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プティ・フレールの愛し子
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ピチチ、という軽やかな囀りと共に、見覚えのある空色の小鳥が飛んでくる。
空の青さに溶け込むようなその色に目を奪われながら、すべるように羽ばたく姿を見つめていると、その背後からキラリ、キラリと煌めきながら、共に飛んでくる何かが見え、目を凝らした。
「…? あ……わぁ…!」
ざぁ…と風を切るような音を纏いながら、周囲をぐるりと囲むように泳ぐ透き通った魚の群れ。
命の湖へと向かう途中で見た不思議な光景が、再び目の前に広がり、透明に輝く鱗の美しさに見惚れた。
「ぶあっ、あぶあー!」
「きゃあ~っ」
空中を泳ぐ水の魚の突然の出現に、赤ん坊達は目を輝かせ、きゃあきゃあと笑いながら、魚を捕まえようと追い回し始めた。
「んあ~!」
「ぷあっ、あ!」
「あ……つ、捕まえちゃ…」
(だ、大丈夫なのかな…?)
陽の光を反射してキラキラ光るその身は、どう見ても水だ。果たして触れても大丈夫なのか、ハラハラしながらその様子を見守るも、魚はひらり、ひらりと赤子の手をすり抜け、流れるように優雅に泳ぎ続けた。
(…大丈夫かな?)
水の魚と赤子達が入り乱れて飛ぶ庭は、途端に賑やかになり、キャッキャッとはしゃぐ声が木霊した。
その様子を微笑ましく眺めていると、傍らで「ピピッ」と鳴く小鳥の囀りが聞こえ、そちらに顔を向けた。
「…エルダ?」
いつの間にか立ち上がっていたエルダの指先には、先ほどの青い小鳥が止まっていた。魚と赤ん坊達の追いかけっこに気を取られ、小鳥がエルダの元に降り立っていたことに気づかなかった。
(……何か、あったのかな?)
愛らしい手の平サイズの小鳥を睨むように見つめるエルダは明らかに不機嫌で、初めて見たその表情に、反射的に上がった片手がオロオロと彷徨った。
「エルダ…? どうしたの…?」
顔が怖いよ…とは流石に言えなかったが、用が済んだのか、細い指先から飛び立った小鳥とそれを見送るエルダを交互に見つめ、声を掛けた。
「エルダ…?」
「……バルドル様から、お呼び出しがありました」
「!」
珍しくボソボソと小声で話すエルダは新鮮で、それだけで「おぉ…」とよく分からない感心を覚えたが、その内容にパチリと目を瞬いた。
「どうしたんだろうね? いつもはもっと、遅い時間なのに…」
エルダ曰く、自分の日々の活動に関しては定期的にバルドル神に報告が必要らしく、その為にエルダは呼び出されているのだそうだ。
本来なら、自分の足でバルドル神の元まで向かわなければいけないのだが、まだ部屋の外を気兼ねなく歩くことは難しく、エルダが代役を務めてくれていた。
予め日取りが決まっているのか、いつもは夕暮れ時に「バルドル様の元へ行って参ります」と言って出かけるエルダを見送るのが常であり、呼び出されることなどなかったのだが…
(急な用事でも、できちゃったのかな…?)
そうでなければ、わざわざ呼び出したりしないだろう…と考えている横で、エルダの細い溜め息が聞こえた。
「申し訳ございません、アドニス様。お務めの途中ですが、一旦お部屋に戻りましょう。バルドル様の御用事が終わりましたら、すぐに戻って参りますので…」
「ん……、…!」
申し訳なさそうに眉を下げたエルダが傍らに膝をつき、片手を差し出す。
ああ、そうか…エルダがいないから、部屋に戻らなければいけないのか───ぽんやりと浮かんだ考えに、はたとあることを思い付き、ハッとする。
両手を握り締め、グッと気合いを入れると、エルダに向き合った。
「あの、大丈夫だよ…! エルダが戻ってくるまで、一人でお留守番してる…!」
「……え…?」
突然の宣言に呆気に取られたのか、ポカンとした表情のエルダを見つめ返しながら、「うん」と頷く。
(一人で歩けるようになる為の、練習だ…!)
