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プティ・フレールの愛し子
89.三様の蜜巴 side:イヴァニエ
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「アニー、一緒に頑張りましょうね」
「うん」
アドニスの部屋に結界を張る為、二人きりで残った部屋の中、どこかやる気に満ちたアドニスの表情に、ふっと頬が緩んだ。
結界を張ることは出来ずとも、自分にできることをしたい───そんな願いを叶える為、『手伝い』という名目で、アドニスから聖気を譲渡してもらうことになったのだ。
アドニスの両手で包み込むように握り締められた手。そこから伝わる温もりは、体温とは異なる熱を含んでいた。
(…分かっていても、なんの反発も無いというのは不思議ですね)
アドニスの聖気が、特別な色をしているのは知っている。だが自分が譲渡される側となり、スルスルと溶け込むように聖気が混じり合う感覚を味わうと、より一層アドニスの有する聖気の特異さが際立った。
暖かな陽の光を全身に浴びているような温もりが、指の先からじんわりと広がっていく。
純真無垢な性格がそのまま溶け出したような気持ち良さは、まるでアドニスの一部が自分の中で混じり合って一つになったようで、胸が踊った。
真剣な表情でぎゅうぎゅうと手を握る姿は、一生懸命という言葉がぴったりで、溢れる愛しさに目を細める。
(もっと感じていたいですが…そういう訳にはいきませんね)
ただでさえ少ないアドニスの聖気を必要以上に消費させる訳にはいかない。貰いすぎないように、それでいてアドニスが『手伝った』と思える程度の量が流れたと思ったところで、惜しみつつも止めさせた。
アドニスの聖気を混ぜるように結界の膜を空気中に飛ばせば、金色の光が部屋全体にふわりと広がり、粒子がキラキラと降り注いだ。
その光景を瞳を輝かせて眺める横顔が可愛らしくて、思わずその身を抱き寄せれば、飛ばした光と同じ金色の瞳がこちらを見つめた。
「…イヴ?」
「聖気を失った分、アニーはご飯を食べないといけませんからね」
パチリと目を瞬く顔はあどけなく、安心しきっているからこその無防備な様子に笑みが零れる。
無防備でいてくれることへの喜びと同時に抱くのは、もっと自分を意識してほしいという欲求で───片手は自然とテーブルの上の果実へと伸びていた。
「頑張りましたね、アニー」
「……ぅん」
分け合った果実をようやく食べ終え、顔を真っ赤にして目を逸らすアドニスに、満足感が胸を満たす。
手を繋ぐのは素直に喜ぶのに対し、少しでも触れ合いが深くなると途端に恥ずかしがり、頬を染める初な様子が可愛くて仕方なかった。かと思えば、ぴたりと体を密着し、間近で見つめ合っていても、ぽやんとしているのだから、アドニスの恥ずかしがるポイントはなかなかに読めない。
(そこも可愛らしいのですけれどね)
愛らしい存在を独占できるこの時間は、正に至福だった。
限られた時間の中で短い逢瀬を味わうように、アドニスを独り占めしている喜びを伝えれば、僅かに目を見開いた後、黄金色の瞳がふにゃりと蕩けた。
「じゃあ…私も、イヴを独り占めだ」
アドニスが嬉しそうに微笑んだ瞬間に湧き上がった感情は、言葉にし難いほどの喜色に満ちていて、胸がいっぱいになるような苦しさから、一瞬声を失うほどだった。
(ああ、本当になんて…!)
可愛らしい生き物だろう───!
