半疑でいる者も、いつかあの子のことを知る時が来れば、その純粋な美しさに惹かれずにはいられなくなるだろう。カロンの中で、既に異なる存在として、刻み付けられてしまったように───…
「怖がらせてごめんって、伝えてもらっていいか? もう邪魔したりしないからって…」
僅かに目の泳ぐカロンに、じわじわと苦い感情が込み上げる。黙ったまま顔を顰めていると、ルカーシュカが呆れたように溜め息を零した。
「謝罪はアドニスに伝えておく」
「…ありがとう。…本当に、ごめん」
ルカーシュカからの返事を聞くと、カロンはホッとした様子で踵を返し、逆方向へと歩いていった。
「…謝罪くらい受け取ってやれ」
「…アニーに関するカロンの記憶を消すには、どうしたらいいでしょうね」
「話が噛み合ってないぞ」
「やれやれ」と言うように肩を竦め、ルカーシュカが歩き出す。その背を見つめながら、胸に溜まった靄を払うように、浅く息を吐き出した。
(…本心なんですけどね)
今はまだ、私達だけのあの子でいてほしい───少しずつ、だが確実に何かが変わっていきそうな予感に、そう願わずにはいられなかった。
どこか笑い声を含んだようなその声は、そう大きいものではなかった。
それなのに、まるで庭中に響き渡ったかのような音の波紋に、大きく跳ね上がった心臓はドクン、ドクンと激しく脈打ち、体は凍りついたように固まったまま動けなくなった。
(………だ、れ……)
淡い桜色に染まる大地を、ザク、ザクと踏み締める音がする。
こちらに向かってくる『誰か』に視線は釘付けになったまま、瞬きも息をすることも忘れた体の内側は、混沌とした感情が高速で渦巻いていた。
(………だれ…)
指一本動かせず、全身からドッと溢れ出した汗と苦しいほど脈打つ動悸に、心臓が引き攣ってしまいそうだった。
(……誰…っ)
所々跳ねた鮮やかな蜜柑色の髪と、紫と黄色の二層に分かれた不思議な色を宿した瞳の男───背に翼は無くとも、彼が大天使であることは一目で分かった。
「───ッッ!!」
動揺が、驚愕が、恐怖が、絡みに絡んだぐちゃぐちゃとした感情が脳に辿り着いた瞬間、果実の入った器は手の平から滑り落ち、ポトポトと中身が敷物の上を転がった。
「イヤ…ッ、やだ!! やだ…っ!!」
頭で何か考えるよりも先に、感情が言葉となって口から飛び出ていた。
反射的に逃げ出そうとした体で転移扉に向かおうとするも、手足はまるで血が通っていないかのように重く、鈍く、立ち上がって駆け出そうとした足は縺れた。
「…ぁ……」
縺れた足に絡んだ服。その裾を踏んでしまい「転ぶ」と思った時には、ドシャ…という鈍い音と共に、地に膝を強く打ち付けていた。
「っ…!! …ッ、くぅ……っ」
敷物の上であったことが幸いし、血が滲むような感覚はない。それでも強打した痛みは相当で、ビリビリと足が痺れ、痛みにじわりと涙が込み上げた。
「お、おい…」
「っ…! やっ、や…っ!!」
背後から聞こえた焦りを含んだ声。そこに僅かな戸惑いが透けていたように感じたが、今はそれどころではなく、「早く此処から離れなければ」という気持ちでいっぱいだった。
とはいえ、ジンジンと痛み、痺れた足は震えていて、まともに立つことすらできない。
ただ「怖い」「逃げたい」という一心で、知らない誰かから身を隠すように、双樹の後ろ側へと這うようにして逃げ込んだ。
「はっ、はっ、はっ…!」
勝手に溢れる『怖い』という感情に呑まれ、ドクンドクンとうるさいほど脈打つ心臓は落ち着かず、唇からは浅く短い吐息が鼓動に合わせて漏れ続けた。