イヴァニエやルカーシュカの部屋へと遊びに行くようになってから、ふとあることに気づいたのだ。
イヴァニエも、ルカーシュカも、恐らく他の大天使達も、従者の子を連れて歩いていない…と。
思い返せば、ずっとずっと前からそうだった。
イヴァニエもルカーシュカも、行動する時はいつも一人で、彼らの離宮で過ごしている時ですら、従者の子達の姿を見たことは無かった。
記憶を掘り返せば、金髪赤眼の彼や、その背後に見えた大天使達も、個々に行動していたように思う。
だというのに、自分は朝から晩まで、ただ部屋の中で過ごしてる時ですらエルダに付いてもらい、安全だと分かっているフレールの庭にいる間も、片時も離れず側にいてもらうのが当たり前になっている。
もしやこの状態は、あまり良くないのではないだろうか───そんな焦りを混ぜたような疑問に、ある日突然ふと気づき、小さな不安の芽となっていた。
エルダと共に行動するのが嫌なのではない。むしろ、叶うならばずっと一緒にいたい。
だが今回のことのように、エルダが側を離れなければいけないことが、今後も増えるかもしれないし、なによりエルダにずっと頼りきり、甘えっぱなしでいるのはいけないはずだ。
皆のように、一人で行動するのが自然なことなのであれば、自分もそれに倣うべく、この機会に少しでも慣れよう…と、そう思ったのだ。
(部屋の外だけど、此処なら誰も来ないし…)
いきなり外の世界を一人で歩くのは無理だが、フレールの庭なら自室とも繋がっているし、エルダ達以外に入ってくる者もいない。
安全地帯でありながら、絶対的な安全空間である自室とは違う外の世界という程よい中間地点は、大天使となってから初めて一人で過ごす場所としては、最適な場所に思えた。
「ア、アドニス様……その、アドニス様をこの場に残してお側を離れるのは、まだ不安です。すぐに戻って参りますので、どうかお部屋でお待ち下さい」
悲壮感すら漂わせながら手を差し出すエルダを前に、そんなに心配させてしまうほど危ういのだろうか…と不安になるも、意気込んだ気合いは止まらず、握った拳に再び力を込めた。
「大丈夫、だよ。此処には、誰も来ないのでしょう?」
「……それは、そう…ですが…」
「…イヴや、ルカは、お外歩く時、従者の子を連れて歩いてないでしょう? 自分も、そうやって歩けるように、練習しなきゃ…!」
「ッ…!」
瞬間、ヒュッと息を呑むようなか細い音が聞こえた。
「……アドニス様は、そう…なさりたいのですか?」
「? …なさりたい、訳じゃないけど…ずっと、エルダに頼りっぱなしじゃ、ダメだから…、だから、今は一人で、お留守番頑張るよ…!」
今の自分は、一人になる時間がほとんど無い。
エルダがずっと側にいて、エルダがいない時はイヴァニエかルカーシュカが側にいて、それが当たり前になっている。
なんの不自由も不満もなく、いつだって満たされている状態はとても幸せで、目一杯の愛情を持って側にいてくれることも理解している。だが甘やかされてばかりいては、自立して行動することができなくなってしまいそうで、ほんの少しだけ怖いのだ。
(だから、エルダの用事がある間だけでも…!)