きっと自分の胸の内に渦巻く激情など、この子には半分も伝わっていない。それを寂しいと思わないのは、少なからず、自分の愛情の重みを自覚しているからだろう。
同じ熱量を望んでいる訳ではない。無自覚だろうと、少しでも同じような情を向けてくれるだけで嬉しくて、ただ欲張りすぎて怖がらせてしまうのが怖くて、昂る感情は無理やり鎮めた。
(好意は伝わっているはずなんですけどね…)
言葉で、行動で、たくさん伝えてきた。
アドニスに対する『好き』という気持ちは伝わっているはずだが、それが恋愛感情として伝わっているかどうかが定かではないのが、なんとももどかしかった。
「愛してる」と言葉にできたなら…そう思うが、アドニスが自分の感情を自覚できるようになるまで、こちらの好意を告げるのはやめよう、とルカーシュカと決めたのだ。
恋愛感情というものを理解しているのかすら怪しい相手に、こちらの『好き』ばかり伝えて判断力を鈍らせてはいけない、アドニスの成長を思えばこそ、今は待つべきだ…そう言われてしまっては、否とは言えない。
自分よりもルカーシュカの方が冷静に状況を把握していて、彼の言いたいことが分かるだけに納得せざるを得なかった。
アドニスが自分で好意を自覚し、それを口にできるようになるまで見守る───とはいえ、自分もルカーシュカも、直接的な言葉にしないだけで、態度と行動で気持ちは目一杯伝えてきた。
アドニスから好意を向けられている自覚はあるのだ。あとはキッカケだけ…そう思うのだが、なかなかその一言が聞けず、歯痒さが募った。
(アニーの『独り占め』が、私と同じ感情とは限らないんですよね…)
寂しさとも切なさとも違うもどかしさ。噛み合っているのかどうかすら分からない想いに眉を下げれば、アドニスの表情が途端に曇った。
「お…おんなじじゃ、ないの…?」
「…同じ、ですか?」
「だ、だって……その…」
「す…好き、だから…、独り占め、…嬉しいって、思った、よ…?」
モゴモゴと口籠もりながら、振り絞るように発せられた声に、ドクリと心臓が跳ね、息を呑む。
「ち、違うなら…ごめんなさい…、でも…あの…自分は、イヴのこと…す、好き、だから…独り占めも、嬉しいって…思った、よ…」
好きだから───必死に言葉を紡ぐアドニスは耳まで赤くて、今にも泣き出しそうな顔でぴるぴると震えている様は信じられないくらい可愛くて、我慢していた感情がぶわりと溢れ出し、何かがプツンと切れた。
既の所で手放さずに済んだ理性だが、気づけばアドニスの体を押し倒していて、ここが自分の我慢の限界だと悟る。
(…アニーから、好きと言ってくれたのですから、もういいですよね?)
こんなに愛らしい告白をされて、これ以上何を望めというのか。
ここにはいないルカーシュカに同意を求めるように、少しだけ冷静になった頭で浅く息を吐き出すと、ポカンとした表情でこちらを見上げるアドニスを見つめた。
(ああ…可愛い私のアニー…)
ようやく、あなたと同じ感情で繋がれる───あとほんの少しで訪れる未来が堪らなく嬉しくて、全身が歓喜に満ち溢れた。
「お前はもう少し落ち着いて、余裕を持って恋愛を楽しむ性格だと思ってたんだがな」
宮廷の回廊を歩きながら、眉根に皺を寄せ、大きく息を吐くルカーシュカにジロリと睨まれ、ツイと視線を逸らす。
アドニスがフォルセの果実としての務めを担うようになって一週間。
互いの部屋を繋げ、自由に行き来できる為の転移扉を設置したにも関わらず、一向に遊びに来てくれる気配のないアドニスに痺れを切らし、半強制的に一週間の過ごし方について話し合ったのはつい先ほどのことだ。
話し合いというより、半ば強引に決めてしまったのだが、そうでもしないとアドニス自身が動けなかったので仕方ない。合意の上での強制だ。
「残念ながら、とても嫉妬深いので余裕は全くありませんね。知りませんでした」
「そうか。俺はここ最近で嫌というほど思い知ったぞ」
「ついでに独占欲も強いみたいです」
「俺相手に他人事みたいに言うな」
「そういうあなたは、もっと色恋に対して淡白なのかと思ってましたよ」
「そうだな。それは俺も知らなかったよ」
軽口を交わしながら歩を進める。
つい先ほどまでアドニスの部屋にいたのだが、話がまとまったと思ったところでエルダが不安定になってしまい、自分とルカーシュカは席を外すしかなかったのだ。
「離れたくない気持ちは分かりますけどね…しかし、あの子は本当にアニーが大好きですね」
「エルダもお前に言われるとは思ってないだろうよ」