双樹の陰に隠れたことで、一時的に姿は見えなくなったが、それでも『そこにいる』という気配は消えず、その場から動けなくなってしまった。
太い幹の後ろ、カタカタと震える身を縮こませたまま、痛みと交互に押し寄せる後悔に唇を噛んだ。
(ちゃんと…エルダの言うこと、聞いてれば良かった…っ)
「お部屋に戻りましょう」と言ってくれた優しい声が耳の奥で再生されるも、当の本人は今は居らず、なんの根拠も力も無いのに「大丈夫」と言い切った己を悔やんだ。
これっぽっちも大丈夫じゃない。
頭は混乱と動揺と恐怖でぐちゃぐちゃで、鈍い体はまともに動かせない。
部屋まですぐ戻れるから…そう思っていた扉は遠く、いつもどう歩いてあそこまで辿り着いていたのかすら思い出せない。
いつの間にか熱を失っていた手は恐ろしいほど冷たく、それが余計に冷静さを失わせた。
…ほんの少しだけ、成長できた気でいた。
だが実際は、一人ではまだ何もできず、ただ震えて泣いているばかりの自分が、情けなくて堪らなかった。
「ぶぅぅぅっ!」
「あーば!」
「…っ!」
ぐずぐずと落ち込みそうになる中、突然聞こえた赤ん坊達のキャンキャンと吠え立てるような声に、ビクリと体が跳ねた。
「わっ、ちょ…と、まって…! なに!?」
「ん"んー!」
「ぶやー!」
焦ったような男の声と重なる赤子達の声に、何事かと双樹の後ろからそろりと顔を覗かせれば、庭を飛び回っていた赤子達が皆で男に群がり、ぐいぐいとその体を押していた。
「やー!」
「やぅあー!」
「まった、待って…っ、離れるから!」
(…あ……)
ふくふくとした小さな小さな手が、男の体を押し、服の裾を引っ張り、ぐいぐいと遠ざけていく。
薄く小さな眉を寄せ、口々に「うーっ」と唸る姿からはうっすらと怒気が揺めき、ぷくりと膨れた真っ赤な頬に、こんな時だというのに喜びが湧いた。
小さく柔い体で、自分のことを守ろうとしてくれている───そう理解した瞬間、固く強張っていた体はほろりと解け、冷たかった指先にはじんわりと熱が戻った。
薄い羽が生えた小さな背が頼もしくて、愛しくて、幼い天使達の優しさと強さに、それまでとは異なる感情から、瞳に水の膜が張った。
「うー?」
「あぅあ?」
「ぁ…あり…、ありがとう…っ」
男に群がっていた赤子達の中から、二人の子が飛んできて、「大丈夫?」と言うように傍らに寄り添ってくれた。
ホッとする愛らしい声と温もりになんとか返事をするも、安堵からか、急速に力の抜けた体は重く、まるで腰が抜けてしまったように立ち上がることができなくなっていた。
(ど、どうしよう…)
少し離れたらしい所からは、まだ男の声が聞こえていて、それだけで心臓がビクビクと竦んだ。
どうかこのまま帰ってくれますように───そう祈るように、キツく両手を握り締めた時だった。
「…あ…」
手首で光る白い腕輪。
そこに輝く水色と黒の宝石が目に映った瞬間、組んでいた指を解き、腕輪を包み込むように、ぎゅうっと握り締めた。
(ルカ…! イヴ…!)
御守りとして、いつも肌身離さず身につけていた二人からの贈り物。
これまで何事もなく、それ故に装飾品という意識が強くなっていた腕輪の効能を、今の状況になって思い出した。
(イヴ…ッ、ルカ…!)
自分の感情と連動して加護が発動し、二人にも何がしかの報せが届く…いつか聞いた言葉を思い出しながら、祈るような気持ちで二人の名前を唱え、同時に届かぬはずのエルダの名を呼んだ。
(エルダ……エルダ…! 早く帰ってきて…!)