微々たる時間だろう。だが初めての挑戦と思えば、きっとちょうどいいはずだ。
よほど心配なのか、項垂れてしまったエルダの顔を覗き込み、下がってしまった手を握り締めると、安心させるように微笑んだ。
「心配しないで? エルダが戻ってくるまでだから…何かあっても、すぐ部屋まで戻れるでしょう?」
部屋へと繋がる、庭の片隅にあるガゼボに視線を向ければ、エルダも同じようにチラリとそちらに視線を流し、それからゆっくりと瞳を伏せた。
「……分かりました。その代わり、絶対にフレールの庭から出ないで下さい。何かあれば、すぐにお部屋まで戻って下さい。絶対ですよ?」
「うん」
「……本当に、大丈夫ですか?」
「うん。一人でも、お留守番できるよ」
「あぶぅ!」
「ぶぅーっ」
「あ…ちが…えっと…、みんなと一緒にお留守番してるから、大丈夫だよ…!」
魚を捕まえるのは諦めたのか、いつの間にか周りに集まっていた赤子達が「僕たちもいるよ!」と言わんばかりに声を上げ、ぷぅっと頬を膨らませたその顔に、慌てて言い直した。
「えっと、一人っていうのは…エルダ達がいなくてもっていう、意味で…」
皆のことを忘れてた訳じゃないよ、とあわあわしながら宥めている間に、エルダが口を開いた。
「……アドニス様、すぐに戻ってきますので、お部屋以外には絶対、どちらへも行かれないで下さいね?」
「うん、分かった」
「…プティ、私がお側を離れる間、アドニス様をお守りしてくれ」
「だぅ!」
「あぅあ~」
真剣な顔で告げるエルダの言葉に、赤子達は両手を上げたり、パチパチと手を叩いたりと、思い思いに張り切って返事を返していたが、自分だけがその盛り上がりから取り残されたように、皆の真ん中でポツンとしていた。
(…そんなに、不安…?)
安全地帯での留守番のはずなのだが…と思っていると、エルダがゆっくりと立ち上がり、握っていた片手がするりと解けた。
「…それでは、行って参ります、アドニス様」
「うん。いってらっしゃい、エルダ」
眉を下げながら、それでも微笑もうとしてくれるエルダは、いつにも増して儚げで、こちらの方が心配になってしまう。
「大丈夫だよ」という気持ちを込めて、笑顔で送り出せば、躊躇いを見せながらも翼を広げ、エルダの体は広い空へと舞い上がった。
「いってらっしゃい」
「ばっばぁ~」
「ばぁ~」
こちらを心配そうに見つめるエルダを見上げ、手を振れば、それを真似するように赤ん坊達もエルダに手を振った。
それを見てようやく安心したのか、ふっと表情を和らげると、バサリと翼を羽ばたかせ、エルダの姿はあっという間に見えなくなった。
その後を追うように、水の魚も空高く舞い上がり、フレールの庭にはいつもの静かな平穏が戻ってきた。
「…エルダが帰ってくるまで、お留守番だよ」
「あ~!」
「うぁう」
自分自身に言い聞かせるように皆に告げれば、元気な返事が返ってきた。その声に早くもホッとしている自分がいて、再度気合いを入れ直す。
(…大丈夫。ちょっとの間だけだから…)
自分で言い出したことなのに、エルダがいなくなった途端、急激な心細さと不安が押し寄せ、暖かな庭にいるはずなのに、ほんの少しだけ、気温が下がったように感じた。
(…大丈夫。みんなといるから、大丈夫)
寂しいのではない。
ただこうして一人で行動することが、皆にとっての普通なのだと思うと、少しばかり不安で、どうしてもドキドキしてしまうのだ。
「大丈夫」と自分に言い聞かせるように胸の内で唱えると、安心を求めて、赤子のふくふくとした頬を撫でた。
「待たせちゃって、ごめんね。ご飯、食べよっか?」
「んにゃ」
へにゃりと笑う赤ん坊の顔に、知らず緊張していた体からゆるりと力が抜ける。