「おや、嫉妬深い自覚はありますが、事実を事実として把握するだけの余裕はありますよ。私達の関係が平等であることも理解しています」
いくらアドニスを愛していても、己一人で独占できないことは分かっている。
アドニスがエルダとルカーシュカに好意を向けていたのは、ずっと前から分かっていたことで、それと同じ愛情を自分にも向けてくれるのなら、それ以上を望むのは過ぎた願いだと理解していた。
最低限の分別はつくし、ある程度の気持ちの割り切り方も身につけている。ただそうやって自分のことが分かる分、まだ年若く、アドニスに深く傾倒しているエルダのことが心配だった。
「…エルダは、アニーがいなくて大丈夫でしょうか」
元々のエルダは、驚くほど感情の起伏がない子だった。あらゆるものへの関心が薄く、無表情、無関心故に他者との関わりがほとんど無かったように思う。
それがアドニスに仕えるようになってからは、表情が豊かになり、柔らかく微笑むようになった。
アドニスへの恋慕の情から、感情豊かになったのだろうと微笑ましく思っていたのだが、どうにもアドニス以外に対しては相変わらずのようで、側にいる時間が長い分、余計に不安が募った。
(もう私の従者ではありませんが…)
それでも長く自分に仕えてくれていた子だ。いきなり同格の者として接するのは難しく、どうしても保護者のような気持ちになってしまう。
「俺も気になるしな。明後日はエルダの所に顔を出そう。気晴らしくらいにはなるだろう」
「ええ、お願いします」
アドニスと二人きりで過ごす時間は譲れないが、元主として、多少のお節介を焼くくらいなら許されるだろう…そんなことを考えながら、宮廷を後にした。
そうして迎えた水の日は、高揚する気持ちを抑えられず、朝から意味もなく部屋の中を歩き回っていた。
従者達には休みを与えたので、宮の中には誰もいない。己の領域で、誰に邪魔をされることもなく、正真正銘、アドニスと二人きりになれる───いつもは抑えている独占欲が、抑圧を押し上げるように顔を出し、愛しい存在を求める気持ちはどんどん膨らんでいった。
(…こんな風に誰かを愛するのは、初めてですね)
今までも、恋仲の関係になった者はいた。その者への愛情が無かった訳ではないし、穏やかな愛情を持って接していたと思う。
だがアドニスに対するような鮮烈な激情も、熱狂的な愛情も、常に触れていたいと思うような貪欲な飢えも、愛しくて愛しくて堪らないという感情を抱いたことは無かった。
ルカーシュカに言った通り、こんなにも重苦しい面が自分の中にあったとは知らなかったのだ。
(…でも、嫌ではない)
この情を向けられるアニーは大変でしょうけれど───思わず他人事のように思ってしまうほど、客観的に見た時の自分の欲は際限がなく、呆れ混じりの笑いが漏れた。
ソワソワとしながら待つこと暫く、アドニスの来訪を告げる鐘が鳴り、すぐに出迎えたい気持ちをグッと堪えると、物陰から扉が開く様子を窺った。
アドニスが一人でもちゃんと部屋の中まで入ってこれた姿に成長を感じ、感動するのと同時に、泣きそうな顔で必死に私の名を呼び、落ち着かない様子でちょこんと立っている愛らしさに胸が震えた。
(…こういうことをしているから、意地悪だと思われるんでしょうね)
そう思っても、可愛いと思う気持ちは止められない。
もはやそういう性なのだろう、と受け入れながら、寝室から出て行こうとするアドニスを背後から抱き締めると、愛しい者の名を呼んだ。
それまでずっと我慢していた分、アドニスを独り占めできる時間は、ただひたすらに幸せだった。
驚かそうと思って見せた白鯨で、泣き出すほど怖がらせてしまった時は血の気が引いたが、アドニスから抱きついてきてくれたことに喜んでしまったのもまた事実だった。
「怖い、怖い」と震えながら、ぎゅうぎゅうと抱きつく姿は愛らしく、縋りついて頼ってくれる優越感のような快感に、ゾクリとしたものが背筋を駆け抜けた。
仔猫が鳴くように、ふにゃふにゃと泣きながら必死に水槽から逃げようとする姿は可愛らしく、もっと眺めていたかったが、可哀想なことはしたくない。
しがみつくアドニスの背に自身の羽織りを被せると、全身を隠すように包み込み、そのまま震える体を抱き締めた。
途端に強張っていた体から力が抜け、濡れた瞳でこちらを見上げるアドニスを安心させるように笑いかければ、甘えるように胸元に頬を擦り寄せてきた。
(本当に…! どうしてこんなに可愛らしいんでしょう…!)