帰ってきたら、ちゃんと謝るから。
これからはちゃんと、言うことを聞くから。
だから、だから、早く帰ってきて───願いが届くように、強く強く腕輪を握り締め、体を丸めるように自分の腕ごと抱き締めた。
「エルダ…!」
膨れた感情が、声となって喉の奥から溢れ出た───その瞬間だった。
「アドニス様ッ!!」
バサリッと空を裂くような大きな羽ばたきと共に、悲痛な叫び声が鼓膜を揺らした。
「…っ!」
頭上から降ってきたその声は、初めて聞く声だった。
それなのに、何故か自分の名を叫ぶその声が耳に届いた瞬間、安堵が広がり、縋るようにバッと空を見上げていた。
「エル───」
ああ、エルダが帰ってきた───直感でそう思った視界の中、飛び込んできた光景に、大きく目を見開いた。
空の青を遮るように広がった四枚の大きな真白い翼。
見覚えのある服と、淡い金色の髪と、自分の大好きな煌めくエメラルド色の瞳。
どこからどう見ても、間違いなくエルダだ───そう思うのに、瞳に映った彼は、どこからどう見ても、知らない青年の姿をしていた。
「───……ダ?」
直前までの混沌とした焦りも、動揺と恐怖でグラついていた精神も、請い願うように彼らに助けを求めていた祈りも、その姿を目にした瞬間、ポンッと全てがどこかに飛んでいってしまった。
(………エルダ…だよね?)
視界に映るのは、間違いなくエルダだ。
だがどう見ても、エルダではないのだ。
認識の矛盾に、頭の中には疑問符が幾つも浮かび、気づけば滲んでいた涙も止まっていた。
半開きになった口を閉じることも忘れ、ポカンと呆けたまま、一直線にこちらに向かってくるエルダと思しき天使を見つめる。
そうしている間にも、彼との距離は一瞬で縮まり、やがて視界は彼の姿でいっぱいになった。
「アドニス様!!」
「ぁわっ!?」
地面を抉る勢いで空から降り立った彼───エルダに、向かってきた勢いのまま抱き締められ、拍子で素っ頓狂な声が出た。
引き寄せるように体を包んだ腕は、見慣れた細腕より二回りも太く、細くしなやかだった少年の指は、僅かに骨張った男の手になっていた。
抱き寄せられた肩口は広く、触れる体の感触は硬く、華奢で柔らかかったエルダの面影は欠片も残っていない───それなのに、今自分を抱き締めているのは『エルダ』なのだと、なんの疑いもなく安心しきっている自分がいた。
「エ……、ッ…」
混乱と安堵が競り合う中、エルダの名を呼ぼうと口を開くも、ぎゅうぎゅうと苦しいほど抱き締める腕の力に息が詰まり、声が出せなかった。
同時にバサリと動いた翼の音に、目だけで辺りを見回せば、広げた翼の中、まるで周囲からの視線を遮るように囲われ、エルダとエルダの翼以外は何も見えなくなった。
(……大っきい羽だ…)
今の状況もエルダの姿の変化も、何もかもに脳が追いついていないせいか、どこかズレた感想を抱く。
エルダの腕の中、茫然としたままその胸に張り付いていると、肩を抱いた指先にグッと力が籠った。
「……アドニス様」
「ふぁ、はい…!」
耳に慣れない低い声に、返事をする声がどもる。
だが『アドニス様』というその呼び方も、こちらを心配そうに見つめる翠の瞳も、少年の面影を残した綺麗な面立ちも、全部が全部エルダそのもので、一瞬だけ力んでしまった体からは、ゆるゆると力が抜けていった。
「…ご無事ですか? お怪我は、ありませんか?」
「あ、う…な、ない…ない、です…」
とはいえ、すぐに慣れるのは難しく、ドギマギしながら答えれば、エルダの眉根にキュッと皺が寄った。
「だ、大丈夫…! 本当に、なんにも…、大丈夫だよ…!」
「……ならば、良いのですが…」
瞳を伏せたエルダだが、そこに安心した様子はない。
慌てて言葉を続けようとするも、いつも穏やかに笑んでいる瞳が、自分の背後を睨みつけるような鋭い目付きに変わり、コクリと息を呑んだ。
(……そう、だった…)
思いがけないエルダの変貌ぶりに、記憶が飛びかけていたが、自分の背後には、先ほどの見知らぬ天使がまだいるはずだった。
動転に動転を重ね、それどころではなくなっていたが、恐怖や動揺は跡形もなく消えていた。
だからもう大丈夫───そう言おうとしたのだが、それで終われるはずがなかった。
「…カロン、なぜ此処にいる。フレールの庭への立ち入りは禁じられているはずだ」
「ッ…!」
地を這うような低い声。