愛らしいその笑顔に微笑みを返し、小さな果実を指先で摘むと、少しずつ、いつもと同じように動き始めた。
「美味しい?」
「ん~!」
エルダがフレールの庭を離れて暫く、ゆるりと氷が溶け出すように、少しずつだが余計な緊張は解け、気持ちは凪いでいった。
初めはどうなることかと思ったが、赤子達はエルダがいなくてもいつもと変わらぬ様子で、庭に流れる時間も穏やかで、だんだんと自分もその空気に馴染んでいった。
(大丈夫そう…かも)
まったく不安がない訳ではないが、それでも平常心でいられることに、ホッと安堵の溜め息を吐いた。
久方ぶりに赤子達だけと過ごす時間も楽しく、懐かしい思い出が蘇るような愛しさに、気づけば自然と笑っていた。
(エルダが帰ってきたら、大丈夫だったよって、言えそう)
赤ん坊達と一緒なので、完全な一人とは言えないが、それでもエルダもイヴァニエも、ルカーシュカもいなくても、部屋の外で過ごせる自分に「ふへ」と訳もなく口元が緩んだ。
今までの自分より、ほんのちょっとだけ、成長したかもしれない───それが嬉しくて、ソワソワと胸が小さく踊った。
「うー?」
「…ふふ、なんでもないよ」
「どうしたの?」と言うように、こちらを見上げる赤子の頬をふにふにと突けば、きゃらきゃらとした笑い声が返ってくる。笑い声と共にほんわかと広がる暖かな空気に身を委ねていると、別の赤子がコテリと首を傾げた。
「うーぁ?」
「…そうだね。エルダ遅いね」
その疑問に、同じように首を傾げる。
どれほど時間が過ぎたのかは定かではないが、思えばエルダの帰りが思ったよりも遅いように感じた。
とはいえ、手の中の器には果実もまだ半分弱残っており、そこまで長い時間が経った訳ではないと思うのだが…と、暢気に考えている時だった。
ザッ…と静かに大地を踏み締めるような音が聞こえ、パッと顔を上げた。
ああ、エルダのことを考えていたら、帰ってきた───嬉しい偶然に頬を綻ばせながら、緩んだ気のまま、反射的に音のした方へと視線を向けた。
「うわー、ほんとにいる」
───瞬間、穏やか庭に響いた知らない声と、エルダではない『誰か』の姿が視界に映り、心臓がドクンッと痛いほど大きく跳ねた。
空の青さに溶け込むようなその色に目を奪われながら、すべるように羽ばたく姿を見つめていると、その背後からキラリ、キラリと煌めきながら、共に飛んでくる何かが見え、目を凝らした。
「…? あ……わぁ…!」
ざぁ…と風を切るような音を纏いながら、周囲をぐるりと囲むように泳ぐ透き通った魚の群れ。
命の湖へと向かう途中で見た不思議な光景が、再び目の前に広がり、透明に輝く鱗の美しさに見惚れた。
「ぶあっ、あぶあー!」
「きゃあ~っ」
空中を泳ぐ水の魚の突然の出現に、赤ん坊達は目を輝かせ、きゃあきゃあと笑いながら、魚を捕まえようと追い回し始めた。
「んあ~!」
「ぷあっ、あ!」
「あ……つ、捕まえちゃ…」
(だ、大丈夫なのかな…?)
陽の光を反射してキラキラ光るその身は、どう見ても水だ。果たして触れても大丈夫なのか、ハラハラしながらその様子を見守るも、魚はひらり、ひらりと赤子の手をすり抜け、流れるように優雅に泳ぎ続けた。
(…大丈夫かな?)
水の魚と赤子達が入り乱れて飛ぶ庭は、途端に賑やかになり、キャッキャッとはしゃぐ声が木霊した。
その様子を微笑ましく眺めていると、傍らで「ピピッ」と鳴く小鳥の囀りが聞こえ、そちらに顔を向けた。
「…エルダ?」
いつの間にか立ち上がっていたエルダの指先には、先ほどの青い小鳥が止まっていた。魚と赤ん坊達の追いかけっこに気を取られ、小鳥がエルダの元に降り立っていたことに気づかなかった。
(……何か、あったのかな?)