自分とアドニス以外誰もいない空間で、静かに抱き合っているだけだったが、胸の内は大変な騒ぎだった。
背中に回された手も、胸に当たる熱い吐息も、ほんのりと薫る甘いミルクのような香りも、全部が自分の腕の中にあることに、支配欲にも似た幸福感が胸を満たした。
(可愛いアニー…)
愛しさが増していくほどに、自分だけの愛しい人であってほしいという気持ちも膨らんでいく。
それが許されないことだとは分かっているが、ならばせめて、此処にいる間だけ、自分の領域である離宮にいる間だけでも、『私のアニー』になってほしいと願わずにはいられなかった。
それは水槽に映っているだけの鯨にすら嫉妬するほどで、ムクムクと湧き上がった独占欲は、焦がれた想いとなって溢れ出た。
(…性急すぎましたかね)
アドニスにとって初めての性体験を終え、初めての経験による疲労からか、コトリと眠ってしまった横顔に、そっと唇を落とす。
幸い、行為そのものを嫌がる素振りもなく、肉体的にもきちんと反応してくれたことに安堵と喜びが広がった。と同時に、性欲に負けなかった自分を褒めた。
「何もかも可愛いなんてこと、あるんですね…」
記憶に刻みつけた愛らしい姿を思い出し、感嘆の溜め息と共に、ポツリと呟きが零れた。
ほんの少しの愛撫にさえ体はビクつき、赤く染まっていった肌。
なにをされても気持ち良いと言わんばかりに、ひっきりなしに零れていた喘ぎ声は、扇状的ながらも幼な子を辱めているようで、その倒錯感にクラクラと脳は揺れ、体を交えた後のような心地良い疲労感が残っていた。
無垢だからこその直接的な言葉遣いが可愛くて、無知だからこそなんでも受け入れようとする危うさが可愛くて、性を含んだ行為を恥ずかしがるのに好意のまま求めてくれる姿が可愛くて───アドニスを象るすべてが可愛くて愛しくて、どこか狂ってるのではないかと思うくらい「愛しい、愛しい」という感情が湧き続けた。
「…愛しています。可愛い可愛い、私のアニー」
二人きりの離宮で過ごすこの時間だけは、自分だけの愛しい人だ。
それを実感するように、腕の中で眠る幸福を抱き締めれば、久しく感じていなかったドロリとした感情が滲んだ。
ああ、叶うならばこのままずっと、この宮に閉じ込めておきたいのに───目も当てられない本音と欲に蓋をすると、大きく息を吐き出し、瞳を伏せた。
(……嫌われたくはありませんからね)
湧いた考えを振り払うように、眠るアドニスの体を抱き上げると、生々しく残る情事の痕と酷く濁った欲望を流す為、浴室へと向かった。
離宮の奥のそのまた奥。
箱型の天蓋で囲われた寝台の中、揃いの夜着に身を包んだアドニスを隠すと、その身を抱き締め、満ちる愛しさを胸に瞳を閉じた。
「うん」
アドニスの部屋に結界を張る為、二人きりで残った部屋の中、どこかやる気に満ちたアドニスの表情に、ふっと頬が緩んだ。