自分に対する怒りではないと分かっていても、触れた肌から振動で伝わった怒気に、ブルリと背筋が震えた。
「わ、悪かった…! ただの好奇心で…、怖がらせるつもりじゃなかったんだ!」
エルダの翼に包まれ、赤子達や見知らぬ天使の様子を確認することはできなかったが、悲壮感さえ漂う上擦った声に、どこかホッとしている自分がいた。
と同時に、何もされていないのに、過剰なまでに怖がり、拒絶してしまった自分を猛省した。
(…悪いこと、しちゃったかもしれない…)
確かに怖かった。だがそれは、もう久しく感じていない、突き刺さる痛みのような『恐怖』ではなく、脳と体に刻みつけられた記憶を連想し、反射的に『怖い』と思ってしまった恐怖だった。
(…怖い…けど、恐くはなかった…)
事実、彼が現れてから今まで、魂が凍えるような恐ろしさも痛みも感じていない。
きっとただ本当に、自分という存在を見に来ただけなのかも───そう思ったら、なんだか申し訳なくて、情けなくて、怒れるエルダに恐る恐る縋りついた。
「エ、エルダ……あの、ごめんなさい。ちがうの…あの、何にも、されてなくて…」
ただ自分が勝手に怖がってしまっただけ───そう弁解しようと喋り始めた時だった。
「アニー!!」
「アニー! 無事か!?」
「…ッ、イヴ! ルカ…!」
バササッと羽ばたく翼の音と共に、イヴァニエとルカーシュカの声が響いた。反射的に空を見上げれば、焦りの表情を浮かべた二人の姿が目に映った。
すぐ傍らにイヴァニエとルカーシュカが降り立ち、周囲から守るように広げられていたエルダの翼が閉じられると、二人の顔がよく見えるようになった。
「アニー、大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「大丈夫か、アニー? …エルダ、お前が側にいたんじゃないのか?」
「…申し訳ございません。バルドル様に呼ばれ、お側を離れてしまいました」
「……そうか。アニー、もう大丈夫だぞ。怖かったな」
僅かに乱れた息遣いから、二人が急いで駆けつけてくれたことは明白だった。
それが嬉しいのに、勝手に怖がって、勝手に取り乱して、逃げることもできずにただ助けを求めてしまったことが恥ずかしくて、申し訳なくて、居た堪れなさから視界が滲んだ。
「ご、ごめんなさい…! ちがうの…、あの…、こ、怖いことは、何にも、されてなくて…っ」
頬や頭を撫でてくれる優しい手に、安心と羞恥から泣きそうになる。
急いで駆けつけてくれた二人の優しさが嬉しい。それと同じくらい、情けなくて申し訳ない。
エルダの腕の中、二人を見上げ、なんとか状況を説明しようとすれば、イヴァニエがふっと笑みを零した。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、アニー。後でゆっくり、お話ししましょう。この場は私達に任せて、アニーはお部屋に戻りましょうね。……エルダ、任せましたよ」
「仰せのままに」
「えっ、わ…!」
「また後でな、アニー」
エルダの返事と同時に、腰の抜けた体を抱き上げられ、驚いている間にふわりと体が宙に浮いた。
横抱きにされた体を支える為、慌ててエルダの肩にしがみつけば、大きな羽ばたきと共に、浮遊感が全身を包んだ。
「っ…」
バサリと広がった翼の風圧で、ぶわりと舞い上がった桃色の花弁。花吹雪のようなそれが、視界の中でキラキラと踊った。
その向こう側、驚いたような表情でこちらを見上げる蜜柑色の髪の毛の天使と一瞬目が合い、心の中で精一杯謝罪した。
(ごめんなさい…っ、ごめんなさい…!)
何もされていないから、どうか彼を怒らないで───届くか分からない願いを込め、イヴァニエとルカーシュカを見つめれば、淡い微笑みが返ってきた。
それに返事を返す暇もなく、柔らかに笑んだ瞳に見送られ、体は高く空に舞い上がった。
(……エルダにも、いっぱい心配させちゃった…)
目と鼻の先、これまで経験したことのない速さで飛ぶエルダの横顔は険しく、唇を引き結んだまま前を見据える眼差しの強さに、謝るのは部屋に戻ってからにしよう…と、今は口を噤んだ。
何から何まで失敗してしまった…そんな自分に落ち込みながら、はたと今更なことを思い出し、パチリと目を瞬いた。
(……そういえば、エルダはどうして大っきいんだろう…?)