愛らしい手の平サイズの小鳥を睨むように見つめるエルダは明らかに不機嫌で、初めて見たその表情に、反射的に上がった片手がオロオロと彷徨った。
「エルダ…? どうしたの…?」
顔が怖いよ…とは流石に言えなかったが、用が済んだのか、細い指先から飛び立った小鳥とそれを見送るエルダを交互に見つめ、声を掛けた。
「エルダ…?」
「……バルドル様から、お呼び出しがありました」
「!」
珍しくボソボソと小声で話すエルダは新鮮で、それだけで「おぉ…」とよく分からない感心を覚えたが、その内容にパチリと目を瞬いた。
「どうしたんだろうね? いつもはもっと、遅い時間なのに…」
エルダ曰く、自分の日々の活動に関しては定期的にバルドル神に報告が必要らしく、その為にエルダは呼び出されているのだそうだ。
本来なら、自分の足でバルドル神の元まで向かわなければいけないのだが、まだ部屋の外を気兼ねなく歩くことは難しく、エルダが代役を務めてくれていた。
予め日取りが決まっているのか、いつもは夕暮れ時に「バルドル様の元へ行って参ります」と言って出かけるエルダを見送るのが常であり、呼び出されることなどなかったのだが…
(急な用事でも、できちゃったのかな…?)
そうでなければ、わざわざ呼び出したりしないだろう…と考えている横で、エルダの細い溜め息が聞こえた。
「申し訳ございません、アドニス様。お務めの途中ですが、一旦お部屋に戻りましょう。バルドル様の御用事が終わりましたら、すぐに戻って参りますので…」
「ん……、…!」
申し訳なさそうに眉を下げたエルダが傍らに膝をつき、片手を差し出す。
ああ、そうか…エルダがいないから、部屋に戻らなければいけないのか───ぽんやりと浮かんだ考えに、はたとあることを思い付き、ハッとする。
両手を握り締め、グッと気合いを入れると、エルダに向き合った。
「あの、大丈夫だよ…! エルダが戻ってくるまで、一人でお留守番してる…!」
「……え…?」
突然の宣言に呆気に取られたのか、ポカンとした表情のエルダを見つめ返しながら、「うん」と頷く。
(一人で歩けるようになる為の、練習だ…!)
イヴァニエやルカーシュカの部屋へと遊びに行くようになってから、ふとあることに気づいたのだ。
イヴァニエも、ルカーシュカも、恐らく他の大天使達も、従者の子を連れて歩いていない…と。
思い返せば、ずっとずっと前からそうだった。
イヴァニエもルカーシュカも、行動する時はいつも一人で、彼らの離宮で過ごしている時ですら、従者の子達の姿を見たことは無かった。
記憶を掘り返せば、金髪赤眼の彼や、その背後に見えた大天使達も、個々に行動していたように思う。
だというのに、自分は朝から晩まで、ただ部屋の中で過ごしてる時ですらエルダに付いてもらい、安全だと分かっているフレールの庭にいる間も、片時も離れず側にいてもらうのが当たり前になっている。
もしやこの状態は、あまり良くないのではないだろうか───そんな焦りを混ぜたような疑問に、ある日突然ふと気づき、小さな不安の芽となっていた。
エルダと共に行動するのが嫌なのではない。むしろ、叶うならばずっと一緒にいたい。
だが今回のことのように、エルダが側を離れなければいけないことが、今後も増えるかもしれないし、なによりエルダにずっと頼りきり、甘えっぱなしでいるのはいけないはずだ。
皆のように、一人で行動するのが自然なことなのであれば、自分もそれに倣うべく、この機会に少しでも慣れよう…と、そう思ったのだ。
(部屋の外だけど、此処なら誰も来ないし…)