結界を張ることは出来ずとも、自分にできることをしたい───そんな願いを叶える為、『手伝い』という名目で、アドニスから聖気を譲渡してもらうことになったのだ。
アドニスの両手で包み込むように握り締められた手。そこから伝わる温もりは、体温とは異なる熱を含んでいた。
(…分かっていても、なんの反発も無いというのは不思議ですね)
アドニスの聖気が、特別な色をしているのは知っている。だが自分が譲渡される側となり、スルスルと溶け込むように聖気が混じり合う感覚を味わうと、より一層アドニスの有する聖気の特異さが際立った。
暖かな陽の光を全身に浴びているような温もりが、指の先からじんわりと広がっていく。
純真無垢な性格がそのまま溶け出したような気持ち良さは、まるでアドニスの一部が自分の中で混じり合って一つになったようで、胸が踊った。
真剣な表情でぎゅうぎゅうと手を握る姿は、一生懸命という言葉がぴったりで、溢れる愛しさに目を細める。
(もっと感じていたいですが…そういう訳にはいきませんね)
ただでさえ少ないアドニスの聖気を必要以上に消費させる訳にはいかない。貰いすぎないように、それでいてアドニスが『手伝った』と思える程度の量が流れたと思ったところで、惜しみつつも止めさせた。
アドニスの聖気を混ぜるように結界の膜を空気中に飛ばせば、金色の光が部屋全体にふわりと広がり、粒子がキラキラと降り注いだ。
その光景を瞳を輝かせて眺める横顔が可愛らしくて、思わずその身を抱き寄せれば、飛ばした光と同じ金色の瞳がこちらを見つめた。
「…イヴ?」
「聖気を失った分、アニーはご飯を食べないといけませんからね」
パチリと目を瞬く顔はあどけなく、安心しきっているからこその無防備な様子に笑みが零れる。
無防備でいてくれることへの喜びと同時に抱くのは、もっと自分を意識してほしいという欲求で───片手は自然とテーブルの上の果実へと伸びていた。
「頑張りましたね、アニー」
「……ぅん」
分け合った果実をようやく食べ終え、顔を真っ赤にして目を逸らすアドニスに、満足感が胸を満たす。
手を繋ぐのは素直に喜ぶのに対し、少しでも触れ合いが深くなると途端に恥ずかしがり、頬を染める初な様子が可愛くて仕方なかった。かと思えば、ぴたりと体を密着し、間近で見つめ合っていても、ぽやんとしているのだから、アドニスの恥ずかしがるポイントはなかなかに読めない。
(そこも可愛らしいのですけれどね)
愛らしい存在を独占できるこの時間は、正に至福だった。
限られた時間の中で短い逢瀬を味わうように、アドニスを独り占めしている喜びを伝えれば、僅かに目を見開いた後、黄金色の瞳がふにゃりと蕩けた。
「じゃあ…私も、イヴを独り占めだ」
アドニスが嬉しそうに微笑んだ瞬間に湧き上がった感情は、言葉にし難いほどの喜色に満ちていて、胸がいっぱいになるような苦しさから、一瞬声を失うほどだった。
(ああ、本当になんて…!)
可愛らしい生き物だろう───!