あまりにも突然な、それでいて当然のように受け入れていたエルダの変化に、ようやく追いついた脳が、少しずつ動き始める。
ああ、話さなければいけないことも、聞きたいことも、いっぱいある───ぐるぐると巡る思考の中、駆けるように飛んでいくエルダの腕から落ちぬ様、必死になってその身にしがみついた。
◇◇◇◇◇◇
(…あの速さでは、プティは追いつけませんね)
アドニスを抱いたエルダが庭から飛び立つと、小さな天使達はその後を追いかけるように、一斉に飛んでいった。
その速度の違いは歴然で、小さな羽でふよふよと浮かぶように飛ぶプティ達が、エルダに追いつくのはまず無理だろう。
(まぁ、わざと距離を取ったのでしょうけど)
きっと部屋に戻ったら、胸に抱いた想いの丈をアドニスに告げるのだろう。
ようやく本来の姿でアドニスと向き合うことになったエルダに、ほんの少しの嫉妬を混ぜた応援の念を送ると、気持ちを切り替えるように息を吐いた。
「…さて、カロン。あなたはなぜ此処にいるのでしょうね」
体ごと振り向き、その場で立ち尽くしていたカロンを睨むように見つめれば、彼が僅かに怯んだ。
「わ、悪かったよ…! 本当に、怖がらせるつもりはなかったんだ!」
素直に謝罪をする彼に瞳を細めつつ、チラリとルカーシュカを見遣った。
「アニー……アドニスに、何もしてないだろうな」
「してない! 誓って、何もしてない! 声を掛けただけで側にも寄ってない! 本当だ!」
「…まぁ、そうだろうな」
はぁ…と溜め息を吐くルカーシュカと視線が合い、互いに同じ予想であったことを確認する。
「……信じてくれるのか?」
「あなたの言葉を信じるというより、アニ……アドニスの言葉を信じているだけですよ」
アドニスに贈った御守りから『助けて』という感情が流れてきた時は、正直生きた心地がしなかった。
誰かに襲われたか、傷つけられたか、はたまた攫われたか…そんな恐ろしい想像に、どこかで泣いてる愛しい子を守らなければと、役目も放り出して駆け付けた。
エルダが大天使の姿でいたことには驚いたが、幸いアドニスには怪我もなく、無事であったことになにより安堵した。
その後のアドニスの狼狽ぶりや「何にもされてない」という発言で、「ああ、なるほど」とすぐに合点がいった。
恐らく、安全だと思っていた場所に、突然部外者が現れたことで、パニックになってしまったのだろう、と。
加護が発動していないことを考えても、事実として何もされていないのだろうと考えるのが自然だった。
とはいえ、だから許されるかと言えば話は別だ。
「アドニスに危害を加えていなくとも、禁じられていた庭への立ち入りは、バルドル様との約束を違う行為です。このまま、彼の方の元へ行きますよ」
「…分かってる」
肩を下げ、落ち込んだように俯いたカロンを一瞥すると、連れ立ってバルドル神の元へと向かった
「カロン、フレールの庭への立ち入りは禁じていたはずだぞ?」
「…はい。仰る通りでございます。誠に申し訳ございませんでした」
正面の椅子にゆるりと腰掛け、微笑むバルドル神。そこに怒りの感情はない。
それでもその御前で片膝をつき、頭を深く下げたまま顔を上げないカロンからは、重圧に押し潰されてしまいそうなほどの恐慌が滲んでいた。
「困った子だね。好奇心旺盛なのは結構だが、それも過ぎると痛い目を見る。聖樹の苗木の一件で、あれほど泣いて、カロンも学んだはずだが……もう二千年も前のことだから、忘れてしまったかな?」
「…っ、い、いえ…! その節は本当に、大変申し訳ございませんでした…!」
ぐぅ…と唸るように、更に頭を深く下げたカロン。己の生の中で、最も恥じるべき歴史を思い出し、羞恥に堪え兼ねているのだろう。
いつかアドニスに語った聖樹の話。
苗木を枯らしてしまった三人のプティの内の一人───それがカロンだった。
聖樹の苗木に触れてしまった時のような好奇心が、大天使に成長しても尚健在だったカロンは、『アドニス』とは異なる意味で問題児だった。
それでも誰かを傷つけるような問題を起こさなかっただけ、可愛らしいものだったが、今回のようなことがあっては困る。
身を小さくしたままのカロンを暫し見つめると、バルドル神がゆっくりとこちらに視線を向けた。