いきなり外の世界を一人で歩くのは無理だが、フレールの庭なら自室とも繋がっているし、エルダ達以外に入ってくる者もいない。
安全地帯でありながら、絶対的な安全空間である自室とは違う外の世界という程よい中間地点は、大天使となってから初めて一人で過ごす場所としては、最適な場所に思えた。
「ア、アドニス様……その、アドニス様をこの場に残してお側を離れるのは、まだ不安です。すぐに戻って参りますので、どうかお部屋でお待ち下さい」
悲壮感すら漂わせながら手を差し出すエルダを前に、そんなに心配させてしまうほど危ういのだろうか…と不安になるも、意気込んだ気合いは止まらず、握った拳に再び力を込めた。
「大丈夫、だよ。此処には、誰も来ないのでしょう?」
「……それは、そう…ですが…」
「…イヴや、ルカは、お外歩く時、従者の子を連れて歩いてないでしょう? 自分も、そうやって歩けるように、練習しなきゃ…!」
「ッ…!」
瞬間、ヒュッと息を呑むようなか細い音が聞こえた。
「……アドニス様は、そう…なさりたいのですか?」
「? …なさりたい、訳じゃないけど…ずっと、エルダに頼りっぱなしじゃ、ダメだから…、だから、今は一人で、お留守番頑張るよ…!」
今の自分は、一人になる時間がほとんど無い。
エルダがずっと側にいて、エルダがいない時はイヴァニエかルカーシュカが側にいて、それが当たり前になっている。
なんの不自由も不満もなく、いつだって満たされている状態はとても幸せで、目一杯の愛情を持って側にいてくれることも理解している。だが甘やかされてばかりいては、自立して行動することができなくなってしまいそうで、ほんの少しだけ怖いのだ。
(だから、エルダの用事がある間だけでも…!)
微々たる時間だろう。だが初めての挑戦と思えば、きっとちょうどいいはずだ。
よほど心配なのか、項垂れてしまったエルダの顔を覗き込み、下がってしまった手を握り締めると、安心させるように微笑んだ。
「心配しないで? エルダが戻ってくるまでだから…何かあっても、すぐ部屋まで戻れるでしょう?」
部屋へと繋がる、庭の片隅にあるガゼボに視線を向ければ、エルダも同じようにチラリとそちらに視線を流し、それからゆっくりと瞳を伏せた。
「……分かりました。その代わり、絶対にフレールの庭から出ないで下さい。何かあれば、すぐにお部屋まで戻って下さい。絶対ですよ?」
「うん」
「……本当に、大丈夫ですか?」
「うん。一人でも、お留守番できるよ」
「あぶぅ!」
「ぶぅーっ」
「あ…ちが…えっと…、みんなと一緒にお留守番してるから、大丈夫だよ…!」
魚を捕まえるのは諦めたのか、いつの間にか周りに集まっていた赤子達が「僕たちもいるよ!」と言わんばかりに声を上げ、ぷぅっと頬を膨らませたその顔に、慌てて言い直した。
「えっと、一人っていうのは…エルダ達がいなくてもっていう、意味で…」
皆のことを忘れてた訳じゃないよ、とあわあわしながら宥めている間に、エルダが口を開いた。
「……アドニス様、すぐに戻ってきますので、お部屋以外には絶対、どちらへも行かれないで下さいね?」
「うん、分かった」
「…プティ、私がお側を離れる間、アドニス様をお守りしてくれ」
「だぅ!」
「あぅあ~」
真剣な顔で告げるエルダの言葉に、赤子達は両手を上げたり、パチパチと手を叩いたりと、思い思いに張り切って返事を返していたが、自分だけがその盛り上がりから取り残されたように、皆の真ん中でポツンとしていた。
(…そんなに、不安…?)