きっと自分の胸の内に渦巻く激情など、この子には半分も伝わっていない。それを寂しいと思わないのは、少なからず、自分の愛情の重みを自覚しているからだろう。
同じ熱量を望んでいる訳ではない。無自覚だろうと、少しでも同じような情を向けてくれるだけで嬉しくて、ただ欲張りすぎて怖がらせてしまうのが怖くて、昂る感情は無理やり鎮めた。
(好意は伝わっているはずなんですけどね…)
言葉で、行動で、たくさん伝えてきた。
アドニスに対する『好き』という気持ちは伝わっているはずだが、それが恋愛感情として伝わっているかどうかが定かではないのが、なんとももどかしかった。
「愛してる」と言葉にできたなら…そう思うが、アドニスが自分の感情を自覚できるようになるまで、こちらの好意を告げるのはやめよう、とルカーシュカと決めたのだ。
恋愛感情というものを理解しているのかすら怪しい相手に、こちらの『好き』ばかり伝えて判断力を鈍らせてはいけない、アドニスの成長を思えばこそ、今は待つべきだ…そう言われてしまっては、否とは言えない。
自分よりもルカーシュカの方が冷静に状況を把握していて、彼の言いたいことが分かるだけに納得せざるを得なかった。
アドニスが自分で好意を自覚し、それを口にできるようになるまで見守る───とはいえ、自分もルカーシュカも、直接的な言葉にしないだけで、態度と行動で気持ちは目一杯伝えてきた。
アドニスから好意を向けられている自覚はあるのだ。あとはキッカケだけ…そう思うのだが、なかなかその一言が聞けず、歯痒さが募った。
(アニーの『独り占め』が、私と同じ感情とは限らないんですよね…)
寂しさとも切なさとも違うもどかしさ。噛み合っているのかどうかすら分からない想いに眉を下げれば、アドニスの表情が途端に曇った。
「お…おんなじじゃ、ないの…?」
「…同じ、ですか?」
「だ、だって……その…」
「す…好き、だから…、独り占め、…嬉しいって、思った、よ…?」
モゴモゴと口籠もりながら、振り絞るように発せられた声に、ドクリと心臓が跳ね、息を呑む。
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好きだから───必死に言葉を紡ぐアドニスは耳まで赤くて、今にも泣き出しそうな顔でぴるぴると震えている様は信じられないくらい可愛くて、我慢していた感情がぶわりと溢れ出し、何かがプツンと切れた。
既の所で手放さずに済んだ理性だが、気づけばアドニスの体を押し倒していて、ここが自分の我慢の限界だと悟る。
(…アニーから、好きと言ってくれたのですから、もういいですよね?)
こんなに愛らしい告白をされて、これ以上何を望めというのか。
ここにはいないルカーシュカに同意を求めるように、少しだけ冷静になった頭で浅く息を吐き出すと、ポカンとした表情でこちらを見上げるアドニスを見つめた。
(ああ…可愛い私のアニー…)
ようやく、あなたと同じ感情で繋がれる───あとほんの少しで訪れる未来が堪らなく嬉しくて、全身が歓喜に満ち溢れた。
「お前はもう少し落ち着いて、余裕を持って恋愛を楽しむ性格だと思ってたんだがな」
宮廷の回廊を歩きながら、眉根に皺を寄せ、大きく息を吐くルカーシュカにジロリと睨まれ、ツイと視線を逸らす。
アドニスがフォルセの果実としての務めを担うようになって一週間。
互いの部屋を繋げ、自由に行き来できる為の転移扉を設置したにも関わらず、一向に遊びに来てくれる気配のないアドニスに痺れを切らし、半強制的に一週間の過ごし方について話し合ったのはつい先ほどのことだ。
話し合いというより、半ば強引に決めてしまったのだが、そうでもしないとアドニス自身が動けなかったので仕方ない。合意の上での強制だ。
「残念ながら、とても嫉妬深いので余裕は全くありませんね。知りませんでした」
「そうか。俺はここ最近で嫌というほど思い知ったぞ」
「ついでに独占欲も強いみたいです」
「俺相手に他人事みたいに言うな」
「そういうあなたは、もっと色恋に対して淡白なのかと思ってましたよ」
「そうだな。それは俺も知らなかったよ」
軽口を交わしながら歩を進める。
つい先ほどまでアドニスの部屋にいたのだが、話がまとまったと思ったところでエルダが不安定になってしまい、自分とルカーシュカは席を外すしかなかったのだ。
「離れたくない気持ちは分かりますけどね…しかし、あの子は本当にアニーが大好きですね」