「アドニスは、今はどうしている?」
「エルダが付き添っております」
「様子は?」
「そこまで取り乱した様子はございません。ただ、安全だと思っていた場所が、そうではなかったと恐れてしまうことがないか、今はそちらの方が心配です」
「…っ」
カロンを責めるつもりはない。…いや、それは嘘だが、実際心配しているのはそこだ。
ようやくなんの気兼ねもなく、フレールの庭を出歩けるようになったアドニス。そのささやかな成長は、“安全な場所”という安心があって初めて成立していたものだった。
もしもこの出来事がキッカケで、その意識が崩れてしまったら、アドニスはまた部屋の中に引きこもってしまうかもしれない。
(出歩くことで危険性が高まるよりはいいですが、流石にフォルセの果実としての役目を果たせなくなると、問題ですからね…)
フォルセの果実は、双樹が根を張るあの庭でしか実らせることができない。果実だけをどこかに持ち出して、そこで実らせようとしても、果実として実ることはないのだ。
あくまで『フォルセの果実』は、双樹が純天使を育む為、その手助けをする者であり、果実は双樹から切り離されても、繋がっているのだ。
アドニスの為、アドニスがフォルセの果実としての役目を今後も果たす為、今日のような出来事が二度と起きないようにしなければいけない。
「ふむ……アドニスの精神の安定については、お前達に任せていいかな?」
「お任せ下さい」
「頼んだよ。…さて、カロン。お前には罰を与えよう。二十日間の謹慎だ。その間に、アドニスが自分の意思でフレールの庭へと向かえるようになれば、それ以上の罰は無し。もし二十日を過ぎても、アドニスが怖がって庭に出れないようであれば、改めて罰を与えよう。いいね?」
「…はい。寛大な御心に、感謝申し上げます」
罰として、これが重いのか軽いのかは分からない。
ただアドニスを怖がらせた分は、心底反省してほしい───そんなことを考えている内に、バルドル神との謁見は終わった。
「イヴァニエ! ルカーシュカ!」
広間を離れ、アドニスの元へと向かう為、ルカーシュカと共に歩き出せば、カロンの声が後ろから追いかけてきた。
「…なんだ」
「っ…、わ、悪かったって……本当に、反省してるよ…」
明らかに不機嫌なルカーシュカの様子に、カロンがしょんぼりと俯く。
彼に悪気がなかったとはいえ、結果としてアドニスが泣く事態に繋がっているのだから、不機嫌になるなという方が無理だ。
「これに懲りて、今後はフレールの庭に近づかないことですね」
「…分かってる。……なぁ」
「なんです?」
「…アドニスは……その…あの子は、本当に大丈夫なのか…?」
恐る恐る尋ねてきたカロンの『あの子』という言い方に、眉を顰めた。
(ああ…だからアニーを他の者に見せたくなかったのですよ)
『アドニス』と『アニー』が別人であることは、一目見ればその違いは一目瞭然だ。
半信半疑でいる者も、いつかあの子のことを知る時が来れば、その純粋な美しさに惹かれずにはいられなくなるだろう。カロンの中で、既に異なる存在として、刻み付けられてしまったように───…
「怖がらせてごめんって、伝えてもらっていいか? もう邪魔したりしないからって…」
僅かに目の泳ぐカロンに、じわじわと苦い感情が込み上げる。黙ったまま顔を顰めていると、ルカーシュカが呆れたように溜め息を零した。
「謝罪はアドニスに伝えておく」
「…ありがとう。…本当に、ごめん」
ルカーシュカからの返事を聞くと、カロンはホッとした様子で踵を返し、逆方向へと歩いていった。
「…謝罪くらい受け取ってやれ」
「…アニーに関するカロンの記憶を消すには、どうしたらいいでしょうね」
「話が噛み合ってないぞ」
「やれやれ」と言うように肩を竦め、ルカーシュカが歩き出す。その背を見つめながら、胸に溜まった靄を払うように、浅く息を吐き出した。
(…本心なんですけどね)
今はまだ、私達だけのあの子でいてほしい───少しずつ、だが確実に何かが変わっていきそうな予感に、そう願わずにはいられなかった。
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