安全地帯での留守番のはずなのだが…と思っていると、エルダがゆっくりと立ち上がり、握っていた片手がするりと解けた。
「…それでは、行って参ります、アドニス様」
「うん。いってらっしゃい、エルダ」
眉を下げながら、それでも微笑もうとしてくれるエルダは、いつにも増して儚げで、こちらの方が心配になってしまう。
「大丈夫だよ」という気持ちを込めて、笑顔で送り出せば、躊躇いを見せながらも翼を広げ、エルダの体は広い空へと舞い上がった。
「いってらっしゃい」
「ばっばぁ~」
「ばぁ~」
こちらを心配そうに見つめるエルダを見上げ、手を振れば、それを真似するように赤ん坊達もエルダに手を振った。
それを見てようやく安心したのか、ふっと表情を和らげると、バサリと翼を羽ばたかせ、エルダの姿はあっという間に見えなくなった。
その後を追うように、水の魚も空高く舞い上がり、フレールの庭にはいつもの静かな平穏が戻ってきた。
「…エルダが帰ってくるまで、お留守番だよ」
「あ~!」
「うぁう」
自分自身に言い聞かせるように皆に告げれば、元気な返事が返ってきた。その声に早くもホッとしている自分がいて、再度気合いを入れ直す。
(…大丈夫。ちょっとの間だけだから…)
自分で言い出したことなのに、エルダがいなくなった途端、急激な心細さと不安が押し寄せ、暖かな庭にいるはずなのに、ほんの少しだけ、気温が下がったように感じた。
(…大丈夫。みんなといるから、大丈夫)
寂しいのではない。
ただこうして一人で行動することが、皆にとっての普通なのだと思うと、少しばかり不安で、どうしてもドキドキしてしまうのだ。
「大丈夫」と自分に言い聞かせるように胸の内で唱えると、安心を求めて、赤子のふくふくとした頬を撫でた。
「待たせちゃって、ごめんね。ご飯、食べよっか?」
「んにゃ」
へにゃりと笑う赤ん坊の顔に、知らず緊張していた体からゆるりと力が抜ける。
愛らしいその笑顔に微笑みを返し、小さな果実を指先で摘むと、少しずつ、いつもと同じように動き始めた。
「美味しい?」
「ん~!」
エルダがフレールの庭を離れて暫く、ゆるりと氷が溶け出すように、少しずつだが余計な緊張は解け、気持ちは凪いでいった。
初めはどうなることかと思ったが、赤子達はエルダがいなくてもいつもと変わらぬ様子で、庭に流れる時間も穏やかで、だんだんと自分もその空気に馴染んでいった。
(大丈夫そう…かも)
まったく不安がない訳ではないが、それでも平常心でいられることに、ホッと安堵の溜め息を吐いた。
久方ぶりに赤子達だけと過ごす時間も楽しく、懐かしい思い出が蘇るような愛しさに、気づけば自然と笑っていた。
(エルダが帰ってきたら、大丈夫だったよって、言えそう)
赤ん坊達と一緒なので、完全な一人とは言えないが、それでもエルダもイヴァニエも、ルカーシュカもいなくても、部屋の外で過ごせる自分に「ふへ」と訳もなく口元が緩んだ。
今までの自分より、ほんのちょっとだけ、成長したかもしれない───それが嬉しくて、ソワソワと胸が小さく踊った。
「うー?」
「…ふふ、なんでもないよ」
「どうしたの?」と言うように、こちらを見上げる赤子の頬をふにふにと突けば、きゃらきゃらとした笑い声が返ってくる。笑い声と共にほんわかと広がる暖かな空気に身を委ねていると、別の赤子がコテリと首を傾げた。
「うーぁ?」
「…そうだね。エルダ遅いね」
その疑問に、同じように首を傾げる。
どれほど時間が過ぎたのかは定かではないが、思えばエルダの帰りが思ったよりも遅いように感じた。
とはいえ、手の中の器には果実もまだ半分弱残っており、そこまで長い時間が経った訳ではないと思うのだが…と、暢気に考えている時だった。
ザッ…と静かに大地を踏み締めるような音が聞こえ、パッと顔を上げた。
ああ、エルダのことを考えていたら、帰ってきた───嬉しい偶然に頬を綻ばせながら、緩んだ気のまま、反射的に音のした方へと視線を向けた。
「うわー、ほんとにいる」
───瞬間、穏やか庭に響いた知らない声と、エルダではない『誰か』の姿が視界に映り、心臓がドクンッと痛いほど大きく跳ねた。
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