「エルダもお前に言われるとは思ってないだろうよ」
「おや、嫉妬深い自覚はありますが、事実を事実として把握するだけの余裕はありますよ。私達の関係が平等であることも理解しています」
いくらアドニスを愛していても、己一人で独占できないことは分かっている。
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最低限の分別はつくし、ある程度の気持ちの割り切り方も身につけている。ただそうやって自分のことが分かる分、まだ年若く、アドニスに深く傾倒しているエルダのことが心配だった。
「…エルダは、アニーがいなくて大丈夫でしょうか」
元々のエルダは、驚くほど感情の起伏がない子だった。あらゆるものへの関心が薄く、無表情、無関心故に他者との関わりがほとんど無かったように思う。
それがアドニスに仕えるようになってからは、表情が豊かになり、柔らかく微笑むようになった。
アドニスへの恋慕の情から、感情豊かになったのだろうと微笑ましく思っていたのだが、どうにもアドニス以外に対しては相変わらずのようで、側にいる時間が長い分、余計に不安が募った。
(もう私の従者ではありませんが…)
それでも長く自分に仕えてくれていた子だ。いきなり同格の者として接するのは難しく、どうしても保護者のような気持ちになってしまう。
「俺も気になるしな。明後日はエルダの所に顔を出そう。気晴らしくらいにはなるだろう」
「ええ、お願いします」
アドニスと二人きりで過ごす時間は譲れないが、元主として、多少のお節介を焼くくらいなら許されるだろう…そんなことを考えながら、宮廷を後にした。
そうして迎えた水の日は、高揚する気持ちを抑えられず、朝から意味もなく部屋の中を歩き回っていた。
従者達には休みを与えたので、宮の中には誰もいない。己の領域で、誰に邪魔をされることもなく、正真正銘、アドニスと二人きりになれる───いつもは抑えている独占欲が、抑圧を押し上げるように顔を出し、愛しい存在を求める気持ちはどんどん膨らんでいった。
(…こんな風に誰かを愛するのは、初めてですね)
今までも、恋仲の関係になった者はいた。その者への愛情が無かった訳ではないし、穏やかな愛情を持って接していたと思う。
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ルカーシュカに言った通り、こんなにも重苦しい面が自分の中にあったとは知らなかったのだ。
(…でも、嫌ではない)
この情を向けられるアニーは大変でしょうけれど───思わず他人事のように思ってしまうほど、客観的に見た時の自分の欲は際限がなく、呆れ混じりの笑いが漏れた。
ソワソワとしながら待つこと暫く、アドニスの来訪を告げる鐘が鳴り、すぐに出迎えたい気持ちをグッと堪えると、物陰から扉が開く様子を窺った。
アドニスが一人でもちゃんと部屋の中まで入ってこれた姿に成長を感じ、感動するのと同時に、泣きそうな顔で必死に私の名を呼び、落ち着かない様子でちょこんと立っている愛らしさに胸が震えた。
(…こういうことをしているから、意地悪だと思われるんでしょうね)
そう思っても、可愛いと思う気持ちは止められない。
もはやそういう性なのだろう、と受け入れながら、寝室から出て行こうとするアドニスを背後から抱き締めると、愛しい者の名を呼んだ。
それまでずっと我慢していた分、アドニスを独り占めできる時間は、ただひたすらに幸せだった。
驚かそうと思って見せた白鯨で、泣き出すほど怖がらせてしまった時は血の気が引いたが、アドニスから抱きついてきてくれたことに喜んでしまったのもまた事実だった。
「怖い、怖い」と震えながら、ぎゅうぎゅうと抱きつく姿は愛らしく、縋りついて頼ってくれる優越感のような快感に、ゾクリとしたものが背筋を駆け抜けた。
仔猫が鳴くように、ふにゃふにゃと泣きながら必死に水槽から逃げようとする姿は可愛らしく、もっと眺めていたかったが、可哀想なことはしたくない。
しがみつくアドニスの背に自身の羽織りを被せると、全身を隠すように包み込み、そのまま震える体を抱き締めた。
途端に強張っていた体から力が抜け、濡れた瞳でこちらを見上げるアドニスを安心させるように笑いかければ、甘えるように胸元に頬を擦り寄せてきた。
(本当に…! どうしてこんなに可愛らしいんでしょう…!)
自分とアドニス以外誰もいない空間で、静かに抱き合っているだけだったが、胸の内は大変な騒ぎだった。
背中に回された手も、胸に当たる熱い吐息も、ほんのりと薫る甘いミルクのような香りも、全部が自分の腕の中にあることに、支配欲にも似た幸福感が胸を満たした。
(可愛いアニー…)
愛しさが増していくほどに、自分だけの愛しい人であってほしいという気持ちも膨らんでいく。
それが許されないことだとは分かっているが、ならばせめて、此処にいる間だけ、自分の領域である離宮にいる間だけでも、『私のアニー』になってほしいと願わずにはいられなかった。
それは水槽に映っているだけの鯨にすら嫉妬するほどで、ムクムクと湧き上がった独占欲は、焦がれた想いとなって溢れ出た。
(…性急すぎましたかね)
アドニスにとって初めての性体験を終え、初めての経験による疲労からか、コトリと眠ってしまった横顔に、そっと唇を落とす。
幸い、行為そのものを嫌がる素振りもなく、肉体的にもきちんと反応してくれたことに安堵と喜びが広がった。と同時に、性欲に負けなかった自分を褒めた。
「何もかも可愛いなんてこと、あるんですね…」
記憶に刻みつけた愛らしい姿を思い出し、感嘆の溜め息と共に、ポツリと呟きが零れた。
ほんの少しの愛撫にさえ体はビクつき、赤く染まっていった肌。
なにをされても気持ち良いと言わんばかりに、ひっきりなしに零れていた喘ぎ声は、扇状的ながらも幼な子を辱めているようで、その倒錯感にクラクラと脳は揺れ、体を交えた後のような心地良い疲労感が残っていた。
無垢だからこその直接的な言葉遣いが可愛くて、無知だからこそなんでも受け入れようとする危うさが可愛くて、性を含んだ行為を恥ずかしがるのに好意のまま求めてくれる姿が可愛くて───アドニスを象るすべてが可愛くて愛しくて、どこか狂ってるのではないかと思うくらい「愛しい、愛しい」という感情が湧き続けた。
「…愛しています。可愛い可愛い、私のアニー」
二人きりの離宮で過ごすこの時間だけは、自分だけの愛しい人だ。
それを実感するように、腕の中で眠る幸福を抱き締めれば、久しく感じていなかったドロリとした感情が滲んだ。
ああ、叶うならばこのままずっと、この宮に閉じ込めておきたいのに───目も当てられない本音と欲に蓋をすると、大きく息を吐き出し、瞳を伏せた。
(……嫌われたくはありませんからね)
湧いた考えを振り払うように、眠るアドニスの体を抱き上げると、生々しく残る情事の痕と酷く濁った欲望を流す為、浴室へと向かった。
離宮の奥のそのまた奥。
箱型の天蓋で囲われた寝台の中、揃いの夜着に身を包んだアドニスを隠すと、その身を抱き締め、満ちる愛しさを胸に瞳を閉じた。
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「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」
洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。
子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。
人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。
「僕ね、セティのこと大好きだよ」
【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印)
【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ
【完結】2021/9/13
※2020/11/01 エブリスタ BLカテゴリー6位
※2021/09/09 エブリスタ、BLカテゴリー2位
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